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韓非子を読む

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成功と名声

 賢明な君主が、功を成し名声を上げる手段として、四つある。第一は天の時、第二は人の心、第三は技能、第四は勢位である。天の時に背けば、たとえ十人の(ぎょう)があらわれても、冬の季節に一本の穂さえ生やすことはできず、人の心に逆らえば、たとえ孟賁(もうほん)・夏育(かいく)のような勇士でさえ人の力を出し尽くさせることはできない。

 だから、天の時が得られれば、努力しなくても穂は自然に生え、人の心が得られれば、奨励しなくとも人は自然に動き、急き立てなくとも事はどんどん進み、勢位が得られれば、ひとりでに名声があがる。あたかも水が流れるようであり、舟が水に浮かぶようである。自然の道を守り、行き詰まることのない命令を行う、だから明主というのだ。

 そもそも才能があっても権勢がなければ、どんなにすぐれた人物であろうと愚か者を統制することはできない。たとえば、わずか一尺の木でも高山の上に立てれば千仞(せんじん)もの深い谷を見下ろすことができるが、それは木が伸びたからではなく、立った位置が高いからである。

 夏(か)の暴君・(けつ)でも、天子になると天下を治めることができた。それは、彼がすぐれていたからではなく、権勢が重かったからだ。反対に、聖天子の(ぎょう)でも、ただの庶民であったなら三軒の家も治めることはできない。それは、彼が愚かだからではなく、地位が低いからだ。

 君主という者は、天下の人々が力を一にして推戴するから安泰であり、多くの人々が心を同じくして共々に立てていくから尊厳である。臣下は自分の長所を発揮できて自分の能力を尽くせるから忠誠である。尊厳な君主として忠誠な臣下を統御していければ、安寧は長引き功名もとげられる。名目と実質が互いに助け合って成就し、形と影があい応じて出現するというありさまだ。だから、君主と臣下は、同じ目標に向かいながらも、仕事ははっきりと区別する。

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君主のお辞儀

 魏の西門豹(せいもんひょう)がある町の長官に任命された。彼は清廉潔白で勤勉誠実、ほんのわずかでも私利をむさぼることがなかった。ただ、君・文侯の側近の臣に対しては極めて粗略であった。それを気に入らない側近の臣たちは、ぐるになって西門豹を謗(そし)った。

 一年たって西門豹が文侯に会計報告をしたところ、文侯はその官印を取り上げて免職にした。西門豹は自ら願い出てこう言った。「私は、今までこの町の治め方を知りませんでしたが、今になって分かりました。どうか殿さま、官印をお下げ渡しいただき、もう一度治めさせてください。もしうまくいかなければ、この身を斧で断ち切られる罰を受けてもかまいません」。文侯はあわれんで、再び官印をあたえた。

 西門豹は、今度は民衆から重税を取り立てると、せっせと側近たちに取り入った。一年たって会計報告に行くと、文侯はわざわざ出迎えてお辞儀をした。豹はそれに対してこう言った。「昨年、私は殿さまのおためになるように町を治めたのですが、殿さまは私の官印を取り上げられました。今年は、殿さまの側近のためになるように治めてきましたが、そうすると殿さまは私にお辞儀をなされました。私には、もうこれ以上治めることができません」。そして、そのまま官印を返上して立ち去ろうとした。

 文侯は、それを引き留め、こう言った。「私はこれまでお前のことが分からなかったが、今ではよく分かった。どうか、これからも私のために努力して治めてほしい」。

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世の中の学者

 世の中の学者で政治を語る者の多くはこう言う。「貧しい者に土地を与えて、生活(くらし)の立つようにしてやるべきだ」と。

 今、ここに人並みの能力をもつ者がいて、豊作とか副収入があるとかの特別な良い理由もないのに、彼だけが満ち足りた生活をしているとすれば、それは彼が特別な努力や倹約をしたからだ。また一方、人並みの能力をもつ者がいて、飢饉や疫病とかの特別な悪い理由もないのに、彼だけが困窮しているとすれば、それは彼が贅沢をしたか怠けていたからだ。

