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名作のあらすじ~古典文学

⇒あ行・か行さ行た行な行~

収録作品 >>>

あ行 宇津保物語 / 大鏡 / 落窪物語 / 折たく柴の木
か行 源氏物語 / 好色一代男 / 好色五人女 / 古事記 / 今昔物語集
さ行 狭衣物語 / 世間胸算用 / 曾我物語 / 曾根崎心中
た行 太平記 / 竹取物語 / 東海道中膝栗毛 / 東海道四谷怪談 / とりかへばや物語
な行~ 南総里見八犬伝 / 浜松中納言物語 / 平家物語 / 平中物語 / 夜半の寝覚

 名作のあらすじ~古典文学

あ行

宇津保物語 ~源順?

 清原俊蔭(きよはらのとしかげ)は遣唐使として唐へ渡る途中、波斯国(ペルシア)に漂着した。そこで天人から琴の秘曲を習い、23年後に帰国し、娘にその秘曲を伝授して亡くなった。その後、娘は太政大臣の子息・藤原兼雅と結婚し仲忠を生むが落ちぶれてしまい、母子は森の木の空洞(うつほ)に住むことになる。やがて、琴をめぐる数奇な運命によって母子は兼雅と再会を果たし幸福になる。

 そのころ、絶世の美女である貴宮を、春宮(皇太子)、仲忠、源涼(みなもとのすずし)、源実忠、源仲純、上野宮、三春高基など十数人が求婚する。求婚者たちが次々と脱落する中、仲忠と源涼の二人が見事な琴の勝負を繰り広げたが、結局、貴宮は春宮に入内し、藤壺と呼ばれるようになる。

 仲忠は女一宮と結ばれ、娘の犬宮(いぬみや)をもうける。政界では、皇位継承争いがおこり、貴宮の第一皇子が東宮(皇太子)となる。仲忠は、娘の犬宮へ琴を伝授する。犬宮は嵯峨院と朱雀院の二人の上皇にその腕を披露し、深い感動を与える。

大鏡 ~作者不詳

 万寿2年(1025年)、平安京の郊外にある雲林院で盛大な菩提講が営まれた。そこに大宅世継(おおやけのよつぎ)、夏山繁樹(なつやまのしげき)、繁樹の妻の3人の老人が居合わせた。いずれも150年は生きていようかという彼らは、暇つぶしに昔話を始める。

 世継は、145年前に即した文武天皇から長和5年( 1016年)に即位した後一条天皇までの14代にわたる皇室の動向について、さらに、藤原冬嗣から道長までの20人に及ぶ藤原氏主流の人々を軸とした権力闘争について語る。なかでも藤原道長がいかに栄華を極めたか、そして、その道長を語ることで、多くの帝や公卿、大臣、僧侶のことについても触れることになり、世の出来事があからさまになるという。

落窪物語 ~作者不詳

 中納言源忠頼の娘(落窪の姫)は、母と死別し、継母のもとで暮らすことになったが、継母からは冷遇を受け、寝殿の落ち窪んだ部屋に住まわされ、召使い同様の扱いをされた。姫の味方は侍女の阿漕(あこき)と末弟の三郎君だけであった。そこに現われた貴公子、右近の少将道頼に見出され、姫君に懸想した道頼は彼女のもとに通うようになった。しかしそれを知った継母に納戸に幽閉され、さらには好色な老人、典薬の助の元へ嫁がされそうになるが、そこを道頼と阿漕らに救出され、二人は結ばれる。道頼は姫君を虐げた継母に復讐を果たし、中納言一家は道頼の庇護を得て幸福な生活を送るようになった。道頼はますます栄達し、姫君は3男2女をもうけ幸福を極めた。

折たく柴の木 ~新井白石

 日本最初といわれる自叙伝で、著者は江戸時代中期の旗本・政治家・学者である新井白石。彼がこの自伝を書き始めたのは59歳のときで、68歳で亡くなる数年前まで書き続けたとされる。執筆の動機は、「自分の祖父の時代のことさえはっきりとした記録がない。まして自分の時代についても後世には不明なことが多くなるだろう、せめて自分の生きている間に記録として残しておきたい」というものだった(序文から)。学者としての義務感によるものだったか。
 
