源氏物語

【桐壺】桐壺更衣光源氏の誕生桐壺更衣の死蓬生の宿藤壺宮の入内光る君とかがやく日の宮 【帚木】頭中将の女性論左馬頭の女性論 【夕顔】夕顔の咲く辺り夜半、もののけ現る 【若葉】垣間見夏四月の短夜の密通 【末摘花】雪の激しく降る日末摘花の醜貌

源氏物語  

桐壺

■桐壺更衣

 いづれの御時(おほんとき)にか、女御(にようご)・更衣あまた候(さぶら)ひたまひける中に、いとやむごとなき際(きは)にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
 
 初めよりわれはと思ひ上がりたまへる御方々、めざましきものにおとしめそねみたまふ。同じほど、それより下臈(げらふ)の更衣たちは、まして安からず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし恨みを負ふ積もりにやありけむ、いとあつしくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよ飽かずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえはばからせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。
 
 上達部(かんだちめ)・上人(うへびと)なども、あいなく目をそばめつつ、いとまばゆき人の御おぼえなり。唐土(もろこし)にも、かかることの起こりにこそ、世も乱れ悪(あ)しかりけれと、やうやう天(あめ)の下にもあぢきなう、人のもて悩みぐさになりて、楊貴妃(やうきひ)の例(ためし)も引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心(みこころ)ばへのたぐひなきを頼みにて交じらひたまふ。
 
 父の大納言は亡くなりて、母北の方なむ、いにしへの人の由(よし)あるにて、親うち具し、さしあたりて世のおぼえ華やかなる御方々にもいたう劣らず、何事の儀式をももてなしたまひけれど、とりたててはかばかしき後見(うしろみ)しなければ、事ある時は、なほよりどころなく心細げなり。

【現代語訳】
 いずれの帝の御世であったろうか、女御や更衣が大勢お仕えされていた中に、それほど高貴な身分ではないものの、格別に帝のご寵愛を受けていらっしゃる方がいた。
 
 入内した初めから、私こそはと自負なさっていた女御の方々は、気に食わない者として軽蔑したりねたんだりなさった。同じ身分またはそれより下位の更衣たちは、いっそう心安くない。朝晩のお勤めにつけても、周りの人々の気ばかりもませ、恨みを買うことが積もりに積もったからだろうか、ひどく病気がちになり、何とも心細いようすで実家に下がりがちになってしまった。そのため、帝はますます物足りなくいとおしくお思いになり、人がそしるのも気兼ねなさることもできず、後の世の例にもなってしまいそうなお取り扱いだ。
 
 公卿や殿上人なども、感心できないと目をそらし、まさに見ていられないほどのご寵愛ぶりだった。中国でも、こういうことが発端で世の中が乱れ、まことに不都合だったのにと、しだいに世間でも苦々しく思われ、人々の心配に種となった。楊貴妃の例も引き合いに出されそうになり、たいへん辛い立場になってしまったが、畏れ多い帝の愛情が他に並びないのをひたすら頼みとして、他の人々と交際していらっしゃった。
 
 公卿や殿上人なども、感心できないと目をそらし、まさに見ていられないほどのご寵愛ぶりだった。中国でも、こういうことが発端で世の中が乱れ、まことに不都合だったのにと、しだいに世間でも苦々しく思われ、人々の心配に種となった。楊貴妃の例も引き合いに出されそうになり、たいへん辛い立場になってしまったが、畏れ多い帝の愛情が他に並びないのをひたすら頼みとして、他の人々と交際していらっしゃった。

(注)女御・更衣・・・いずれも天皇の夫人。女御は皇后・中宮に次ぎ、更衣は女御に次ぐ地位。
(注)上達部・・・公卿。三位以上の人。
(注)上人・・・殿上人。四位・五位の人。

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■光源氏の誕生

(一)
 前(さき)の世にも、御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男皇子(をのこみこ)さへ生まれたまひぬ。いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる児(ちご)の御かたちなり。
 
