万葉集【巻第九】

 巻第九の歌は、おもに『柿本人麻呂歌集』、『高橋虫麻呂歌集』や『古歌集』などから収録され、雄略天皇の時代から天平年間までのもの。雑歌・相聞歌・挽歌の三部立によって構成されています。
・1664〜1741 ・1742〜1811 →万葉集トップ

1664 雄略天皇の御製歌

夕されば小倉(をぐら)の山に伏(ふ)す鹿の今夜(こよひ)は鳴かず寝(い)ねにけらしも

【意味】
 夕暮れになると小倉の山に伏す鹿は、今夜は鳴かずに寝てしまったようだ。

【説明】
 巻九の冒頭の歌。舒明天皇を作者とする説もあります。「小倉の山」には様々な説があり、一説には桜井市の今井谷あたりといわれています。
 万葉時代の人々は、他の歌を検証すれば、妻を求めて鹿は鳴くと理解していたようです。とすれば、鹿が鳴かないのを歌ったこの歌は、ああ、妻が見つかって共寝をしているんだろう、よかったね、結婚相手が見つかって、という歌になります。

1666 作者未詳歌

朝霧に濡れにし衣干さずしてひとりか君が山道(やまぢ)越ゆらむ

【意味】
 朝霧に濡れた着物も乾かさずに、一人あなたは山道を越えているのでしょうか。

【説明】
 斉明天皇の紀伊国行幸のときの歌とされます。

1668 作者未詳歌

白崎(しらさき)は幸(さき)く在り待て大船に真楫(まかぢ)繁貫(しじぬ)きまたかへり見む

【意味】
 白崎の美しい岬はずっと変わらず待っていてくれ。大船の両舷には立派な楫をいっぱい通して、またやって来るぞ。

【説明】
 「白崎」は今の和歌山県日高郡由良町の岬の先端。

1672・1673 作者未詳歌

1672
黒牛潟(くろうしがた)潮干(しほひ)の浦を紅の玉裳(たまも)(すそ)ひき行くは誰(た)が妻
1673
風莫(かざなし)の浜の白波いたづらにここに寄せ来る見る人なしに

【意味】
〈1672〉潮が引いている黒牛潟を、鮮やかな紅の裳裾姿で行き来している宮廷婦人は、いったい誰の思い人だろう。

〈1673〉風がないといわれる浜、それでもここには白波がむなしく打ち寄せてくる、見る人もいないのに。

【説明】
 1672の黒牛潟は、今の和歌山県海南市にある黒江湾。1673は、701年に持統太上天皇と文武天皇が、紀伊国へ行幸なさったときの歌とされます。

1675 有間皇子を偲ぶ歌

藤白(ふぢしろ)のみ坂を越ゆと白栲(しろたへ)のわが衣手(ころもで)は濡れにけるかも

【意味】
 悲しい事件があった藤白の坂を越えると、私の白い衣は涙に濡れてしまった。

【説明】
 作者未詳歌。藤白の坂は今の和歌山県海南市藤代坂で、謀叛の疑いをかけられた有間皇子が追手によって絞殺された場所です。

1687 『柿本人麻呂歌集』から

白鳥(しらとり)の鷺坂山(さぎさかやま)の松陰(まつかげ)に宿(やど)りて行かな夜も更けゆくを

【意味】
 鷺坂山の松蔭に泊まろう。夜も更けてきたことだから。

【説明】
 「鷺坂山」は、今の京都府城陽市久世にある丘といわれています。

1694・1695 『柿本人麻呂歌集』から

1694
栲領巾(たくひれ)の鷺坂山(さぎさかやま)の白つつじ我れににほはに妹に示さむ
1695
妹が門(かど)(い)り泉川(いづみがは)の常滑(とこなめ)にみ雪残れりいまだ冬かも

