万葉集【巻第十一】

 巻第十一は、『万葉集』目録に「古今相聞往来歌類の上」とあり、巻第十二と姉妹編をなしています。柿本人麻呂歌集や古歌集から採られた歌が多く、もとは民謡だったと思われる歌が大部分で、作者・作歌年代も不明です。
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2352 『柿本人麻呂歌集』から

新室(にひむろ)を踏み鎮(しづ)む子し手玉(ただま)鳴らすも玉の如(ごと)照りたる君を内へと白(まを)

【意味】
 新しい家を造る地鎮の祭りの、大勢の乙女らが手飾りの玉を鳴らしているのが聞こえる。あの玉のような立派な男子を、この新しい家に入るようにご案内しろ。

2353 『柿本人麻呂歌集』から

長谷(はつせ)の五百槻(ゆつき)が下(もと)に吾(わ)が隠せる妻 茜(あかね)さし照れる月夜(つくよ)に人見てむかも

【意味】
 長谷の、槻の木の繁った下に隠しておいた妻。月の光が明るい晩に、誰か他の男に見つかったかもしれない。

【説明】
 「長谷(泊瀬)」は、現在の奈良県桜井市初瀬町。「五百槻」はたくさんの枝がある槻(けやき)のこと。

2355・2356 『柿本人麻呂歌集』から

2355
(うつく)しと吾(わ)が念(も)ふ妹は早(はや)も死ねやも生けりとも吾に依(よ)るべしと人の言はなくに
2356
高麗錦(こまにしき)(ひも)の片方(かたへ)ぞ床に落ちにける明日の夜し来なむと言はば取り置きて待たむ

【意味】
〈2355〉愛しく思うあの女は、いっそのこと死ねばいい。生きていても自分に靡き寄る見込みがないのだから。

〈2356〉結んだはずの高麗錦の紐の片方が床に落ちていましたわ。明日の夜、また来て下さるなら取って置きますけど。

【説明】
 2356は、女性から男への軽い脅かしの歌。愛を確かめ合って結んだはずの紐が解けて落ちていた。それも高麗錦の贅沢品。プレイボーイらしい相手にやんわりと証拠品として持っているわと言っているよう。

2357 『柿本人麻呂歌集』から

朝戸出(あさとで)の君が足結(あゆひ)をぬらす露原(つゆはら)早く起き出でつつ吾(われ)も裳裾(もすそ)ぬらさな

【意味】
 朝早くにお帰りになるあなたの足結をぬらす露原よ。私も早く起きてその露原でご一緒に裳の裾をぬらしましょう。

【説明】
 「足結」は、袴の膝下のあたりをくくる紐のこと。古代では、彼氏が彼女の家を訪ねて行って、翌朝に出て行く妻問い婚が一般的でした。別れの朝、一夜を共にした女性が見送る。しかし、戸口までだったら誰にも気づかれないけれど、一緒に外に出てしまうと、皆が気づいてしまう。街は噂でもちきりになってしまう。そこで戸口で見送って、誰にも見られないようにするのですが、やっぱり、少しでも長く一緒にいたい。それで、途中まで見送って、一緒に裾を濡らしましょう、と言っています。

2364 作者未詳歌

玉垂(たまだれ)の小簾(をす)の隙(すけき)に入り通ひ来(こ)ねたらちねの母が問はさば風と申さむ

【意味】
 玉を垂らした簾(すだれ)のすきまからそっと入って通ってきてください。もし母がとがめて尋ねたら、風だと申しましょう。

【説明】
 母親の目をぬすみ、男の訪れを誘う歌。もとより簾の隙間から入れるはずはなく、それを承知の上で不可能なことを言い立てて、男に戯れています。「玉垂の」は「小簾」の枕詞。「たらちねの」は「母」の枕詞。なお、この歌は『古歌集』から採ったとあります。『古歌集』については諸説ありますが、『万葉集』編纂の資料になった歌集で、飛鳥・藤原京の時代の歌を収めたもののようです。

2368 『柿本人麻呂歌集』から

たらちねの母が手放れ斯(か)くばかり為方(すべ)なき事はいまだ為(せ)なくに

【意味】
 物心がつき、母の手を離れてから、これほどどうしようもない思いは未だしたことがありません。

【説明】
 「たらちねの」は「母」の枕詞。年ごろになり、恋煩いのやるせなさを歌ったものですが、男の歌だか女の歌だか分かりません。でも、やはり女の歌とみるほうが素敵でしょう。

