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竹取物語

かぐや姫の誕生 / かぐや姫の成長貴公子たちの妻問い石作りの皇子の話庫持の皇子の話右大臣阿部御主人の話大納言大伴御行の話 中納言石上麻呂足の話帝の求婚かぐや姫の告白月からの使者かぐや姫の昇天ふじの煙

 竹取物語

かぐや姫の誕生

 今は昔、竹取の翁(おきな)といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。名をば、讃岐造(さぬきのみやつこ)となむ言ひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋(ひとすぢ)ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸(さんずん)ばかりなる人、いと美しうて居(ゐ)たり。翁言ふやう、「我、朝ごと夕ごとに見る竹の中におはするにて、知りぬ。子となり給ふべき人なめり」とて、手にうち入れて家へ持ちて来ぬ。妻(め)の嫗(おうな)に預けて養(やしな)はす。美しきことかぎりなし。いと幼(をさな)ければ籠(こ)に入れて養ふ。

【現代語訳】
 今となっては昔のこと、竹取りの翁という者がいた。野山に入って竹を取っては、さまざまなことに使っていた。名前は讃岐造といった。彼が取っている竹の中で、根元が光る竹が一本あった。不思議に思って近寄ってみると、竹の筒の中から光っている。その筒の中を見ると、三寸くらいの人がたいそうかわいらしい様子で坐っている。翁が言うには、「私が毎朝毎晩見る竹の中にいらっしゃるので分かった。きっと私の子になりなさるはずの人のようだ」と思い、手のひらに入れて家へ持ち帰った。彼の妻であるばあさんに預けて育てた。かわいらしいことこの上ない。たいそう小さいので、かごに入れて育てた。

(注)讃岐造・・・「造」は「宮つ子」の意で、宮廷に仕える役人のこと。竹林の管理人だったか。
 

かぐや姫の成長

 竹取の翁、竹を取るに、この子を見つけて後(のち)に、竹取るに、節(ふし)を隔てて、よごとに金(こがね)ある竹を見つくること重なりぬ。かくて翁やうやう豊かになりゆく。

 この児(ちご)養ふほどに、すくすくと大きになりまさる。三月(みつき)ばかりになるほどに、よきほどなる人になりぬれば、髪上げなどさうして、髪上げさせ、裳(も)着す。帳(ちやう)の内よりも出(い)ださず、いつき養ふ。この児(ちご)のかたちけうらなること世になく、屋(や)の内は暗き所なく光満ちたり。翁、心地あしく苦しき時も、この子を見れば、苦しきこともやみぬ。腹立たしきことも慰みけり。

 翁、竹を取ること久しくなりぬ。いきほひ猛(まう)の者になりけり。この子いと大きになりぬれば、名を三室戸斎部(みむろどいむべ)の秋田を呼びてつけさす。秋田、なよ竹のかぐや姫と付けつ。このほど三日(みか)、うちあげ遊ぶ。よろづの遊びをぞしける。男はうけきらはず呼び集(つど)へて、いとかしこく遊ぶ。

【現代語訳】
 竹取の翁が竹を取るときに、この子を見つけてから後は、節を隔てて節の間ごとに黄金の入っている竹を見つけることが重なった。そうして、翁はだんだんと裕福になっていった。

 この子は、養育するうちにすくすくと成長していった。三か月くらい経つころには人並みほどの背丈になったので、髪を結い上げる儀式を整え、裳を着せた。帳台の中からも外には出さず、大切に育てた。この子の容貌の美しさには比類がなく、家の中には暗い所がなく光に満ちている。翁は、気分が悪く苦しいときも、この子を見ると苦しさが消えてなくなった。腹立たしいことも慰められた。

 この間に、翁が黄金の入った竹を取り続けて長くなった。そして、財力の大きい者になっていった。
この子は、背丈がたいそう伸びてきたので、三室戸斎部の秋田を呼んで名前をつけさせた。秋田は、「なよたけのかぐや姫」と名づけた。この三日の間、酒盛りをして楽しんだ。詩歌や舞などいろいろな遊びを催した。男という男はだれかれ構わず呼び集めてたいそう盛大に楽しんだ。

(注)髪上げ、裳着・・・女子が12歳ごろに行う成人式。ふつう初潮期に行われ、結婚適齢期になったことを示す意味があった。

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貴公子たちの妻問い

(一)
 世界(せかい)の男(をのこ)、貴(あて)なるも卑(いや)しきも、いかでこのかぐや姫を得てしがな、見てしがなと、音に聞きめでて惑(まど)ふ。そのあたりの垣にも、家の門(と)にも、居(を)る人だにたはやすく見るまじきものを、夜は安き寝(い)も寝(ね)ず、闇(やみ)の夜に出(い)でて、穴をくじり、垣間見(かいまみ)、惑ひ合へり。さる時よりなむ、「よばひ」とは言ひける。

 人の物ともせぬ所に惑ひ歩(あり)けれども、何の験(しるし)あるべくも見えず。家の人どもにものをだに言はむとて、言ひかかれども、事(こと)ともせず。あたりを離れぬ君達(きんだち)、夜を明かし日を暮らす、多かり。おろかなる人は、「やうなき歩(あり)きは、よしなかりけり」とて、来(こ)ずなりにけり。

 その中に、なほ言ひけるは、色好みと言はるる限り五人、思ひやむ時なく夜昼(よるひる)来ける。その名ども、石作(いしつくり)の皇子(みこ)・庫持(くらもち)の皇子・右大臣(うだいじん)阿部御主人(あべのみうし)・大納言(だいなごん)大伴御行(おほとものみゆき)・中納言(ちゆうなごん)石上麻呂足(いそのかみのまろたり)、この人々なりけり。

【現代語訳】
 世間の男たちは、身分が貴い者も卑しい者も、どうにかしてこのかぐや姫を得たい、妻にしたいと、噂に聞いては恋い慕い、思い悩んだ。翁の家の垣根にも門にも、家の中にいてさえ容易に見られないのに、誰も彼もが夜も寝ず、闇夜に穴をえぐり、覗き込むほどに夢中になっていた。そのような時から、女に求婚することを「よばひ」と言ったとか。

