万葉集【巻第一】

 巻第一は、雄略天皇の時代から寧楽(なら)の宮の時代までの歌が収められています。雑歌のみで、万葉集形成の原核となったものが中心です。天皇の御代の順に従って配列されています。
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1 雄略天皇の御製歌

(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児(こ) 家(いへ)(の)らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座(いま)せ われこそば 告らめ 家をも名をも

【意味】
 おお、籠よ、良い籠を持ち、おお堀串も、良い堀串を持って、この丘で若菜を摘んでいる娘さん、家はどこか言いなさい、何という名前か言いなさいな、神の霊に満ちた大和の国は、すべて私が従えている、すべて私が治めているのだが、私のほうから告げようか、家も名をも。

【説明】
 天皇と娘子との聖なる結婚によって、国土の繁栄が約束されることを歌った歌。籠(こ)は摘んだ若菜を入れるカゴ、掘串(ふくし)は土を掘るヘラのこと。「み籠」「み掘串」の「み」は相手の持ち物を讃(たた)える接頭語。早春に娘たちが野山に出て若菜を摘み食べるのは、成人の儀式だったといわれます。「児(こ)」は女性を親しんで呼ぶ語。「そらみつ」は「大和」にかかる枕詞。

 古代、名にはそのものの霊魂が宿っていると考えられていました。通称とは異なり、真の名は母親と自分のみ知るものとして秘する習いだったのです。ですから、名告りは重要なことであり、男が女の名を尋ねるのは求婚を意味し、女が名を明かすのは相手の意のままになることを意味しました。

 作者は、5世紀後半の第21代雄略天皇(412〜479年)。允恭(いんぎょう)天皇の第5皇子で『古事記』下巻に登場する英雄的な君主です。歌をよくし、その霊力によって女性や国を獲得したという伝説があります。権勢は全国に及んだようで、埼玉県の稲荷山古墳と熊本県の江田船山古墳から、雄略天皇をしめすと思われる「ワカタケル」の銘のある鉄剣が出土しています。ただ、万葉の当時から約200年も前の天皇のため、この歌は天皇の実作ではなく伝承された歌謡と考えられています。

2 舒明天皇が香具山に登って国見をなさった時の御製歌

大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 海原は 鴎(かまめ)立つ立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は

【意味】
 大和には、数々の山があるけれど、なかでも特別に神聖な天の香具山、そこに登り立って国見をすれば、広々とした平野にはあちらこちらに煙が立ち、広々とした海にはあちらこちらに鴎が飛び立っている、ああ、良い国だ、蜻蛉島、大和の国は。

【説明】
 作者の第34代舒明天皇(593〜641年)は、敏達(びたつ)天皇の孫で、彦人大兄皇子(ひこひとのおおえのみこ)の子。奈良県高市郡の岡本に都を移したので、岡本天皇ともいいます。斉明天皇はその皇后。初期万葉の人々にとって始祖的な存在。

 この歌は、宮廷の国見の儀式に、大和国原をほめた歌。香具山(かぐやま)は天上から降った聖なる山との伝説があり、、畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)とともに大和三山の一つ。高い所から見渡した壮大な景観が、素朴ながらも鮮明に描かれ、煙と鴎とに代表された民の繁栄と豊かな風光が賛美されています。蜻蛉島は「大和」にかかる枕詞。

 天皇が国を見ることとは、天皇がその魂を国土に深く乗り移らせ、豊饒を願うことでした。そして、その国土が盛んな生命力を見せて賑わっていると歌うことは、上代の人々にとって、その言葉どおりの事実が約束されることでもありました。1の歌とともに、天皇が統治する国土のますますの繁栄を予祝する歌となっています。

3・4 中皇命(なかつすめらのみこと)の歌

3
やすみしし わが大君(おほきみ)の 朝(あした)には とり撫(な)でたまひ 夕(ゆふへ)には い倚(よ)り立たしし 御執(みと)らしの 梓(あづさ)の弓の 中弭(なかはず)の 音すなり 朝猟(あさかり)に 今立たすらし 暮猟(ゆふかり)に 今立たすらし 御執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり
4
たまきはる宇智の大野に馬(うま)(な)めて朝踏ますらむその草深野(くさふかの)