【意味】
〈1694〉鷺坂山の白つつじよ、私の衣を白くしてくれたら、それを私の愛しい人に見せようと思います。

〈1695〉妻の家の門を出入りする時に見る、泉川の石にはまだ雪が残っている、まだ冬なんだなあ。

【説明】
 1695の「泉川」は、奈良県を流れる木津川。「妹が門入り出(い)づ」と「泉川(いづみがは)」が掛詞になっています。

1709 『柿本人麻呂歌集』から

御食(みけ)むかふ南淵山(みなぶちやま)の巌(いはほ)には落(ふ)れる斑雪(はだれ)か消え残りたる

【意味】
 南淵山を見ると、先日降った雪だろうか、巌に斑雪が消え残っている。

【説明】
 弓削皇子に献る歌とあります。「御食向ふ」は南淵山にかかる枕詞。南淵山は、蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳から南方に見える山。

1713・1714 作者未詳歌

1713
滝の上の三船の山ゆ秋津べに来鳴きわたるは誰(たれ)呼子鳥(よぶこどり)
1714
落ちたぎち流るる水の磐(いは)に触(ふ)り淀(よど)める淀に月の影見ゆ

【意味】
〈1713〉吉野川の滝の上にそびえる御船山から、秋津野にかけて鳴き渡ってくるのは、誰を呼んでいる呼子鳥なのか。

〈1714〉勢いよくたぎって流れてきた水が、巌石に突き当たり、淵をなしている、そこに月影が映っているよ。

【説明】
 吉野離宮行幸の歌とありますが、作者未詳です。

1715 『柿本人麻呂歌集』から

楽浪(さざなみ)の比良山風(ひらやまかぜ)の海吹けば釣(つり)する海人(あま)の袂(そで)かへる見ゆ

【意味】
 近江の楽浪の比良山を吹き降ろしてくる風で、釣りする漁師の袖が翻っているのが見えるよ。

【説明】
 槐本(えにすのもと)歌一首とあるもので、槐本は柿本の誤写で人麻呂の作だろうとする説があります。

1716 山上憶良の歌

白波の浜松の木の手(た)向けくさ幾代(いくよ)までにか年は経(へ)ぬらむ

【意味】
 白波が寄せる浜の松に結びつけた神への捧げ物は、どれほどの年を経てきたのだろう。

1718 高市黒人(たけちのくろひと)の歌

(あども)ひて漕ぎ行く船は高島の阿渡(あと)の水門(みなと)に泊(は)てにけむかも

【意味】
 連れだって漕いでいった船は、高島の阿渡の港で船やどりをしているんだろうなあ。

【説明】
 高市黒人は柿本人麻呂とほぼ同時代の下級官人ですが、生没年は未詳。「高島」は滋賀県高島郡、「阿渡の湊」は安曇川河口付近の湊。

1736・1737 式部大倭・兵部川原の歌

1736
山高み白木綿花(しらゆふばな)に落ちたぎつ夏身(なつみ)の川門(かはと)見れど飽かぬかも
1737
大滝を過ぎて夏見に近づきて清き川瀬を見るがさやけさ

【意味】
〈1736〉山が高いので、白い木綿でこしらえた花のように、落ちて激する夏見川の景色は、いくら見ても見飽きない。

〈1737〉吉野川の大滝を通り過ぎ、夏見の辺りに近く来て、清らかな川の瀬を見ていると、気が晴れ晴れすることだ。

【説明】
 1736は式部大倭、1737は兵部川原の歌。「夏見川」は吉野山中を流れる川。

1738・1739 高橋虫麻呂の歌

1738
しなが鳥 安房(あは)に継ぎたる 梓弓(あづさゆみ) 周淮(すゑ)の珠名(たまな)は 胸別(むなわけ)の ひろき吾妹(わぎも) 腰細の すがる娘子(をとめ)の その姿(かほ)の 端正(きらきら)しきに 花の如(ごと) 咲(え)みて立てば 玉桙(たまほこ)の 道行く人は 己が行く 道は行かずて 召(よ)ばなくに 門(かど)に至りぬ さし並ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻(おのづま)(か)れて 乞(こ)はなくに 鍵さへ奉(まつ)る 人皆の かく迷(まと)へば 容艶(かほよ)きに よりてそ妹は たはれてありける
1739
金門(かなと)にし人の来立てば夜中にも身はたな知らず出でてそ逢ひける

