徒然草

・つれづれなるままに(序段)・神無月の頃(第11段)折節の移りかはるこそ(第19段)雪のおもしろう降りたりし朝(第31段)九月廿日の頃(第32段)手のわろき人の(第35段)五月五日、賀茂の競べ馬を(第41段)公世の二位のせうとに(第45段)仁和寺のある法師(第52段)これも仁和寺の法師(第53段)名を聞くより、やがて(第71段)人の心すなほならねば(第85段)或者、小野道風の書ける(第88段)或人、弓射る事を習ふに(第92段)高名の木のぼり(第109段)花はさかりに(第137段)悲田院堯蓮上人は(第141段)心なしと見ゆる者(第142段)西大寺静然上人(第152段)世に従はむ人は(第155段)一道に携はる人(第167段)丹波に出雲と云ふ所あり(第236段)

徒然草  

つれづれなるままに〜序段

 つれづれなるままに、日暮らし、硯(すずり)にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

【現代語訳】
 ひとり居で手持ちぶさたなのにまかせて、一日中、硯を前にして、心に映っては消え、映っては消えるつまらないことを、とりとめもなく書きつけると、妙に気ちがいじみた心地がする。

神無月の頃〜第十一段

 神無月の頃、栗栖野(くるすの)といふ所を過ぎて、ある山里にたづね入る事侍りしに、遥(はる)かなる苔の細道をふみわけて、心細く住みなしたる庵(いほり)あり。木の葉に埋(うづ)もるる懸樋(かけひ)の雫(しずく)ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚(あかだな)に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに住む人のあればなるべし。
 かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに、かなたの庭に大きなる柑子(かうじ)の木の、枝もたわわになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。

【現代語訳】
 十月の頃、栗栖野という所を通り過ぎて、ある山里にたずね入ることがあり、はるかに続く苔むした細道を踏み分けていくと、ひっそりと人が住んでいる草庵があった。木の葉に埋もれている懸樋から落ちる水のしずくの音のほかに音を立てるものはない。閼伽棚には菊や紅葉などを折って散らし置いてあるのは、それでもやはり住む人があるからなのだろう。
 こんなさびしいところでも住むことができるのかと、しみじみ思って見ているうちに、向こうの庭に、大きなみかんの木で、枝もしなうほどたわわに実がなっているのがあり、人に盗まれないように周囲を厳重に囲ってあるのは、少し興ざめがして、この木がなければどんなによかったかと思ったことだ。
 
(注)閼伽棚・・・仏に供える水や花を置くための棚。

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折節の移りかはるこそ〜第十九段

(一)
 折節(をりふし)の移りかはるこそ、ものごとに哀(あはれ)なれ。

 「もののあはれは秋こそまされ」と、人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮きたつものは、春の気色(けしき)にこそあめれ。鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日影に、垣根の草もえいづるころより、やや春ふかく霞(かすみ)わたりて、花もやうやうけしきだつほどこそあれ、折しも雨風うちつづきて、心あわただしく散り過ぎぬ。青葉になり行くまで、よろづにただ心をのみぞ悩ます。花橘は名にこそおへれ、なほ、梅の匂ひにぞ、いにしへの事も立ちかへり恋しう思ひいでらるる。山吹の清げに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひすてがたきこと多し。

【現代語訳】
 季節の移り変わりというのは、何かにつけて趣のあるものだ。

 「しみじみとした情緒は、何と言っても秋がまさっている」と、誰もが言うが、たしかにもっともだと思うものの、今一段と心が浮き立つのは、春のようすであるようだ。鳥の声などもことのほか春めいて、のどかな日の光に、垣根の草が萌え出すころから始まり、次第に春が深まっていき霞が一面にわたって、桜の花もだんだんと咲き出そうとする、ちょうどその折に雨や風が続いて、あわただしく散っていく。その後、青葉になっていくまで、いろいろと気ばかりもんでしまう。橘の花は昔から親しくした人を思い出させる花として有名だが、やはり私にとっては梅の香りによって、過去のこともその当時に立ち返って懐かしく思い出される。山吹が美しく、藤の花房がぼんやりとしたようす、それらすべてに私なりの思いがあり、感慨を断ち切ることができない。

