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尿前の関

 南部道(なんぶみち)(はる)かにみやりて、岩手(いはで)の里に泊(とま)る。小黒崎(をぐろさき)みづの小島(をじま)を過ぎて、鳴子(なるご)の湯より尿前(しとまへ)の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。この路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸(やうや)うとして関をこす。大山(おほやま)をのぼつて日既に暮れければ、封人(ほうじん)の家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留(とうりう)す。

  (のみ)(しらみ) 馬の尿(しと)する 枕もと

 あるじのいふ、これより出羽の国に大山を隔てて、道さだかならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばといひて人を頼み侍れば、究竟(くつきやう)の若者(わかもの)反脇差(そりわきざし)をよこたへ、樫(かし)の杖を携へて、我々が先に立ちて行く。「けふこそ必ずあやふきめにもあふべき日なれ」と辛(から)き思ひをなして後について行く。あるじのいふにたがはず、高山森々として一鳥(いつてう)声きかず、木の下闇茂りあひて夜行くがごとし。雲端(うんたん)に土ふる心地して、篠(しの)の中踏み分け踏み分け、水をわたり岩に躓(つまづ)きて、肌につめたき汗を流して、最上(もがみ)の庄に出づ。かの案内せし男(をのこ)のいふやう、「この道必ず不用(ぶよう)の事あり。恙(つつが)なうおくりまゐらせて仕合はせしたり」とよろこびてわかれぬ。あとに聞きてさへ胸とどろくのみなり。

【現代語訳】
 南部へ続く道をはるか遠くに眺めやって、岩手山の里に泊まった。小黒崎や美豆(みず)の小島を通り過ぎ、鳴子温泉から尿前の関にかかって、出羽の国に越えようとした。この道は旅人もまれな所なので、関所の番人に怪しまれて、やっとのことで越えることができた。大きな山を登っていくうち日が暮れてしまったので、国境の番人の家を見つけ、宿を頼んだ。それから三日間も風雨が荒れて、何もない山中に滞在した。

<のみやしらみにせめられて、その上に枕元で馬が小便する音まで聞こえてくる。何ともわびしい旅の宿だ。>

 主人が言うには、ここから出羽の国に向かうには大きな山があり道もはっきりしていないから、道案内を頼んで越えるのがよいという。それならばと人を頼んだところ、屈強な若者が腰に反脇差を横たえ、樫の杖を手にして、我々を先導する。「今日こそ、きっと危ない目にあう日に違いない」と、びくびくしながら若者の後についていった。主人が言ったとおり、山は高く、木々が生い茂り、鳥の声一つ聞こえず、木の下まで枝葉が茂りあい、まるで夜道を行くようであった。「雲端に土ふる(風に巻き上げられた土が雲の切れ端から降ってくる)」という詩句そのものの心地がして、小笹を踏み分け踏み分け、流れを渡り、岩につまづき、肌には冷や汗を流しながら、ようやく最上の庄に出た。あの案内してくれた男が言うには、「この道ではいつも必ずよくないことが起きます。しかし、今日は無事にお送りすることができて幸いでした」と喜んで帰っていった。後から聞いただけでも、胸がどきどきばかりであった。

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尾花沢

 尾花沢(をばなざは)にて清風(せいふう)といふ者を尋ぬ。かれは富めるものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情(なさけ)をも知りたれば、日ごろとどめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。

涼しさを わが宿にして ねまるなり
這ひ出でよ かひやが下の ひきの声
まゆはきを 俤にして 紅粉(べに)の花
蚕飼(こがひ)する 人は古代の すがたかな
  曾良

【現代語訳】
 尾花沢で清風という者を尋ねた。彼は裕福な人だが、心は卑しくない。都にも時々来ていて、それだけに旅する者の気持ちを知っているので、私たちを何日も引きとどめて、長い道中をねぎらってくれた。

<涼しい風が吹き通る部屋でさわやかなもてなしを受け、まるでわが家のようにのんびりと座っていることだ。>
<飼屋の床下で鳴いているひきがえるよ、そんな所にいないで、ここに這い出してきたらどうだ。>
<あの眉掃きのかたちを思い起こさせるように、紅粉の花がやさしく咲いている。>
<蚕飼をしている人の姿は、大昔の人々もこんなであったろうとしのばれることだ。>(曾良)