【意味】
〈1738〉安房に続く周淮に住んでいたという珠名は、胸が大きく、すがる蜂のように腰の締まった娘だった。その姿は輝くばかり、花のように笑って立っていると、道行く男たちは自分の道を行かずに、呼びもしないのに、珠名のところに来てしまう。家続きの隣の男は、前もって自分の妻と別れて、頼みもしないのに家の鍵を珠名に預けた。男という男がみなこのように心を迷わしたので、珠名の容貌はますます艶やかとなり、しなしなと誰彼となく浮かれ耽っていたという。

〈1739〉門口に男がやって来て呼べば、夜中でも、自分の評判などお構いなく出ていって、逢っていたことだ。

【説明】
 高橋虫麻呂(生没年不明)は、藤原宇合(ふじわらのうまかい)が常陸守だった頃に知遇を得、その後も宇合に仕えた下級官人といわれます。奈良に住み、摂津・河内・難波などにも出かけており、自編と推定される高橋虫麻呂歌集の名が万葉集の中に見えます。常陸国の役人もつとめ、『常陸国風土記』の編纂に加わったのも虫麻呂だったようです。
 「周淮」は上総国の郡名。珠名娘子は、その地の伝説の美女でした。一首は、珠名の容貌を、胸が豊かで蜂のようにくびれた腰のグラマラスな美女であったといいます。女性の肉体の豊満さをここまで赤裸々に賛美した表現は『万葉集』中にも例がありません。

1740・1741 高橋虫麻呂の歌

1740
春の日の 霞める時に 墨吉(すみのえ)の 岸に出でゐて 釣船の とをらふ見れば 古(いにしへ)の 事ぞ思ほゆる 水江(みづのえ)の 浦の島子が 堅魚(かつを)釣り 鯛(たひ)釣り矜(ほこ)り 七日まで 家にも来ずて 海界(うなさか)を 過ぎて漕ぎ行くに 海若(わたつみ)の 神の女(をとめ)に たまさかに い漕ぎ向ひ 相とぶらひ こと成りしかば かき結び 常世に至り 海若の 神の宮の 内の重(へ)の妙(たへ)なる殿に 携はり 二人入り居て 老いもせず 死にもせずして 永き世に ありけるものを 世の中の愚人(おろかひと)の 吾妹子(わぎもこ)に 告(の)りて語らく 須臾(しましく)は 家に帰りて 父母に 事も告(かた)らひ 明日のごと われは来なむと 言ひければ 妹が言へらく 常世辺(とこよへ)に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば このくしげ 開くな勤(ゆめ)と そこらくに 堅めし言(こと)を 墨吉に 還り来(きた)りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あやしみと そこに思はく 家ゆ出でて 三歳(みとせ)の間に 垣も無く 家滅(う)せめやと この箱を 開きて見てば もとの如(ごと) 家はあらむと 玉くしげ 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り 反側(こいまろ)び 足ずりしつつ たちまちに 情(こころ)消失(けう)せぬ 若かりし 膚(はだ)も皺(しわ)みぬ 黒かりし 髪も白けぬ ゆなゆなは 気(いき)さへ絶えて 後(のち)つひに 命死にける 水江の 浦の島子が 家地(いへどころ)見ゆ
1741
常世辺(とこよへ)に住むべきものを剣刀(つるぎたち)(な)が心から鈍(おそ)やこの君

【意味】
〈1740〉春の日の、霞がかかっている時に、墨吉の岸に出て腰を下ろし、釣船が波に揺れているのを見ていると、昔のことが思われてくる。水江の浦の島子が、かつお釣りや鯛釣りに夢中になり、何日も家に帰らず、海の境を越えてなお漕ぎ進んでいくと、海の神の姫に偶然出会った。互いに求婚しあい、結婚を決めて約束をし、不老不死の国へ行き、海の神の宮殿の奥にあるすばらしい御殿に、二人で手を取り合って入り、年も取らず、死にもしないで長い間暮らしていた。ところが、愚かな浦の島子が、いとしい妻に告げて、しばらくわが家に帰り、父母に事の次第を打ち明けて、すぐ明日にも戻ってこようと言った、妻は、この国にまたお帰りになって、今のように私に逢うとおっしゃるのでしたら、この櫛笥(くしげ)を絶対に開いてはなりませんと、堅く堅く約束して送り出した。
 浦の島子は墨吉に帰ってきて、我が家を捜したが見つからない、里を捜しても見つからない、そこで思ったのは、家を出て三年しか経っていないのに、垣根も家もなくなるなどということがあろうか、この箱を開いてみたなら、元の通りわが家が現れるだろうと、玉櫛笥を少し明けてみた。すると、白い雲が箱の中から立ちのぼり、不老不死の国へたなびいて流れた。浦の島子は飛び上がって走り回り、叫んでは袖を振り、転げまわって地団太を踏んで嘆き悲しんでいるうち、急に気を失ってしまった。そして、若かった肌も皺だらけとなり、黒かった髪の毛も真っ白になってしまった。その後に息まで絶えて、とうとう死んでしまった。その水江の浦の島子の家があった跡が見える。