(二)
 「灌仏(くわんぶつ)の頃、祭の頃、若葉の梢(こずゑ)涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ」と、人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。五月(さつき)あやめふく頃、早苗(さなへ)とるころ、水鶏(くひな)のたたくなど、心ぼそからぬかは。六月(みなづき)の頃、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火(かやりび)ふすぶるもあはれなり。六月祓(みなづきばらへ)またをかし。

 七夕(たなばた)まつるこそなまめかしけれ。やうやう夜寒(よさむ)になるほど、雁(かり)なきてくるころ、萩の下葉色づくほど、早稲田(わさだ)刈り干すなど、とりあつめたる事は秋のみぞ多かる。また野分(のわき)の朝(あした)こそをかしけれ。言ひつづくれば、みな源氏物語・枕草子などにことふりにたれど、同じ事、また、今さらに言はじとにもあらず。おぼしき事言はぬは腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ、あぢきなきすさびにて、かつ破(や)りすつべきものなれば、人の見るべきにもあらず。

【現代語訳】
 「夏に入る四月八日の灌仏会のころ、また中旬の賀茂祭のころの、若葉の梢が涼しそうに茂っていく時分が、世のしみじみした情緒も、思う人への恋しさも一段とまさる」と、ある人がおっしゃったが、ほんとうにその通りだ。五月の端午の節句に菖蒲を家々の軒にさすころ、苗代から早苗をとって田植えをするころ、水鶏が戸をたたくように鳴くころなど、何とも心細いものだ。六月のころ、質素な家に夕顔が咲いているのが白く見えて、蚊遣火が煙っているのも、ひなびた感じで趣深い。夏の終わりを告げる六月祓の行事もまたおもしろい。

 秋になって、七夕祭りをするのは優雅だ。しだいに夜の寒さが感じられる時分、八月に雁が鳴いてやって来るころ、萩の下葉が色づいてくる時分、九月に入って早稲の稲刈りをして干すなど、いろいろ集まって趣深いことが秋にはとくに多い。また、台風が過ぎた翌朝の景色はとても興味深い。こういうことを言い続けていると、みな源氏物語や枕草子などで言い古してしまっているが、まあしかし、同じ事を今更言ってはいけなくはなかろう。思っていることを言わないのは腹の張ったようないやな気持ちがするものだから、筆にまかせつつ、つまらない慰み書きをし、書くはしから破り捨てるべきものだから、人の目にふれるはずのものでもない。

 (三)
 さて冬枯(ふゆがれ)のけしきこそ、秋にはをさをさおとるまじけれ。汀(みぎは)の草に紅葉(もみぢ)の散りとどまりて、霜いと白うおける朝(あした)、遣水(やりみづ)より煙(けぶり)の立つこそをかしけれ。年の暮れはてて、人ごとに急ぎあへる頃ぞ、またなくあはれなる。すさまじきものにして見る人もなき月の、寒けく澄める廿日(はつか)あまりの空こそ、心ぼそきものなれ。御仏名(おぶつみやう)・荷前(のさき)の使(つかひ)立つなどぞ、哀(あはれ)にやんごとなき。公事(くじ)ども繁(しげ)く、春の急ぎにとり重ねて催し行はるるさまぞ、いみじきや。追儺(ついな)より四方拝(しほうはい)につづくこそ、面白けれ。晦日(つごもり)の夜、いたうくらきに、松どもともして、夜半(よなか)すぐるまで、人の門(かど)たたき走りありきて、何事にかあらん、ことごとしくののしりて、足を空にまどふが、暁(あかつき)がたより、さすがに音なく成りぬるこそ、年の名残(なごり)も心ぼそけれ。亡き人のくる夜とて、魂(たま)まつるわざは、この頃都にはなきを、東(あづま)のかたには、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか。