 一の御子は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなきまうけの君と、世にもてかしづき聞こゆれど、この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物(わたくしもの)に思ほしかしづきたまふこと限りなし。
 
 母君、初めよりおしなべての上宮仕へしたまふべき際(きは)にはあらざりき。覚えいとやむごとなく、上衆(じやうず)めかしけれど、わりなくまつはさせたまふあまりに、さるべき御遊びの折々、何事にも、ゆゑある事のふしぶしには、まづ参(ま)う上らせたまひ、ある時には大殿籠(おほとのごも)り過ぐして、やがてさぶらはせたまひなど、あながちに御前(おまへ)去らずもてなさせたまひしほどに、おのづから軽(かろ)き方にも見えしを、この御子生まれたまひて後は、いと心ことに思ほし掟(おき)てたれば、「坊にも、ようせずは、この御子の居たまふべきなめり」と、一の御子の女御は思し疑へり。人より先に参りたまひて、やむごとなき御思ひ、なべてならず、御子たちなどもおはしませば、この御方の御いさめをのみぞ、なほわづらはしく心苦しう思ひ聞こえさせたまひける。

【現代語訳】
 帝と更衣は、前世でも御宿縁が深かったのであろうか、世にたぐいのない美しい玉のような皇子までがお生まれになった。帝は、早く早くとじれったくおぼし召されて、急いで参内させて御覧になると、たぐいまれな若宮のお顔だちである。
 
 第一皇子は、右大臣の娘の女御がお生みになったので、後見が確かで、まちがいなく皇太子になられる君だと、世間でも大切に思い申し上げているが、この若宮の輝く美しさにはお並びになりようもなかったので、第一皇子に対しては並みひととおりのご寵愛ぶりであって、この若宮の方をご自分の思いのままにお可愛がりあそばされることこの上ない。
 
 母の更衣は、元来、ふつうの宮仕えをなさるような軽い身分ではなかった。世間の評判もとても高く、貴婦人の風格があったが、帝がむやみにお側近くにお召しあそばされ過ぎて、しかるべき管弦のお遊びの折々や、どのような催事でも趣ある催しがあるたびごとに、真っ先に参上おさせになった。ある時には、いっしょに寝過ごしなさって、そのままお側におおきになるなど、むやみに御前から離さずに御待遇あそばされるうちに、自然と身分の低い女房のようにも見えたが、この若宮がお生まれになって後は、更衣のことを格別にお考え定めあそばされるようになっていたので、「皇太子にも、ひょっとすると、この若宮がおなりになるかもしれない」と、第一皇子の母女御はお疑いになっていた。このお方は誰よりも先に御入内なされて、帝の大切にお考えあそばされることはひと通りでなく、ほかの御子たちもおいでになるので、このお方のご苦情だけは、さすがにやはり、うるさいが無視できないことだと、お思いあそばされた。

(二)
 かしこき御蔭(みかげ)をば頼み聞こえながら、落としめ疵(きず)を求めたまふ人は多く、わが身はか弱く、ものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞしたまふ。御局(みつぼね)は桐壺なり。あまたの御方々を過ぎさせたまひつつ、ひまなき御前(おまへ)渡りに、人の御心(みこころ)を尽くしたまふも、げにことわりと見えたり。参う上りたまふにも、あまりうちしきる折々は、打橋(うちはし)・渡殿(わたどの)のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、御送り迎への人の衣(きぬ)の裾(すそ)堪へがたう、まさなきことどももあり。またある時は、え避らぬ馬道(ねだう)の戸をさしこめ、こなたかなた心を合はせて、はしたなめ、わづらはせたまふ時も多かり。事にふれて数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、いとどあはれと御覧じて、後涼殿(こうらうでん)にもとよりさぶらひたまふ更衣の曹司(ざうし)を他に移させたまひて、上局(うへつぼね)に賜(たま)はす。その恨み、ましてやらむかたなし。