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立石寺

 山形領に立石寺(りふしやくじ)といふ山寺あり。慈覚(じかく)大師の開基(かいき)にして、殊に清閑の地なり。一見すべきよし、人々のすすむるによつて、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。麓の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。岩に巌(いはほ)を重ねて山とし、松柏(しやうはく)年ふり、土石老いて苔(こけ)滑かに、岩上の院々とびらを閉ぢて物の音聞えず。岸をめぐり、岩を這ひて仏閣を拝し、佳景(かけい)寂寞(じやくまく)として心すみ行くのみおぼゆ。

  閑(しづ)かさや 岩にしみ入る 蝉の声

【現代語訳】
 山形の領内に立石寺という山寺がある。慈覚大師が開かれた寺で、とても清らかで静かな所だ。一度行って見るべきだと人々が勧めるので、尾花沢から引き返したが、その間、七里ばかりある。着いたら、日はまだ暮れていない。まずは麓の宿坊で宿を借りておいて、山上の堂にのぼる。岩の上に巌が重なり合って山となり、松や檜(ひのき)は樹齢を経て、土や石も長い年月の間に滑らかな苔におおわれ、岩上に建てられたお堂はみな扉を閉ざして、物音一つ聞こえない。崖を回り、岩を這って仏堂に詣でたが、周りのすばらしい景色は静寂に包まれ、心が澄みとおっていくばかりである。で通り過ぎてしまったが、箕輪・笠島の地名も、この五月雨の季節にふさわしく思われ、詠んだ句。

<山奥の寺の境内は、ひっそりとしずまりかえっている。せみの声がきこえているが、それすらも岩はだに吸い込まれていくようで、なおいっそう辺りのしずけさを際立たせている。>

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最上川

 最上川はみちのくより出でて、山形を水上(みなかみ)とす。ごてん・はやぶさなどといふおそろしき難所あり。板敷山(いたじきやま)の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。これに稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々(ひまひま)に落ちて、仙人堂岸に臨みて立つ。水みなぎつて舟あやふし。

  五月雨(さみだれ)を あつめて早し 最上川

【現代語訳】
 最上川は、みちのくから流れ出て、山形が上流である。碁点・隼などという恐ろしい難所がある。川は板敷山の北側を流れ、最後には酒田の海に注いでいる。川の両岸には山が覆いかぶさるように迫り、木々が茂っている中を船で下る。この船に稲を積んだのを「稲舟」というようだ。白糸の滝は青葉の間々に見えながら流れ落ちており、仙人堂は川岸に面して立っている。川の水はみなぎり、舟は今にもひっくり返りそうだ。

<あちらこちらに流れる五月雨の水を集め、最上川はいよいよ勢いよく流れていく。>

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羽黒山

 六月三日羽黒山に登る。図司(づし)左吉といふ者を尋ねて、別当代(べつたうだい)会覚阿闍梨(えがくあじやり)に謁(えつ)す。南谷の別院に舎(やどり)して、憐愍(れんみん)の情こまやかにあるじせらる。
 四日、本坊において俳諧興行。

  有難や 雪をかをらす 南谷

 五日、権現に詣づ。当山 開闢(かいびやく)能除大師(のうぢよだいし)はいづれの代の人といふ事をしらず。延喜式に羽州里山の神社とあり。書写、黒の字を里山となせるにや。羽州黒山を中略して羽黒山といふにや。出羽といへるは、鳥の毛羽(もうう)をこの国の貢ぎに献(たてまつ)ると風土記に侍るとやらん。月山(ぐわつさん)・湯殿を合はせて三山とす。当寺 武江(ぶかう)東叡(とうえい)に属して、天台 止観(しくわん)の月明らかに、円頓融通(ゑんどんゆづう)の法(のり)の灯かかげそひて、僧坊棟をならべ、修験(しゆげん)行法を励まし、霊山霊地の験効(げんかう)、人貴びかつ恐る。繁栄 長(とこしな)へにして、めでたき御山と謂(い)つつべし。

【現代語訳】
 六月三日、羽黒山に登る。図司左吉という者を訪ねて、その案内で別当代の会覚阿闍梨にお目にかかった。私たちは南谷の別院に泊めてもらい、思いやり深くこまやかなもてなしを受けた。
 四日、本坊で俳諧が催された。