 能力が同じであれば、贅沢をして怠けている者は貧乏になるし、努力をして倹約につとめている者が金持ちになるのは当たり前だ。それを、お上が金持ちから税を徴収し、それを貧乏な者に施すとすれば、これは努力して倹約につとめている者から奪い取って、贅沢をして怠けている者に分け与えることに外ならない。そんなことをしながら、民衆によく働いて倹約につとめるようにと求めたところで、どだい無理なことだ。

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権勢と地位こそが

 慎子(しんし)はこのように言っている。「空飛ぶ竜は雲に乗り、天に昇る蛇は霧に遊ぶが、雲が消えて霧が晴れてしまうと、竜も蛇もミミズや蟻(あり)と同じになってしまう。それは、拠り所を失ったからだ。賢人が不肖の者に屈服しなければならないのは、賢人の権勢が軽くて地位も低いからだ。不肖の者が賢人を屈服させることができるのは、不肖の者の権勢が重くて地位も高いからだ。聖人の(ぎょう)でも、ただの庶民だったら、わずか三人でさえ治められなかっただろうし、また暴君の(けつ)でも、天子の地位についたからこそ、天下を乱すこともできたのだ。そうしたことから、権勢や地位こそが頼りになるもので、賢人や知者は求めるに足らないと、私は悟った。尭も奴隷の身分でいくら教えていても、誰一人として聞こうとはしなかっただろうが、王者になると、命令はすぐさま実行され、禁止したことはすぐに止んだ。だから、賢人や知者というだけでは民衆を屈服させることはできず、権勢や地位こそが全てを屈服させることができるのだ」

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礼の段階

 季孫(きそん)氏が魯の宰相だったとき、孔子の弟子の子路(しろ)がある町の長官となった。魯の国では五月に民衆を動員して長い堀を作らせたが、子路はそのとき、自分の俸禄の米を炊き出し、工事に働く者たちに食べさせた。

 それを聞いた孔子は、すぐさま子貢(しこう)を行かせてその飯をひっくり返し、容器を叩き壊して、こう言わせた。「魯の殿さまが民衆を握っておられるというのに、お前はどうして飯を食わせたりするのか」。子路はむっとして怒り、孔子のもとへやって来て言った。「先生は私が仁義を行うのを憎まれるのですか。先生から教えられたことは仁義です。仁義とは、自分の物も多くの人々と共有し、その利益を分け合うことです。それなのに、私の俸禄米を使って民衆に食べさせているのが何故いけないのですか」

 孔子は言った。「子路よ、何と浅はかなふるまいか。私はお前には分かっていると思っていたのに、そうではなかったのだな。お前はもともとそのように礼をわきまえないところがある。お前が民に食べさせたのは、彼らを愛しているからだろう。しかし礼というものは、天子は天下を愛し、諸侯は国内を愛し、大夫は官職を愛し、士人はその家を愛するというように、それぞれの段階に差があるもので、その範囲を越えると、上の者を侵犯したことになる。いま魯の殿さまが民衆を握っておられるのに、お前がその民を勝手に愛したりするのは、殿さまを侵犯していることになるのだ。それが分からぬか」

 その時、季孫氏の使者がやって来て孔子を非難した。「先生はお弟子を使って人足たちに飯を食べさせました。いったい私の民を奪おうというのですか」。孔子はすぐに馬車をととのえて魯の国を出た。相手が魯の君主自身だったら、もっと厳しく処断されていたかもしれない。孔子がいちはやく食い止めたために、何とか実害も起こらずにすんだ。

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愛の始まり

 聖人が民を治めるときは、法の根本の主旨をよく考え、民の欲望を気ままにはさせず、期するところはただ民の利益をはかることだ。だから、聖人が刑罰をくだすのは、決して民が憎いからではなく、それが愛の根本であるからだ。刑罰が勝れば民は安静となり、恩賞が勝れば悪事が起きやすくなる。

 従って、刑罰を優位におくのが治世の要諦であり、恩賞を多くするのは乱世のもととなる。そもそも民の本性は、国の法には親しまない。だから、賢明な君主は恩賞を明らかにして民を励まし、刑罰を厳しくして民を法に親しませる。民が恩賞を得るために励むようになると、お上の仕事は順調に進み、法に親しむようになると、悪事が芽生えにくい。