【現代語訳】
 もったいない帝の御庇護をお頼り申しあげてはいるものの、更衣を軽蔑したり落度を探したりなさる方々は多く、ご自身はか弱く何となく頼りない状態で、なまじ御寵愛が厚いばかりかえってひどい気苦労をなさっていた。更衣のお部屋は桐壺である。帝が、多くの方々のお部屋の前を素通りなさってひっきりなしに桐壺へ行かれるので、その方々がお気をもまれるのもなるほど無理からぬことと思われた。更衣が参上なさるときも、あまり度重なる折々には、打橋や渡殿のあちこちの通路にけしからぬことをたびたびして、送り迎えの女房の着物の裾が汚れてがまんできないような、とんでもないことがあった。またある時には、どうしても通らなければならない馬道の戸を閉じて中に閉じこめて、こちら側とあちら側とで示し合わせて、進むも退くもできないように困らせることも多かった。何かにつけて数え切れないほど辛いことばかりが増えていったので、たいそうひどく思い悩んでいるのを、帝はますますお気の毒におぼし召されて、後凉殿に以前から住んでおられた別の更衣のお部屋を他にお移しになって、桐壺更衣に上局としてお与えになった。その方(後涼殿更衣)の恨みはまして晴らしようがない。

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■桐壺更衣の死

(一)
 その年の夏、御息所(みやすどころ)、はかなき心地にわづらひて、まかでなむとしたまふを、暇(いとま)さらに許させたまはず。年ごろ、常の篤(あつ)しさになりたまへれば、御目馴れて、「なほ、しばしこころみよ」とのたまはするに、日々に重(おも)りたまひて、ただ五六日(いつかむゆか)のほどにいと弱うなれば、母君、泣く泣く奏して、まかでさせ奉りたまふ。かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留(とど)め奉りて、忍びてぞ出でたまふ。
 
 限りあれば、さのみもえ留めさせたまはず、御覧じだに送らぬおぼつかなさを、言ふ方なく思ほさる。いと匂(にほ)ひやかにうつくしげなる人の、いたう面痩(おもや)せて、いとあはれとものを思ひしみながら、言(こと)に出でても聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつものしたまふを御覧ずるに、来(き)し方行く末思し召されず、よろずのことを泣く泣く契りのたまはすれど、御いらへもえ聞こえたまはず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、我かの気色(けしき)にて臥(ふ)したれば、いかさまにと思し召しまどはる。手車(てぐるま)の宣旨(せんじ)などのたまはせても、また入らせたまひては、さらにえ許させたまはず。
 
 「限りあらむ道にも、後れ先立たじと、契らせたまひけるを。さりとも、うち捨ててはえ行きやらじ」とのたまはするを、女もいといみじと見奉りて、
 「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
 いとかく思ひたまへましかば」と、息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、「かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむ」と思し召すに、「今日始むべき祈りども、さるべき人々うけたまはれる、今宵(こよい)より」と、聞こえ、急がせば、わりなく思ほしながらまかでさせたまふ。

【現代語訳】
 その年の夏、御息所(桐壺更衣)は、弱々しい感じにおちいってしまい、里に引き下がろうとなさったが、帝はお暇を少しもお与えにならない。ここ数年来の、いつもの病状だとお見慣れになって、「やはりこのまま、しばらく様子を見よ」と仰られているうちに、日に日に重くなられて、わずか五、六日のうちにひどく衰弱したので、更衣の母君が涙ながらに奏上して、やっと退出なさった。このようなときにも、あってはならない恥を受けでもしてはと心配して、若宮を宮中にお残しして、人目につかないように退出なさった。
 
 もう限界だったので、お気持ちのままにお引きとめすることもできず、お見送りさえままならない心もとなさを、言いようもなく無念におぼし召された。たいそうみずみずしく美しくかわいらしい人なのに、ひどく顔がやつれて、たいそうしみじみと物思うことがありながらも、帝に言葉に出して申し上げることもできずに、生き死にも分からないほどにたびたび意識が薄れていかれるのを御覧になると、帝はあとさきもお考えにならず、いろいろなことを泣きながらお約束なさるが、更衣はお返事を申し上げることもできず、まなざしなどもとてもだるそうで、いよいよ弱々しく、意識もないような状態で臥せっていたので、どうしたらよいものかと途方にくれていらっしゃった。更衣のために手車の宣旨などを仰せ出されても、いよいよとなると再び更衣のお部屋に入られ、どうしても退出をお許しになる気になれない。
 