 人が行きそうにない所をもさまようものの、何の効果もない。家の人たちにことづけようとして話しかけても、問題にされない。辺りを離れようとしない貴公子たちの中には、夜を明かしながら過ごす者が多かった。志が大したことない人は、「必要もない出歩きは無駄だった」と言って、来なくなった。


 そんな中で、それでもなお言い寄ってきたのは、色好みと評判の五人で、恋心が止まず夜昼となくやって来た。その人たちの名は、石作の皇子・庫持の皇子・右大臣の阿部御主人・大納言の大伴御行・中納言の石上麻呂足、といった。

(二)
 世の中に多かる人をだに、少しもかたちよしと聞きては、見まほしうする人どもなりければ、かぐや姫を見まほしうて、物も食はず思ひつつ、かの家に行きて、たたずみ歩(あり)きけれど、甲斐(かひ)あるべくもあらず。文(ふみ)を書きてやれども、返事(かへりごと)もせず。わび歌など書きておこすれども、甲斐なしと思へど、十一月(しもつき)、十二月(しはす)の降り凍(こほ)り、六月(みなづき)の照りはたたくにも、障(さは)らず来たり。

 この人々、ある時は、竹取を呼び出(い)でて、「娘を我(われ)に賜(た)べ」と、伏(ふ)し拝(をが)み、手をすりのたまへど、「おのが生(な)さぬ子なれば、心にも従(したが)はずなむある」と言ひて、月日(つきひ)過ぐす。かかれば、この人々、家に帰りて、物を思ひ、祈りをし、願(ぐわん)を立つ。思ひ止(や)むべくもあらず。「さりとも、遂(つひ)に男(をとこ)合はせざらむやは」と思ひて、頼みをかけたり。あながちに心ざしを見え歩(あり)く。

【現代語訳】
 彼らは、世の中のありふれた人の中でも、少しでも美人のうわさを聞けばすぐに食指を動かす人たちだったので、かぐや姫を見たいと、食事もせずに思いを募らせながら、かぐや姫の家に行ってあちこち歩き回ったりしたが、何の効果もない。それぞれに手紙を書いて送るが、返事がない。恋の嘆きの歌を贈っても、返歌がない。どうせ駄目だと思いながらも、十一月、十二月の雪が降り水が凍る真冬も、六月の日が照り、雷鳴がとどろく真夏にも、それに妨げられることなくやって来た。

 この五人は、翁を呼び出して、「姫を自分にください」と伏し拝み、手を合わせて懇願するが、翁は、「自分たちの産んだ子ではないので、思い通りにはらないのです」と言うばかりで、そのまま月日が経っていく。そんなふうなので、五人は家に帰っても、かぐや姫のことばかりを思い、神仏に祈願をするが、思いは募るばかりだった。彼らは、「翁がああ言っても、最後まで男に会わせないということはないだろう」と、望みをつないでいた。そして、自分の切なる心を見せつけるようにして、邸に絶えず姿を現した。

(三)
 これを見つけて、翁(おきな)、かぐや姫に言ふやう、「わが子の仏(ほとけ)、変化(へんげ)の人と申(まう)しながら、ここら大きさまで養ひ奉(たてまつ)る志(こころざし)おろかならず。翁の申さむこと、聞き給(たま)ひてむや」と言へば、かぐや姫、「何事(なにごと)をかのたまはむことは、承(うけたまは)らざらむ。変化(へんげ)の者にて侍(はべ)りけむ身とも知らず、親とこそ思ひ奉(たてまつ)れ」と言ふ。翁「うれしくものたまふものかな」と言ふ。「翁、年七十に余りぬ。今日(けふ)とも明日とも知らず。この世の人は、男は女にあふことをす、女は男にあふことをす。その後(のち)なむ門(かど)広くもなり侍(はべ)る。いかでか、さることなくてはおはせむ」

 かぐや姫の言はく、「なんでふさることかし侍らむ」と言へば、「変化の人といふとも、女の身持ち給へり。翁のあらむ限りは、かうてもいますかりなむかし。この人々の年月を経て、かうのみいましつつのたまふことを思ひ定めて、一人ひとりにあひ奉り給ひね」と言へば、かぐや姫の言はく、「よくもあらぬかたちを、深き心も知らで、あだ心つきなば、後(のち)悔しきこともあるべきをと、思ふばかりなり。世のかしこき人なりとも、深き志を知らでは、あひがたしと思ふ」と言ふ。

 翁言はく、「思ひの如(ごと)くも、のたまふものかな。そもそもいかやうなる志あらむ人にか、あはむとおぼす。かばかり志おろかならぬ人々にこそあめれ」。かぐや姫の言はく、「なにばかりの深きをか見むと言はむ。いささかのことなり。人の志(こころざし)(ひと)しかんなり。いかでか、中に劣りまさりは知らむ。五人の中に、ゆかしき物を見せ給へらむに、御志(おんこころざし)まさりたりとて、仕(つか)うまつらむと、そのおはすらむ人々に申し給へ」と言ふ。「よきことなり」と受けつ。

【現代語訳】
 このようす(五人の貴公子たちの熱心な求婚ぶり)を見て、翁がかぐや姫に、「仏のように大切なわが子よ、仮にこの世に来た変化の人とはいえ、これほど大きくなるまで養い申し上げた私の志は並々ではない。爺の申すこと聞いてもらえるだろうか」と言うと、かぐや姫は「どんなことをおっしゃっても、お聞きしないなどということがありましょうか。変化の身というつもりはなく、あなた様をほんとうの親とばかり思い申し上げています」と言う。翁は、「うれしくもおっしゃるものだ」と言った。「爺は、齢七十を越えた。今日とも明日とも分からない命だ。この世の人は、男は女に婿入りをし、女は男に嫁ぐことをする。そうして一門が大きく発展していく。あなたも結婚しないままおられるわけにはいかない」。

 かぐや姫が「どうして私がそのようなことをいたしましょうか」と言うと、「変化の人とはいえ、あなたは女の身体をお持ちだ。爺が生きている間はこうしてもいられましょう。しかし、あの人たち(五人の貴公子)が長い年月、このようにおいでになっておっしゃることをよく考えて、どなたかお一人と結婚してさしあげなさい」と言った。かぐや姫は、「私のよくもない顔立ちで、お相手の深い心も知らず、軽々しく結婚して浮気でもされたら後悔するに違いないと不安でなりません。天下の恐れ多い方々であっても、深い志を知らないままに結婚などできません」と言う。