 かくて明けゆく空の気色(けしき)、昨日にかはりたりとは見えねど、ひきかへめづらしき心地ぞする。大路(おほぢ)のさま、松立てわたして、はなやかにうれしげなるこそ、またあはれなれ。

【現代語訳】
 さて冬枯れの景色は、これも秋にくらべても少しも劣らないだろう。池の水際の草に紅葉が散り留まって、それに霜がとても白く降りている朝、庭に引き込んだ流れから水蒸気が立ち上っているのは趣がある。年が押し迫って、みんなが忙しそうにしているころはまたとなく趣がある。殺風景だとして見る人もいない月が、寒そうに澄んでいる二十日過ぎの空こそ、人から忘れられた心細さを感じる。宮中では、御仏名があり、荷前の使いが出発するなど、しみじみと尊い。ほかにも諸儀式が多く、それが新春の準備と重なって催されるさまは、実にすばらしい。大晦日の鬼やらいから元旦の四方拝へと続くのがおもしろい。庶民については、大晦日の夜、たいそう暗い中を、たいまつを手に手にともして、夜中過ぎまで家々の門をたたいて走り回り、何事かと思うほど大げさに騒いで、足も宙を浮くようだが、明け方にはさすがに音もしなくなって、行く年の名残が感じられて心細いものだ。大晦日は死んだ人の魂が帰ってくる夜だとして魂祭をする習慣は、このごろは京都では行われないが、関東ではまだ行われているというのは感慨深かった。

 こうして夜が明けていく空のようすは、別に昨日と変わったようには見えないが、すっかり変わった清新な気持ちがするものだ。大通りのようすも、門松を立てて並べて、はなやかでうれしそうであるのは、またしみじみと趣がある。

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雪のおもしろう降りたりし朝〜第三十一段

 雪のおもしろう降りたりし朝(あした)、人のがり言ふべき事ありて文(ふみ)をやるとて、雪のこと何とも言はざりし返事(かへりごと)に、この雪いかが見ると、一筆のたまはせぬほどのひがひがしからむ人の仰せらるること、聞き入るべきかは。かへすがへす口惜しき御心なりと言ひたりしこそをかしかりしか。

 今は亡き人なれば、かばかりの事も忘れがたし。

【現代語訳】
 雪が趣深く降っていた朝、ある人に言わなければならないことがあって手紙をやろうと、用件だけ書いて雪のことは何も書かなかった、すると、その返事に、この雪についてどう思うのかを一言もおっしゃらないような無風流なひねくれた人の頼み事は聞き入れることなどできない、どうみても情けないと書かれていたのは、まことに面白いことだった。

 その人は今は亡き人なので、この程度のちょっとした事も忘れられない。

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九月廿日の頃〜第三十二段

 九月廿日(ながつきはつか)の頃、ある人にさそはれたてまつりて、明くるまで月見ありく事侍りしに、おぼしいづる所ありて、案内させて入り給ひぬ。荒れたる庭の露げしきに、わざとならぬ匂ひ、しめやかにうち薫(かを)りて、しのびたるけはひ、いとものあはれなり。

 よきほどにて出で給ひぬれど、なほ事ざまの優におぼえて、物のかくれよりしばし見ゐたるに、妻戸を今少しおしあけて、月見るけしきなり。やがて、かけこもらましかば、くちをしからまし。跡まで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ朝夕の心づかひによるべし。その人、ほどなく失(う)せにけりと聞き侍りし。

【現代語訳】
 九月二十日のころ、私はある方にお誘いいただいて、夜明けまで月見をしてまわることがあった。途中、その方が思い出された所があり、従者に取り次ぎさせ、その家の中にお入りになった。私は外でその家のようすを見ていると、荒れた庭には露がたくさん降りていて、わざわざたいたのではない香の匂いが、しんみりと薫って、ひっそり暮らしているようすが、とても趣深く感じた。