<南谷の残雪を薫らすばかりに夏の風が吹き渡っている。さすがに清浄な霊地で、ありがたいことだ。>

 五日、羽黒権現に参詣する。この山の開祖の能除大師は、いつの時代の人かは分からない。また、延喜式には羽州里山の神社とある。これは書き写す人が、黒の字を誤って里山としたのだろうか。また羽州黒山を中略して羽黒山というのだろうか。この地方を出羽というのは、鳥の羽毛を国の貢物として朝廷に献上したからだと、風土記に書いてあるとか。この山と月山・湯殿山を合わせて、出羽三山と称している。この寺は、武蔵の国江戸の東叡山寛永寺に属し、天台宗の止観の教義が月のように明らかに行われ、円頓融通の仏法のともしびも輝きを加えて、僧坊の棟をつらね、修験者たちが修行を励ましており、この霊山霊地のあらたかなご利益を、人々は貴び、また恐れている。この繁栄は永遠であり、まことにすばらしいお山というべきである。

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月山・湯殿

 八日、月山(ぐわつさん)にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身に引きかけ、宝冠に頭(かしら)を包み、強力(がうりき)といふものにみちびかれて雲霧(うんむ)山気(さんき)の中に氷雪を踏んでのぼる事八里、更に日月(じつげつ)行道の雲関(うんくわん)に入るかとあやしまれ、息絶え身こごえて、頂上に至れば、日没して月あらはる。笹をしき、篠(しの)を枕として、臥して明くるを待つ。日出でて雲消ゆれば湯殿に下る。

 谷の傍(かたはら)に鍛冶小屋といふあり。この国の鍛冶、霊水を選びてここに潔斎(けつさい)して剣(つるぎ)をうち、終(つひ)に月山と銘(めい)を切つて世に賞せらる。かの竜泉(りようせん)に剣を淬(にら)ぐとかや。干(かん)将・莫耶(ばくや)のむかしをしたふ。道に堪能(かんのう)の執(しふ)あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積む雪の下に埋もれて、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅(ばい)花ここにかをるがごとし。行尊僧正の歌のあはれもここに思ひ出でて、なほまさりて覚ゆ。惣じてこの山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。よつて筆をとどめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨(あじやり)のもとめによつて、三山順礼の句々短冊に書く。

涼しさや ほの三日月の 羽黒山
雲の峯 幾つ崩れて 月の山
語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもと)かな
湯殿山 銭(ぜに)ふむ道の 涙かな  
曾良

【現代語訳】
 八日、月山に登る。木綿注連(ゆうしめ)を身にかけ、宝冠に頭を包み、強力という者に道案内されて、雲や霧がただよう山の大気の中を、氷雪を踏んで登ること八里、いよいよ日や月の通路である雲の関所に入るのではと疑われるほどで、息が絶え、身もこごえて頂上に達すると、日は没して月が現れた。笹を敷き、篠竹を枕にして横になり、夜が明けるのを待った。朝日が登り、雲も消えたので、湯殿に下った。

 谷のそばに鍛冶小屋というのがある。この国の刀鍛冶が霊水を選んで、ここで身や心を清めて刀を鍛え、ついに月山と銘を刻んで世に称せられた。中国ではあの龍泉で剣を鍛えるといわれるとか。また、干将と妻の莫耶の昔を慕う。一道に秀でた者の執念が並々でないことが知られる。岩に腰を下ろしてしばらく休んでいると、三尺ほどの桜の木のつぼみが半分くらい開いているのが目にとまった。降り積もる雪の下に埋もれていても、こうして春を忘れずに咲こうとする遅桜の花の心はけなげである。禅にいうところの炎天の梅花が目の前で薫っているようである。行尊僧正の歌の趣きもここで思い出されて、この桜の花がいっそうあわれ深く感じられる。だいたい、この湯殿山中にかかわるあれこれのことは、修行者のおきてとして他に話すことを禁じている。よって、筆を置いてこれ以上は書かないことにする。宿坊に帰ると、会覚阿闍梨の求めに応じて、三山を巡礼の句々を短冊に書いた。

<ああ、涼しい。ほのかな三日月が出ている羽黒山には、心もすがすがしく清められる。>
<夏空の雲の峰が、いったい幾つ崩れて、夜の月山になるのだろう。>
<この湯殿の神秘は人に語られないが、それだけに有難さが感じられ、袂を涙で濡らすばかりだ。>
<湯殿山の参道に賽銭が散らばっている。銭を踏んで参拝するとは有難く涙がこぼれる。> 曾良
 