 翁は、「私の思う通りをおっしゃるものだ。いったいどんな志のある方に嫁ごうとお思いか。あの人たちは並々ならぬ志の方々であろうに」。かぐや姫は、「どれほどの志の深さを見ようというのではなく、ほんのちょっとしたことなのです。五人の方の志はみな等しいようです。どうしてその優劣が分かりましょうか。五人の中に、私が見たいと思うものをお見せくださったならば、その御方の御志がすぐれていると思い、妻としてお仕えいたしましょう、とお伝えください」と言う。翁は「よろしい」と承知した。

(四)
 日暮るるほど、例の集まりぬ。あるいは笛を吹き、あるいは歌をうたひ、あるいは唱歌(しやうが)をし、あるいはうそぶき、扇(あふぎ)を鳴らしなどするに、翁、出(い)でていはく、「かたじけなく、きたなげなる所に、年月を経てものし給ふこと、極まりたるかしこまり」と申す。「『翁の命、今日(けふ)明日とも知らぬを、かくのたまふ君達(きんだち)にも、よく思ひ定めて仕(つか)うまつれ』と申すもことわりなり、『いづれも、劣り優りおはしまさねば、御心(おほんこころ)ざしのほどは見ゆべし、仕うまつらむことは、それになむ定むべき』と言へば、これ、よきことなり、人の御恨(おほんうら)みもあるまじ」と言ふ。五人の人々も、「よきことなり」と言へば、翁、入(い)りて言ふ。

 かぐや姫、「石作(いしつくり)の皇子(みこ)には、仏の御石(みいし)の鉢(はち)といふ物あり、それを取りて賜(たま)へ」と言ふ。「庫持(くらもち)の皇子には、東の海に蓬莱(ほうらい)といふ山あるなり、それに白銀(しろがね)を根とし、黄金(こがね)を茎とし、白き珠(たま)を実として立てる木あり、それ一枝(ひとえだ)折りて賜はらむ」と言ふ。「いま一人には、唐土(もろこし)にある火鼠(ひねずみ)の皮衣(かはぎぬ)を賜へ、大伴の大納言には、龍(たつ)の頸(くび)に五色(ごしき)に光る珠あり、それを取りて賜へ、石上(いそのかみ)の中納言には、燕(つばくらめ)の持たる子安(こやす)の貝、一つ取りて賜へ」と言ふ。

 翁、「難(かた)きことにこそあなれ、この国にある物にもあらず、かく難(かた)きことをば、いかに申さむ」と言ふ。かぐや姫、「何か難(かた)からむ」と言へば、翁、「とまれかくまれ、申さむ」とて、出でて、「かくなむ、聞こゆるやうに見せ給へ」と言へば、皇子たち、上達部(かんだちべ)聞きて、「おいらかに、あたりよりだにな歩(あり)きそ、とやのたまはぬ」と言ひて、倦(う)んじて、みな帰りぬ。

【現代語訳】
 日が暮れるころ、例のごとく五人の貴公子たちが集まった。ある人は笛を吹き、ある人は歌をうたい、ある人は唱歌をし、ある人は口笛を吹き、扇を鳴らして拍子をとったりなどしていると、翁が出てきて言うには、「もったいなくも、むさ苦しい住まいに長い間お通いなさることを、この上なく恐縮に存じます」と申し上げる。「姫に『この爺の命は今日明日とも知れないのだから、これほどにおっしゃる君達に、よく考えを決めてお仕え申し上げなさい』と申すのも道理だというものでありました。そこで姫が、『どなたが劣っている優れているということはおありでないので、私の見たいと思っているものをお見せくださることで、お心ざしはわかるはずです。お仕えするのはそれによって決めましょう』と言うので、『それはよい考えです。そうすればお恨みも残らないでしょう』と申しました」と言う。五人の貴公子たちも、「それはよいことだ」と言うので、翁が入ってかぐや姫にそのことを言う。

 かぐや姫は、「石作の皇子には、仏の尊い石の鉢という物がありますので、それを取ってきて私に下さい」と言う。「庫持の皇子には、東の海に蓬莱という山があり、そこに銀を根とし金を茎とし真珠を実とする木が立っているといいます。それを一枝、折ってきて頂きましょう」と言う。「もう一人の方には、唐にある火鼠の皮衣を下さいますよう。大伴の大納言には、龍の頸に五色に光る珠がありますから、それを取ってきて下さい。石上の中納言には、燕の持っている子安貝を一つ取ってきて下さい」と言う。

 翁は、「できそうもないことばかりですね。皆、この国にある物でもありません。そのような難しいことをどのように申し上げましょうか」と言う。かぐや姫が、「どうして難しいことがありましょうか」と言うので、翁は、「ともかくも申し上げてきましょう」と言い、出て行って、「これこれこのような次第です。申します通りにお見せください」と言うと、皇子たちや上達部はそれを聞いて、「このような難題を出すくらいなら、おだやかに『近くを通ることさえしないでください』とでもおっしゃらないものだろうか」と言いながら、うんざりして、みな帰ってしまった。

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石作りの皇子の話

 なほ、この女見では、世にあるまじき心地のしければ、「天竺(てんぢく)にある物も持て来ぬものかは」と思ひめぐらして、石作(いしつくり)の皇子は、心の支度(したく)ある人にて、「天竺に二つとなき鉢(はち)を、百千万里の程(ほど)行きたりとも、いかでか取るべき」と思ひて、かぐや姫のもとには、「今日(けふ)なむ天竺へ石の鉢取りにまかる」と聞かせて、三年(みとせ)ばかり、大和国(やまとのくに)十市(とをち)の郡(こほり)にある山寺に、賓頭盧(びんづる)の前なる鉢の、ひた黒に墨(すみ)つきたるを取りて、錦の袋に入れて、造り花の枝につけて、かぐや姫の家に持て来て見せければ、かぐや姫あやしがりて見るに、鉢の中に文(ふみ)あり。ひろげて見れば、