 『折たく柴の木』は上・中・下の3巻からなり、上巻には自身の生い立ちや身内のことが中心になっているが、中、下巻は将軍家ならびに幕府関係の業績、記録などを中心に記述している。寒中、眠気をもよおしてくると水をかぶって読書を続けたというエピソードもある秀才白石は、貧しい武士の子だったが、幼いころから学者をめざしていた。
 
 6歳のときに、教養のある人から、「この子には文才がある」と誉められたものの、周囲の老人たちから、「利根(才能)、気根(根性)、黄金(資金)の三ごんがなければ学者として大成できない」と言われ不安になったという話も載っている。
 
 また、元禄16年(1703年)、江戸と東海地方を襲った大地震の際には、出仕先の甲府藩江戸屋敷に駆けつけるが、「家たおれなば火こそ出べけれ。燈うちけすべきものを」と、「ぐらっときたらまず火を消せ」という今日にも通用する地震標語を警告している。
 
 白石は甲府藩主・徳川綱豊に仕え、綱豊が6代将軍・家宣となった後は将軍家の家庭教師兼政治指南役として勤め、家宣が亡くなった後も7代・家継に仕えた。いわば体制側の人間だったにもかかわらず進歩的な合理主義者であり、この本のなかでも、林信篤が「正徳」の年号の正の字が不祥だから改元したほうがいいと提案したことに反対し、「年号の文字には罪はない」と反論したり、朝鮮特使の待遇改善を提案、また、参勤交代の人数や将軍家への献上品を減らさせるなどしている。几帳面な性格で、学識も当時としては抜群だった。

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か行

源氏物語 ~紫式部

 家柄も身分もそれほど高くなかった一人の更衣(こうい)が、帝に愛され玉のような男子(光源氏)を生むが、周囲に嫉妬されて亡くなった。臣籍に降下した光源氏は、美貌と才能に恵まれ、多くの女性と交渉を持ち、しだいに栄華の道を歩む。光源氏出生を記す巻一「桐壷」から39歳で栄華の頂点に達する巻三十三「藤裏葉(ふじのうらば)」までを第一部、これをさらに紫上(むらさきのうえ)を中心とする物語、玉蔓(たまかずら)中心の物語の甲、乙に分ける考え方もある。
 
 第二部は、光源氏40歳以降の凋落期へ話が進む。理想の女性紫上との水も漏らさぬ間柄も、先帝朱雀院に末娘女三宮(おんなさんのみや)の後事を託されることによって、しだいに亀裂が生じてくる。光源氏の正妻となった女三宮はやがて、前から自分にあこがれていた柏木と通じてしまう。これを知った光源氏は、若いころ自分が父の思い人藤壺と契ったことを思い起こし、罪の報いに身震いする。
 
 光源氏に皮肉な言葉を浴びせられた柏木は病死し、女三宮は男子を出産するが、ほどなく出家してしまう。光源氏は我が子ならぬ子を抱くが、愛情が湧いてこなかった。やがて病気がちだった最愛の紫上も死に、落莫の思いに閉ざされた光源氏は出家の用意をする。以上が巻三十四「若葉上」から巻四十一「幻」までの8帖で、このあと巻名のみ伝えられる「雲隠」の巻で光源氏の死が暗示される。
 
 第三部の巻四十五「橋姫」から最終帖「夢浮橋」はいわゆる「宇治十帖」である。光源氏亡きあと、女三宮の子薫は、仏道と恋愛のいずれにも没頭できない優柔不断な面がある一方、篤実な魂を持つ男として描かれる。「夢浮橋」は「男女の仲」というほどの意であり、さまざまな男女関係を記し、その深さ、重さ、人間存在の深淵にまでたどりつく『源氏物語』の終章にふさわしいタイトルとなっている。

好色一代男 ~井原西鶴

 上方の大商人の息子・浮世之介(略して世之介)は7歳で恋を知り、少年時代から腰元・遊女・人妻など数多くの女性に戯れ、恋文を送ったり交渉を持ったりする。19歳になって江戸の店の支配人を任されるが、乱行が親にばれて勘当される。その後、諸国を渡り歩き色道修業を重ね、34歳のとき父の死によって遺産を相続、以後20数年、京、大阪や江戸の遊里を舞台に好色生活を送る。60歳になって浮世の好色を尽くしたとして、好色丸という船で女護(にょごが)が島に船出する。書名は、愛欲一筋の生涯を送って、妻子を持たずに終わった男、という意味。