 そこで、民をよく治める者は、悪事が芽生える前に止めるし、軍を動かす者は、あらかじめ民の心を戦争に慣れさせておく。事に先んずるからよく治まり、戦争の前に心で戦わせるから勝つのだ。そもそも国の仕事としては、事前の施策に務めると人心が統一され、もっぱら公事をとりあげると私欲は抑えられ、告発者に賞を与えると悪事は起こらず、法を明らかにすると政治に煩わしさはなくなる。

 これら四つのことを行える国は強く、そうでない国は弱い。よって、国が強くなるもとは政策であり、君主が尊厳になるもとは権力であるといえる。明君は権力を握ってお上を重くし、その政策は一貫している。法は王者のもとであり、それによる刑罰は愛の始まりである。

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詐欺師の学説

 世間で有名な学派は、儒家と墨家である。儒家の始祖は孔子であり、墨家の始祖は墨子である。しかし、孔子の死後、儒家は子張派・子思派・孟子派など八派に分立し、墨子の死後、墨家は相里氏派・相夫氏派など三派に分立した。そして、それぞれに学説の中身が異なっているのに、それぞれが、我こそが孔子あるいは墨子の正統だと主張している。

 孔子や墨子が再び生き返れないからには、いったい誰にその正統性を判断してもらえようか。また、孔子も墨子もともに(ぎょう)と(しゅん)を顕彰するが、その学説の中身は食い違っているのに、どちらも我こそが尭・舜の正統だと主張している。尭や舜が再び生き返らないからには、いったい誰にその正統性を判断してもらえようか。もう三千年も前に遡って明らかにすることなど、とても無理な話だ。

 確かな証拠によらずして断定するのは、まことに愚かなふるまいだ。それを根拠にして議論しようとするのは詐欺と言ってよい。賢明な君主は、そうした学説を決して受け入れてはならない。

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襄公の仁義

 宋の襄公(じょうこう)が楚の軍と戦ったときのこと。宋の軍隊は軍列をすっかり整えていたが、楚の軍隊はまだ川を渡っている最中だった。そこへ臣下の購強(こうきょう)が走ってきて襄公に進言した。「敵軍は大勢でわが軍は小勢です。どうか敵軍が川を渡り終えないうちに攻撃してください。今ならきっと打ち破れます」

 しかし、襄公は言った。「私は君子の言というのを聞いている。傷ついた者をさらに傷つけることはせず、老人を捕虜にはせず、危地にいる者をさらに追い落とさず、窮地にいる者をさらに追い詰めず、軍列を整えていない敵は攻撃しないということだ。今、楚がまだ川を渡りきらないうちにそれを攻撃するのは、君子たる者の道義に反することだ。だから、楚の軍がすっかり渡りきり軍列を整えるのを待って、わが軍を進撃させることにしたい」

 購強は言った。「殿さまは宋の民を愛そうとなさらず、腹心の家来までも護ろうとなさらない。ただ道義を守るだけです」。襄公は怒り、「下がれ、それ以上言えば軍法にかけるぞ」と言った。購強はやむなく引き下がった。そして、楚の軍列が整い終わってから、襄公は進撃の太鼓を打ち鳴らした。はたして、宋の軍は大敗し、襄公は大怪我をして三日後に死んでしまった。これこそが、仁義にのみとらわれて引き起こした災禍(わざわい)である。

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自ら退く

 少室周(しょうしつしゅう)という清廉潔白な人がいた。趙襄主(ちょうじょうしゅ)の護衛官となっていたが、中牟(ちゅうぼう)の徐子(じょし)と力比べをして負けてしまった。そこで、殿中に入ると襄主にそのことを報告し、自分の代わりに徐子を雇うようにと推薦した。襄主が「お前の地位は誰もが望むものであるのに、なぜ徐子を推薦して自ら代わろうというのか」と尋ねると、周は答えた。「私は、力持ちとして殿にお仕えする者ですが、今や徐子の力にはかないません。私が自ら代わらなければ、おそらく他の人が言い立てて、私が自分より強い者を隠したとして非難するでしょう」