【意味】
〈3〉天下のすべてをお治めになるわれらの大君が、朝には手にとって撫でられ、夕には傍に寄り立っていらっしゃった、ご愛用の梓の弓の中弭の音が聞こえてくる。朝の狩りに今まさに臨もうとしていらっしゃるらしい。夕の狩りに今まさに臨もうとしていらっしゃるらしい。ご愛用の梓の弓の中弭の音が聞こえてくる。

〈4〉宇智の大野に馬を並べて、今朝は地を踏みしめていらっしゃるのだろう、その草深い野に。

【説明】
 題詞には、舒明天皇が宇智の野で狩猟をなさった時、中皇命が間人連老(はしひとのむらじおゆ)に命じて献上させた歌とあります。長歌1首と反歌1首。「中皇命」は中継ぎの女帝をさす言葉のため、この3・4は舒明天皇の皇后(のちの斉明天皇)作、10〜12は倭姫王(やまとのひめみこ・舒明天皇の孫)作とする説や、すべて斉明天皇作とする説があります。間人連老の伝は不明。「間人」は氏、「連」は姓(かばね)、「老」が名。

 「宇智の野」は現在の奈良県五條市にあります、吉野川右岸の野。「やすみしし」は「わが大君」にかかる枕詞。「梓の弓」はアズサの木で作った弓。「中弭」は弓の中央で矢をつがえる部分。「たまきはる」は「宇智」にかかる枕詞。

5・6 軍王(いくさのおほきみ)の歌

5
(かすみ)立つ 長き春日(はるひ)の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣け居(を)れば 玉たすき 懸けのよろしく 遠つ神 我が大君(おほきみ)の 行幸(いでまし)の 山越す風の ひとり居る 我が衣手(ころもで)に 朝夕に 返らひぬれば 大夫(ますらを)と 思へる我れも 草枕 旅にしあれば 思ひ遣(や)る たづきを知らに 網の浦の 海人娘子(あまをとめ)らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 我が下心
6
山越(やまごし)の風を時(とき)じみ寝(ぬ)る夜(よ)落ちず家なる妹をかけて偲(しの)びつ

【意味】
〈5〉霞が立つ長い春の日が、いつの間にか暮れてしまった。そんな日は心が疼くので、ぬえ鳥のように一人忍び泣きしていると、かつて神であった天皇が行幸されている山からの朝夕の風が、一人ぼっちの私の袖に何度も吹き返す。立派な男子として自負している私だが、旅の空にあるため思いを晴らすすべもなく、網の浦の海女たちが焼く塩のように、家恋しさに焼け焦がれている私の胸の内であるよ。

〈6〉山を越して、風が時ならず吹いて来るので、ひとり寝る毎夜毎夜、家に残っている妻を心にかけて思い慕っている。

【説明】
 舒明天皇の讃岐国行幸の折に、軍王が作った長歌の反歌。軍王の伝は未詳。

7 額田王(ぬかたのおほきみ)の歌

秋の野(ぬ)のみ草刈り葺(ふ)き宿れりし兎道(うぢ)の宮処(みやこ)の仮廬(かりいほ)し思ほゆ

【意味】
 かつて天皇の行幸に御伴をして、山城の宇治で、秋の草を刈って葺いた行宮(あんぐう)に宿ったときのことが思い出されます。

【説明】
 額田王は生没年未詳。斉明天皇の時代に活躍がみとめられる代表的な女流歌人。はじめ大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)に召されて、十市皇女(とおちのひめみこ)を生みましたが、後に天智天皇に愛され、近江の大津宮に仕えました。

 斉藤茂吉によれば、「単純素朴のうちに浮かんでくる写像は鮮明で、且つその声調は清潔である。また単純な独詠歌でないと感ぜしめるその情味が、この古調の奥から伝わってくるのをおぼえるのである。この古調は貴むべくこの作者は凡ならざる歌人であった」。

8・9 額田王の歌

8
熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎいでな
 
9
莫囂円隣之大相七兄爪謁気 我が背子がい立たせりけむ厳橿(いつかし)が本(もと)