 ほどよい時間にその方が出てこられたが、私にはやはりその家のようすが優雅に感じられ、物陰からしばらく見ていると、その家のご婦人が、その方が出てこられた妻戸を少しばかり押し開けて、月を眺めるようすだ。送り出した後、すぐに掛け金をかけて引きこもってしまっては、情緒もなく残念だったろう。後まで見ている人があるとは知るはずもない。このような自然で優雅なふるまいは、ただ朝夕の心がけによるのだろう。その人は、まもなく亡くなったとお聞きした。
 
(注)妻戸・・・左右両側に開く戸。

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手のわろき人の〜第三十五段

 手のわろき人の、はばからず文(ふみ)書きちらすは、よし。みぐるしとて、人に書かするは、うるさし。

【現代語訳】
 字の上手でない人が、遠慮しないで無造作に手紙を書くのは、いいことだ。筆跡が見苦しいからといって、他人に代筆させるのは、いやみなものだ。

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五月五日、賀茂の競べ馬を〜第四十一段

 五月(さつき)五日、賀茂の競べ馬を見侍りしに、車の前に雑人(ざふにん)立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒(らち)のきはに寄りたれど、ことに人多く立ちこみて、分け入りぬべきやうもなし。かかる折に、向ひなる楝(あふち)の木に、法師の登りて木の股(また)についゐて物見るあり。とりつきながら、いたう睡(ねぶ)りて、落ちぬべき時に目を醒(さ)ます事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ物かな。かく危(あやふ)き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしままに、「我等が生死(しやうじ)の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて物見て日を暮(くら)す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「誠にさにこそ候(さうら)ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、みな後(うしろ)を見かへりて、「ここに入らせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。

 かほどの理(ことわり)、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの思ひかけぬ心地して、胸にあたりけるにや。人、木石(ぼくせき)にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。

【現代語訳】
 五月五日、賀茂神社の競馬を見物したが、牛車の前に群集が立ちふさがって見えず、それぞれが車から降りて馬場の柵の際に近寄っているものの、とくに多く集まっているので分け入ることができそうにない。そうした時に、向こう側の楝の木に法師が登り、木の股にひょいと腰掛けて見物しているではないか。彼は木にとりついたまま、深く眠っていて、今にも落ちそうになっては目を覚ますという動作をたびたび繰り返していた。これを見た人たちは、あざけりあきれて、「天下の大馬鹿者だよ。あんな危ない枝の上で、よくも安心して眠っていられるものだ」と言ったので、私の心にふと思ったままに、「我々に死がやってくるのも、たった今かもしれない、それを忘れて見物をして一日を暮らす、その愚かさはあの法師よりなおまさっているのに」と言ったところ、前にいた人々が、「まことにその通りです。まったく愚かなことです」と言って、みんな後ろを振り返って、「ここにお入りなさい」と、場所をあけて私を呼び入れてくれた。

 この程度の道理は、誰だって思いつかないことではないが、ちょうど時機よく思いがけない気持ちがして胸に響いたのだろうか。人は木石ではないので、時によってものを深く感ずることがないわけではないようだ。

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公世の二位のせうとに〜第四十五段

 公世(きんよ)の二位のせうとに、良覚僧正(りやうがくそうじやう)と聞こえしは、きはめて腹悪しき人なりけり。坊の傍らに、大きなる榎(え)の木のありければ、人、「榎の木の僧正」とぞ言ひける。この名、しかるべからずとて、かの木を切られにけり。その根のありければ、「切りくひの僧正」と言ひけり。いよいよ腹立ちて、切りくひを掘り捨てたりければ、その跡、大きなる堀にてありければ、「掘池(ほりけ)の僧正」とぞ言ひける。