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すぐれた官吏とは

 孔子が衛の宰相だったころ、弟子の子皐(しこう)が裁判官となって、ある男を足斬りの刑に処した。その後、足斬りにあったその男は都の門番になっていた。衛の主君に孔子を讒言(ざんげん)する者があらわれて、「孔子は謀叛を起こそうとしています」と言った。衛の主君は孔子を捕らえようとした。孔子は逃走し、弟子たちもみな逃げ出したが、ただひとり子皐が門限に遅れて出られなくなった。すると、門番の足斬りにあった男が案内して、子皐を門の下の部屋にかくまった。おかげで、子皐は捕まらずにすんだ。

 夜中になって、子皐は足斬りにあったその男に問いかけた。「私は主君の法令にそむくことができずに、自らお前の足の筋を断ち切った。今こそ、お前は私に仇(かたき)うちができるのに、なぜ私を助けたのか」

 男は答えた。「私が足の筋を斬られたのは、当然に私の罪に相当していますから、仕方のないことです。ところが、あなた様が私を裁かれたときには、あなた様は法令をあれこれと吟味され、言葉をはさんで私を慰め、私がなんとか罪にならないようにと大変心を配ってくれました。私にはそれがよく分かっています。罪が定まって裁判が終わると、あなた様は悲しそうにして楽しまれず、それがお顔のようすにも出ていました。でも、それは私にとくに目をかけてくださったからではありません。元々の温かいお心からそうであられたのでしょう。これこそ、私があなた様に恩を感じているところです」

 孔子は言った。「すぐれた官吏というものは民に恩徳を植えつけるが、官吏にふさわしくない者は怨みごとを植えつける。官吏とは、常に法を公平に実施するものだ。国を治める者は公平を失ってはならない」

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人民を戦わせるには

 晋の文公狐偃(こえん)に尋ねて言った。「私は、うまい肉は多くの臣下にふるまい、わずかな量の酒と肉だけを宮中に残し、壺の酒は清むひまもないほど次々に飲ませ、生の肉は乾く暇もないほどどんどん食べさせ、たとい一頭の牛を殺しただけでも都じゅうの民に広くふるまい、貢物の布はすべて士卒に着せている。これで人民を戦わせることができようか」。狐偃は答えた、「まだだめです」

 文公は言った、「私は、関所や市場の税を軽くして、刑罰を緩めているが、これで人民を戦わせることができようか」。狐偃は答えた、「まだだめです」

 文公は言った、「私は、破産した民には近侍の者を使わして事情を調べさせ、罪を赦免し、貧乏で暮らしていけない者には施しをしている。これで人民を戦わせることができようか」。狐偃は答えて言った、「まだだめです。殿がおっしゃっているのは、みな人民の生活を助けるためのことばかりです。いま人民が従ってついてくるのは、その生活を助けてくれるからです。殿がそれを利用して逆に殺すことになれば、人民は殿についてくる理由がなくなってしまいます」。「それでは、どうすれば人民を戦わせることができるのか」

 狐偃は答えて言った。「戦わないではおれないようにするのです」。「戦わないでおれないとは、どうすればよいのか」。狐偃は答えて言った、「信賞必罰です」。文公は言った、「刑罰の程度はどれほどか」。「縁者にも貴人にも遠慮なさらず、寵愛なさる人にも法を適用するのです」。文公は「分かった」と言った。

 その翌日、文公は、狩りをするように命じ、集合時間を正午として、それに遅刻した者には軍法を適用するとした。すると、文公の寵愛する顛頡(てんけつ)という臣下が遅刻してしまった。役人がただちに処罰を求めてきた。文公はためらったが、役人は「何とぞ執行させてください」と言う。そこで文公は、泣く泣く顛頡の背中を袈裟(けさ)斬りにして、人民の見せしめにし、法に偽りのないことを示した。

 それからは、人民はみな恐れてこう言いあった、「殿さまは、あれほど重用しておられた顛頡にも、法の定めどおりに処刑された。まして我々にはどれほどの容赦もなかろう」。文公は人民が戦わせることができる情況になったと判断し、ついに軍を起こした。そして各地の敵を打ち負かした。