 海山(うみやま)の道に心を尽くし果てないしの鉢の涙流れき

 かぐや姫、光やあると見るに、蛍(ほたる)ばかりの光だになし。

 おく露の光をだにぞ宿(やど)さまし小倉山(をぐらやま)にて何もとめけむ

とて、返し出(い)だす。鉢を門(かど)に捨てて、この歌の返しをす。

 白山(しらやま)にあへば光の失(う)するかと鉢を捨ててもたのまるるかな

と詠みて入れたり。かぐや姫、返しもせずなりぬ。耳にも聞き入れざりければ、言ひかかづらひて帰りぬ。かの鉢を捨てて、また言ひけるよりぞ、面(おも)なき事をば、「はぢを捨(す)つ」とは言ひける。

【現代語訳】
 それでもやはり、この女と結婚しないではこの世に生きてはいられない気持ちがしたので、「たとえ天竺にある物であっても持ってこよう」と思いをめぐらし、石作りの皇子は目先の利く人であったので、「天竺に二つとない鉢を、百千万里の彼方へ出かけたとして、どうして手に入れることができよう」と思い、かぐや姫のもとには、「今日、まさに天竺へ鉢を取りに参ります」と知らせておいて、三年ほど経ってから、大和の国十市の郡にある山寺で、賓頭盧(びんずる)の前にある鉢の、真っ黒にすす墨がついているのを手に入れて、錦の袋に入れ、造花の枝につけてかぐや姫の家に持ってきて見せた。かぐや姫が半信半疑でその鉢を見ると、中に手紙が入っている。広げて見ると、

 
筑紫の国を出て、海を越え山を越え、はるか遠い天竺までの道のりに精根を尽くし、石の鉢を手に入れる苦労に泣き、血の涙が流れましたよ。

 かぐや姫が、石の鉢にあるはずの光を見ようとしたが、蛍ほどの光さえもない。

 
もし、この鉢が本物でしたら、野に置く露ほどの光でも宿しているはずなのに、小暗きおぐら山でいったい何を探してきたのですか。

と言って鉢を返した。石作の皇子は鉢を門口に捨てて、この歌の返歌をした。

 
白山のような光り輝くあなたに会ったので、先ほどまであった光が失せたのかと鉢を捨てましたが、恥を捨てて、ただあなたの御心にすがりたい。

と詠んで差し入れた。かぐや姫は返歌もしなかった。耳にも聞き入れようとしなかったので、皇子は何を言うこともできず帰っていった。あの鉢を捨ててまた言い寄ったことから、厚かましいことを「恥を捨てる」と言うのであった。

(注)賓頭盧・・・釈迦の弟子。中国では秦の時代から唐の時代まで寺院の食堂にその像を安置し、毎日食物を供えたといわれ、「鉢」はそのためのものだったか。

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庫持の皇子の話

(一)
 庫持(くらもち)の皇子(みこ)は、心たばかりある人にて、公(おほやけ)には、「筑紫の国に湯あみにまからむ」とて暇(いとま)申して、かぐや姫の家には、「玉の枝取りになむまかる」と言はせて下り給ふに、仕(つか)うまつるべき人々、皆(みな)難波(なには)まで御(み)送りしけり。皇子、「いと忍びて」とのたまはせて、人もあまた率(ゐ)ておはしまさず、近う仕(つか)うまつる限りして出で給ひ、御送りの人々、見奉(みたてまつ)り送りて帰りぬ。「おはしましぬ」と人には見え給ひて、三日(みか)ばかりありて漕(こ)ぎ帰り給ひぬ。

 かねてこと皆仰せたりければ、その時一つの宝なりける鍛冶匠(かぢたくみ)六人を召し取りて、たはやすく人寄りて来(く)まじき家を造りて、かまどを三重(みへ)にしこめて、匠らを入れ給ひつつ、皇子も同じ所に籠(こも)り給ひて、知らせ給ひたる限り十六所(じふろくそ)を、かみにくどをあけて、玉の枝を作り給ふ。かぐや姫のたまふやうに違(たが)はず作り出(い)でつ。いとかしこくたばかりて、難波にみそかに持ていでぬ。

「船に乗りて帰り来にけり」と殿(との)に告げやりて、いといたく苦しがりたるさまして居給(ゐたま)へり。迎へに人多く参りたり。玉の枝をば長櫃(ながひつ)に入れて、もの覆(おほ)ひて持ちて参る。いつか聞きけむ、「庫持の皇子は優曇華(うどんげ)の花持ちて上り給へり」とののしりけり。これをかぐや姫聞きて、「われは、この皇子に負けぬべし」と、胸うちつぶれて思ひけり。

【現代語訳】
 庫持の皇子は、策略にたけた人で、朝廷には「筑紫の国に湯治に出かけます」と言って休暇を願い出て、かぐや姫の家には「玉の枝を取りに参ります」と使いに言わせて地方に下ろうとするので、お仕えしている人々はみな難波までお送りした。皇子は「ごく内密に」と言い、お供も大勢は連れて行かず、身近に仕える者だけで出発した。見送った人々は都に戻った。人々には出発したと見せかけて、三日ほどして難波に漕ぎ戻ってきた。

 あらかじめ事はすべて命じていたので、当時、随一の宝とされていた鍛冶細工師六人を召し寄せ、簡単には人が近寄れない建物を造って、かまどを三重に囲み、細工師らを入れ、皇子も同じ所にこもり、治めている荘園十六か所をはじめ、蔵の財産すべてをつぎ込んで玉の枝を作らせた。かぐや姫が言っていたのと寸分たがわず作り上げた。たいへんうまく仕立て上げて、難波にひそかに運び込んだ。

 「舟に乗って帰ってきた」と自分の屋敷に知らせをやり、自分はひどく疲れて辛そうなようすで座り込んでいた。迎えの人が大勢やって来た。玉の枝は長櫃に入れて、物でおおって都へ運んだ。いつ聞いたのであろうか、「庫持の皇子は優曇華(うどんげ)の花を持って都へお上りになった」と世間では騒いでいた。これをかぐや姫が聞いて、「私はこの皇子に負かされてしまうに違いない」と、胸がしめつけられる思いがした。

(注)優曇華の花・・・三千年に一度咲くというインドの木の花。

(二)
 かかるほどに、門(かど)を叩(たた)きて、「庫持の皇子おはしたり」と告ぐ。「旅の御姿(おほんすがた)ながらおはしたり」と言へば、会ひ奉(たてまつ)る。皇子のたまはく、「命を捨てて、かの玉の枝持ちて来たる」とて、「かぐや姫に見せ奉り給へ」と言へば、翁持ちて入りたり。この玉の枝に文(ふみ)ぞ付きたりける。