〈1741〉不老不死の仙境に住んでいることができたのに、自分の心からとはいえ愚かであるよ、この人は・・・。

【説明】
 誰もが知っている浦島太郎の伝説の最も古いものの一つです。作者は高橋虫麻呂とされますが、異説もあります。奈良時代初期の歌人・虫麻呂には各地の伝説に材をとった作品が多くあり、伝説の歌人として知られます。自編と推定される「高橋虫麻呂歌集」の名が万葉集の中に見えます。

浦島伝説について
 高橋虫麻呂による浦島伝説の歌(1740・1741)には、亀は登場しません。反歌にみられるように、中心となって詠われるのは、約束を破り、不老不死の国に帰れなくなった浦島の愚かさです。
 浦島伝説はさまざまな地域に見られ、最も古いのは「日本書紀」雄略記。そこには、大亀を捕えたところ女になり、妻にして供に蓬莱山に行くとあります。
 また、「丹後国風土記」では、三日三晩、何も釣れなかった浦島が五色の亀を釣り、それが美しい女となったとあります。女は亀比売(かめひめ)という神女で、浦島を海の中の蓬莱山に連れて行きます。楽しく過ごしているうちに里心がつき、家に戻るとすでに300年を過ぎていました。箱を開けても死なない浦島は、亀比売と歌を交わします。
 室町時代の「御伽草子」になって、亀の恩返しのストーリーと竜宮城が現れ、浦島は最後に鶴になるのです。

万葉集トップ 巻第一 巻第二 巻第三 巻第四 巻第五 巻第六 巻第七 巻第八 巻第九 巻第十 巻第十一 巻第十二 巻第十三 巻第十四 巻第十五 巻第十六 巻第十七 巻第十八 巻第十九 巻第二十

このページの先頭へ 次へ


歌人ピックアップ

雄略天皇
 雄略天皇は中国の文献「宋書」「梁書」に記されている「倭王武」に比定され、稲荷山古墳(埼玉県)から出土した鉄剣銘の「ワカタケル」も雄略天皇を指すとされている。武力によって大和王権を拡大した5世紀の大王である。
 また、雄略天皇は気性の激しい暴君だったとの伝承もある。天皇の座に就くため兄や従兄弟を殺したり、気に入った女性は人妻であっても奪い取るといった記事が史書にある。
 
『柿本人麻呂歌集』
 
『万葉集』には題詞に人麻呂作とある歌が80余首あり、それ以外に『人麻呂歌集』から採ったという歌が360余首ある。ただし、それらの中には明らかな別人の作や伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではない。
 
山上憶良 
 660〜733年。大宝元年(701年)遣唐少録として唐に渡り3年ほど滞在、帰国後、伯耆守・東宮侍講などを経て、神亀5年(728年)ごろ筑前守となり下向。帰京後、天平5年(733年)に没した。筑前時代に大伴旅人と親交があり、歌作に力を注いだ。
 
高市黒人
 伝不詳。持統・文武天皇ごろの人で、人麻呂とほぼ同時代の人とみられる。行幸や旅の歌が多く、ことに自然詠をよくし、独自の歌境を開いた。
 
高橋虫麻呂
 生没年不明。奈良時代初期の人。奈良に住み、摂津・河内・難波などにも出かけ、常陸国の役人も務めたらしい。自編と思われる「高橋虫麻呂歌集」の名が万葉集の中に見える。長歌にすぐれ、伝説と旅に取材した歌が多く、特異な伝説歌人といわれる。