【意味】
〈8〉熟田津で、これから船出しようと月の出を待っていると、潮の流れさえ私たちの思い通りとなってきた。さあ、今こそ漕ぎ出しましょうぞ。

〈9〉・・・・・・愛するあなたが立っていた、山麓の神聖な樫の木のもと。

【説明】
 8は、額田王の歌の中でも代表作といわれる歌です。斉明天皇の7年(661年)正月、斉明女帝は船団を組み、朝鮮半島の新羅に遠征するため西へ向かいます。新羅に侵攻され、存亡の危機にあった百済を救援するためでした。熟田津(にきたつ)は愛媛県松山市の海浜で、ここにしばらく留まった後、いよいよ出航しようとする時の歌です。皇太子・中大兄皇子、大海人皇子をはじめ、皇女たちも同行した大がかりな旅で、額田王の歌は、戦意に燃えた一行のようすを高らかに歌い上げています。

 額田王は万葉初期の代表的な女流宮廷歌人(生没年未詳)。彼女の数奇な運命については、巻1-20のところで述べます。この歌には左注があり、斉明天皇の作だとありますが、実際は額田王が天皇になり代わって詠んだものとされます。

 月の出と潮流は密接な関係にあり、ともに船旅には重要な条件でした。「潮もかなひぬ」とあるのは、潮流も思い通りに、船出に都合のよいように流れ始めたと同時に、頼りとする月までも思い通りに出た出たという意味であり、この月を満月とし、ちょうど大潮の満潮にあったとする見方もあります。なお、この船団は3月末に博多に到着、ところが4ヵ月後に天皇はその地で崩御、中大兄皇子は翌々年に軍を進めましたが、白村江にて大敗を喫します。

 9の「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」の部分は万葉集の中でもっとも難読とされ、未だに定訓がありません。

10〜12 中皇命(なかつすめらみこと)の歌

10
君が代も我が代も知るや岩代(いはしろ)の岡の草根(くさね)をいざ結びてな
11
吾背子(わがせこ)は仮廬(かりほ)作らす草なくば小松が下の草を刈らさね
12
吾が欲(ほ)りし野島(のしま)は見せつ底ふかき阿胡根(あごね)の浦の珠(たま)ぞ拾はぬ

【意味】
〈10〉あなたの命も私の命も、ここ磐代の岡の心のままです。そこに生えている草を結びましょう、そして命の無事を祈りましょう。

〈11〉あなたが作っておられる仮廬のための適当な草がなければ、小松の下の萱をお刈りなさいな。

〈12〉私が見たいと思っていた野島は見せていただきました。でも、深い阿胡根の浦の真珠はまだ拾っていません。

【説明】
  中皇命の紀の温泉に往(い)ませる時の御歌3首。「中皇命」は中継ぎの女帝をさす言葉のため、巻第一-3・4は斉明天皇作、ここの10〜12は倭姫王(やまとのひめみこ・舒明天皇の孫)作とする説や、すべて斉明天皇作とする説があります。紀の温泉は和歌山県白浜あたりの温泉で、658年10月から翌年正月にかけて、斉明天皇の行幸がありました。
 10の「磐代」は和歌山県日高郡南部町。草根を結ぶのは、長命を祈る呪術行為の一つでした。12の「野島」は同県御坊市名田町野島。「阿胡根の浦」は所在不明。

13〜15 中大兄皇子の大和三山の歌

13
香具山は 畝火を愛(を)しと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯(か)くにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を あらそふらしき
14
香具山と耳梨山とあひしとき立ちて見に来し印南国原(いなみくにはら)
15
わたつみの豊旗雲(とよはたぐも)に入日(いりひ)さし今夜(こよひ)の月夜(つくよ)まさやかにこそ

【意味】
〈13〉香具山は、畝火山を愛して耳梨山と争った、神代からそうであったらしい、昔からそうであったのだから、今の世においても人々は妻を争うのだろう。

〈14〉香具山と耳梨山が争ったとき、立ち上がって見に来たという、この印南国原よ。

〈15〉海の神がたなびかす、大きく美しい雲に、今まさに入日がさしている。今夜の月はさやかに照るにちがいない。

【説明】
 有名な大和三山の妻争いの伝説を歌ったもので、14、15は、13の長歌に添えられた反歌。大和平野の南部に香具(かぐ)山・畝傍(うねび)山・耳成(みみなし)山の三山が向かい合っています。この三山が妻争いをしたという伝説が『播磨風土記』に書かれています。それによれば、三山が争うと聞いて出雲の阿菩大神(あぼのおおかみ)が仲裁にやって来て、争いが止んだ。そこで、その地、播磨の国印南野に船を逆さに伏せて留まり、それが丘になったといいます。