【現代語訳】
 従二位・藤原公世の兄で、良覚僧正と申し上げた方は、とても怒りっぽい人であった。僧正の住む僧坊のそばに大きな榎の木があったので、人々は「榎の木の僧正」とあだ名をつけて言っていた。僧正は、その名はけしからんと言って、その木を切ってしまわれた。しかし、その根が残っていたので、今度は人々は「切りくいの僧正」と言った。ますます腹を立てた僧正は、切り株を掘って捨ててしまったところ、その跡が大きな堀になったので、人々は「堀池の僧正」と言ったという。

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仁和寺にある法師〜第五十二段

 仁和寺(にんなじ)にある法師、年寄るまで、石清水(いはしみず)を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。極楽寺・高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年頃思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん。ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意(ほい)なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。

 すこしのことにも、先達(せんだつ)はあらまほしき事なり。

【現代語訳】
 仁和寺にいたある法師が、年を取るまで、石清水の八幡宮に参拝したことがなかったので、それを残念に思い、ある時思い立って、たった一人で徒歩で詣でたそうだ。そして、ふもとの極楽寺や高良社などの付属の末社を拝して、これだけだと思い込んで帰ってしまったそうだ。それから、仲間の法師に対して、「長年思っていたことを果しました。聞いていたのよりずっと尊くあらせられました。それにしても、参詣していた人々がみんな山に登ったのは、山の上に何事かあったのだろうか。私も行きたかったが、神へ参詣するのが本来の目的だと思い、山の上までは見ませんでした」と言ったという。

 そういうわけだから、ちょっとしたことにも、指導者はあってほしいものだ。

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これも仁和寺の法師〜第五十三段

 これも仁和寺の法師、童の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔(ゑ)ひて興(きよう)に入るあまり、傍(かたはら)なる足鼎(あしがなへ)を取りて、頭(かしら)に被(かづ)きたれば、つまるやうにするを、鼻をおし平(ひら)めて顔をさし入れて舞ひ出でたるに、満座興に入る事かぎりなし。

 しばしかなでて後、抜かんとするに、大方(おほかた)抜かれず。酒宴ことさめて、いかがはせんとまどひけり。とかくすれば、首のまはりかけて、血垂り、ただ腫(は)れに腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず。響きにて堪へがたかりければ、かなはで、すべきやうなくて、三足(みつあし)なる角(つの)の上に、帷子(かたびら)をうち掛けて、手をひき杖をつかせて、京なる医師(くすし)のがり、率(ゐ)て行きける。道すがら、人の怪しみ見る事限りなし。医師のもとにさし入りて、向(むか)ひゐたりけんありさま、さこそ異様(ことやう)なりけめ。物を言ふも、くぐもり声に響きて聞えず。「かかる事は文(ふみ)にも見えず、伝へたる教へもなし」といへば、また仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上(まくらがみ)に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんとも覚えず。

 かかるほどに、ある者のいふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失(う)すとも、命ばかりはなどか生きざらん。ただ力を立てて引き給へ」とて、藁(わら)のしべをまはりにさし入れて、かねを隔てて、首もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。

【現代語訳】
 これも仁和寺の法師の話、稚児が法師になるというのでお別れ会があり、各々が歌舞などをして遊んだ折に、一人の法師が酒に酔って興にのりすぎて、そばにあった足鼎を取って頭にかぶったところ、つかえてうまく入らないのを、鼻を押さえて平たくし、顔を差し込んで舞って出たので、座のみんながおもしろがることこの上なかった。

 しばらく舞を舞った後、足鼎を抜こうとしたが、いっこうに抜けない。酒宴も興ざめし、一同はどうしたらよいかとまどった。あれこれやってみると、首の周りが傷つき、血が流れ、ただ腫れに腫れあがって、息も詰まってきたので、鼎を打ち割ろうとしたが、簡単には割れない。頭にひびいて我慢できなくなり、割るわけにもいかない。どうしようもなくて、鼎の三本足の角の上に帷子を引っ掛けて、一人が手を引いて当人には杖をつかせて、京都にいる医師の所へ連れて行ったが、途中で出会う人が不思議そうに見るのはこの上もなかった。医師の所に入って、医師と向かい合ったそのありさまは、さぞや珍妙であったろう。物を言っても、声が中にこもってよく聞こえない。医師が、「こんなことは書物にも書いていないし、伝わっている教えもない」と言うので、再び仁和寺へ帰り、近親者や年老いた母親などが枕もとに集まって嘆き悲しむが、本人は聞いているとも思えなかった。

