万葉集【巻第二】

 巻第ニは、仁徳天皇の時代から元正天皇の時代までの相聞・挽歌が収められています。巻第一と揃いの巻と考えられ、巻第一と同様、部立てごとに天皇の御代に従って歌が配列されています。このため勅撰ではないかとする説もあるようです。
・85〜125 ・126~189202〜232万葉集トップ

85〜90 磐姫皇后が天皇を慕ってつくった歌

85
君が行き日(け)長くなり山たづね迎へ行かむ待ちにか待たむ
86
かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根(いはね)し枕(ま)きて死なましものを
87
ありつつも君をば待たむ打ちなびくわが黒髪に霜の置くまでに
88
秋の田の穂の上(へ)に霧(き)らふ朝霞(あさかすみ)何処辺(いつへ)の方にあが恋ひ止まむ
89
(ゐ)明かして君をば待たむぬばたまの我が黒髪に霜は降るとも
90
君が行き日(け)長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ

【意味】
〈85〉あの方が出かけられてずいぶん長くなった。山を越えて尋ねてお迎えに行こうかしら、それともこのままお待ちしていようかしら。

〈86〉これほど恋い焦がれてなどいるよりは、高い山の岩を枕にして、いっそのこと死んでしまえばよかった。

〈87〉このままずっとあの方をお待ちしましょう。ゆらゆらなびくこの黒髪に、白いものが交じるほどになるまでも。

〈88〉秋の田に実った稲穂の上に立ちこめる朝霞、その霞のようにずっと晴れない私の恋は、いったいいつになったらやむのでしょう。

〈89〉このまま夜明けまで、あなたをお待ちします。私の黒髪にたとえ霜が降りようとも。

〈90〉あの方が行ってしまってから日数が経ってしまいました。いつまでもじっと待ってなどいられません、迎えに行きましょうか。

【説明】
 磐姫(いわのひめ)皇后は仁徳天皇の皇后。ひどく嫉妬深い女性として、『古事記』『日本書紀』に書かれています。天皇が侍女や妃を宮殿に入れることを許さず、ふだんと違う気配があると「足もあがかに妬みたまひき」、つまり地団駄を踏んで嫉妬したといいます。

 仁徳天皇といえば、民の竈(かまど)の煙が上がらないのを見て税を3年間免除なさったという慈悲深い天皇。しかし、健康な男子たる天皇は、女性も大好きでした。そしてあるとき、決定的な事件が起きます。磐姫が旅行中に、天皇がかねてご執心の異母妹・八田皇女(やたのひめみこ)をこっそりと宮中に入れたのです。それを知った磐姫は宮中に帰らず、山城国の帰化人の所に身を寄せてしまいました。

 慌てた天皇は再三磐姫を迎えに来ましたが、磐姫は天皇に会うこともなく、5年後にその地で生涯を終えたといいます。実は磐姫は葛城の豪族の息女で、皇族ではありませんでした。いっぽう八田皇女は皇族でしたから、位は磐姫のほうが低かったのです。だから、たとえ宮廷に戻ったとしても、彼女の地位はそれまでのようにはいかなかったでしょう。

 いずれにしても、気性の激しい女性だったようです。しかし、激しい嫉妬も深い愛情があってのこと。なお、これら4首は、記紀の伝説から生まれた仮託の歌とされ、実際の作者が誰であるかは分かりません。

91・92 天智天皇と鏡王女の歌

91
妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺(ね)に家もあらましを
92
秋山の樹(こ)の下隠り逝(ゆ)く水のわれこそ増さめ思ほすよりは

【意味】
〈91〉逢えないのなら、せめてあなたの家をいつでも見ることができたらなあ。大和の大島の山の頂に私の家があったらよかったのに。そこからだと、いつでもあなたの家を見られるから。

〈92〉秋の山の樹の下を隠れて流れる水が、秋にはうんと水かさを増すように、私のほうがずっとあなたを思っています。あなたが私を思ってくださるよりは。

【説明】
 91は、天智天皇が鏡王女に贈った歌。92は、鏡王女がお答えした歌。鏡王女は額田王の姉とされ、後に藤原鎌足の正妻となり、次代の権力者となった不比等を生みます。92の「 秋山の樹の下隠り逝く水の」は、「増さ」を導く序詞。