(注)木綿注連・・・白布かこよりで編んだ紐を輪にして首にかけるもの。
(注)宝冠・・・白い木綿を頭巾のようにして頭に巻いたもの。
(注)干将・莫耶・・・中国春秋時代の刀鍛冶夫婦。呉王の命により二本の名刀を作り、「干将」「莫耶」と名づけて献上したという故事。

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象潟

 江山水陸の風光、数を尽して、今 象潟(きさかた)に方寸(はうすん)を責(せ)む。酒田の湊より東北の方、山を越え磯を伝ひ、いさごをふみて、その際十里、日影ややかたぶくころ、汐風 真砂(まさご)を吹き上げ、雨 朦朧(もうろう)として鳥海の山かくる。闇中(あんちゆう)に模索して、雨もまた奇なりとせば、雨後の晴色(せいしよく)また頼もしきと、蜑(あま)の苫屋(とまや)に膝をいれて雨の晴るるを待つ。

 その朝(あした)、天よくはれて、朝日はなやかにさし出づるほどに、象潟に舟をうかぶ。先づ能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上にこぐ」とよまれし桜の老木(おいき)、西行法師の記念(かたみ)をのこす。江上に御陵(みささぎ)あり、神巧后宮(しんぐうこうぐう)の御墓といふ。寺を干満珠寺(かんまんじゆじ)といふ。この処に行幸ありし事いまだ聞かず。いかなる事にや。この寺の方丈に坐して簾(すだれ)を捲(ま)けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海天をささへ、その影うつりて江にあり。西はむやむやの関 路(みち)をかぎり、東に堤を築きて秋田にかよふ道遥かに、海北にかまへて浪うち入(い)るる所を汐ごしといふ。江の縦横一里ばかり、俤(おもかげ)松島にかよひてまた異なり。松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、地勢(ちせい)魂をなやますに似たり。

象潟や 雨に西施(せいし)が ねぶの花
汐越や 鶴はぎぬれて 海涼し

      祭礼
象潟や 料理何くふ 神祭  曾良
蜑の家や 戸板を敷きて 夕涼み
  みのの国の商人 低耳
 岩上にみさごの巣をみる
波こえぬ 契ありてや みさごの巣  曾良

【現代語訳】
 川や山、海や陸の美しい風景を数限りなく見てきて、今は象潟へと心がせきたてられる。酒田の港から東北の方へ、山を越え海辺を伝い、砂路を歩いて、その間十里、日差しがようやく西に傾くころに着いた。潮風が砂を吹き上げ、雨でぼうっとけむり、鳥海山も隠れてしまった。暗い中を手探りするようで、雨もまた風変わりでおもしろいと思えば、雨上がりの晴れた景色も期待が大きいと、漁師の苫ぶきの小屋に入り込んで、雨が晴れるのを待った。

 その翌朝、空はよく晴れて、朝日がきらきらとさし昇るるころに、象潟に舟を浮かべた。まず能因島に舟を寄せて、能因法師が三年間しずかに住んでいた跡を訪ね、その向こう岸に上がると、「花の上を漕ぐ」と歌に詠まれた桜の老木があり、今もなお西行法師の記念を残している。入江のほとりに御陵があり、神功皇后のお墓だという。この寺を干満珠寺という。しかし、皇后がこの地に御幸されたとは聞いたことがない。どうしたわけだろう。この寺の部屋に座って、簾を上げて眺めると、風景は一望に見渡され、南には鳥海山が天を支え、その山影が入江の水面にくっきりと映っている。西にはむやむやの関が道をさえぎり、東には堤を築いて秋田に通じる道が遥かに伸び、北には日本海がどっかりとひかえ、その波が打ち寄せる所を汐越と呼んでいる。入江の縦横は一里ばかりで、その姿は松島に似ているようで、また異なった感じである。松島は明るく笑っているようであり、象潟は何か恨んでいるようである。寂しさに悲しみが加わって、土地のようすは、美人が心を悩ましているような風情がある。

<雨にけむる象潟にねむの花が咲いている。それはまるで薄幸の美女・西施が悩ましく目を閉じているかのようだ。>
<汐越に下り立った鶴の足元に、波が寄せて足を濡らしている。いかにも涼しげな海の光景である。>
<象潟は折りしも熊野権現のお祭だ。こんな海辺の田舎ではどんな料理を食べるのだろう。>
<漁師の家々では、夕方になると雨戸を持ち出し、それに腰を下ろして夕涼みをする。>
 岩上にみさごの巣があるのを見て、
<波も越えられないほどに、磐石な契りを交わして岩上につくったのであろうか、あのみさごの巣は。>