「死出の旅路にも、後れたり先立ったりするまいと約束したものを、いくら病気が重くても、私をおいてけぼりにしては行ききれまい」と仰ったのを、女もたいそう悲しくお顔を拝して、
 「人の命には限りがあるものと、今、別れ路に立ち、悲しく思われるにつけても、私が本当に行きたいと思う路は、生きるほうの路でございます。
 ほんとうにこれほど悲しい思いをいたしますのでしたら」と、息も絶えだえに、申し上げたそうなことはありそうな様子ながら、たいそう苦しげにだるそうなので、このまま最期となってしまうのも見届けたいとお考えになるが、「今日から始める予定の祈祷などを、しかるべき僧たちの承っておりますのが、今宵から始めます」と言って、母君の使者がせきたてるので、帝はやむを得ず退出させなさった。
 
(注)御息所・・・帝から寵愛を受けている女性の尊称。

(二)
 御胸のみ、つとふたがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせたまふ。御使(みつか)ひの行き交ふほどもなきに、なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを、「夜半うち過ぐるほどになむ、絶えはてたまひぬる」とて泣き騒げば、御使も、いとあへなくて帰り参りぬ。聞こし召す御心まどひ、何ごとも思し召し分かれず、籠(こも)りおはします。
 
 御子は、かくてもいと御覧ぜまほしけれど、かかるほどにさぶらひたまふ、例(れい)なきことなれば、まかでたまひなむとす。何事かあらむとも思ほしたらず、さぶらふ人々の泣き惑ひ、上も御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見奉りたまへるを、よろしきことにだに、かかる別れの悲しからぬはなきわざなるを、ましてあはれに言ふかひなし。

【現代語訳】
 帝は、お胸がひしと塞がって、少しもうとうとなされず、夜を明かしかねていらっしゃった。勅使が行って戻ってくる間もないうちから、しきりに気がかりなお気持ちを仰り続けていらしたが、「夜半少し過ぎたころに、お亡くなりになりました」と言って更衣の里の人たちが泣き騒いでおり、勅使もたいそうがっかりして宮中に帰参した。更衣の死をお聞きになる帝の御心は動転し、どのような御分別をも失われて、引き籠もってしまわれた。
 
 若宮は、それでも御覧になっていたかったが、このような折に宮中に伺候していらっしゃるのは先例のないことだったため、更衣の里へ退出なさろうとした。何事があったのかもお分かりにならず、お仕えする人々が泣き惑い、父主上も涙が絶えず流れていらっしゃるのを、変だなあと御覧になっているのを、普通の場合でさえ、このような別れが悲しくないはずもないのに、ましていっそう悲しく、何とも言いようがない。

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■蓬生(よもぎふ)の宿

 野分(のわき)だちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、靫負(ゆげひ)命婦(みやうぶ)といふを遣(つか)はす。夕月夜(ゆふづくよ)のをかしきほどに出だし立てさせたまひて、やがて眺めおはします。かやうの折は、御遊びなどせさせたまひしに、心ことなる物の音をかき鳴らし、はかなく聞こえ出づる言(こと)の葉も、人よりはことなりしけはひ・かたちの、面影につと添ひて思さるるにも、闇の現(うつつ)にはなほ劣りけり。
 
 命婦、かしこに参(まか)で着きて、門(かど)引き入るるより、けはひあはれなり。やもめ住(ず)みなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、目安きほどにて過ぐしたまひつるを、闇に暮れて臥したまへるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ八重葎(やへむぐら)にもさはらず、差し入りたる。南面(みなみおもて)に下ろして、母君も、とみにえものものたまはず。
 