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乱を起こすもの

 臣下の利益と君主の利益とは違うものだとわきまえている君主は、王者になれるが、それらを同じものだと思っている君主は脅かされ、臣下といっしょになって賞罰の大事を行う君主は殺される。賢明な君主であれば、公私の別を明らかにし、利害の立場をよく考えるから、姦臣もつけいることができない。

 そもそも乱の起こるもとは六つある。幼君の母である太后、后妃(きさき)と愛妾、庶子の子孫、君主の兄弟、重臣、そして有名になった学者どもである。しかし、法を定めて役人に任せ、臣下の実績を追求していけば、太后も勝手なことはできない。礼儀の施行で等級の格差を明確にしていけば、妃と妾もまぎらわしくはならない。庶子の勢力を分散して嫡子に並ばないようにしていけば、庶子と嫡子が争うことはなくなる。権力と勢位を手離さなければ、兄弟が君主を侵すことはない。臣下が特定の家に集まらないようにすれば、重臣が君主の目を蔽(おお)うようなことはない。禁止と賞与を実績に応じて確実に行っていけば、有名になった学者どもが国を乱すことはない。

 臣下が乱を起こすには二つの拠り所があり、それぞれ国外と国内にある。国外にあっては君主の恐れるところ、国内にあっては君主の寵愛するところである。君主の恐れる外国の要求はすぐ受け入れられ、君主の寵愛する者の言葉はすぐに採り上げられる。それらこそが乱臣が利用する拠り所である。

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子の養育と親の世話

 人が乳飲み子である時に、父母の養育の仕方が粗略であったならば、子は成長して両親のかつての仕打ちを恨む。また、子が成長して大人になり、両親を養うようになった時、子の両親を世話する仕方が手厚くなければ、父母は怒って子を責めなじる。親と子との関係は最も親密なはずである。それなのにお互いに恨んだり責めたりするのは、親子双方とも、相手のためにしてやるのだという思いにとらわれて、何事も自分自身の利益のためにするのだという考え方に徹しないからである。

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株(くいぜ)を守る

 上古の世は、人間の数は少なくて鳥獣が多かった。そして、人間は鳥獣らに勝てなかった。そこに一人の聖人があらわれて、木を組み合わせて住居を作り、危害を避けられるようにした。大いに喜んだ人々は彼を世界の王者として頂いた。また人々は、草木の実や貝類を食べたが、生臭くて胃腸をこわすものが多かった。そこに一人の聖人があらわれて、木をこすって火を起こし、その火で生ものを調理した。人々は大いに喜んで彼を世界の王者として頂いた。

 中古の世になると、あちこちでしきりに洪水が起こったので、(こん)と(う)とは河川を切り開いて治水に成功した。近古の世には、夏(か)の(けつ)や殷(いん)の(ちゅう)が暴政を行ったので、殷の湯王と周の武王とは彼らを征伐した。

 かりに中古の夏王朝の時代に、木を組み合わせて住居を作ったり木をこすって火を起こしたりする者がいたなら、きっと鯀や禹に笑いものにされただろう。また近古の殷や周の時代に、河川を切り開く者がいたなら、きっと湯王や武王に笑いものにされただろう。そうしてみると、いま湯王や武王たちの道を、今の時代にも通用するとして賛美する者がいるとしたら、きっと新しい聖人たちに笑いものにされるだろう。それゆえ聖人は、古いことなら何でもよいなどとは考えず、永久不変の規準などというものにも従わない。その時代の事情をよく考えて、それに見合った対策を打ち出す。

 宋の国の人で畑を耕している者がいた。畑の中に切り株があり、たまたま兎(うさぎ)が走ってきてその切り株にぶつかり、首を折って死んだ。易々と兎を手に入れた彼は、それから畑仕事をやめてしまい、切り株のそばで兎がやってくるのをずっと待ち続けた。もちろん兎は二度とは得られず、彼は国じゅうの笑いものにされた。いま古代の聖王の政治にひたすら倣って現代の民を治めようとするのは、すべてこの切り株のそばを離れずにいるのと同類だ。

