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逃げなかった大老・井伊直弼

 2008年のNHK大河ドラマ『篤姫』のなかで、大老・井伊直弼が、篤姫から安政の大獄の残虐さを責められる場面がありました。その時、中村梅雀さん演じる直弼が答えて言った「役割にございます」という言葉。このシーンが今も強く印象に残っています。日本国内が内乱状態に突入するのを未然に防いだ安政の大獄。その処分を終えた後、直弼が詠んだ歌が残されています。

「春浅み野中の清水氷いて そこの心を知る人ぞなき」

 直弼は、今はまだ、自分の真意が理解されないであろうことを十分悟っていたのでしょう。当時、日本はまさに国家存亡の緊急事態に直面していたわけです。中国では英仏連合軍が勝利し、次のターゲットが日本であるのはほぼ間違いない状況でした。外国艦隊に攻められては日本はひとたまりもない。あれこれ議論している暇はなかったのです。

 ただちに条約を調印するか、あくまで勅許を待つか。厳しい選択を迫られた直弼は、悩みぬいた末に勅許なしでの条約調印を決断。それによって諸外国から武力侵攻のない状況をつくりだし、その間に日本の海軍力を充実させようと考えたのです。強い非難が一身に浴びせられるのは覚悟の上だったのでしょう。このとき、直弼がもし決断を先延ばしにしていたら、国内はますます混乱し、中国のように日本も欧米列強の植民地にされる可能性があったのではないでしょうか。

 そして安政7年(1860年)3月3日、直弼は江戸城・桜田門外で、水戸を中心とする浪士たちに襲われ、命を落としました。大老に就任してからわずか2年、享年45歳でした。実は変が起こる当日朝、直弼が江戸城に向け出立した後に、家臣が、直弼の部屋に残されている紙切れを見つけました。そこには、今日、水戸浪士が大老の暗殺を決行するので登城は控えろと書かれていました。暗殺を予告する文面だったのです。あわてた家臣らが後を追おうとしましたが、時すでに遅く、直弼はすでに暗殺されていました。

 直弼は、危険を承知で、しかし幕政のトップに立つ自らが幕府の決まりを破るわけにはいかないとして、あえて警護の供を増やすこともせず、登城したのでした。現実を直視し、わが身を顧みず、祖国防衛を最優先に考えた井伊直弼。厳しい国際情勢のもとで国家の独立を守った彼は、歴史上、最大級の“日本の恩人”といってもよいかもしれません。

江戸幕府の外交能力

 私が、歴史上の外交の妙として脳裏に浮かぶのは、あの江戸幕府とペリー提督との開国交渉です。一般的にはアメリカの武力の威嚇によって一方的に開国させられ、不平等条約を押しつけられた不甲斐ない外交の代表のように捉えられています。しかし、当時の状況から考えると、どうしてどうして、幕府の役人たちはまことに有能だったことが伺えます。

 だって、当時のアジア諸国が列強国と結んだ条約の理不尽さは、この比ではありませんでしたからね。戦争に敗れて講和条約という形で国を開き、巨額の賠償金を支払わされ、領土を奪われ、植民地のような条項を飲まされたりするケースがほとんどだったのです。そんな中で、平和的な交渉によって開国条約が締結されたのは、日米和親条約がはじめてでした。

 実際の交渉の経緯も、ペリーの「一戦も辞さない」という威嚇の言葉に対し、「双方に深い遺恨があるわけではないのだから、戦争する必要はないだろう」と冷静に受け流し、条約の中身に関しても、重要事項である通商条項を削除させ、開港も下田・函館の2港に限定、またアメリカ標流民の保護の条項に、日本の標流民もアメリカ側は保護せよと双務性を迫って承諾させるなど、なかなかの粘り強さを発揮しています。

 極めつきは、「外国語で書かれたいかなる文書にも署名しない」と主張し、日本語の条約文のみに署名したことです。なかなかの強気じゃないですか。功を焦っていたペリーの心理を見抜いた巧みな交渉だったんですね。

 まかり間違えば国の存亡に関わる重大な局面にありながら、少しでも国家の利益を引き出そうとした、すばらしい冷静さと巧妙さであったと思います。こういうのが本当の外交というものでしょう。さすがに260年もの長い期間、わが国に平和の時代をもたらしてくれた江戸幕府だと、あらためて拍手を贈りたい気持ちにさせられます。
 

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幕末の年表

1853年 アメリカの使節ペリーが浦賀に来航
1854年 ペリーが再び来航、日米和親条約を結ぶ
1856年 アメリカの総領事ハリスが下田に着任
1856年 吉田松陰が松下村塾を開く
1858年 井伊直弼が大老になり、米・露・英・仏と修好通商条約を結ぶ
1859年 安政の大獄
1860年 桜田門外の変
1862年 孝明天皇の妹・和宮が将軍家持と結婚
1862年 生麦事件
1863年 浪士組(のちの新撰組)が結成される
1863年 薩英戦争
1864年 長州藩士が京都御所を襲う
1864年 下関事件
1864年 新撰組による池田屋事件
1864年 第一次長州征伐
1865年 第二次長州征伐
1865年 物価が上がり、各地で打ちこわしが起こる
1866年 薩長連合
1866年 家持が死去し、徳川慶喜が第15代将軍になる
1866年 福沢諭吉が『西洋事情』を著す
1867年 大政奉還
1867年 王政復古の大号令
1868年 江戸城開城
1868年 戊辰戦争が始まる
1868年 五箇条の御誓文
1868年 江戸を東京と改称し、年号を明治とする
 

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