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越後路

 酒田の名残が惜しくて日数が重なったが、いよいよ北陸道の雲を望む。前途遥かという思いが胸を痛ませ、加賀の国府までは百三十里だと聞く。鼠の関を越えると、越後の地に気持ちも新たに歩を進め、越中の国の市振の関に着いた。この間九日は、暑さと湿気にたたられて気分がすぐれず、病も起こって、道中の事を記さないでしまった。

  文月や 六日も常の 夜には似ず
  荒海や 佐渡によこたふ 天河(あまのがは)

【現代語訳】
 酒田の名残が惜しくて日数が重なったが、いよいよ北陸道の雲を望む。前途遥かという思いが胸を痛ませ、加賀の国府までは百三十里だと聞く。鼠の関を越えると、越後の地に気持ちも新たに歩を進め、越中の国の市振の関に着いた。この間九日は、暑さと湿気にたたられて気分がすぐれず、病も起こって、道中の事を記さないでしまった。

<七月、明日は牽牛と織女が逢う七夕だと思うと、まだ六日なのにいつもの夜とは違う趣きがする。>
<荒れ狂う日本海の荒波の向こうには佐渡ケ島がある。空を見上げると、白く美しい天の川が、佐渡の方までのびて横たわっていて、とても雄大だ。>

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市振の関

 今日は親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなどいふ北国一の難所を越えてつかれ侍(はべ)れば、枕引きよせて寝たるに、一間(ひとま)隔てて面(おもて)の方(かた)に、若き女の声二人ばかりときこゆ。年老いたるをのこの声も交(まじ)りて物語するをきけば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、この関までをのこの送りて、あすは故郷にかへす文(ふみ)したためて、はかなき言伝(ことづて)などしやるなり。白浪(しらなみ)のよする汀(なぎさ)に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契り、日々の業因(ごふいん)いかにつたなしと、物いふを聞く聞く寝入りて、あした旅立つに、我々にむかひて、「行方しらぬ旅路のうさ、あまり覚つかなう悲しく侍れば見えがくれにも御跡をしたひ侍らん。衣の上の御情(おんなさけ)に、大慈(だいじ)のめぐみをたれて結縁(けちえん)せさせ給へ」と涙を落す。「不便の事には侍れども、我々は所々にてとどまる方(かた)おほし。ただ、人の行くにまかせて行くべし。神明の加護かならず恙(つつが)なかるべし」といひ捨てて出でつつ、哀れさしばらくやまざりけらし。

  一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月

 曾良(そら)にかたれば書きとどめ侍る。

【現代語訳】
 今日は、親知らず子知らず・犬もどり・駒返しなどという北国一の難所を越えて疲れていたので、枕を引き寄せて早く寝たところ、ふすま一つ隔てた表のほうの部屋で、若い女の声が二人いるらしく聞こえる。年取った男の声もまじり、話をしているのを聞けば、女は越後の国の新潟という所の遊女だった。伊勢参宮をするというので、この市振の関まで男が送ってきて、明日故郷に返す手紙を書いて、とりとめない伝言を託しているようだ。白波が打ち寄せる海辺の町に遊女として身をさすらえ、漁師の子のようにひどくこの世に落ちぶれて、客とのはかない契りを重ねる日々を過ごす、私たちの前世の業はどれほど悪いものであったのかと、話しているのを聞きながら寝入ってしまった。翌朝、旅立とうとすると、彼女らは我々に向かい、「この先どう行ったらよいか分からない道中の心細さで、とても不安で悲しうございますので、見え隠れにでもあなた様がたのお後について参りたく思います。僧衣をつけていらっしゃるお情けとして、どうか仏様のご慈悲をおめぐみ下さり、仏道への縁を結ばせてくださいませ」と、涙を流して頼む。「お気の毒ではありますが、私たちはあちこちに留まる所が多い。ただ同じ方向へ行くたちの後について行きなさい。伊勢の神様のご加護で、必ず無事にたどり着けるでしょう」と言い捨てて出立したが、可哀想な気持ちがしばらくおさまらなかったことだ。

<同じ屋根の下に、はからずも可憐な遊女と浮世離れした僧衣の旅人とが一夜を明かすことになった。それはあたかも、庭に咲く萩と、はるか離れて照っている月との取り合わせのようだ。>