 作者は中大兄皇子で、新羅遠征の際、伝説ゆかりの播磨の国・印南野(兵庫県中部の平野)を過ぎたときに詠んだとされます。また、この歌からは、額田王をめぐる、弟・大海人皇子との妻争いを連想させます。額田王は初め大海人皇子の妻で、十市皇女(とおちのひめみこ)を生みましたが、後に天智天皇となった中大兄皇子の後宮に入った女性です。兄弟の間にどのような葛藤があったのでしょうか。

 なお、15の歌は内容がかけ離れており、左注には、「この歌は13の反歌としては相応しくないと思われる。ただし、元の本に反歌とされているのでそのまま載せる」とあります。万葉集の編者たちもどう関連するのか不可解だったようです。

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16 額田王が春秋の優劣を論じた歌

冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂(し)み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉(もみち)をば 取りてぞしのふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山ぞわれは

【意味】
 春がやってくると、冬の間鳴かなかった鳥もやって来て鳴く。咲かなかった花も咲いているけれど、山の木々が茂っているので分け入っても取ることもせず、草も深いので手に取っても見ることもしない。一方、秋山の木の葉を見ると、紅葉したのは取って美しいと思い、青いのはそのままにして嘆息する。その点こそが残念ですが、秋の山のほうが優れていると私は思います。

【説明】
 この歌の題詞には次のようにあります。天智天皇が藤原鎌足におことばを下し、「春山の万花(ばんくわ)の艶(にほひ)」と「秋山の千葉(せんえふ)の彩(いろどり)」とを争わせなさったとき、額田王が和歌で判定した。詩宴の場での即興の歌とされています。

 「冬こもり」は「春」にかかる枕詞。はじめ春を礼賛したかと思うと、花を手に取ることができないのに不満を残し、次に秋の黄葉を賞美したかと思うと、まだ青い葉には恨みを投げかけ、それぞれの一長一短を指摘、そして最後にきっぱりと秋山が優れているといっています。

 おそらくこの歌の前に、何人かの男性たちが歌を披露したのでしょう。そして、春派と秋派に分かれた人々が、額田王の歌による判定に聞き入ったのではないでしょうか。結局、何の根拠も示さず、ただ「秋の山が好きなのです、私は」と締めくくったのは、何ともご愛嬌です。

17〜19 額田王が近江の国に下った時に作った歌

17
味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈(くま) い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(みさ)けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふねしや
18
三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや
19
へそかたの林のさきの狭野榛(さのはり)の衣(きぬ)に付くなす目につくわが背

【意味】
〈17〉なつかしい三輪の山よ、あの山が奈良山の山の間に隠れてしまうまで、道の曲がり角が幾重にも重なるまで、よくよく振り返り見ながら行きたいのに、何度でも望み見たい山なのに、無情にも雲がさえぎり隠してよいものか。

〈18〉なつかしい大和の国の三輪山を、なぜそのように隠すのか、せめて雲だけでも思いやりがあってほしい。隠したりなんかしないでほしい。

〈19〉へそかた(三輪山)の、林の先端の野榛が衣によく付くように、よく目につく私の愛しい人よ。

【説明】
 663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した中大兄皇子は、唐の侵略に恐れおののきます。そのため、都を内陸深く近江に遷し、各地に城を築きました。しかし、『日本書紀』によれば、この遷都は民には喜ばれず、風刺の童謡が歌われたり原因不明の火事が相次いだといいます。そうしたなか強行された遷都の途上、額田王が中大兄皇子になり代わってこの歌を詠んだとされます。18は17の長歌に添えられた反歌。19は左注に、「今考えると、唱和の歌とは思われない。ただ、旧本にはこの順に載せているので、このまま載せておく」とあります。