好色五人女 ~井原西鶴

 実際のモデルを持つ5話からなる恋愛小説集。第1話は姫路での”お夏清十郎の事件”で、姫路但馬屋の娘お夏と手代の清十郎が恋に落ち駆け落ちをするが捕えられてしまう。清十郎は殺されお夏は発狂し、のち尼になる。
 
 第2話は大阪天満での”樽屋おせんの事件”、第3話は京都での”おさん茂兵衛の事件”。いずれも人妻の不義と悲劇的な末路を描いている。
 
 第4話は江戸での”八百屋お七の事件”で、恋しい男に逢いたい一心から放火した話。
 
 第5話は鹿児島での”おまん源五兵衛の事件”で、この話だけはおまんの親が男との仲を許して巨額の富を贈るというハッピーな結末になっている。

古事記 ~太安万侶

 古くは「フルコトブミ」と読まれていたといわれる。構成は、「序」を巻頭に上中下3巻からなり、「序」には成立事情と、和銅4年(711年)に太安万侶が元明天皇の命により稗田阿礼の誦み習うところを筆録し、天皇に献上した旨が記されている。
 
【上巻】
 高天原(たかまがはら)に現れた三神の話から始まり、神々の系譜をたどって、伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)の男女二神が出現。天の沼矛(ぬぼこ)で柔らかい国土をかきまわし、矛先から垂れた塩が積もってできたオノコロ島に下って結婚する。
 
 二神は次々に島を生み神々を生むが、最後に火の神を生んだので、イザナミは焼かれて死んでしまう。イザナギは黄泉国(よみのくに)へイザナミを訪ねて行くが、醜く変わり果てたイザナミの体を見て逃げ帰り、けがれを祓うため禊(みそ)ぎ祓いをする。そのとき天照大御(アマテラスオオミカミ)神、月読命(ツクヨミノミコト)、須佐之男命(スサノオノミコト)が誕生する。
 
 スサノオノミコトは、イザナギの命令に従わないので追放される。姉のアマテラスオオミカミをたよって高天原に来た彼があまりに乱暴するので怒った姉は、天の岩屋戸に隠れてしまう。八百万(やおよろず)の神々が相談し、天宇受売命(アメノウズメノミコト)の裸の踊りで、岩屋戸は開く。スサノオノミコトは高天原からも追放される。
 
 このあと出雲に下ったスサノオノミコトによる、肥の河での八股大蛇(ヤマタノオロチ)退治、スサノオノミコトの子孫である大国主命(オオクニヌシノミコト)の恋愛事件と、稲羽の兎の話があり、いわゆる天孫降臨および国譲りをへて、海幸彦、山幸彦の話にいたる。
 
【中巻】
 初代神武天皇から第15代応神天皇までの時代。神武天皇の東征から始まり、皇位継承の順序に従って、天皇に関する記録が配列されている。その間に神話や伝説、歌物語が挿入される。主な事件として、神社の設置、四道将軍の派遣、税の制定、倭建命(ヤマトタケルノミコト)の諸国平定の武勲物語およびその悲劇的な死。さらに地方区分の制定と県主の設置、神功(じんぐう)皇后の外征、応神天皇時代の百済の入貢などがある。
 
 なお、第2代から9代までは欠史八代とよばれ、系譜などの記録にとどまり、説話などは記載されていない。そのため、この8人の天皇は後世に追加された架空の存在であるとする説があるが、実在説もある。
 
【下巻】
 仁徳天皇から推古天皇までの時代。まず仁徳天皇時代の賦役免除の話、氏姓の整備、雄略天皇のところでは、美しい古代歌謡が記録されている。なお、第24代仁賢天皇から第33代推古天皇までは欠史十代ともいわれ、欠史八代と同じく系譜などの記録にとどまるが、こちらは、書かれた当時においては時代が近く自明のことなので書かれなかったのではないかとされる。
 
 『古事記』は、大和朝廷の政治的立場が安定した時期に、その権威をさらに確立するために編纂された。神話、伝説、天皇家や豪族の家々に伝わる伝承史実などをもとに作成されたので、科学的根拠は薄い。
 