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偃王(えんおう)の仁義

 昔、周の文王が治める国の広さは、わずか百里四方にすぎなかった。しかし、仁義にかなった道徳的な政治を行い、蛮族の西戎(せいじゅう)を手懐け、やがて天下の王となった。一方、時代が下って、偃王(えんおう)が治める徐の国の広さは、五百里四方もあった。仁義にかなった道徳的な政治を行うと、それを慕って自国の領地の一部を贈り物として偃王に謁見するものの数が三十六国にも及んだ。しかし、これを見た楚の文王は、勢力を拡大した偃王が自国を害するのではないかと恐れ、出兵して徐を攻撃し滅ぼしてしまった。

 周の文王は仁義を行って天下の王となったが、偃王は同じく仁義を行ったにもかかわらず自国を失った。これはつまり、仁義は古い時代には有用だったが、今の時代には有用ではないのである。「時世が変われば、なすべき事柄も変わる」ということである。

 上古の時代は道徳を競い、中世の時代は智謀を競い合った。しかし当今は、どちらの気力が勝っているかを競い合う時代である。かつて斉が魯を攻撃しようとした時、魯は、孔子の弟子で雄弁な子貢(しこう)を斉に向かわせ、攻撃を止めるよう説得させようとした。子貢が斉に赴いて攻撃の非を説くと、斉の人はこのように答えた。「あなたの言うことは確かに筋が通っている。しかし我々が欲しいのは魯の土地であって、あなたの議論ではない」。そして、斉は出兵し魯の領土を侵略した。

 徐の偃王(えんおう)は、仁義にかなった道徳的な政治を行ったのに国を失い、子貢は智慮があるのに魯の領土を侵略された。これはすなわち、仁義や智慮は、今の時代には国を維持する方法ではない。仁義や智慮にばかり頼る態度を改め、国の力に応じた軍事力を備えて、万乗の軍備をもつ大国に対峙したならば、斉が魯の領土を奪おうとする欲望や、楚が徐を滅ぼそうとする欲望は、実行に移すことができなくなるのだ。

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時代背景

春秋時代の諸国は次第に統合され、戦国時代には7つの大国がせめぎ合う状況となっていった。諸侯やその家臣らが争うなか、富国強兵をはかるための種々の政策が必要とされた。
 
そうしたところ、下克上の風潮もあり、下級の士や庶民の中にも知識を身につけて諸侯に政策を提案するような遊説家が登場した。 諸侯はそれを食客としてもてなし、その意見を採用した。さらに今日の大学のようなものを整備して、学者たちに学問の場を提供するものもあった。
 
 その思想は様々であり、政治思想や理想論もあれば、実用的な技術論もあり、それらが混在しているものも多い。墨家はその典型であり、博愛主義や非戦を唱えると同時に、その理想の実践のための防御戦のプロ集団でもあった。儒家も政治思想とされるが、同時に儀礼の専門家でもあった。兵家は純粋な戦略・戦術論を唱える学問とされがちだが、実際には無意味な戦争の否定や富国強兵を説くなどの政治思想も含んでいる。
 
 それらの中で、秦に採用されて中国統一の実現を支援した法家、漢以降の王朝に採用された儒家、民衆にひろまった道家が後世の中国思想に強い影響を与えた。また、兵家の代表・孫子は、戦術・政治の要諦を見事に短い書物にまとめ、それは後の中国の多くの指導者のみならず、世界中の指導者に愛読された。一方で墨家は、儒教の階級主義を批判して平等主義を唱え、一時は儒家と並ぶ影響力を持ったが、その後衰退した。

法家以外の思想

儒家
孔子を祖とする学派。人間愛である「仁」と、社会秩序を意味する「礼」を重視し、家族愛や道徳を守ることによって治国平天下をめざす思想。西周を理想的な時代ととらえ、戦国時代の混乱を克服する道を探った。漢時代には儒学を官学として採用し、それ以後は各王朝に保護され、中国の最も正統的な学派となる。

道家
道家の大家である老子と荘子を合わせて「老荘思想」ともいう。「道」を最上のものとし、また「無為自然」を主張、自然に反する人間の行いを捨て去り自然の摂理に従えば、すべて解決するという思想。君主が政治に過度に干渉することを避け、天道に背く勝手な行動をとることを禁じる。