 三輪山(奈良県桜井市)は山全体が大神(おおみわ)神社の御神体であり、しばしば祟りを及ぼすと畏れられていました。そのため、山の魂を鎮め、同時に自分たちの行路の安全と新都の繁栄を祈りつつ、朝夕見慣れた三輪山との別れを惜しんだのです。長歌に詠われている、道の曲がり角ごとに幾度も振り返ってなつかしむさまは、国境を越える際の儀礼だったともいいます。

 またこれらの歌は、額田王の、愛する大海人皇子との別れ、中大兄皇子に従って近江に下らなければならない切ない気持ちを表したとする見方もあるようです。

20・21 額田王と大海人皇子の歌

20
あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る
21
紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎くあらば人妻ゆゑにあれ恋ひめやも

【意味】
〈20〉茜色に輝く紫草が栽培されている野、天皇が占有されているこの野には番人がいます。その番人たちに見られてしまうではありませんか、あなたが私に袖を振っているのを。それが不安です。

〈21〉茜色の紫草のように色美しいあなたを憎く思うのであれば、もはや人妻であるあなたに、これほどまでに恋するはずはないではないか。そういう危ないことをするのも、あなたが可愛いからだ。

【説明】
 「あかねさす」は「紫」にかかる枕詞。「紫野」は紫草の栽培されている野で、根から染料をとっていました。「標野」は他人が入れないように標(しめ)を結ってある土地。袖を振るのは求愛のしるしとされました。

 天智天皇7年(668年)5月5日、新都、近江大津宮から1日の行程の蒲生野(がもうの)で、宮廷をあげての薬狩りが催されました。薬狩りは鹿の角袋や薬草を採る、夏の宮廷行事でした。この2首は、その折に額田王(ぬかたのおおきみ)が大海人皇子(おおあまのおうじ)に贈り、それに大海人皇子が答えた歌とされます。

 額田王は初め大海人皇子の妻となり、十市皇女(とをちのひめみこ)を生みましたが、後に天智天皇となった兄・中大兄皇子の後宮に入りました。この歌の贈答には、額田王がかつての夫・大海人皇子の人目をはばからない求愛の行為に対して、口ではそれをたしなめながらも心ではひそかに皇子に好意を寄せている複雑な女心、そして、大海人皇子の大胆で率直な男心がみごとに表出されています。

 実際には、狩りの後の宴席で、3人の関係を知る人たちを前に座興として交わされた歌のようです。このやりとりに、場は大いに盛り上がったことでしょう。しかし、当の二人の内心はどうだったのでしょう。座興としてしか思いを表出できない関係だからこそ、この上ない恋の揺れ動きが潜んでいる気がしないでもありません。また、その後壬申の乱に至った歴史を見ると、単なる座興ではすまされない、凄まじい心の葛藤も垣間見えます。

 壬申の乱は、天智天皇の死後、弟の大海人皇子と息子の大友皇子(おおとものおうじ)が後継者を争った、古代最大の争乱といわれる事件です。生前の天智天皇は最初は、白村江の戦いから大津宮への遷都などの苦難をともに乗り越えてきた弟の大海人皇子を皇位継承者として認めていました。しかし、実の子の大友皇子が成長すると、やはり我が子がかわいくなり、しだいに大海人皇子を遠ざけるようになったのです。

 大海人皇子は暗殺を恐れて、病床の天智天皇に、皇位に野心のないことを示すため出家の意志を告げて、吉野に引きこもります。そして、天智天皇の死後、大友皇子は弘文天皇として即位し、吉野攻めの準備を始めます。それを知った大海人皇子は、東国からの大友皇子への支援ルートをさえぎるため鈴鹿関をふさぎ、自軍を組織。大海人皇子への信頼・同情や弘文天皇への反発もあり、中小豪族や没落した中央豪族などが大海人皇子方につきました。そして不破関から近江に入り、大津宮を襲いました。

 戦いは1ヶ月で終わり、大友皇子は自殺。大海人皇子は都を飛鳥に戻し、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位して天武天皇となります。