 なお、『古事記』とならんで編纂された『日本書紀』は、舎人親王以下太安万侶も編纂に当たり、養老4年(720年)5月に献上された。『古事記』と比べると、歴史書として史料重視の立場に立ち、異なった伝承のあるときは、「一書に曰く」として幾通りも併記されている。

今昔物語集 ~編者未詳

 全31巻で1059本の説話を収めた『今昔物語集』は、天竺(インド)部、震旦(中国)部、本朝(日本)部からなる3部構成となっている。

石壁寺の鳩が人に生まれ変わった話~

 昔、中国併州にある石壁寺という寺に1人の老僧が住んでおり、毎日欠かさず法華経と金剛般若経を読んでいた。ある時、僧房の軒に鳩が巣を作り、2羽の雛を産んだ。老僧はその雛を可愛がり、餌を与えていたが、まだ羽が生え揃わないうちに、2羽とも地面に落ちて死んでしまった。老僧は嘆き悲しみ、2羽の亡骸を丁寧に埋葬してやった。その3か月後に、老僧の夢に2人の子供が現れて語った。

「 私たちは前世の罪によって鳩の子に生まれ変わり、あなた様のお蔭で成長できましたが、巣立つ前に地面に落ちて死んでしまいました。しかし、法華経と金剛般若経を聞いていた功徳によって、また人間に生まれ変わることになりました。お寺から10里ほど離れた村の、ある家に生まれようとしています」

 それから10か月ほど経って、老僧は村に向かった。最近、ある家で双子が生まれたという。その家に行くと、2人の幼い男の子がいた。老僧が2人に「お前たちは私の房にいた鳩の子か」と尋ねると、2人はうなずいた。

禅珍内供の鼻~

 京都の池尾に禅珍という僧侶が住んでいた。真面目で高徳な僧侶だったが、鼻の長さが15㎝以上もある不思議な顔立ちをしていた。禅珍は弟子に鼻を持ち上げさせて食事をしていたが、あるとき弟子が病気で休んでしまい、鼻がじゃまで食事もままならない。すると、どこからともなく一人の童が現れて、板を使って鼻を持ち上げてくれた。ところが、童は大きなくしゃみをしてしまい、禅珍の鼻が茶碗のお粥の中にどぶんと落ち、お粥が飛び散った。禅珍は「愚か者! これがもっと高貴な人の鼻を持ち上げているときだったらどうするのだ!」と怒鳴りつけた。童は、「こんな大きな鼻の人がほかいにいるとお思いですか? おかしなことを言うお坊様だ」とつぶやき、これを聞いた弟子たちはみな大笑いした。

羅城門の上層に登って死人を見る盗人~

 ある男が盗みを働こうと京都へやってきた。人通りが少なくなる日暮れになるのを羅城門の物陰に身を隠して待っていた。すると、真っ暗なはずの門の上層に、火がぼんやりと見える。連子窓から覗いてみると、床に若い女の死体が横たわっており、その傍らに白髪の老婆がいて、死体から髪の毛を抜き取っていた。男が老婆の前に飛び出すと、老婆は慌てふためき、命乞いをする。「お前はどこの老婆で、何をしているのだ」と問うと、老婆は「死んだ女は自分の主人で、弔いができないので羅城門の上に置きに来た。髪の毛が背丈に余るほど長いので、抜いてかつらにしようと考えた」という。男は死体の着物、老婆の着物、さらに死体から抜き取った髪の毛を奪い、走って逃げた。

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さ行

狭衣物語 ~六条斎院宣旨

 狭衣大将は、従妹の源氏宮に想いを寄せているが東宮も彼女に懸想しており、叶わぬ恋であった。ある時、仁和寺の僧にさらわれそうになっていた飛鳥井姫を救出し契りを結ぶ。やがて彼女は身売りされ、瀬戸内海で入水したが救われて出家、狭衣の子を産んで病死。一方で狭衣は女二の宮と誤って契りを結び、宮は彼の子を生んで尼となった。東宮が即位した後、源氏宮は神託により賀茂神社の巫女となる。全ての愛人を失った狭衣は年上の女一の宮との結婚を余儀なくされる。狭衣は出家を望むが、神託により帝位につくことになる。