と詠んで曾良に語れば、曾良はそれを書き留めた。

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金沢

 卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日なり。ここに大坂よりかよふ商人 何処(かしよ)といふ者あり。それが旅宿をともにす。

 一笑といふものは、この道にすける名のほのぼの聞えて、世に知る人も侍りしに、去年(こぞ)の冬、早世(さうせい)したりとて、その兄追善を催すに、

  塚も動け わが泣く声は 秋の風

 ある草庵にいざなはれて
  秋涼し 手ごとにむけや 瓜(うり)茄子(なすび)

 途中吟
  あかあかと 日はつれなくも あきの風

【現代語訳】
 卯の花山や倶利伽羅が谷を越えて、金沢に着いたのは七月十五日(陰暦)のこと。この地に大坂から通ってくる商人の何処という者がいる。その人が泊まっている宿に同宿した。

 一笑という者は、俳諧の道に打ち込んでいるという評判がうすうす聞こえ、世間で知っている人もあったのだが、去年の冬に早世し、その兄が追善供養を催した、その手向けに、

<塚の下に眠る一笑よ、応えておくれ。この秋風の吹きすさぶ音こそが、私の悲痛な慟哭の声なのだよ。>

 ある草庵に招かれたときに、
<涼しい秋の草庵で受けるおもてなしの有難いことよ。さあ、固苦しいことは抜きにして、めいめいの手で瓜や茄子をむいていただきましょう。>

 道すがら詠んだ句、
<秋の日はもうつれなく赤々と傾いている。心寂しい秋風も吹いてきて、とても心細いことよ。>

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小松

 小松といふ所にて、

  しをらしき 名や小松吹く 萩すすき

 この所(ところ)太田(ただ)の神社に詣づ。実盛(さねもり)が甲(かぶと)・錦の切(きれ)あり。往昔(そのかみ)、源氏に属せし時、義朝(よしとも)公より賜(たま)はらせ給ふとかや。げにも平士(ひらざむらひ)のものにあらず。目庇(まびさし)より吹返しまで、菊唐草(きくからくさ)のほりもの金(こがね)をちりばめ、竜頭(たつがしら)に鍬形(くはがた)打ちたり。実盛(さねもり)討死(うちじに)の後、木曾義仲(きそよしなか)願状にそへて、この社(やしろ)にこめられ侍るよし、樋口(ひぐち)の次郎が使(つかひ)せし事ども、まのあたり縁起にみえたり。

  むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす

【現代語訳】
 小松という所で詠んだ句、

<何とも可憐な名の小松。その名のとおり、小さい松に風が吹き渡り、萩やススキをなびかせていることだ。>

 この地にある太田神社に参詣した。ここには斎藤実盛の甲と錦の直垂(ひたたれ)の切れがある。その昔、実盛が源氏に属していた時、義朝公から賜ったものであるとか。いかにも普通の武士が着けるものではない。目庇から吹返しまで菊唐草模様の彫り物があり、それに黄金がちりばめられ、竜頭を飾り、鍬形がつけられている。実盛が討死した後、木曾義仲が祈願状にその形見の品を添えて、この神社に奉納なさったことや、樋口の次郎がその使者となったことなどが、まざまざと見えるように神社の縁起に記されている。

<何とも痛ましいことだ、この甲を戴いて奮戦したであろう実盛だが、今はその下でこおろぎが鳴いている。>

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那谷

 山中の温泉(いでゆ)に行くほど、白根が嶽あとにみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷(なた)と名づけ給ふとなり。那智(なち)・谷汲(たにぐみ)の二字をわかち侍りしとぞ。奇石さまざまに、古松(こしよう)植ゑならべて、萱(かや)ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝(しゆしよう)の土地なり。

  石山の 石より白し 秋の風

【現代語訳】
 山中温泉に行く途中、白根が嶽を後ろに見ながら行く。左手の山沿いには観音堂がある。この寺は、花山法皇が西国三十三か所の巡礼をとげられた後、ここに大慈大悲の像を安置なされて、那谷寺と名づけられたという。那智と谷汲から二字を分けてお取りになったとか。珍しい形の石がさまざまにあり、老松が並べて植えられ、萱ぶきの小さなお堂が岩の上に造られていて、何ともありがたい景色の地である。