22 吹黄刀自の歌

河上(かはのへ)のゆつ岩群(いはむら)に草むさず常にもがもな常処女(とこをとめ)にて

【意味】
川上の神聖な岩にいつまでも苔が生えないように、わが皇女の君もその岩のように変わらず永久に美しい乙女でいらっしゃってほしい。

【説明】
 十市皇女(とをちのひめみこ)が伊勢神宮にお参りしたとき、従っていた女官の長老だったらしい吹黄刀自(ふふきのとじ)が詠んだ歌。十市皇女は大海人皇子(後の天武天皇)と額田王との娘。天智天皇の子・大友皇子と結婚しましたが、672年の壬申の乱で夫と父が戦うという悲劇に接します。結局、夫が敗北し自害、その後は父に従い、明日香宮で暮らしたといいます。

 斉藤茂吉によれば、「『常少女』という語も、古代日本語の特色をあらわし、まことに感嘆せねばならぬものである。今ならば、『永遠処女』などというところだが、到底この古語には及ばない。作者は恐らく老女であろうが、皇女に対する敬愛の情がただ純粋にこの一首にあらわれて、単純古調のこの一首を吟誦すれば寧ろ壮厳の気に打たれるほどである」。

23 作者未詳歌

打ち麻(そ)を麻続(をみの)の王(おほきみ)海人(あま)なれや伊良虞(いらご)の島の玉藻(たまも)刈ります

【意味】
 麻続王(をみのおほきみ)は海人でいらっしゃるのか、そうではないのに伊良虞の島の藻を刈っていらっしゃる。

【説明】
 麻続王が伊勢の伊良虞に流された時、島の人が「打ち麻を麻続の王海人なれや伊良虞の島の玉藻刈ります」(巻1-23)といって哀しみました。この歌はそれに感傷して、麻続王が答えた歌です。

25・27 大海人(天武天皇)の御製歌

25
み吉野の 耳我(みみが)の嶺(みね)に 時なくぞ 雪は降りける 間(ま)無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来る その山道(やまみち)
27
(よ)き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見

【意味】
〈25〉吉野の耳我の嶺に、絶え間なく雪は降っていた。休む間もなく雨は降っていた。その雪が絶え間ないように、その雨が休む間ないように、曲がり角ごとに物思いをしながらやって来たのだ、その山道を。

〈27〉昔の立派な人が、素晴らしい所だとよく見て、喜ばしいと言った、この吉野をよく見よ。今の善良な人であるお前たちも、この聖地をよく見よ。

【説明】
 25・26の「耳我の山」は、吉野の山ということ以外は不詳。671年に皇位継承問題にからみ危険が迫ったのを悟り、吉野へ逃れたときのことを回想したものか。

28 持統天皇の御製歌

春過ぎて夏来(きた)るらし白妙(しろたへ)の衣乾したり天の香具山

【意味】
 春が過ぎて、もう夏がやって来たらしい。聖なる香具山の辺りには真っ白な衣がいっぱい乾してある。

【説明】
 第41代持統天皇(645〜702年)は、天智天皇の皇女で、姉の大田皇女とともに大海人皇子の妃となり、草壁皇子を生みました。壬申の乱に際しては、妃の中でただ一人、挙兵した夫に従います。戦いに勝利した夫は天武天皇となり、天皇の没後は、しばらく皇后のまま政治を執り草壁皇子を天皇に立てようとしました。しかし、皇子が死去したため即位、夫の偉業を受け継ぎ、精力的に国家建設に取り組みます。

 持統天皇は、694年に都を藤原京に遷します。新都を囲む大和三山のうちで、最も神聖だとされたのが香具山です。「天の」は、香具山が天から降ったという古伝説に基づいて、香具山に冠される語。その香具山に真っ白な衣が乾かされている。その光景に、天皇は夏の季節の到来を直感した。あまり好まれることのない夏が力強くさわやかに表現されており、天皇の気丈さがうかがえる歌です。

 なお、この歌は、小倉百人一首では「春過ぎて夏来にけらし白たへの衣ほすてふ天の香具山」という形に改められています。「来にけらし」では、夏の到来を目前でとらえたのではなく、「もう夏が来てしまっているらしい」の意となり、「衣ほすてふ」では想像や伝聞の句となるため、全体として軽やかな感じになっています。