 「今までとまりはべるがいと憂きを、かかる御使ひの蓬生(よもぎふ)の露分け入りたまふにつけても、いと恥づかしうなむ」とて、げに、え堪ふまじく泣いたまふ。「『参りてはいとど心苦しう、心・肝も尽くるやうになむ』と、典侍(ないしのすけ)の奏したまひしを、もの思ひたまへ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたうはべりけれ」とて、ややためらひて、仰せ言(こと)伝へきこゆ。「『しばしは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひ静まるにしも、覚むべき方なく堪へがたきは、いかにすべきわざにかとも、問ひあはすべき人だになきを、忍びては参りたまひなむや。若宮の、いとおぼつかなく、露けき中に過ぐしたまふも、心苦しう思さるるを、とく参りたまへ』など、はかばかしうものたまはせやらず、むせかへらせたまひつつ、かつは、人も心弱く見奉るらむと、思しつつまぬにしもあらぬ御気色(みけしき)の心苦しさに、承り果てぬやうにてなむ、まかではべりぬる」とて、御文奉る。

【現代語訳】
 野分めいて、急に肌寒くなった夕暮どき、帝はいつもよりも亡き更衣をお思い出しになることが多くて、靫負命婦という者を更衣の里にお遣わしになった。夕月夜の美しい時刻に出立させ、そのまま物思いに沈んでいらっしゃった。このような折には、よく管弦のお遊びなどをお催されたが、更衣がとりわけ美しい音色で琴を掻き鳴らし、何気なく歌われた歌も、ほかの人とは格別だった雰囲気や顔だちが、面影となってひたとわが身に添うように思われ、古歌にある「闇の中の現実」にはやはり及ばないのであった。
 
 命婦が更衣の里に参着して、車を門に引き入れると、しみじみと哀れ深い。母君は未亡人暮らしだったが、娘一人の養育のために、あれこれと手入れをきちんとして、見苦しくないようにしてお暮らしになっていたが、亡き娘を思う悲しみに暮れて臥せっていらっしゃったうちに、雑草も高くなり、野分によっていっそう荒れた感じで、月の光だけが八重葎にも遮られずに差し込んでいた。寝殿の南正面で命婦を車から下ろしたが、母君もすぐにはご挨拶できないでいる。
 
 「今まで生き長らえておりますのがとても辛いのに、このようなお勅使が草深い宿の露を分けてお入り下さるのは、とても恥ずかしうございます」と言って、いかにも身を持ちこらえられないほどにお泣きになる。「『お屋敷に伺うと、ひとしおお気の毒で、心も魂も消え失せるようでした』と、先日の典侍が奏上していましたが、物の情趣をわきまえない私の心にも、なるほどまことに忍びがたいことです」と言って、少し気持ちを落ち着かせてから、仰せ言をお伝え申し上げた。「『しばらくの間は夢かとばかり思い続けていましたが、しだいに心が静まるにつれて、夢ではないので覚めるはずもなく、堪えがたい気持ちをどのようにしたらよいものかとも、相談できる相手さえいないので、人目につかないように参内なさらぬか。若宮がとても気がかりで、湿っぽい所で過ごすのもいたわしく思うので、早く参内なさい』などと、帝ははきはきとは最後まで仰りきれず、涙に咽ばされながら、また一方では、人びともお気弱なと思うだろうとお憚りにならないわけではないご様子がおいたわしく、最後までお聞き申し上げないようなありさまで、退出して参りました」と言って、お手紙を差し上げた。

(注)闇の現・・・古今集の「ぬばたまの闇のうつつは定かなる夢にもいくらもまさらざりけり」(詠み人知らず)の歌をふまえ、帝の目の前に現れる幻は、はっきり見えない暗闇での現実(生身の更衣)より劣っているということ。