 いたづらに身はなしつとも玉の枝(え)を手折(たを)らでただに帰らざらまし

 これをあはれとも見で居(を)るに、竹取の翁走り入りて言はく、「この皇子に申し給ひし蓬莱(ほうらい)の玉の枝(えだ)を、一つの所あやまたず持ておはしませり。何をもちて、とかく申すべき。旅の御姿ながら、わが御家(おほんいへ)へも寄り給はずしておはしたり。はやこの皇子にあひ仕(つか)うまつり給へ」と言ふに、物も言はで、つらづゑをつきて、いみじう嘆かしげに思ひたり。この皇子、「今さへ何かと言ふべからず」と言ふままに、縁(えん)にはひ上り給ひぬ。翁、ことわりに思ふに、「この国に見えぬ玉の枝なり。この度は、いかでか辞(いな)び申さむ。人ざまもよき人におはす」など言ひ居(ゐ)たり。かぐや姫の言ふやう、「親ののたまふことを、ひたぶるに辞(いな)び申さむことのいとほしさに、取り難きものを」。かくあさましくて持て来たることをねたく思ひ、翁は、閨(ねや)の内(うち)、しつらひなどす。

【現代語訳】
 こうしているうちに、門をたたいて、「庫持の皇がおいでになった」と皇子の使者が告げてきた。「旅のお姿でいらっしゃる」と取次ぎの者が言うので、翁はお会いした。皇子が言うには、「命を捨てて、あの玉の枝を持って来ました」と言って、「かぐや姫にお見せください」と言うので、翁は玉の枝を持って奥に入った。その玉の枝には、手紙が結びつけてあった。

 
たとえむなしくわが身が果てたとしても、玉の枝を手折らずに手ぶらで帰りはしなかったでしょう。

 かぐや姫は、大してすばらしい歌とも思わずにいると、翁が部屋に走って来て言うには、「あなたがこの皇子に申し上げた蓬莱の玉の枝を、少しもたがわずに持って来られた。これ以上何をとやかく言えましょう。しかも、旅のお姿のまま、ご自分のお屋敷にもお寄りにならずお越しになっている。もはやこの皇子に嫁ぎなされ」と言うのに、かぐや姫は物も言わずに頬杖をついて、たいそう嘆かわしそうにしている。皇子は、「今となっては何やかんやと言えないはず」と言うやいなや、縁側に這い上がった。翁はもっともと思い、「この国では見られぬ玉の枝です。このたびはどうしてお断り申せましょう。ようすもよいお方だ」などと言っている。かぐや姫が言うには、「親の仰せをひたすら拒み続ける気の毒さから、手に入れ難いものを注文しましたのに・・・」。このように意外な感じで、皇子が持ってきたことをいまいましく思っていた。一方、翁は、寝所の中の準備をし始めた。

(三)
 翁、皇子に申すやう、「いかなる所にか、この木はさぶらひけむ。あやしくうるはしくめでたき物にも」と申す。

 皇子、答へてのたまはく、「一昨々年(さをととし)の二月(きさらぎ)の十日ごろに、難波(なには)より船に乗りて、海の中に出でて、行かむ方(かた)も知らずおぼえしかど、思ふこと成(な)らで世の中に生きて何かせむと思ひしかば、ただ、空(むな)しき風に任せて歩(あり)く。命(いのち)死なば如何(いかが)はせむ。生きてあらむ限り、かく歩きて、蓬莱(ほうらい)といふらむ山にあふやと、海に漕(こ)ぎ漂ひ歩きて、我が国のうちを離れて歩きまかりしに、ある時は浪(なみ)に荒れつつ海の底にも入(い)りぬべく、ある時には風につけて知らぬ国に吹き寄せられて、鬼のやうなるもの出で来て、殺さむとしき。ある時には、来(き)し方(かた)行く末(すゑ)も知らず、海にまぎれむとしき。ある時には糧(かて)尽きて、草の根を食ひ物としき。ある時は、言はむ方(かた)なくむくつけげなるもの来て、食ひかからむとしき。ある時には、海の貝を取りて命をつぐ。

【現代語訳】
 翁が、皇子に申し上げるには、「どんな所にこの木はございましたのでしょうか。不思議なほどに美しく、すばらしいものでございますね」と申し上げる。

 皇子が答えて言うには、「一昨々年の二月の十日ごろに、難波から船に乗って海に出たものの、目的とする方向すら分かりませんでした。しかし、自分の思うことが成就できないのならこの世に生きていてもしかたがないと思ったので、ひたすらに風に任せて進みました。命がなくなればそれまで、生きている限り航海を続けたら、いつかは蓬莱とかいう山に会うだろうと思い、海を漕ぎ漂って、わが日本の領海を離れていきますと、ある時は時化が続いて海底に沈みそうになり、ある時は風に吹き寄せられて見知らぬ国に流れ着き、鬼のような怪物が現れて、私を殺そうとしました。ある時にはまた海上で方向を失い、そのまま漂流するところでした。ある時には食糧が尽きて、ある小島で草の根を取って食べました。ある時は言いようもなく気味悪い妖怪が現れ、私に食いかかろうとしました。ある時は海の貝を取って命をつないだこともあります。

(四)
 旅の空に、助け給ふべき人もなき所にいろいろの病(やまひ)をして、行く方(かた)そらもおぼえず、船の行くにまかせて、海に漂ひて、五百日(いほか)といふ辰(たつ)の刻(とき)ばかりに、海の中に、はつかに山見ゆ。船の中(うち)をなむせめて見る。海の上に漂へる山、いと大きにてあり。その山のさま、高くうるはし。これや我が求むる山ならむと思ひて、さすがに恐ろしくおぼえて、山のめぐりをさしめぐらして、二(ふつか)、三日(みか)ばかり、見歩(みあり)くに、天人(てんにん)のよそほひしたる女、山の中より出(い)で来て、銀(しろかね)の金鋺(かなまり)を持ちて、水を汲(く)み歩く。これを見て、船より下りて、『この山の名を何とか申す』と問ふ。女、答へて言はく、『これは蓬莱(ほうらい)の山なり』と答ふ。これを聞くに、嬉しきこと限りなし。この女、『かくのたまふは誰(たれ)ぞ』と問ふ。『我が名はうかんるり』と言ひて、ふと、山の中に入(い)りぬ。