29〜31 近江の旧都を通った時に柿本人麻呂が作った歌

29
玉襷(たまたすき) 畝火の山の 橿原の 日知(ひじり)御代ゆ生(あ)れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いやつぎつぎに 天(あめ)の下 知らしめししを 天(そら)にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天(あま)(ざか)る 夷(ひな)にはあれど 石(いは)走る 淡海(あふみ)の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊(みこと)の 大宮は 此処(ここ)と聞けども 大殿(おほとの)は 此処と言へども 春草の 繁く生ひたる 霞(かすみ)立つ 春日の霧(き)れる ももしきの 大宮処(おほみやところ) 見れば悲しも
30
楽浪(ささなみ)の志賀の唐崎(からさき)(さき)くあれど大宮人の船待ちかねつ
31
楽浪(ささなみ)の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも

【意味】
〈29〉畝火山のふもとの橿原で、御位につかれた神武天皇の御代以来、この世に姿を現された天皇が次々に天下を治めになっていたのに、大和を捨て置いて奈良山を越え、どうお思いになって、田舎である近江の国の楽浪の大津の宮で天下をお治めになるのだろうか。天智天皇の神の旧都はここと聞いたけれど、春草が生い茂り、霧が立っているこの大宮の跡を見ると、何とも悲しい。

〈30〉ささなみの志賀の唐崎は元のように何の変わりはないが、大宮所も荒れ果てたし、むかし船遊びをした大宮人もいなくなった。それゆえ、その船をいくら待っていても再び見ることはできないのだ。

〈31〉志賀の大きな入り江の水は流れずに淀んでいるが、時の流れとともに過ぎ去った昔の人々には、再び会うことがあるだろうか、いや、もう会えはしない。

【説明】
 天智・弘文の2代にわたる近江大津の宮は、壬申の乱によって全く荒廃に帰しましたが、その跡にやって来て昔を回想した歌です。持統天皇4年(690年)晩春の作とされます。作者の柿本人麻呂(生没年未詳)は、『万葉集』最大の歌人。持統〜文武期にかけて、宮廷歌人の第一人者として認められていた人らしく、公的な儀礼や宴の場で多くの歌を残しています。ただし、宮人としては下級で、万葉集以外に所伝はありません。

 29の歌の「玉襷」は「畝火」の枕詞、「天にみつ」は「大和」の枕詞、「あをによし」は「奈良」の枕詞、「天離る」は「夷」(田舎)の枕詞、「石走る」は「淡海」の枕詞、「霞立つ」は「春日」の枕詞、「ももしきの」は「大宮」の枕詞。

 30の歌の「楽浪」は琵琶湖の西南岸地方、「唐崎」は大津市の北、大津の宮があった琵琶湖岸、「大宮人」は宮廷に仕える人々のこと。大津宮は、本格的な都市の形成には至らなかったものの、大陸からの知識人が多く集まり、漢詩文の盛行に象徴されるように華やかな大陸文化が展開しました。

32・33 高市黒人が近江の旧都を悲しんで作った歌

32
(いにしへ)の人に我れあれや楽浪(ささなみ)の故(ふる)き京(みやこ)を見れば悲しき
33
楽浪(ささなみ)の国つ御神(みかみ)の心(うら)さびて荒れたる京見れば悲しも

【意味】
〈32〉私は昔の人になってしまったのだろうか。この大津の宮を見ると、この都が栄えていたころの人であるかのように悲しくてならない。

〈33〉国の神の霊威が衰えてしまい、人気もなく荒れ果ててしまった都(近江の旧都のこと)を見るのは、たまらなく悲しい。

【説明】
 柿本人麻呂の29〜31の歌と同様、壬申の乱で廃墟となった近江大津の宮を悲しむ歌。大津宮の地主の神「国つ神」が、その霊威を衰えさせてしまったと嘆いています。高市黒人は人麻呂とほぼ同時代の下級役人。生没年未詳。