陰陽家
天地自然の法則と人間社会のありかたとの関連を説く一派。自然現象の変化を陰と陽の交替という原理で説明するのが陰陽説。その影響を受けて、斉の鄒衍(すうえん)が説いたのが五行説で、物質の根源は木・火・土・金・水の5要素からなり、それらが連続的に循環し変化すると考えた。鄒衍は五行説によって帝王の徳を分け、それによる王朝交替説(五徳終始説)を説いた。

墨家
墨子を祖とする学派。儒家の「仁」に対して兼愛説(平等に人を愛すること)を説く。また勤倹をすすめ,非攻(戦争反対)を唱えるなど,実際的な教説を積極的に布教した。戦国時代には儒家と並ぶ最大勢力であったが,現実路線をとって秦と結んでからは徐々に衰退した。

菜根譚の言葉

人としての道を守っていれば、不遇な状態に陥っても、それは一時的なことで終わる。
 
徳は、仕事で成功を収めるための基本となる。
 
立派な人間は、人とお酒を飲んでいるときや遊んでいるときでも、心を乱さぬよう細心の注意を払い、気を引き締める。
 
他人に施した恩は忘れてもいいが、人から施された恩は忘れてはならない。
 
人に恩恵を施したら、見返りを期待してはならない。
 
人に恩を施す場合は、あっさりしたことから始め、だんだん深めていくのがよい。
 
やめようと思ったことは即座にやめるべきである。「いつか」とか「そのうちに」などと考えていては。いつまでたってもやめることはできない。
 
旧友とは、新鮮な気持ちで付き合うべきである。
 
魚を捕らえようと網をはっていると白鳥がかかることがある。カマキリがエサを狙っていると、その背後でスズメがカマキリを狙っている。
人間社会も同じで、予想もつかない展開が待っている。
 
人の心を動かすときは、無理強いするのではなく、相手の自発的な変化を待ったほうがいい。そうでないと、相手はますます意固地になる。
 
思いやりのある心の温かい人は春風のようなもの。そういう人の元では、すべての人が成長する。
 
評判を得たいなら、「評判を得たい」という貪欲な気持ちを捨てることだ。
 
せっかちな人は、一つの物事でも成就させられない。
 
幸運はこちらから求めてはいけない。幸運のほうが迎えに来てくれるよう努めるべきである。
 
喜びを感じない日があってはならない。
 
善行を積んでもよいことが起こらないといって落胆してはならない。そういう状況にあっても、草むらの陰にあるウリのように、人目につかないところで幸運の実はすくすくと育っている。
 
志を持てば、その気は人生の流れを変えてくれるようになる。
 
誹謗中傷は太陽を覆う雲のようなもの。すぐに風によって吹き払われるから、気にすることはない。
 
自分の意に反して人を喜ばせるくらいなら、妥協などせず、いっそのこと人から嫌われるほうがマシだ。
 
仕事で成功を収めることができる人物は、機転が利く。
 
地位はあまり上がり過ぎない方がよい。頂点に登りつめると危険が待っている。
 
困難に見舞われ、前に進めなくなったら、一歩退くことを知るべきである。
 
困難に陥ったら、初心に返ろう。
 
人格者になりたいなら、人目のないところで過ちを犯さないように努めなければならない。
 
草木が枯れ、葉が落ちるころ、根元には新しい芽が息吹こうとしている。
 
出世して、それなりの地位に就いた者は、公平であると同時に、優しさを兼ね備えていなければならない。
 
衰運の兆しは最盛期に現れる。運が好転する兆しはどん底から生じる。
 
人を指導する場合、人格者は、澄み渡った晴天の青空のようにすっきりと分かりやすく指導する。
 
鷹が気に留まっているときは、まるで眠っているかのように見える。虎が歩いているときは、まるで病人が歩いているかのように見える。人格者もまた、鷹や虎のように強さをひけらかしてはいけない。
 
先人の言い伝えに「人の人生は後半生で決まる」とあるが、けだし名言である。
 
深夜、静まりかえったときに、一人になって自分の心の内を見れば、悩みが消え、本質が見えてくる。

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