世間胸算用 ~井原西鶴

 舞台は京・大阪・江戸などの主要な経済都市。副題に「大晦日(おおみそか)は一日千金」とある通り、全20章すべてが大晦日の設定になっている。大晦日は江戸時代で最大の収支決算日で、売り手も買い手もこの一日を乗り切るために狂奔する日だった。代金を取り立てようとする側と、何とかこの日を逃れようとする側の、あの手この手の秘策や悪戦苦闘ぶりを描いたもの。

曾我物語 ~作者未詳

 鎌倉時代、父を殺された曾我兄弟の仇討ち事件を題材にした物語。事件の発端は、伊豆にある工藤祐経の領地をめぐる、工藤祐経と曽我兄弟の祖父・伊東祐親の所領争いに始まる。この争いによって、伊東祐親の嫡子・伊東祐泰(曽我兄弟の父)が工藤祐経によって殺されてしまう。当時幼かった曽我兄弟は静かに闘志を燃やしながら成長し、兄十郎が22歳、弟五郎が20歳の時、仇討ちを遂げる。

 兄十郎はその場で討ち取られ、弟五郎は捕縛されて鎌倉へ護送される。源頼朝は兄弟の豪胆さに感心し、生き残った五郎を許そうとするが、「そのようなことをしたら今後も狼藉が絶えません」という部下の言葉に従い、護送の途中に五郎を処刑する。

曾根崎心中 ~近松門左衛門

 実在した心中事件を題材にした世話浄瑠璃。 醤油問屋平野屋の手代である徳兵衛は、主人の姪との縁談を断り、主人の怒りを買う。さらに、主人に返却すべき金を友人の九平次にだまし取られてしまう。男の面目が立たない徳兵衛は、死んで身の潔白を晴らそうと決意し、堂島新地の遊女・お初のもとを訪れる。お初は、どうせ生きて結ばれることがないのなら、天国で夫婦になろう、愛をまっとうして一緒に死のうと、徳兵衛に迫る。追い詰められた自分のために命を断とうというお初の心に、徳兵衛は心中を決心、二人は店を抜け出し、曽根崎天神の森へと向かう。

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た行

太平記 ~作者不詳

 鎌倉時代末期から足利幕府成立までの南北朝動乱期を描いた軍記物語。全40巻で、全体は3部に分けられる。

【第1部】
 後醍醐天皇による北条幕府討伐の計画から、その成就、建武政権の確立まで、楠正成らの動きを軸として描く。
【第2部】
 建武政権の乱脈を批判しつつ、新政に対する諸国の武士の不満を背景に、足利・新田の対立、足利の過去の善因による勝利、後醍醐天皇の吉野での崩御までを描く。
【第3部】
 観応の擾乱、直義の死に代表される足利幕府中枢部の内訌から細川頼之の将軍補佐による太平の世の到来までを描く。

竹取物語 ~作者不詳

 野山で竹を取って生活している竹取の翁が、ある日、根元が光る竹を見つけた。その中に10センチほどの美しい女の子を見つけ、連れて帰って育てることにした。それ以来、翁は黄金が詰まった竹をたびたび見つけるようになり、家は富み栄えた。女の子は3か月ほどで成長し、光り輝くほどに美しくなったので、「なよ竹のかぐや姫」と名づけられた。
 
 姫の美しさはたちまち評判になり、多くの男が求婚にやって来たが、いずれも拒絶されてしまう。しかし、なかでも熱心な5人の貴公子は、冬の寒さにも、夏の暑さにもめげず通ってきた。石作りの皇子、庫持の皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂の5人である。
 
 竹取の翁は5人の熱意をくみ、姫を説得して、彼らの中から一人を選ぶように勧めた。姫は、自分の要求するものを持ってきてくれた人の意に従うと約束する。石作りの皇子には「仏の御石の鉢」、庫持の皇子には「蓬莱(ほうらい)の玉の枝」、右大臣阿倍御主人には「火鼠のかわごろも」、大伴の大納言は「竜の首の玉」、中納言石上麻呂は「燕の産んだ子安貝」を、それぞれ所望される。
 
 5人の貴公子は、おのおのの才覚・財力・権力を用いていろいろ画策するが、いずれも失敗に終わった。そして、かぐや姫のうわさを聞いた帝も心を寄せるが、彼女がただならぬ人であると知り、連れて帰るのを断念する。
 