93・94 鏡王女と藤原鎌足の歌

93
玉くしげ覆(おほ)ふを易み明けていなば君が名はあれどわが名し惜しも
94
玉くしげ御室(みもろ)の山のさなかづらさ寝ずはつひにありかつましじ

【意味】
〈93〉夜がすっかり開けてお帰りになったら、あなたには浮き名が立っても構わないでしょうが、私の名が噂に立つのは困ります。

〈94〉そういうけれども、お前とこうして寝ずには、どうしてもいられないのだ。

【説明】
 93は、鏡王女が内大臣・藤原鎌足卿に贈った歌。93はそれに答えた歌。藤原鎌足は「大化の改新」の際に中心的な役割を果たした人物です。鏡王女は額田王の姉とされ、天智天皇に愛され、後に藤原鎌足の正妻となり、次代の権力者となった不比等を生みます。

 鏡王女のもとにやってくる鎌足は、暗いうちにではなく、夜が明けてから鏡王女の家を出て行きます。そこを人に見られては自分に噂が立ってしまうので、鏡王女は「吾が名し惜しも」と言ったのです。これに対して鎌足は、「一緒に寝なかったら生きてはいかれないでしょう」と言って応じた、といいます。

 93の「 玉くしげ」は「覆ふ」の枕詞。「くしげ」は女性が化粧道具を入れる、ふたのある箱。「玉くしげ覆ふを易み」は、くしげのふたをするのも開けるのも楽だから、夜が明けるの「明けて」に続く序詞としたもの。94の「玉くしげ御室の山のさなかづら」は「さ寝」に続く序詞で、玉くしげの中身の「み」から御室山の「み」に続けています。御室山は三輪山のこと。「さなかづら」はつる性植物の美男かづら。その名のように「さ寝」つまり共寝をせずにはいられない、と続きます。

95 藤原鎌足の歌

吾はもや安見児(やすみこ)得たり皆人(みなひと)の得がてにすとふ安見児得たり

【意味】
 私は今まさに、美しい安見児を娶(めと)った。世の人々が容易には得られない、美しい安見児を娶ったぞ!

【説明】
 内大臣・藤原鎌足が、采女(うねめ)の安見児を娶ったときに詠んだ歌です。采女というのは、天皇の食事に奉仕した女官のことで、郡の次官以上の者の子女・姉妹で容姿に優れた者が貢物として天皇に奉られました。天皇以外は近づくことができず、臣下との結婚は固く禁じられました。この歌は、鎌足が安身児という采女を我が物にした喜びの歌であり、もちろん天智天皇の許しを得てのことでしょう。男盛りの鎌足の血気がほとばしっているようであります。

96〜98 久米禅師と石川郎女の歌

96
み薦(こも)刈る信濃の真弓(まゆみ)わが引かば貴人(うまひと)さびていなと言はむかも
97
み薦刈る信濃の真弓引かずして強(し)ひざる行事(わざ)を知るとは言はなくに
98
梓弓(あづさゆみ)引かばまにまに依(よ)らめども後の心を知りかてぬかも

【意味】
〈96〉弓を引くように私があなたの気を引いたとしても、あなたは高貴な女らしく、つんとすまして、嫌だとおっしゃるのでしょうね。

〈97〉弓を引くように私の心を引いたとおっしゃいますけど、強く引いても下さらないのに、どうして私が気がつきましょうか。

〈98〉弓を引くように私の心を引かれるのでしたら、あなたのお気持ちにも添いましょう。でも、後々のお心については分かりませんね。

【説明】
 96が久米禅師(くめのぜんじ)の歌。97、98が石川郎女(いしかわのいらつめ)の歌。久米禅師は僧侶と思われますが伝未詳。石川郎女は他でも登場し、同一人なのか他人なのか分かっていません。一説では、それぞれの歌から考えて多く見ると6人の石川郎女が登場しているともいいます。ここでの石川郎女は天智天皇時代、考えられる6人の中では最も古い時代の女性です。「いらつめ」は婦人の愛称で、「郎子(いらつこ)」と一対。

 96の「み薦刈る」は、信濃にかかる枕詞。「薦(こも)」は沼沢地に生えるイネ科の多年草。信濃国に多いので信濃の枕詞になったといわれます。「信濃の真弓」は、信濃が弓を多く生産したための呼称で、「真(ま)}は美称。ここまでの2句は、次の「引く」を導く序詞。97の「梓弓」は、梓の木でつくった丸木の弓で、「引く」にかかる枕詞。