2369 『柿本人麻呂歌集』から

人の寝る味寐(うまい)は寝ずて愛(は)しきやし君が目すらを欲りし嘆かむ

【意味】
 人並みにあなたと共寝をすることができない私は、いとおしいあなたの目だけでも見ていたいと、嘆き続けるだけ・・・。

【説明】
 「人の寝る味寐(うまい)は寝ずて」を、「このごろは色々と思い乱れて、人並みに安眠ができず」と解釈する向きもあるようですが・・・。

2391・2394 『柿本人麻呂歌集』から

2391
玉かぎる昨日の夕(ゆふへ)見しものを今日の朝(あした)に恋ふべきものか
2394
朝影(あさかげ)にわが身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去(い)にし子ゆゑに

【意味】
〈2391〉昨日の夜に会ったばかりなのに、もう今朝これほど恋しく思うなんていうことがあるだろうか。

〈2394〉朝の影ぼうしのように私の身は痩せてしまいました。ほのかに見えただけで行ってしまったあの娘のせいで。

【説明】
 「玉かぎる」は「夕」「ほのか」などにかかる枕詞。2394は、これと全く同じ歌が巻第十二にもあります(3085)。

2395・2396 『柿本人麻呂歌集』から

1833
梅の花降り覆(おほ)ふ雪を包み持ち君に見せむと取れば消(け)につつ
1834
梅の花咲き散り過ぎぬしかすがに白雪庭に降りしきりつつ
1835
今さらに雪降らめやもかぎろひの燃ゆる春へとなりにしものを

【意味】
〈2395〉長い道のりを逢いに行ったのに、逢うことのできないあの娘のせいで、天の霜露にすっかり濡れてしまった。

〈2396〉偶然に出逢ったあの人を、どんなきっかけをつくって、また一目お逢いできるでしょうか。

【説明】
 2395の「ひさかたの」は「天」にかかる枕詞。

2399・2401 『柿本人麻呂歌集』から

2399
(あか)らひく膚(はだ)に触れずて寝たれども心を異(け)しく我が念(も)はなくに
2401
(こ)ひ死なば恋ひも死ねとや我妹子(わぎもこ)が吾家(わぎへ)の門(かど)を過ぎて行くらむ

【意味】
〈2399〉今夜はお前の美しい肌にも触れずに独寝(ひとりね)したが、それでも決して心変わりをするようなことはないからね。

〈2401〉恋死(こいじに)をするなら勝手にどうぞというつもりで、おれの家の門を通り過ぎていくのか、あの恋しい女は。

2408・2413 『柿本人麻呂歌集』から

2408
眉根(まよね)(か)き鼻(はな)ひ紐(ひも)解け待つらむかいつかも見むと思へる我(わ)れを
2413
(ゆゑ)もなく我が下紐(したびも)を解けしめて人にな知らせ直(ただ)に逢ふまでに

【意味】
〈2408〉眉を掻き、くしゃみをし、紐も解けて待っているだろうか、いつ逢えるのかと苦しんでいる私を。

〈2413〉わけもなく私の下紐を解かせて、二人のことを人に知らせないでください。じかに逢うまで。

2414・2416・2417 『柿本人麻呂歌集』から

2414
(こ)ふること慰めかねて出(い)で行けば山も川をも知らず来にけり
2416
ちはやぶる神の持たせる命をば誰(た)がためにかも長く欲りせむ
2417
石上(いそのかみ)布留(ふる)の神杉(かむすぎ)神さびて恋をもわれは更にするかも

【意味】
〈2414〉恋の切なさを慰めかね、やりきれなくて出てきたので、山をも川をも夢中で来てしまった。

〈2416〉神様があたえてくださった命を、誰のために長らえようか、それはあなたのため。

〈2417〉石上の布留の神杉のように、年齢を重ねてはいても、また私は恋をするかもしれない。

【説明】
 2416の「ちはやぶる」は、「神」にかかる枕詞。2417の「石上」は、今の奈良県天理市の石上神社あたり。

2421・2425 『柿本人麻呂歌集』から

2421
来る道は岩(いは)踏む山はなくもがも我が待つ君が馬つまづくに
2425
山科(やましな)の木幡(こはた)の山を馬はあれど歩(かち)ゆ吾(わ)が来(こ)し汝(な)を念(おも)ひかね