 それから3年ほど過ぎた。姫は月を見て物思いに沈むようになった。心配した竹取の翁は、しつこく事情の説明を求める。8月15日が近づき、姫は、自分はもともと月世界の人間であり、十五夜には迎えが来て、月に帰らねばならぬことを告白する。
 
 翁は帝に訴え出て、2000人の軍勢で姫の昇天を阻止しようとするが、天人の前には無力であった。姫は天人の持ってきた不死の薬を残して月世界へと去っていく。帝は、姫のいないこの世では不死の薬も無用と、天に一番近い駿河の山の頂上で焼かせてしまった。それ以来、その山は不死(富士)の山と呼ばれ、また、山から上る煙は絶えなかったという。

東海道中膝栗毛 ~作者不詳

 江戸神田八丁堀に住む栃面屋弥次郎兵衛と、その食客で旅役者の喜多八は、妻と死別したり、仕事上の失敗から勤務先を解雇されたりと、それぞれの人生で不運が続いたため、家財一式を売り払い、厄落としにお伊勢参りの旅に出ることを決意する。二人は、各地の宿屋や休憩所で休みながら歩いて旅するが、あちこちで数々の滑稽や失敗を繰り返す。たとえば、宿の飯盛女や同宿した女にちょっかいを出したり、小田原宿では五右衛門ぶろの入り方が分からず、浮かせてある底板をふたと勘違いして取ってしまう。底が熱いので下駄をはいて風呂に入り、足を踏み鳴らして風呂釜を壊してしまったり・・・。

東海道四谷怪談 ~鶴屋南北

 浪人の民谷伊右衛門は、妻のお岩との仲を裂こうとする、彼女の父親を秘密裏に殺し、彼女と共に江戸へ逃げた。その後、伊藤家の一人娘を助けたことから、伊右衛門に婿入りの話が持ち上がり、たちまち彼は岩を疎んじ始める。伊右衛門は薬と称して、お岩に毒薬を盛る。まぶたが腫れ、醜い顔に変わるお岩。櫛で髪をとけばごっそりと髪が抜け落ちる。嫉妬と恨みに苦悶しながら絶命したお岩は、死んでなお恨みを晴らそうと、怨霊となって現れる。

とりかへばや物語 ~作者不詳

 関白左大臣の二人の子はそれぞれ男女逆として育てられる。男装の「若君」は男性として宮廷に出仕し、また、女装の「姫君」も女性として後宮に出仕を始める。その後、「若君」は右大臣の娘と結婚するが、妻は宰相中将と通じて懐妊、夫婦仲は破綻する。その「若君」も宰相中将に女と知られ、彼の子を妊娠。一方、「姫君」は主君女東宮に恋慕し密かに関係を結んで妊娠させてしまう。

 進退窮まった「若君」は、宰相中将に匿われて女の姿に戻り、密かに出産する。一方「姫君」も元の男性の姿に戻り、行方知れずとなっていた「若君」を探し当てて宰相中将の下からの逃亡を手助けする。その後2人は、周囲に悟られぬよう互いの立場を入れ替える。本来の性に戻った2人は、それぞれ自らの未来を切り開き、関白・中宮という人臣の最高位に至った。

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な行~

南総里見八犬伝 ~滝沢馬琴

 室町時代、南総・安房の領主・里見義実に伏姫(ふせひめ)という娘がいた。彼女の傍らには体に8つの痣がある八房(やつふさ)という大きな犬が従っていた。ある時、隣国に攻められ危機に陥った義実が八房に向かって「敵の大将の首をとれば娘の伏姫を嫁にやる」と戯言をいうと、八房は本当に 敵の首をくわえて帰ってきた。義実はいったんは約束どおり伏姫と八房の結婚を認めるが、娘を取り戻そうとして八房を殺してしまう。

 この時、すでに八房の子を身ごもっていた伏姫も腹を割いて自害した。すると、伏姫の魂が8つの珠となって空高く飛び散っていった。やがて、それらの珠は改めて人間の子として生まれ変わる。彼らの名前はいずれも「犬」で始まり、運命に導かれるように巡り会い、とうとう「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」の8つの珠が揃った。彼らは八犬士として義兄弟の契りを交わし、里見家に仕えるようになった。

 合戦が勃発すると、団結した八犬士が率いる里見軍は無類の強さを見せ、近隣諸国を寄せつけない。その功績により、彼らは家老となり、朝廷から官位も授かって、里見家の娘が与えられた。やがて八犬士は山にこもり、隠居生活ののちに姿を消す。この頃から里見家ではお家騒動が起こり、滅亡していった。

浜松中納言物語 ~菅原孝標女?