 この後に続く99、100も久米禅師が石川郎女に贈った歌です。禅師の言い寄り方は、相手に対し「うま人さびて」と挑発的にへりくだっている点、遠慮がちなくせに馴れ馴れしいところが、当時の歌としては珍しく、石川郎女の返歌もそれに応じて軽やかな屈折があります。

99・100 久米禅師の歌

99
梓弓(あづさゆみ)弦緒(つらを)取りはけ引く人は後の心を知る人ぞ引く
100
東人(あづまひと)の荷前(のさき)の箱の荷の緒(を)にも妹は心に乗りにけるかも

【意味】
〈99〉弦をつけて梓弓を引く人は、どうなるか判っているからこそ引くのです。そのように、女を誘う男は先々まで相手の心を読み取って誘うのですよ。

〈100〉東国の人が献上品の初穂を入れた箱の荷をしばる紐のように、あなたは私の心にすっかり乗りかかってしまった。もう忘れることなどできません。

【説明】
 96〜98の贈答歌に続き、久米禅師(くめのぜんじ・伝未詳)がが石川郎女(いしかわのいらつめ)に贈った歌。石川郎女は他でも登場しますが、同一人なのか他人なのか分かっていません。一説では、6人の石川郎女が登場しているともいいます。

101・102 大伴宿祢と巨勢郎女の歌

101
玉葛(たまかづら)実ならぬ木にはちはやぶる神ぞつくといふならぬ木ごとに
102
玉葛花のみ咲きてならずあるは誰(た)が恋にあらめ我(あ)は恋ひ思(も)ふを

【意味】
〈101〉玉葛のように実の成らない木には神が取り憑くといいます。実の成らない木ごとに。

〈102〉玉葛のように花だけが咲いて実が成らないというのは、誰の恋のことでしょう。私は恋い慕っていますのに。

【説明】
 101は、「大伴宿祢、巨勢郎女を娉(よば)ふ時」、つまり結婚しようとした時の歌。当時の言い伝えを持ち出して相手の興味を引き、自分になびくように誘いかけています。102は、「巨勢郎女の報(こた)へて贈る歌」。

103・104 天武天皇と藤原夫人の歌

103
わが里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後(のち)
104
わが岡のおかみに言ひて降らしめし雪のくだけし其処(そこ)に散りけむ

【意味】
〈103〉私の里には大雪が降った。あなたの住む大原の古ぼけた里に降るのはもっと後だろう。

〈104〉私の住む岡の竜神に言いつけて降らせた雪のくだけたのが、そちらに降ったのですよ。それを先に降ったなどと得意になっておっしゃったりして・・・。

【説明】
 103は、天武天皇が藤原夫人に賜った歌。104は、藤原夫人がそれにお答えした歌。藤原夫人は、藤原鎌足の娘・五百重娘(いおえのいらつめ)で、大原大刀自(おおはらのおおとじ)とも呼ばれました。天武天皇の后に次ぐ位の「夫人」として仕え、新田部皇子(にいたべのみこ)を生みました。

 大原は今の奈良県高市郡明日香村小原の地。天皇が飛鳥の清御原の宮殿におられて、そこから少し離れた大原の夫人に贈られました。夫人の住む所をわざとふざけて悪く言い、夫人もまた劣らぬユーモアでお答えしています。お互いの親愛の情がほのぼのと感じられる贈答歌でありますね。

105・106 大伯皇女(おおくのひめみこ)が弟の大津皇子を思う歌

105
わが背子を大和へ遣(や)るとさ夜深けて暁露(あかときつゆ)にわが立ち濡れし
106
二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ

【意味】
〈105〉私の弟を大和へ帰さなければと、夜が更けて暁の霜が降りるまで、私は立ち尽くしてその露に濡れていました。

〈106〉二人で行っても通り過ぎるのに難儀するあの秋の山を、今ごろどのようにしてあなたは一人で越えているのだろう。

【説明】
 大津皇子(おおつのみこ)は天武天皇の御子。大柄で容貌も男らしく人望も厚かった人だったといいます。草壁皇子に対抗する皇位継承者とみなされていましたが、686年、天武天皇崩御後1ヶ月もたたないうちに、反逆を謀ったとして処刑されました。享年24歳。草壁の安泰を図ろうとする皇后の思惑がからんでいたともいわれます。