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■藤壺宮の入内

 年月(としつき)に添へて、御息所(みやすどころ)の御ことを思し忘るる折なし。「慰むや」と、さるべき人びと参らせたまへど、「なずらひに思さるるだに、いとかたき世かな」と、疎(うと)ましうのみよろづに思しなりぬるに、先帝(せんだい)の四の宮の、御容貌(かたち)すぐれたまへる聞こえ高くおはします、母后(ははぎさき)世になくかしづき聞こえたまふを、上にさぶらふ典侍(ないしのすけ)は、先帝の御時の人にて、かの宮にも親しう参り馴(な)れたりければ、いはけなくおはしましし時より見奉り、今もほの見奉りて、「亡(う)せたまひにしに御息所の御容貌に似たまへる人を、三代の宮仕へに伝はりぬるに、え見奉りつけぬを、后(きさい)の宮の姫宮こそ、いとよう覚えて生(お)ひ出でさせたまへりけれ。ありがたき御容貌人になむ」と奏しけるに、「まことにや」と御心とまりて、ねむごろに聞こえさせたまひけり。
 
 母后、「あな恐ろしや。春宮(とうぐう)の女御の、いとさがなくて、桐壺の更衣の、あらはにはかなくもてなされにし例(ためし)もゆゆしう」と、思しつつみて、すがすがしうも思し立たざりけるほどに、后も亡せたまひぬ。
 
 心細きさまにておはしますに、「ただ、わが女御子(をんなみこ)たちの同じ列(つら)に思ひ聞こえむ」と、いとねむごろに聞こえさせたまふ。さぶらふ人びと、御後見(うしろみ)たち、御兄(せうと)の兵部卿(ひやうぶきやう)の親王(みこ)など、「とかく心細くておはしまさむよりは、内裏住(うちず)みせさせたまひて、御心も慰むべく」など思しなりて、参らせ奉りたまへり。
 
 藤壺と聞こゆ。げに、御容貌ありさま、あやしきまでぞ覚えたまへる。これは、人の際(きは)まさりて、思ひなしめでたく、人もえおとしめ聞こえたまはねば、うけばりて飽かぬことなし。かれは、人の許し聞こえざりしに、御心ざしあやにくなりしぞかし。思し紛(まぎ)るとはなけれど、おのづから御心移ろひて、こよなく思し慰むやうなるも、あはれなるわざなりけり。

【現代語訳】
 年月がたつにつれても、帝は桐壺御息所のことをお忘れになる折とてない。「心慰めることができようか」と、しかるべき婦人方をお召しになるが、「せめて御息所に準ずるほどに思える人さえめったにいない世の中だ」と、万事いとわしいばかりに思うようになってしまわれた。そうしたところ、先帝の四の宮で、ご容貌が優れていらっしゃるという評判が高い方で母后がまたとなく大切に育てられた方を、帝にお仕えする典侍が先帝の御代からの人で、あちらの宮にも親しく参って馴染んでいたので、その四の宮がご幼少の時分から拝見し、今でも時おり拝見して、「お亡くなりになった御息所のご容貌に似ていらっしゃる方を、三代の帝にわたって宮仕えを続けておりまして一人も拝見できませんでしたが、先帝の后の宮の姫宮さまこそ、たいそうよく似てご成長あそばされました。世にもまれなご器量よしのお方でございます」と奏上したところ、「ほんとうにか」と、お心が引かれて、丁重に礼を尽くして四の宮の入内をお申し入れになった。
 
 母后は、「まあ恐ろしいこと。東宮の母女御がたいそう意地が悪くて、桐壺の更衣が露骨に亡きものにされてしまった例も忌まわしい」と、おためらいになり、すらすらとご決心もつかないうちに、その母后もお亡くなりになってしまった。
 
 四の宮が心細いようすでいらっしゃったので、帝は、「ただ、わが皇女たちと同列にお思い申そう」と、たいそう丁重に礼を尽くしてお申し上げなさった。お仕えする女房たちや、御後見人たち、ご兄弟の兵部卿の親王などは、「こうして心細くおいでになるよりは、内裏でお暮らしになって、お心も晴らすように」などとお考えになって、入内させなさった。
 