【現代語訳】
 旅の道中で、助けてくださる人もない所で色々な病気にかかり、この先どうなるのか定かではなくなりました。ただ船の行くのにまかせて海上を漂流していましたら、出発して五百日目という日の朝八時ごろに、海上にかすかに山が見えます。船の乗員はみな目を凝らしました。海上に浮かぶその山はたいそう大きく その山の姿は高くて立派です。「これこそ、私が求めている山であろう」と思うと、うれしい反面、恐ろしく思われて、山の周囲を漕ぎまわらせて、二、三日ほど様子を見ていました。そのうち、天人の服装をした女が山中から出てきて、銀の椀を持って水を汲み歩いています。これを見て、船からおりて、「この山の名は何と申しますか」と尋ねました。女が答えて言うには、「これは蓬莱の山です」。これを聞いたときの嬉しさといったらありません。女は、「そうおっしゃるあなたは誰ですか」と問い、女は、「私の名はうかんるり」と言って、すうっと山の中に入ってしまいました。

(五)
 その山、見るに、さらに登るべきやうなし。その山のそばひらをめぐれば、世の中になき花の木ども立てり。金(こがね)、銀(しろかね)、瑠璃色(るりいろ)の水、山より流れ出(い)でたり。それには、色々の玉の橋渡せり。その辺りに照り輝く木ども立てり。その中に、この、取りて持ちてまうで来たりしは、いと悪(わろ)かりしかども、のたまひしに違(たが)はましかばと、この花を折りてまうで来たるなり。山は限りなく面白し。世にたとふべきにあらざりしかど、この枝を折りてしかば、さらに心もとなくて、船に乗りて、追風(おひかぜ)吹きて、四百余日になむまうで来(き)にし。大願力(だいぐわんりき)にや。難波(なには)より、昨日(きのふ)なむ都(みやこ)のまうで来(き)つる。さらに、潮(しほ)に濡(ぬ)れたる衣(ころも)だに脱ぎかへなでなむ、こちまうで来(き)つる」とのたまへば、翁、聞きて、うち嘆きて詠める、

 呉竹(くれたけ)のよよの竹取り野山にもさやはわびしき節(ふし)をのみ見し

 これを皇子(みこ)聞きて、「ここらの日ごろ思ひわび侍る心は、今日(けふ)なむ落ち居(ゐ)ぬる」とのたまひて、返し、

 わが袂(たもと)今日(けふ)乾(かわ)ければわびしさの千種(ちぐさ)の数も忘られぬべし

とのたまふ。

【現代語訳】
 その山は見るからに険しくて、とても登れそうにありません。山の側面をめぐってゆくと、この世の物とも思えぬ美しい花の木が多く立っています。金色、銀色、瑠璃色の水が、山から流れ出ています。川にはさまざまの玉で作った橋が渡してあり、橋の近くにはきらきら照り輝く木々がたくさんあります。その中から、私が折り取って持参したのは、ほかにももっと素晴らしいのがありましたが、姫の仰せに合わなければいけないと思いまして、この花を折って持参したのです。山は限りなく素晴らしく、世の中に例えるものがありませんでしたが、この枝を折り取ったので、ただもう落ち着かず、船に乗って追い風に吹かれて、四百余日で帰ってきました。仏の大願力のおかげでしょうか、こうして、昨日、難波から帰京したのです。しかも、潮で濡れた衣も着替えずにまっすぐこちらに参上しました。翁は皇子の話を聞いて、感嘆のため息をついて歌を詠んだ、

 くれ竹の代々(よよ)の昔より、竹を取ってきた私ですが、その野山でもそんなに辛い目ばかり見たでしょうか。

 これを皇子が聞いて、「多くの日数思い苦しんできました心は、今日という日はすっかり落ち着きました」と言って、歌を返し、

 海の潮や涙にぬれた私の袂(たもと)が今日はすっかり乾き、数々の辛さも自然に忘れていくに違いありません。

と言う。

(六)
 かかるほどに、男(をのこ)ども六人連ねて庭に出(い)で来たり。一人の男、文挟(ふばさ)みに文(ふみ)をはさみて申す、「内匠寮(たくみづかさ)の匠、漢部内麿(あやべのうちまろ)申さく、玉の木を作り仕(つか)うまつりしこと、五穀(ごこく)を断ちて、千余日に力を尽くしたること少なからず。然(しか)るに禄(ろく)いまだ賜はらず。これを賜ひて家子(けご)に賜はせむ」と言ひて捧(ささ)げたり。竹取の翁、「この匠(たくみ)らが申すことは何事ぞ」と傾(かたぶ)き居(を)り。皇子はわれにもあらぬ気色(けしき)にて、肝(きも)消え居(ゐ)給へり。これをかぐや姫聞きて、「この奉る文を取れ」と言ひて見れば、文に申しけるやう、

「皇子の君、千日卑しき匠らともろともに同じ所に隠れ居給(ゐたま)ひて、かしこき玉の枝作らせたまひて、宮(つかさ)も賜はむと仰せたまひき。これをこのごろ案ずるに、御使(おほんつか)ひとおはしますべきかぐや姫の要(えう)じ給ふべきなりけり、と承りて、この御屋(みや)より賜はらむ」

と申して、「賜はるべきなり」と言ふを聞きて、かぐや姫の、暮るるままに思ひわびつる心地、笑ひ栄へて、翁を呼びとりて言ふやう、「まことに蓬莱(ほうらい)の木かとこそ思ひつれ。かくあさましき虚言(そらごと)にてありければ、はや返し給へ」と言へば、翁答ふ、「定かに作らせたるものと聞きつれば、返さむこといと易(やす)し」とうなづきて居(を)りけり。かぐや姫の心ゆき果てて、ありつる歌の返し、

 まことかと聞きて見つれば言(こと)の葉を飾れる玉の枝(え)にぞありける

と言ひて、玉の枝(えだ)も返しつ。竹取の翁、さばかり語らひつるが、さすがに覚えて眠(ねぶ)り居(を)り。皇子は立つもはした、居(ゐ)るもはしたにて居給(ゐたま)へり。日の暮れぬればすべり出(い)で給ひぬ。