 大伯皇女は大津皇子の同母姉で、14歳から伊勢神宮の斎宮となっていました。大津は事件の直前に密かに大伯を訪ねます。巫女となっていた姉に神意を聞くためだったのかもしれません。姉弟の母である大田皇女はすでに亡くなっていましたから、大津は大伯皇女にとって唯一肉親の情を感じる人間だったろうと思われます。この2首は、訪ねてきた弟を大和へ帰す時に詠まれたもの。何とか帰したくない気持ちが切実に表れており、弟を待ち受ける不吉な運命を予感させるような響きがあります。

107・108 大津皇子と石川郎女の歌

107
あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに
108
(あ)を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを

【意味】
〈107〉あなたを待って立ち続け、山の木々から落ちてくるしずくに濡れてしまいましたよ。

〈108〉私を待って、あなたがお濡れになったというその山のしづくに、私がなれたらいいのに。

【説明】
 107は大津皇子の歌。「あしひきの」は「山」の枕詞。108は石川郎女(いしかわのいらつめ)が答えた歌。石川郎女(伝未詳)は草壁皇子の妻の一人であったらしく、大津皇子が山で郎女を待つというのは、世を憚る関係であることを示しています。郎女は何か事情があったのでしょう、約束の場所には行けなかった・・・。冷たい雫に濡れながら待ち続けた大津をいたわっています。

 この後に続く109・110の歌の配列は、大津皇子の反逆事件を念頭に置くと、石川郎女をめぐる草壁皇子と大津皇子の愛憎ドラマが浮かび上がり、想像を逞しくさせます。

109・110 大津皇子と草壁皇子の歌

109
大船(おほぶね)の津守(つもり)が占(うら)に告(の)らむとはまさしに知りて我がふたり寝し
110
大名児(おほなこ)を彼方(をちかた)野辺(のへ)に刈る草の束(つか)の間(あひだ)も我れ忘れめや

【意味】
〈109〉津守の占いに出て分かるだろうとは前から承知の上で、私たち二人は寝たのだ。

〈110〉大名児よ、お前を、遠くの野辺で刈っている萱の一握り、それほどの短い間も忘れることがあろうか、ありはしない。

【説明】
 大津皇子(おおつのみこ)は天武天皇の御子で、大柄、容貌も男らしく人望も厚かった人物です。草壁皇子(くさかべのみこ)に対抗する皇位継承者とみなされていましたが、686年、天武天皇崩御後1ヶ月もたたないうちに、反逆を謀ったとして処刑されます。享年24歳。草壁の安泰を図ろうとする皇后の思惑がからんでいたともいわれます。

 後継者争いのライバルだった大津と草壁は、恋愛に関しても石川郎女をめぐって複雑な関係にあったようです。石川郎女(伝未詳)は草壁皇子の妻の一人だったといいます。109は、大津皇子と石川郎女の密会が、陰陽師の津守連通の占いで露見したときに、大津皇子がつくった歌。110は、草壁皇子が郎女に贈った歌ですが、郎女が答えた歌は残っていません。郎女は草壁の求愛を拒んだとの見方もあります。「大名児」は郎女の通称。

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111〜113 弓削皇子と額田王の歌

111
いにしへに恋(こ)ふる鳥かも弓絃葉(ゆづるは)の御井(みゐ)の上より鳴き渡り行く
112
(いにしへ)に恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きしわが念(おも)へる如(ごと)
113
み吉野の玉(たま)松が枝(え)ははしきかも君が御言(みこと)を持ちて通はく

【意味】
〈111〉過ぎ去った昔を恋い慕う鳥なのでしょうか。弓絃葉の御井の上を鳴きながら大和の方へ渡っていきます。

〈112〉あなたが「昔を恋い慕う」とおっしゃる鳥は、ホトトギスでしょう、おそらくそのホトトギスが鳴いたのでしょう、私が昔を恋い慕うように。

〈113〉吉野の松の枝の愛しいこと、あなたのお言葉も届けてくれるので。

【説明】
 111は弓削皇子(ゆげのみこ)、112・113は額田王(ぬかたのおおきみ)の歌。弓削皇子は天武天皇の第九皇子。額田王は斉明天皇の時代に活躍がみとめられる代表的な女流歌人。当時、弓削皇子は20代、額田王は60代。
 111は持統天皇の吉野行幸の折に額田王に贈った歌で、112は額田王がそれに答えた歌。。「弓絃葉の御井」は吉野離宮近くにあった水汲み場。113は、弓削皇子が苔の生えた松の枝を折って贈ったのに額田王が答えて詠んだ歌。