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万葉時代の年表

593年
聖徳太子が推古天皇の摂政となる
594年
推古天皇が仏教を盛んにする詔を出す
603年
冠位十二階を定める
604年
十七条憲法を定める
607年
小野妹子を隋に送る
奈良に法隆寺を建立
618年
唐が中国を統一
622年
聖徳太子が死去
630年
第1回遣唐使
645年
大化の改新
663年
白村江の戦い
658年
有馬皇子が謀反
667年
大津宮に都を遷す
668年
中大兄皇子が天智天皇となる
671年
天智天皇崩御
672年
壬申の乱
大海人皇子が天武天皇となる
686年
天武天皇崩御
大津皇子が謀反
694年
持統天皇が藤原京に都を遷す
697年
軽皇子が即位
701年
大宝律令の制定
702年
持統天皇崩御
707年
文武天皇崩御
733年
山上憶良が死去
708年
和同開珎がつくられる
710年
平城京に都を遷す
712年
古事記ができる
720年
日本書紀ができる
723年
三世一身法が出される
724年
聖武天皇が即位
729年
長屋王の変
731年
大伴旅人が死去
746年
大伴家持が越中赴任
751年
家持、少納言に
越中国を去る
752年
東大寺の大仏ができる
756年
聖武天皇崩御
754年
鑑真が来日
758年
家持、因幡守に任じられる
759年
万葉終歌

歌人ピックアップ

雄略天皇
 雄略天皇は中国の文献「宋書」「梁書」に記されている「倭王武」に比定され、稲荷山古墳(埼玉県)から出土した鉄剣銘の「ワカタケル」も雄略天皇を指すとされている。武力によって大和王権を拡大した5世紀の大王である。
 また、雄略天皇は気性の激しい暴君だったとの伝承もある。天皇の座に就くため兄や従兄弟を殺したり、気に入った女性は人妻であっても奪い取るといった記事が史書にある。
 雄略天皇作とされる「万葉集」の巻頭歌は、それとはやや異なる人間像を伝えている。

舒明天皇
 第34代とされる天皇(在位629〜641)。即位にあたっては朝廷が紛糾し、聖徳太子の子・山背大兄皇子を推す声も強かったが、蘇我蝦夷の支持を得て即位した。この時代、百済(くだら)王子豊璋(ほうしょう)、唐使高表仁(こうひょうじん)の渡来や蝦夷征討などがあった。

天智天皇
 舒明天皇の子で、第38代の天皇(?〜671)。母は斉明天皇。はじめ中大兄皇子と呼ぶ。藤原鎌足と共に大化改新を断行し、近江の大津に遷都、大陸文化の摂取や国内の整備充実に力を注いだ。

額田王
 生没年未詳。斉明天皇の時代に活躍がみとめられる代表的な女流歌人。はじめ大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)に召されて、十市皇女(とおちのひめみこ)を生んだが、後に天智天皇に愛され、近江の大津宮に仕えた。

天武天皇
 舒明天皇の子で、第40代の天皇(622〜686)。母は斉明天皇で、天智天皇の弟。東宮時代は大海人皇子と称した。天智天皇崩御後、吉野で挙兵して壬申の乱を起こし、近江朝廷の弘文天皇(天智天皇の皇子)を滅ぼし、飛鳥浄御原に遷都、即位した。

持統天皇
 654〜702年。天智天皇の第2皇女で、天武天皇の皇后。天武天皇崩御後に即位、第41代天皇となる。藤原京に遷都し、その治世は繁栄した。「万葉集」には歌6首がある。

柿本人麻呂
 生没年未詳。持統〜文武期にかけて、宮廷歌人の第一人者として認められていた人らしく、公的な儀礼や宴の場で多くの歌を残している。ただし、宮人としては下級で、はじめ舎人として出仕し、のちに地方官ともなっているようだが、六位以下で終わっているらしい。万葉集以外に所伝はない。
 なお、人麻呂の死後には、その名声だけが独り歩きし、平安時代には「歌の神」とまであがめられる存在になった。
 そればかりか、作者不明の古い名歌を、片っ端から人麻呂作にしてしまう風潮さえ横行した。結果、人麻呂作の歌は膨大な数となったが、現在ではその大半が他人の作だと考えられている。

高市黒人
 伝不詳。持統・文武天皇ごろの人で、人麻呂とほぼ同時代の人とみられる。行幸や旅の歌が多く、ことに自然詠をよくし、独自の歌境を開いた。