 故・式部卿の息子、源中納言が、母が再婚した相手の左大将を疎むが、その娘大君と契り、左大将を困惑させる。折から中納言は亡父が唐の皇子に転生していると伝聞し、夢にも見て渡唐する。そこで転生の皇子と、父が日本人であるという母后に会って、母后に心ひかれ、後に契り、男子が生まれる。

 3年後、中納言は生まれた男子を連れて帰国して乳母に預ける。一方、渡唐の間に妻の大君は中納言の女子を生み尼となっていた。中納言は唐后に託された手紙を持って后の母尼を吉野に訪ねる。そこで中納言は后の異父妹吉野姫を託され、自分のもとに引き取ったが、好色の式部宮に誘拐される。悲しむ中納言の夢に唐后が現れ、自分は中納言の願いにひかれて転生して吉野姫の腹に宿ったと告げる。吉野姫は式部宮の子をはらんだ。中納言は夢を思い合わせて悲喜こもごもの思いだった。

平家物語 ~作者不詳

 平家は、桓武天皇の第5皇子から臣下にくだった名門だったが、藤原氏全盛の時代は、中央に重きをなしていなかった。清盛の父忠盛のとき、鳥羽上皇に初めて昇殿を許され、宮廷社会に地歩を築く。清盛の時代になると、保元、平治の乱で功を認められ、太政大臣従一位にあがり、一躍位人臣をきわめるようになった。
 
 繁栄はその一門におよび、公卿16人、殿上人30余人、平家の知行30余カ国で、日本66カ国の半ばを占めた。「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」といわれ、清盛の栄華は絶頂に達した。清盛はやがて世を世とも思わぬ悪行の限りを尽くすようになり、反平家の動きが現れはじめる。
 
 俊寛僧都を含む鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀もその一つ。清盛はこの陰謀に後白河法皇が加担しているのを知り、法皇を幽閉しようとするが、長男重盛のいさめで思いとどまる。しかし、重盛が死ぬと、法皇を閉じ込め、3歳の安徳天皇をたてる。諸国の源氏は勢力を挽回しつつあり、関東では頼朝が挙兵、討伐に向かった平家の軍勢は富士川の合戦で水鳥の音に驚いて敗走する。
 
 そうした情勢のなか、清盛は熱病にかかり悶死。「頼朝の首をはねて、わが墓の前におくべし」との遺言だった。東海道を攻めのぼる頼朝勢と同時に木曾義仲も京をめざし、火牛の計によって平家の大軍を倶利伽羅峠(くりからとうげ)で討ち破る。しかし、京にはいった義仲軍は乱暴狼藉のために人望を失ってしまう。このとき義経を大将とする頼朝の軍は京に迫っていた。
 
 義仲は賊軍となり、宇治川の戦いに敗れて壊滅。源氏はこのあと平家を西へ西へと追い詰めていく。一の谷の合戦、屋島の合戦、そして長門の壇の浦へと義経の活躍が続く。平忠度が藤原俊成に和歌を託す話、熊谷直実に打ち取られた平敦盛の最期の話なども挿入されている。
 
 平家の最期は壇の浦。二位の尼に抱かれた安徳天皇が海中に没して、一門の大半はここで自決。捕えられた者もみな処刑された。義経は鎌倉に向かうが、頼朝の不興にあい、対面ならずに京に帰り、やがて奥州藤原氏をたよって逃れ、衣川館(ころもがわのたて)で最期を迎える。また、壇の浦で入水したが捕えられた建礼門院(清盛の娘で安徳天皇の生母)は、出家して大原の里で美しい往生を遂げる。

平中物語 ~作者不詳

 『伊勢物語』の在原業平と並ぶ色好みの人物、平貞文をモデルにした恋愛模様の歌物語。。主役の「この男」は、ある女を取り合って負けた腹いせに、あることないことを帝の耳に入れ、さらに官職に疲れて出仕しなくなった。帝は官職を取り上げ、この男は出家しようとするが家の者からとめられ、職のない身も寂しく身にしみるようになった。そんな身の上を歌に託して帝の母后に送ったところ、母后もこの男の父が甥なので、帝にとりなし、帝も「懲らしめてやろうと思って官職を剥奪したが、もう思い知っただろう」と、前の役職より上位の役を下さった。

夜半の寝覚 ~菅原孝標女?