114〜116 但馬皇女(たじまのひめみこ)の歌

114
秋の田の穂向(ほむき)の寄れる片寄りに君に寄りなな言痛(こちた)くありとも
115
後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及(し)かむ道の阿廻(くまみ)に標(しめ)(ゆ)へわが背
116
人言(ひとごと)を繁み言痛(こちた)み己(おの)が世に未(いま)だ渡らぬ朝川渡る

【意味】
〈114〉秋の田の実った稲穂が一方に片寄っている。私もそのようにあの人に寄り添いたい、どんなに人の噂がうるさくても。

〈115〉後に残って恋焦がれてばかりいるより、いっそのこと追い慕って行こう。私が無事に追いつけるよう、道の曲がり角に目印をつけておいてください、あなた。

〈116〉人の噂が激しくわずらわしいので、生まれてまだ一度も渡ったことのない朝の川を渡ります。

【説明】
 何れも但馬皇女が穂積皇子を恋い慕ってつくった歌です。但馬皇女は天武天皇の皇女で、穂積皇子も天武天皇の皇子ですが、異母兄。当時は母親が違えば結婚も許されたのです。しかし、但馬皇女はこのとき、同じく異母兄の高市皇子の妻でした。高市皇子は当時の政界第一の実力者でしたから、彼女の恋愛事件は宮廷社会で大きな噂となったようです。

 114は、但馬皇女が夫の高市皇子の宮にいながら、穂積皇子を恋い慕ってつくった歌。「秋の田の穂向の寄れる片寄りに」は「(君に)寄り」を導く序詞。115は、穂積皇子が勅命によって近江の志賀の山寺へ派遣された時に皇女がつくった歌で、116は、穂積皇子との関係が噂になった時につくった歌。115では、皇女は激しい思いを抑えきることができず、都を離れる恋人を追って行こうと歌い、116では、事が露わになった後も、自分から恋の障壁(飛鳥川)を渡って恋人に逢いたいと願っています。

117・118 舎人皇子と舎人娘子の歌

117
丈夫(ますらを)や片恋ひせむと嘆けども鬼のますらをなほ恋ひにけり
118
嘆きつつ大夫の恋ふれこそわが髪結(ゆふかみ)の漬(ひ)ちて濡れけれ

【意味】
〈117〉丈夫(ますらお)たるもの、片思いなどするものかと嘆いても、情けない丈夫だ、やはりどうしても恋しい。

〈118〉嘆き続け、立派なお方が私を恋い焦がれていらっしゃるからこそ、結い上げた私の髪がぐっしょり濡れてほどけてしまったのですね。

【説明】
 117は舎人皇子(とねりのみこ)が舎人娘子(とねりのをとめ)に贈った歌です。「丈夫(ますらお)」はまされる男を語源とする説が有力で、『万葉集』では、たくましく強い男を多く指します。118は舎人娘子が答えた歌。舎人皇子は天武天皇の皇子で、『日本書紀』編纂に携わりました。舎人娘子は伝未詳。

119〜122 弓削皇子(ゆげのみこ)の歌

119
吉野川行く瀬の早みしましくも淀むことなくありこせぬかも
120
吾妹子(わぎもこ)に恋ひつつあらずは秋萩(あきはぎ)の咲きて散りぬる花にあらましを
121
夕さらば潮(しほ)満ち来なむ住吉の浅香(あさか)の浦に玉藻(たまも)刈りてな
122
大船(おほふね)の泊(は)つる泊(とま)りのたゆたひに物思ひ痩(や)せぬ人の児(こ)ゆゑに

【意味】
〈119〉吉野川の早瀬のように、私たちの仲が、ほんのしばらくでも淀んでくれたらいいのに。

〈120〉愛しい女に恋い苦しんでばかりいないで、秋萩がぱっと咲いて散るような恋がしたいものだ。

〈121〉夕方になれば潮が満ちるだろう。住吉の浅香の浦で、今のうちに藻を刈ってしまいたい。

〈122〉大きな船が停泊する港の水のように、心が揺れ動いて痩せてしまった、あの女(ひと)のせいで。

【説明】
 弓削皇子、紀皇女を思う歌4首。弓削皇子は天武天皇の第9皇子。紀皇女は異母姉妹で、石田王の妻だったようです。121は、世間の噂にならないうちに恋人を自分のものにしてしまいたいという気持ちを詠んでいます。