 藤壺と申し上げる。なるほど、ご容貌や姿は不思議なほど亡き更衣によく似ていらっしゃった。この方は、ご身分も一段と高いので、人の思うところも申し分なく、誰も悪口を申すこともできないので、帝は誰に憚ることなく何も不足ない。あの方の場合は、周囲の人がお許しにならなかったところに、御寵愛が憎らしいと思われるほど深かまったのである。ご愛情が紛れて亡き更衣のことをお忘れになるというのではないが、自然とお心が移っていかれて、この上もなくお慰めになるようなのも、人情の性というものであった。

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■光る君とかがやく日の宮

 源氏の君は、御あたり去りたまはぬを、ましてしげく渡らせたまふ御方は、え恥ぢあへたまはず。いづれの御方も、「我、人に劣らむ」と思いたるやはある、とりどりにいとめでたけれど、うち大人びたまへるに、いと若ううつくしげにて、切(せち)に隠れたまへど、おのづから漏(も)り見奉る。
 
 母御息所は、影だに覚えたまはぬを、「いとよう似たまへり」と、典侍の聞こえけるを、若き御心地(みここち)にいとあはれと思ひ聞こえたまひて、「常に参らまほしく、なづさひ見奉らばや」と覚えたまふ。
 
 上も、限りなき御思ひどちにて、「な疎(うと)みたまひそ。あやしくよそへ聞こえつべき心地なむする。なめしと思さで、らうたくしたまへ。つらつき・まみなどは、いとよう似たりしゆゑ、通ひて見えたまふも、似げなからずなむ」など聞こえつけたまへれば、幼心地にも、はかなき花・紅葉(もみぢ)につけても心ざしを見え奉る。こよなう心寄せ聞こえたまへれば、弘徽殿(こきでん)の女御、またこの宮とも、御仲そばそばしきゆゑ、うち添へて、もとよりの憎さも立ち出でて、ものしと思したり。
 
 世にたぐひなしと見奉りたまひ、名高うおはする宮の御容貌にも、なほ匂はしさはたとへむ方なくうつくしげなるを、世の人、「光る君」と聞こゆ。藤壺ならびたまひて、御おぼえもとりどりなれば、「かかやく日の宮」と聞こゆ。

【現代語訳】
 源氏の君は、帝のお側をお離れにならないので、まして帝が頻繁にお渡りあそばす藤壺宮は、源氏の君に恥ずかしがってばかりいらっしゃれない。どのお妃方も「自分が人より劣っている」と思っていらっしゃるはずもなく、それぞれに皆お美しいがややお年を召しているのに対して、藤壺宮はとても若く可憐で、つとめてお姿をお隠しなさるが、源氏の君は自然と物のすき間からお顔を拝見する。
 
 源氏の君は、母御息所の顔かたちすらご記憶にないのだが、「藤壺宮は母君にとてもよく似ていらっしゃる」と、典侍が申し上げるので、幼心に藤壺宮をとても慕わしいとお思いになり、「いつもお側に参りたく、親しくお顔を拝見したい」とお思いになった。
 
 帝もこの上なくおかわいがりのお二方なので、「どうかこの子をお疎みなさいますな。不思議とあなたを若君の母君となぞらえ申してもよいような気持ちがする。ですから失礼だとお思いにならず、可愛がってやってください。顔だちや目もとなど大変よく似ているため、母君のようにお見えになるのも、母子として不似合いではないのですよ」などと、お頼みになるので、源氏は幼心にも、ちょっとした花や紅葉などことつけても、藤壺宮に対する好意をお見せになる。それがこの上ないようすだったので、弘徽殿の女御は、またこの藤壺宮とも仲がよろしくないので、それに加えて、もとからの憎しみもよみがえってきて、源氏を不愉快だとお思いになっていた。
 
 世の中にまたとないお方だと評判高くおいでになる一の宮のご容貌よりも、やはり源氏の照り映える美しさにはたとえようもなく、世間の人は、「光る君」とお呼び申し上げる。藤壺宮も源氏の君とお並びになって、帝の御寵愛がそれぞれに厚いので、「輝く日の宮」とお呼び申し上げる。