【意味】
〈2421〉あの人がやって来る道は、石を踏む険しい山がなければよい。私が待つあの人の馬がつまずくから。

〈2425〉山科の木幡の山道を徒歩でやって来た。おれは馬を持ってはいるが、お前を思う思いに堪えかねて歩いてきたんだ。

【説明】
 2425の「山科の木幡」は、京都府宇治市木幡。馬で来るほうが早く着けるのだが、馬の用意をするのもまどろっこしくて、すぐに歩いてきた、と言っています。

2436 『柿本人麻呂歌集』から

大船(おほふね)の香取(かとり)の海に碇(いかり)おろし如何(いか)なる人か物念(ものおも)はざらむ

【意味】
 私はこんなに恋に苦しんでいるが、世の中のどんな人でも恋に苦しまないものはあるまい。

【説明】
 「大船の香取の海に碇おろし」は、「いかり」から「いかなる」に続く序詞。「香取の海」は琵琶湖の香取の浦。

2441・2449 『柿本人麻呂歌集』から

2441
(こも)り沼(ぬ)の下(した)ゆ恋ふればすべをなみ妹が名(な)(の)りつ忌(い)むべきものを
2449
香具山に雲居(くもゐ)たなびきおほほしく相(あひ)見し子らを後(のち)恋ひむかも

【意味】
〈2441〉ひそかに恋い慕っていると、どうしようもなくて、あの娘の名前を口にしてしまった。いけないことなのに。

〈2449〉香具山にかかる雲のようにおぼろげに見たあの娘を、後に恋しく思うことだろう。

【説明】
 2441の「隠れ沼」は、水の淀んだ沼。

2452・2453 『柿本人麻呂歌集』から

2452
雲だにもしるくし立たば慰めて見つつも居らむ直に逢ふまでに
2453
春柳(はるやなぎ)葛城山(かづらきやま)に立つ雲の立ちても居ても妹をしぞ思ふ

【意味】
〈2452〉せめて雲だけでもはっきり立ったら、それを慰めに見てもいよう、じかに逢うまで。

〈2453〉春柳をかずらにする葛城山に湧き立つ雲のように、立っても座っても妻のことが思われてならない。

【説明】
 2453の訳で、「かずらにする」とは、柳で輪を作って髪飾りにすること。

2455・2456 『柿本人麻呂歌集』から

2455
我がゆゑに言はれし妹は高山(たかやま)の嶺(みね)の朝霧(あさぎり)過ぎにけむかも
2456
ぬばたまの黒髪山の山菅(やますげ)に小雨零りしきしくしく思ほゆ

【意味】
〈2455〉私のせいで噂になったあの女(ひと)は、まるで高山の嶺の朝霧が消えるように、もうあきらめてしまったのだろうか。

〈2456〉黒髪山の草の上に雨が降りしきるように、あとからあとからひっきりなしに、あの人のことが思われる。

【説明】
 2456の「ぬばたまの」は「黒」にかかる枕詞。「黒髪山」は奈良市黒髪佐保山にある小山。

2461・2465・2467 『柿本人麻呂歌集』から

2461
山の端(は)を追ふ三日月のはつはつに妹をぞ見つる恋(こ)ほしきまでに
2465
我背子(わがせこ)に吾(わ)が恋ひ居(を)れば吾が屋戸の草さへ思ひうらがれにけり
2467
道の辺(へ)の草深百合(くさふかゆり)の後(のち)もと言ふ妹が命を我れ知らめやも

【意味】
〈2461〉山の端をなぞるように沈む三日月のように、ほんの少しだけあの娘を見た。それなのに今はこんなに恋しい。

〈2465〉私の夫を恋しく待ち遠しく思っていると、家の庭の草さえも思い悩んで枯れてしまいました。

〈2467〉道端の百合のように、後も、というあの人の命を私が知らないなどということはありません。

2469・2475 『柿本人麻呂歌集』から

2469
山ぢさの白露(しらつゆ)重みうらぶれて心も深く我が恋やまず
2475
我が宿の軒にしだ草 生(お)ひたれど恋忘れ草見れどいまだ生ひず

【意味】
〈2469〉山ぢさが露に濡れて重く垂れ下がっているように、しょんぼりうなだれて、ひたすら恋い続ける私です。

〈2475〉我が家の屋根には、しだ草なら生えているけれど、恋忘れ草はまだ生えていません。

【説明】
 2469の「山ぢさ」はエゴノキ。2475は、恋の苦しさが忘れられるという草(萱草)が生えていたなら、気持ちが楽になるのに・・・と歌われています。「しだ草」はシダ植物の一種とされます。

2480・2495 『柿本人麻呂歌集』から

2480
道の辺(へ)のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我(あ)が恋妻(こひづま)
2495
垂乳根(たらちね)の母が養(か)ふ蚕の繭隠(まよごも)りこもれる妹(いも)を見むよしもがも

【意味】
〈2480〉道ばたにある彼岸花のように、とても目立つ花。そのようにみんなに知られてしまった、私の恋妻は。

〈2495〉母が飼っている蚕がまゆの中に隠(こも)るように、家に隠って外に出てこない恋しい娘を見たいものだ。

【説明】
 「いちし(壱師)の花」には諸説ありますが、彼岸花とするのが有力です。彼岸花の別名「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」は”赤い花””天上の華”という梵語に由来します。