123・125 三方沙弥(みかたのさみ)の歌

123
たけばぬれたかねば長き妹が髪このころ見ぬに掻(か)き入れつらむか
125
(たちばな)の蔭(かげ)踏む道の八衢(やちまた)に物をぞ思ふ妹に逢はずして

【意味】
〈123〉束ねようとすれば解けてしまい、束ねなければ長過ぎるお前の髪は、このころ見ないうちに、誰かが結い上げてしまっただろうか。

〈125〉橘の木陰を行く道が八方に分かれているように、どうしらたよいか思い乱れている。お前に逢えないので。

【説明】
 三方沙弥、園臣生羽(そののおみいくは)の女(むすめ)を娶(めと)りて、幾時(いくだ)も経ねば、病に臥して作る歌。三方沙弥の伝未詳。
 123〜125は、新婚まもなく病気になってしまい、若妻のもとへ妻問いすることができなくなった男と、彼に貞節を誓う女の贈答歌です。当時の藤原京では、橘が街路樹のように道ばたに植えられており、道行く人のために木陰を提供し、また美味な果実を実らせていたといいます。

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各巻の概要

巻第一
 巻第一は、雄略天皇の時代から寧楽(なら)の宮の時代までの歌が収められている。雑歌のみで、万葉集形成の原核となったものが中心。天皇の御代の順に従って配列されている。
 
巻第二
 巻第ニは、仁徳天皇の時代から元正天皇の時代までの相聞・挽歌が収められている。巻第一と揃いの巻と考えられ、巻第一と同様、部立てごとに天皇の御代に従って歌が配列されている。このため勅撰ではないかとする説もある。
 
巻第三
 巻第三は、巻第四とともに、巻一・ニを継ぐ意図で構成されている。拾遺の歌と天平の歌を収め、雑歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の三つの部立となっている。譬喩歌というのは、物にたとえて作者の心情を述べる歌で、あくまで表現技巧上の分類。
 
巻第四
 巻第四は、巻第三とともに、巻一・ニを継ぐ意図で構成されている。天平以前の古い歌をまず掲げ、次いで天平の歌を配列している。私的な歌である相聞歌のみで、天平に入ってからは大伴氏関係の歌が中心となっている。
 
巻第五
 巻第五は、巻第六とともに主に天平の歌を収める雑歌集。とくに大伴旅人と山上憶良の、九州の大宰府在任時代の作を中心として集めた特異な巻になっている。
 
巻第六
 巻第六は、巻第五とともに主に天平の歌を収める雑歌集。巻第五が大伴旅人と山上憶良の、九州の大宰府在任時代の作を中心として集めた巻であるのに対し、巻第六は奈良宮廷をおもな舞台として詠まれた歌が中心となっている。
 
巻第七
 巻第七は、雑歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の三つの部立となっている。おおむね持統朝から聖武朝ごろの歌ながら、柿本人麻呂歌集や古歌集から収録した歌を含んでいることから、作者名や作歌事情等が不明なものが多くなっている。
 
巻第八
 巻第八は、四季に分類された雑歌と相聞歌からなっている。舒明朝〜天平十六年までの歌で、作者群は巻第四とほぼ同じ。
 
巻第九
 巻第九の歌は、おもに『柿本人麻呂歌集』、『高橋虫麻呂歌集』や『古歌集』などから収録され、雄略天皇の時代から天平年間までのもの。雑歌・相聞歌・挽歌の三部立によって構成されている。
 
巻第十
 巻第十は、巻第八と同様の構成、すなわち、四季に分類した歌をそれぞれ雑歌と相聞に分けている。作者や作歌年代は不明で、もとは民謡だったと思われる歌や柿本人麻呂歌集から採られた歌もある。
 
巻第十一
 巻第十一は、『万葉集』目録に「古今相聞往来歌類の上」とあり、巻第十二と姉妹編をなしている。柿本人麻呂歌集や古歌集から採られた歌が多く、もとは民謡だったと思われる歌が大部分で、作者・作歌年代も不明。
 
巻第十ニ
 巻第十ニは、「古今相聞往来歌類の下」の巻で、巻第十二と姉妹編をなしている。柿本人麻呂歌集から採られた歌も多く、民謡的色彩が強く、作者・作歌年代も不明。
 