<ここの岩山の石は白くさらされて、石山寺の石よりも白く、吹く秋風よりもしろじろとした感じがする。>

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大垣

 露通(ろつう)もこのみなとまで出でむかひて、美濃の国へと伴なふ。駒にたすけられて、大垣の庄に入(い)れば、曾良も伊勢より来り合ひ、越人(ゑつじん)も馬をとばせて、如行(じよかう)が家に入り集まる。前川子(ぜんせんし)・荊口(けいこう)父子、その外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のもとにあふがごとく、かつ悦びかついたはる。旅のものうさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮(せんぐう)をがまんと、また舟にのりて

   (はまぐり)の ふたみにわかれ 行く秋ぞ

【現代語訳】
 露通もこの敦賀の港まで迎えに出て来て、美濃の国へ伴って行く。馬に助けられて大垣の庄へ入ると、(山中温泉で別れていた)曾良も伊勢から合流し、越人も馬を飛ばせてやって来て、如行の家にみんなが集まった。前川子や荊口父子ほか、親しい人々が日夜たずねてきて、まるであの世から生き返った人間にでも会うように、喜んだりいたわったりしてくれる。旅に疲れた気分が抜けきらないうちに、九月六日になったので、伊勢のご遷宮を拝もうと、また舟に乗って、

<蛤の蓋と身が分かれるように、親しい人々と別れて、私は二見を見に行く。季節は秋も終わりかけ、寂しさがいっそうつのる。>

(注)露通、越人、如行、前川子、茨口父子・・・いずれも芭蕉の門人。

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

俳句の歴史

 俳諧というと、すぐに俳句を思い出し、5・7・5でよむ短詩型文学と考えるが、元はそうではなかった。俳諧は、「滑稽」の意であり、その形式は連歌から受け継いだ。

 連歌とは、和歌の上下2句を二人で詠み分けるもので、即興と機智とを重んじる遊戯的なものだった。それが鎌倉時代になると、5・7・5に7・7をつけ、さらにそれに5・7・5をつけるという具合に、50も100も長く続ける連歌が生まれてきた。これを従来の「短連歌」に対し、「長連歌(または鎖連歌)」という。この長連歌は、中世の和歌衰退の気運にかわって、「有心(うしん)連歌」と称して、高度の芸術性と完成度を求めるようになった。

 その一方、連歌本来の諧謔性を求める「無心連歌」は、おもに僧侶・武家・下級貴族の間で行われ、これも同じく長連歌化しつつあった。有心連歌を行った人々を「柿の本衆」というのに対し、無心連歌の人々は「栗の本衆」と称した。

 有心連歌は室町初期に最も盛んになったが、その後は衰退、中世末期になると、次第に無心連歌が民衆の間に広まった。

 安土桃山期になると、山崎宗鑑、荒木田守武の二人が出て、無心連歌をさらに滑稽化して、俳諧の連歌というものを創り出し、既成の和歌的情緒を破壊し、大胆な諧謔精神を発揮した。これが俳諧の文学の本格的な開始となった。 

 貞門がやや格式重視だったのに対し、その枠を破り、まったく自由奔放な俳諧を唱えたのが西山宗因であり、その門流を「談林(だんりん)」と呼ぶ。この派は町人の旺盛な生活力を基盤としたが、次第に無秩序に流れ、品位を失うに至った。

 江戸時代になると、松永貞徳が出て、俳諧を用語上から連歌と区別し、俳諧とは俳言(はいごん)をもってよむ連歌なりと定義、その法則を定めた。彼の門流を「貞門(ていもん)」と呼ぶ。

 これらの反省は、池西言水、小西来山、上島鬼貫らによって唱えられていたが、松尾芭蕉の出現をみて、俗語を用い俗生活を題材としながら古典的伝統の品位を保持する排風(蕉風)が確立した。

 芭蕉の時代には、俳句は連句ともいわれ、やはりいくつかの続く形でよまれるのが原則だった。特に36句でよむ歌仙形式が行われたが、一方、発句(連句の一番初めの句)の独立性も次第に確立してきた。

 芭蕉の死後、その弟子たちの活躍はあったものの、俳諧は次第に芸術的香気を失っていったが、天明期に与謝蕪村が現れ、空気を刷新した。

 天明以後は、小林一茶など人生派の俳人を除けば、俳諧は再び衰退し、いわゆる月並調の平凡な詠風に堕し、その復興は明治の正岡子規に待たねばならなかった。

 子規は、蕪村を尊重し、明治の俳壇を革新したが、その際、連句を遊戯とみなし、文学としては発句のみがその独自性を持ちうると主張し、「俳句」と称した。

松尾芭蕉の俳句

旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
〜旅の途中で病に倒れてしまったが、夢の中ではなおも旅をつづけ、枯れ野をかけめぐっている。