2504・2513 『柿本人麻呂歌集』から

2504
解き衣(きぬ)の恋ひ乱れつつ浮き真砂(まなご)生きても我(あ)れはありわたるかも
2513
鳴る神の少し響(とよ)みてさし曇り雨も降らぬか君を留(とど)めむ

【意味】
〈2504〉解いた衣が乱れるように、恋に乱れ、水に浮く浮き真砂(まなご)のように、私ははかなく生きています。

〈2513〉雷が少し鳴って、空がかき曇り、雨でも降らないかしら。あなたを引き留めるのに。

【説明】
 2504の「浮き真砂」は、水に浮くような細かい砂と解されていますが、江戸時代に万葉集ほかの古典を深く研究した賀茂真淵は、これを「萍(うきくさ)の誤りか」と指摘しています。

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関連知識

大宝律令と年号
 文武天皇の701年、大宝律令がつくられ、新しい国づくりの基本が決まった。律令の「律」は今でいう刑法、「令」は行政法などに当たる。律は唐のものに近いが令は日本の実状に合わせた内容となっている。
 東アジア諸国の中で、中国に学びながら独自の律令を編み出した国は日本のほかにはない。新羅は、唐の律令の中から自国に役立つ内容だけを選択して用い、みずからの律令は作らなかった。わが国では、日本という国号が定まったこの時期以降、年号が連続して使用されるようになった。一方、新羅は唐の年号の使用を強制された。
 日本における律令と年号の独自性は、わが国が中国に服属することを拒否し、自立した国家として歩もうとした意思を内外に示すものであった。
 とはいうものの、唐の律令は内容の深さと分析の精緻さにおいて、古代史上、他に例を見ないほどにすぐれた法律の体系だった。日本の官僚たちはこれに圧倒されながらも、徹底してここから学んだ。
 718年には、藤原不比等が、大宝律令にわずかな修正を加えた養老律令を編んだ。
 
平城京
 710年、天智天皇の皇女である元明女帝は、藤原京の西端の下ツ道を真北に延長し、それを軸に平城京を建設した。東西4.3km、南北4.8kmの大きさで、南北を走る朱雀大路は72mもの幅があった。
 ただ、現地の地形にかまわず藤原京を平行移動させたので、西の京(右京)は山がちとなり住みづらかった。そこで外京(げきょう)とよばれる東側に張り出した区域を作った。東大寺や興福寺、そして現在の奈良市の中心ははここにある。
 この時代は、仏教の力によって国を守る「鎮護国家」思想が盛んで、聖武天皇は国ごとに国分寺・国分尼寺を建て、東大寺に大仏を作って仏の加護を祈った。また、唐から来日した鑑真に戒壇を作らせて僧侶を厳しく統制した。
 
律令政治の展開
 律令国家は、大化の改新から50余年にわたる経験をいかし、公地公民の制度を実現しようとした。全国の耕地が区分けされ、6年ごとに戸籍が改められ、6歳以上の男女に口分田が与えられた。口分田は一生の間、耕作を認められたが、売買は禁止され、死後は国家に返す決まりになっていた(班田収授法)。
 口分田を支給された公民は、租・調・庸という税を納めさせられた。税の内容はかなり厳しかったが、多数の農民に一様に田地を分け与え、豪族の任意とされていたまちまちの税額を全国的に一律に定めたことは、国民にとって公正の前進を意味していた。
 ただし、公民(良民)と賤民との区別があり、人口の1割弱だった賤民は差別されていた。とくに賤民のうち奴婢(ぬひ)とよばれる人々は、所有者の財産として扱われた。
 
 政治については、中央の役人が国司として地方に派遣され、そのもとで地方の豪族が郡司として起用された。中央と地方を結ぶ主要道路には駅が設けられ、役人が乗り継ぐ馬が用意された。
 奈良時代の日本の人口は約600万人、平城京の人口は約10万人、官僚が約1万人いて、うち貴族は200人ほどだった。
 
 聖武天皇の治世(724〜749年)になると、疫病や天災が頻繁に起こり、土地を離れ逃亡する農民も増えた。朝廷は、開墾を奨励し、それまで国の統治が及ばなかった未墾地も規制するために、743年、墾田永年私財法を出して、新しく開墾した土地の私有を認めた。この法律は人々の開墾への意欲をかきたて、水田の拡大につながった。
 しかし、有力な貴族や寺院、地方豪族などが逃亡農民などを使って私有地を拡大したため、班田収授法はしだいに厳格には行われなくなった。