巻第十三
 巻第十三は、作者および作歌年代の不明な長歌と反歌を集めたもので、部立は雑歌・相聞・問答歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の五つからなっている。
 
巻第十四
 巻第十四は、主として東国諸国で詠まれた作者不明の歌を集めている。国名の明らかなものと不明なものに大別し、更にそれぞれを部立ごとに分類しているが、整然とは統一されていない。
 
巻第十五
 巻第十五は、物語性を帯びた二つの歌群からなる。前半は遣新羅使らの歌、後半は中臣宅守と狭野弟上娘子との相聞贈答の歌が収められている。天平八年から十二年ごろまでの作歌。
 
巻第十六
 巻第十六は、巻第十五までの分類に収めきれなかった歌を集めた付録的な巻。伝説的な歌やこっけいな歌などを集めている。
 
巻第十七〜二十
 巻第十七〜二十は、大伴家持の歌日誌というべきもので、家持の歌を中心に、その他の関係ある歌もあわせて収めている。巻第十七には、天平2年から20年までの歌を、巻第十八には天平20年から天平勝宝2年まで、巻第十九には天平勝宝2年から5年まで、巻第二十には同5年から天平宝字3年までの歌を収めている。
 とくに巻第二十には防人歌を多く載せており、これは、家持の手元に集められてきたものを家持が記録し、取捨選択したものと考えられている。

歌人ピックアップ

天智天皇
 舒明天皇の子で、第38代の天皇(?〜671)。母は斉明天皇。はじめ中大兄皇子と呼ぶ。藤原鎌足と共に大化改新を断行し、近江の大津に遷都、大陸文化の摂取や国内の整備充実に力を注いだ。
 
鏡王女
 額田王の姉という説があるが、確証はない。最初、天智天皇の妃だったが、後に藤原鎌足の正妻となる。鎌足の病気平癒を祈り、山階寺(後の興福寺)を建立。次代の権力者となる藤原不比等を産んだ。「万葉集」には4首の歌が収録されている。
 
天武天皇
 舒明天皇の子で、第40代の天皇(622〜686)。母は斉明天皇で、天智天皇の弟。東宮時代は大海人皇子と称した。天智天皇崩御後、吉野で挙兵して壬申の乱を起こし、近江朝廷の弘文天皇(天智天皇の皇子)を滅ぼし、飛鳥浄御原に遷都、即位した。
 
藤原鎌足
 大化の改新で中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。元は中臣氏の一族で、中臣鎌子を名乗っていたが、後に中臣鎌足に改名。そして臨終に際して藤原姓を賜った。「万葉集」には2首の歌が収録されている。
 
石川郎女
 万葉集中、石川郎女(女郎)との作とされる歌が多く、それぞれ同一人物かどうか古来論議の的となっている。多く見積もると6人の石川郎女が登場するが、(1)天智朝(661〜671)に久米禅師と贈答した人、(2)持統朝(686〜697)に大津皇子、草壁皇子と贈答した人、(3)文武朝(697〜707)に大伴田主、大伴宿奈麻呂と贈答した人、の3人に分ける説が有力。
 
大津皇子
 天武天皇の第三皇子(663〜686)。母は天智(てんじ)天皇の女(むすめ)大田皇女。幼少のころから文武に長じ、天智天皇の寵愛を受けた。672年の壬申の乱に際しては、いち早く近江京を脱出し、父天武天皇と合流した。乱後、太政大臣となったが、皇位継承によって政治的野心を達成しようとする者が皇子のもとに参集し、そのため、686年9月に天武天皇が崩ずると、皇太子草壁皇子に対して謀反を企てた罪で捕らえられ、自邸において死を賜り、妃山辺皇女(天智天皇皇女)も後を追って殉死した。万葉集の詞書によると、皇子の屍はのちに二上山の男岳頂上に移葬された。
 
草壁皇子
 天武天皇の第二皇子。母は持統天皇。壬申の乱に際し、父母と共に東国へ下る。父の即位後に立太子し、父帝が倒れると母后とともに天皇大権を委任される。天武崩御後に主導的役割を果たすが、持統3年(689年)、即位することなく28歳の若さで死去。
 
額田王
 生没年未詳。斉明天皇の時代に活躍がみとめられる代表的な女流歌人。はじめ大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)に召されて、十市皇女(とおちのひめみこ)を生んだが、後に天智天皇に愛され、近江の大津宮に仕えた。