 左大臣の長男、中納言は、太政大臣の娘、大君と結婚するが、その妹である中の君(寝覚上)と契り、中の君は女の子を産む。彼女は姉の大君に遠慮して父の元に姿を隠し、やがて老関白の後妻となり男児を産む(実は中納言の子)。

 一方、中納言は大君病死後に後妻として帝の妹女一宮を迎える。老関白の娘が入内し中の君も後見として宮中に入るが、帝は娘より中の君に言い寄る。現世に嫌気がさした中の君は出家を思うが、その後も息子が帝の女二宮と恋愛騒動を起すなどで出家が叶わない。

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古典文学年表

奈良時代
712年
 『古事記』
720年
 『日本書紀』
759年
 『万葉集』

平安時代
905年
 『古今和歌集』
 『竹取物語』
 『伊勢物語』
935年
 『土佐日記』
951年
 『後撰和歌集』
 『大和物語』
 『宇津保物語』
974年
 『蜻蛉日記』
 『落窪物語』
1000年
 『拾遺和歌集』
1002年
 『枕草子』
1004年
 『和泉式部日記』
1008年
 『源氏物語』
1008年
 『紫式部日記』
1013年
 『和漢朗詠集』
1055年
 『堤中納言物語』
 『狭衣物語』
 『浜松中納言物語』
 『夜半の寝覚』
1060年
 『更級日記』
 『栄華物語』
1086年
 『後拾遺和歌集』
 『大鏡』
1106年
 『今昔物語』
1127年
 『金葉和歌集』
1151年
 『詞花和歌集』
1169年
 『梁塵秘抄』
1170年
 『今鏡』
1187年
 『千載和歌集』
1190年
 『水鏡』
1190年
 『山家集』

鎌倉時代
1205年
 『新古今和歌集』
1212年
 『方丈記』
1214年
 『金槐和歌集』
1220年
 『宇治拾遺物語』
1220年
 『愚管抄』
 『保元物語』
 『平治物語』
1221年
 『平家物語』
1235年
 『小倉百人一首』
1247年
 『源平盛衰記』
1252年
 『十訓抄』
1280年
 『十六夜日記』
1330年
 『徒然草』

室町時代
1339年
 『神皇正統記』
1356年
 『菟玖波集』
1370年
 『増鏡』
1374年
 『太平記』
1391年
 『御伽草子』
1400年
 『風姿花伝』
1438年
 『義経記』

古典文学を学ぶ意義

まず第一に、数多くある古典文学作品は日本文化や歴史の貴重な証拠です。 源氏物語や古今和歌集などは、平安時代の風俗や人々の生活を詳細に描いており、当時の社会や人間関係についての洞察を窺うことができます。更に、更級日記などの日記や徒然草などの随筆は、中世の庶民の日常生活や心情を伝えています。

第二に、古典文学は日本語の美しさと独自性を体現しています。古代の歌や物語は、音韻やリズムにこだわり、豊かなイメージや比喩を用いて表現されています。また、古い時代の文学作品は、日本独自の美意識や価値観を反映しており、それらを理解していることで日本文化の一端を垣間見ることができます。

第三に、古典文学は現代の文学や芸術にも大きな影響を与えています。多くの作家や詩人が、古典文学のテーマや形式を借りて新たな創作を展望しています。それにより、現代の文学作品をより深く味わう力を培うことができます。

総じて言えば、古い日本文学を学ぶことは、日本文化や歴史時代を俯瞰し、日本語の美しさや独自性を体感する機会を提供してくれますし、それらのつながりを確認することもできます。古典文学は、私たちの文化的な認識を形成するための重要な要素であり、その価値は今後も間違いなく継続していくでしょう。

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