この道や行く人なしに秋の暮れ
〜この道は、歩いていく人もなく、さびしい秋の夕暮れである。

野ざらしを心に風のしむ身かな
〜旅の途中で野ざらしとなり白骨になったわが身を心に思い描くと、秋風がいっそう身に染みることだ。

海暮れて鴨の声ほのかに白し
〜海が夕暮れとなり、鴨の声が、その中にほの白く残るように聞こえてくる。

菊の香や奈良には古き仏たち
〜菊の香がただよっている。ここ奈良には、古い仏像が多くあり、都らしい秋の風情であるよ。

四方より花咲き入れて鳰の海
〜四方から風が桜の花を吹き込んでいる琵琶湖のすばらしい眺めだよ。

清滝(きよたき)や波に散りこむ青松葉
〜清滝川の清流に、おりから吹いた風に落とされた松葉が散りこんでいる。何とさわやかだ。

蛸壺(たこつぼ)やはかなき夢を夏の月
〜明石の海の蛸壺は、夜明けに引き上げられるのだろうが、それとも知らず、蛸は壺の中で一夜の夢を結んでいるのだろう。

秋近き心の寄るや四畳半
〜四畳半の座敷で俳諧をしていると、もう秋の気配を感じる。誰もそれを感じて、心を寄せ合っていることだ。

物いへば唇さむし秋の風
〜秋風が身に染みるこの時期、物を言うと寒さが唇にこたえることだ。口はつぐんでいるのがいいようだ。

ひやひやと壁をふまへて昼寝かな
〜昼寝をしようと、仰向けになって足で壁をふまえると、壁の冷たさが足の裏に感じられて気持ち良い。

白菊の目にたてて見る塵(ちり)もなし
〜白菊を、じっと目を凝らして見ても清廉潔白で、どこにも塵一つ見られない。

秋深き隣は何をする人ぞ
〜秋も深まり、隣の人は何をして生きている人か知らないが、自分と同じように悩み多い日を過ごしているのだろう。

草枕犬も時雨(しぐ)るるか夜の声
〜外は時雨、遠くから犬の鳴き声が聞こえる。犬もこの時雨にあって、さびしい思いをしているのだろうか。

あけぼのや白魚(しらうを)白きこと一寸
〜夜明け前、ほのかに明るい浜に、引き上げられたばかりの漁師の網の中の白魚は、まだ一寸しかない。春はまだ遠い。

冬の日や馬上に氷(こほ)る影法師
〜寒い冬の日に馬に乗って行くと、身を切るような風が吹いてくる。田に映る影法師は、自分の身が馬上に凍りついたように見える。

塩鯛(しほだひ)の歯ぐきも寒し魚の店(たな)
〜荒天のためか魚屋の店先には鮮魚もなく、並べてある塩鯛も歯ぐきをむき出して、なおいっそう寒く見える。

金屏(きんびやう)の松の古さよ冬籠り
〜金屏風に描かれた松も、ところどころ色が剥げている。この古屏風のかげで、今年もまた冬籠りをすることだ。

故郷(ふるさと)や臍(ほぞ)の緒(を)に泣く年の春
〜年の暮れに故郷に帰り、自分の臍の緒を見せられた。今は亡き父母のことが思い出され、涙があふれ出ることだ。

冬籠りまた寄り添はむこの柱
〜久しぶりにこの庵で冬籠りをすることになった、かつて寄り添ったこの柱に、また寄り添って静かに暮らすことにしよう。

初時雨猿も小蓑をほしげなり
〜蓑をまとい初時雨の降る山路をたどって行くと、樹上に猿がうずくまっている。この猿も小さい蓑がほしそうである。

何にこの師走の市(いち)に行く烏(からす)
〜このあわただしい年の暮れの町なかへ、何のために、あの烏は飛んでいくのか。

ねぎ白く洗ひたてたる寒さかな
〜真冬の寒いなか、真白く洗いあげたねぎが、よけいに寒さを感じさせることだ。

庭掃きて雪もわするる箒(ははき)かな
〜ほうきで庭を掃いているうちに、ふと雪のあることも忘れてしまったよ。