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

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源氏物語のあらまし

【第1部】(源氏1〜39歳)
光源氏の誕生
桐壺更衣の死
皇子、源姓を賜る
藤壺の入内
源氏の元服と結婚
藤壺への思慕
雨夜の品定め
空蝉と契る
空蝉に逢えず
夕顔のもとへ通う
夕顔の死
夕顔の遺児、玉鬘
紫上を垣間見る
花の赤い姫君
紫上を引き取る
藤壺に近づく
藤壺が出産
朧月夜君と逢う
桐壺帝が譲位
葵上の死
源氏、紫上と結婚
葵上をしのぶ
六条御息所を訪ねる
桐壺院の死
藤壺の出家
花散里と契る
源氏、須磨に下る
大暴風雨に遭う
源氏、明石に移る
明石上と逢う
朱雀帝、源氏を召還
朱雀帝が譲位
明石上と住吉で逢う
末摘花邸の荒廃
末摘花と再会
空蝉と出会う
前斎宮の入内
源氏、出家を志す
二条院東院の造営
紫上、明石姫君を養育
藤壺の死
帝、出生の秘密を聞く
夢に藤壺が現れる
夕霧の教育
夕霧と雲井雁の恋
六条院の造営
玉鬘、筑紫へ
玉鬘、源氏に引き取られる
春の御殿の舟楽
玉鬘に言い寄る人々
蛍火に輝く玉鬘
夕霧と柏木の恋
無教養な近江君
篝火に映える玉鬘
夕霧、紫上を垣間見る
風の見舞い
大原野の行幸
玉鬘の裳着
夕霧、玉鬘に言い寄る
髭黒、玉鬘を慕う
玉鬘、髭黒と結ばれる
明石姫君の裳着
春宮の元服
夕霧、雲井雁と結ばれる
明石姫君の入内
源氏、准太上天皇になる
 
【第2部】(源氏39〜52歳)
女三宮を源氏に託す
源氏四十の賀
明石女御が出産
柏木、女三宮を垣間見る
冷泉帝が譲位
源氏、住吉に参詣
紫上が重病に
柏木、女三宮と契る
女三宮が懐妊
柏木、病に臥す
女三宮が出産
柏木の死
柏木の一周忌
女三宮の持仏供養
鈴虫の音を聴く
夕霧、落葉宮を訪ねる
夕霧、落葉宮を引き取る
紫上の法華経千部供養
紫上の死
源氏、紫上を回想
源氏、出家を決意
源氏の死
【第3部】(薫14〜28歳)
 
薫と匂宮
香を競い合う二人
中君の入内
玉鬘、大君の不幸を嘆く
宇治八宮と二人の姫君
薫、八宮を訪う
薫、姫君を垣間見る
薫、出生の秘密を知る
匂宮、宇治を訪う
八宮の死
薫、大君に心中を明かす
匂宮、六君との縁談を拒む
匂宮、継姫君を望む
大君、薫になびかず
匂宮、中君と契る
大君の死
中君、二条院に迎えられる
匂宮、六君と結婚
薫、女二宮と結婚
薫、浮舟を見る
浮舟、二条院に移る
浮舟、宇治に移る
匂宮、浮舟と契る
浮舟、死を決意
浮舟が行方不明に
浮舟、発見される
浮舟、小野に移る
浮舟の出家
浮舟、下山の勧めを拒む

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紫式部の略年譜

966年ころ
ライバル?の清少納言が生まれる
973年ころ
紫式部が生まれる
幼少時から漢文を読みこなすなど才女としての逸話が多い
993年
清少納言が一条天皇の中宮・定子のもとへ宮仕え
995年
藤原道長が右大臣になる
このころ清少納言の「枕草子」ができる
998年
藤原宣孝と結婚
1001年
夫と死別
1005、6年
紫式部が一条天皇の中宮・彰子のもとに宮仕えを始める
1010年ころ
「源氏物語」ができる
1016年
道長が摂政になる
1016年ころ
紫式部が死去
1025年ころ
清少納言が死去

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