【現代語訳】
 
そうこうしていると、見知らぬ男どもが六人連れ立って庭に現れた。その中の一人が文挟みに文をはさんで申し出た。「内匠寮の細工人、漢部の内麿と申します。玉の木を作ってお仕えし、食うものも食わず、千日余りも力を尽くしたことは並大抵ではありません。にもかかわらずお手当てを未だに頂いていません。早く頂いて、手下どもに与えたい」と言って、文を高く差し上げた。竹取の翁は、「この細工人の申すことは何事ぞ」と首をかしげた。皇子は茫然自失となり、肝がつぶれている。これをかぐや姫が聞いて、「その差し出している文を取れ」と召使いに言って、受け取って見ると、書いてあったのは、

「皇子の君は、千日の間、身分の卑しい細工師らとともに同じ所に隠れ住まわれて、立派な玉の枝を私らに作らせ、出来上がったら官職も授けようと仰られた。このことを今あらためて考えますと、皇子の召人(めしうど)になられるはずのかぐや姫がお求めに違いないお品だと知り、それならば、このお屋敷からお手当てを頂戴したい」

とのことで、「当然に頂けるはずです」とも話すのを聞き、日が暮れるにつれて辛い心地になっていたかぐや姫は、急に晴れ晴れと嬉しそうに笑って、翁を呼び寄せて言うには、「本当に蓬莱の木かと思っていましたが、このようにとんでもない偽物であったので、すぐにもお返しください」、翁は答えて、「確かに人に作らせたものと聞いたからには、返すのはいともたやすい」とうなずいた。かぐや姫の心はすっかり晴れやかになり、先ほどの歌に返し、

 
ほんとうかと聞いて実際に見てみれば、何と言葉をたくみに飾った偽物の玉の枝でしたよ。

と言って、玉の枝ごと返してしまった。竹取の翁は、あれほど意気投合して語り合ったことがさすがに気恥ずかしくなり、眠ったふりをしている。皇子は立ち上がるのもばつが悪く、座っているのもきまりが悪いようすで、そのままじっとしていた。日が暮れ、闇にまぎれてこっそりと抜け出ていった。

(七)
 かの愁訴(うれへ)せし匠(たくみ)をば、かぐや姫呼びすゑて、「うれしき人どもなり」と言ひて、禄(ろく)いと多く取らせ給ふ。匠らいみじく喜びて、「思ひつるやうにもあるかな」と言ひて、帰る道にて、庫持の皇子、血の流るるまで懲(ちやう)ぜさせ給ふ。禄得しかひもなく、皆取り捨てさせ給ひてければ、逃げ失せにけり。かくてこの皇子は、「一生の恥、これに過ぐるはあらじ。女を得ずなりぬるのみにあらず、天(あめ)の下の人の、見(み)思はむことの恥づかしきこと」とのたまひて、ただ一所(ひとところ)、深き山へ入り給ひぬ。宮司(みやづかさ)、侍(さぶら)ふ人々、皆(みな)手を分かちて求め奉(たてまつ)れども、御死(おほんし)にもやし給ひけむ、え見つけ奉らずなりぬ。皇子の、御伴(おほんとも)に隠し給はむとて、年ごろ見え給はざりけるなりけり。これをなむ、「たまさかる」とは言ひ始めける。

【現代語訳】
 あの嘆願をしてきた細工師を、かぐや姫が呼び寄せて、「ありがたい人たちです」と言って、褒美をたいそう多く取らせた。細工師らは大いに喜び、「思ったとおりだった」と言って帰る道々、庫持の皇子が家来たちを使い、彼らを血が流れるまで打ち懲らしめた。褒美をもらった甲斐もなく、みな取り上げて捨てさせたので、無一物になって逃げ失せてしまった。そうしてこの皇子は、「一生の恥として、これにまさるものはあるまい。女を得られなかったのみならず、世間の人々が私を見てあれこれ思うことの何と恥ずかしいことよ」と言い、ただ一人で深い山へ入っていった。宮家の役人、お仕えしていた者たち、皆で手分けして捜したが、亡くなったのであろうか、見つけることができなかった。皇子は、お供たちに身を隠そうとして長い年月出てこなかったのだ。それ以来、こういうことを「たまさかる(魂離る)」と言うようになったという。
 

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「竹取物語」について

 平安時代初期の物語文学(1巻)で、9世紀後半の成立とされる。『源氏物語』に「物語の出(い)で来はじめの祖(おや)」と評され、現存する最も古い物語。作者は不明ながら、文体・用語・思想傾向などから漢籍や仏典にくわしい中級貴族の男性知識人と推測されている(紀貫之とする説も)。

 竹取りの老人が竹の中に見つけた小さな女の子は、やがて成長して光り輝く美女となる。「かぐや姫」と名づけられた彼女のもとには多くの求婚者が訪れるが、熱心な5人の公達や帝の求婚をも退け、ついには8月15日の夜に月の国へと帰るというストーリー。

 登場人物については、かぐや姫・老夫婦・帝などは架空の人物だが、実在の人物が登場していることも本作品の特徴である。5人の公達のうち、阿部御主人、大伴御行、石上麻呂は実在の人物である。また、庫持皇子のモデルは藤原不比等、石作皇子のモデルは多治比嶋だっただろうと推定されている。この5人はいずれも壬申の乱の功臣で天武天皇・持統天皇に仕えた人物であることから、奈良時代初期が物語の舞台に設定されたとされている。

 書名の『竹取物語』は通称であり、平安時代から室町時代にかけては、『竹取の翁の物語』『かぐや姫の物語』『竹取』『竹取翁』などと呼ばれていた。書名からすれば、「竹取の翁」が主人公のようでもある。作者による原本は存在しないが、伝本の数は100を超えるほど多数ある。最古の写本は意外に新しく、里村紹巴(さとむらじょうは)筆の1570年奥書本であり、成立の推測される平安時代から700年余を経ている。

 なお、チベットにもこれとよく似た話があり『竹取物語』の原型かと注目されたが、大正ごろに日本から輸入されたとの説もある。

5人の貴公子

『竹取物語』の中のかぐや姫に言い寄る5人の貴公子について、江戸時代の国文学者・加納諸平は、文武天皇5年(701年)の『公卿補任』に記されている公卿に類似しているとして、次のように比定している。

石作皇子(いしづくりのみこ)
第28代、宣化天皇の4世孫にあたる多治比嶋(丹比真人島)。父までが王で、自分の代に臣籍降下した。天武11年(682年)、筑紫太宰の任にあり、持統天皇のときに正二位・左大臣に昇る。「石作」氏と同族だったことから、この配役が決定したらしい。なお、物語の中では、同じ皇子でも、次に出てくる庫持皇子と比べると、財力も権力もなかったためか、それほど敬意が払われていない。ただし、歌がそこそこ巧みだったことから、5人のなかでは最も多く歌を交わしている。

庫持皇子(車持皇子とも:くらもちのみこ)
藤原鎌足の次男で、母の姓が「庫持」である藤原不比等。政界随一の実力者で、藤原鎌足の次男だが、天智天皇の落胤との説もある。大宝律令の編纂に中心的役割を担い、冠位は正二位・右大臣。物語の中では、彼の登場する章段が最も長い。財力があり、頭の切れる自信家である一方、狡猾で冷酷非情な人物として描かれており、5人の中で最も痛烈な批判が浴びせられている。ここから、物語には藤原氏批判の意図が内蔵されているともいわれる。

阿部御主人(あべのみうし)
672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側について活躍、初め布勢御主人(ふせのみうし)と称したが、後に阿倍氏の氏上となり、以後阿倍氏を称した。大納言を経て従二位・右大臣となる。物語の中では、庫持皇子のような悪辣さはないものの、何でも金次第という金権政治家として描かれている。なお、御主人の忠実な部下で中国に派遣された「小野房守」という人物名は、遣隋使だった小野妹子または、遣唐副使の任命を拒否して隠岐に流された小野篁をモデルにしているとされる。

大伴御行(おおとものみゆき)
大伴旅人の父・安麻呂の兄にあたり、672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側について活躍、のちに大伴氏の氏上となり、大納言に昇任。朝廷を支える最強の軍閥だった。『万葉集』に短歌1首が載る。物語では、軽挙妄動、直情径行な愚かな主人として描かれているが、一方では家来思いな一面も見せている。御行が乗った船が暴風にあい遭難する描写は、当時の遣唐使の記事に基づいているとされる。

石上麻呂(いそのかみのまろ)
物部氏の一族。672年の壬申の乱で大友皇子側につき、敗北した皇子の自殺まで従った。その忠節が賞され、のちに赦されて遣新羅大使となり、右大臣・左大臣に任じられた。人望が厚く、没すると従一位が追贈され、人民も追慕して痛惜しない者はなかったという。物語では、前の大伴御行とは対照的に、寛大謙虚な文治派の人物として描かれており、家来も同様にまじめで正直な人間ばかりとなっている。


(藤原不比等)

川端康成の「竹取物語」評

『現代語訳 竹取物語』を著しているノーベル賞作家の川端康成は、その解説の中で、『竹取物語』を次のように評しています。

――竹取物語は、小説として、発端、事件、葛藤、結末の四つがちゃんとそろっている。そしてその結構にゆるみがないこと、描写がなかなか 溌剌としていて面白いこと、ユーモアもあり悲哀もあって、また勇壮なところもあり、結末の富士の煙が今も尚昇っているというところなど、一種象徴的な 美しさと永遠さと悲哀があっていい。しかし何よりもいいのはやはりその文章である。簡潔で、要領を得ていて力強く、しかもその中に自然といろいろの味が 含まっているところ、われわれはどうしても現代文でその要領のよさを狙うことは出来ない。しかしその中にちゃんと調子(トーン)があって、強まるべきところは強まり、抑えられるべきところは抑えられてあって、この作者がなかなか芸術家であることが感じられる。

 ・・・作者は非常に簡潔な筆で、なんでもないことのように、当然のことのように書き進んでいるが、そこのところの叙述は見事である。この超自然な不自然なことを、作者は何の疑いもなく平気で堂々と平静にかいている。 それは凡らく古代人の太い神経のお蔭であろう。また、古代文の現代文の及ばない簡潔さであろう。けれどもそこに、作者の腕も見える。だれもここを読んで、なんだ馬鹿にしているとか、ははァこれは童話かなどという気が起こらぬばかりか、つづいて次を読む気になる。それは何も古代人ばかりがそうだっただろうというのではなく、近代人をも充分に説得するだけの力を持っているのである。極端に云えば、この発端を読んだだけでも、この作者の腕は わかると言える位である。――

現代語訳 竹取物語 (河出文庫) 川端康成 訳

古典文学年表

奈良時代
712年
 『古事記』
720年
 『日本書紀』
759年
 『万葉集』

平安時代
905年
 『古今和歌集』
 『竹取物語』
 『伊勢物語』
935年
 『土佐日記』
951年
 『後撰和歌集』
 『大和物語』
 『宇津保物語』
974年
 『蜻蛉日記』
 『落窪物語』
1000年
 『拾遺和歌集』
1002年
 『枕草子』
1004年
 『和泉式部日記』
1008年
 『源氏物語』
1008年
 『紫式部日記』
1013年
 『和漢朗詠集』
1055年
 『堤中納言物語』
 『狭衣物語』
 『浜松中納言物語』
 『夜半の寝覚』
1060年
 『更級日記』
 『栄華物語』
1086年
 『後拾遺和歌集』
 『大鏡』
1106年
 『今昔物語』
1127年
 『金葉和歌集』
1151年
 『詞花和歌集』
1169年
 『梁塵秘抄』
1170年
 『今鏡』
1187年
 『千載和歌集』
1190年
 『水鏡』
1190年
 『山家集』

鎌倉時代
1205年
 『新古今和歌集』
1212年
 『方丈記』
1214年
 『金槐和歌集』
1220年
 『宇治拾遺物語』
1220年
 『愚管抄』
 『保元物語』
 『平治物語』
1221年
 『平家物語』
1235年
 『小倉百人一首』
1247年
 『源平盛衰記』
1252年
 『十訓抄』
1280年
 『十六夜日記』
1330年
 『徒然草』

室町時代
1339年
 『神皇正統記』
1356年
 『菟玖波集』
1370年
 『増鏡』
1374年
 『太平記』
1391年
 『御伽草子』
1400年
 『風姿花伝』
1438年
 『義経記』

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