 そうしているうちに、ある人が、「たとえ耳や鼻がちぎれてなくなっても、命だけは助からないなどということはない。ただ力いっぱい引いてごらんなさい」と言うので、藁の穂の芯を首の周りに差し込んで、鼎を首がちぎれんばかりに引いたところ、耳や鼻が欠けて穴だけになったものの、鼎は抜けたという。危ない命を拾い、その後は長らく病んでいたそうだ。

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名を聞くより、やがて〜第七十一段

 名を聞くより、やがて面影は推しはからるる心地するを、見る時は、また、かねて思ひつるままの顔したる人こそなけれ。昔物語を聞きても、この頃の人の家の、そこほどにてぞありけんと覚え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるるは、誰もかく覚ゆるにや。

 また、如何なる折ぞ、ただいま人の云ふ事も、目に見ゆる物も、わが心のうちも、かかる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。

【現代語訳】
 名前を聞けば、すぐにその人の顔立ちが推測できるように思うものだが、実際に会って見ると、かねて思っていたとおりの顔をしている人はないものだ。昔の物語を聞いても、その物語に出てくる場所は現在の人の家のあの辺りだったろうと思われ、物語に出てくる人も、現に見る人に自然と思い合わせられるのは、誰にも覚えがあるのではなかろうか。

 また、どうかした折に、いま人の言ったことも、目に見える物も、自分の心のうちも、こういうことがいつかあったなあと思えて、いつだったかは思い出せないけれど、確かにあったような心地がするのは、私ばかりだろうかと思う。

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人の心すなほならねば〜第八十五段

 人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから正直の人、などかなからん。己(おのれ)すなほならねど、人の賢(けん)を見て羨(うらや)むは尋常(よのつね)なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす」と謗(そし)る。己(おの)が心に違(たが)へるによりて、この嘲(あざけ)りをなすにて知りぬ、この人は下愚(かぐ)の性(しやう)移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮にも賢を学ぶべからず。

 狂人の真似とて大路(おほち)を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥(き)を学ぶは驥の類ひ、舜(しゆん)を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。

【現代語訳】
 人の心は素直ではないから、偽りがないわけではない。けれども、たまには正直な人が必ずいる。自分が素直でないのに、人が賢いのを見てうらやむのは世の常のことだ。しかし、極めて愚かな人は、たまたま賢い人を見ては、これを憎む。「大きな利益を得ようとして、小さな利益を受けない。さも清潔なように偽り飾って名を上げようとしている」と悪口を言う。賢人のふるまいが自分の心と違っているために、このような悪口を言うので、その愚かさが分かってしまう。この人は、『論語』でいう下愚の性移るべからずで、偽って小さい利益をさえ断ることができず、仮にも賢人をまねることもできない。

 狂人のまねだといって大通りを走れば、まさしく狂人である。悪人のまねだといって人を殺せば、悪人である。一日に千里を行く駿馬(しゅんめ)のまねをする馬は、その駿馬と同類であり、舜帝のまねをする人は舜帝の仲間である。偽ってでも賢人を学ぶような人を、賢人というべきだ。

(注)下愚の性移るべからず・・・極めて愚かな生まれつきの性質は、いかに指導しても賢に移ることはできない。

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或者、小野道風の書ける〜第八十八段

 或(ある)者、小野道風(をののたうふう)の書ける和漢朗詠集とて持ちたりけるを、ある人、「御相伝(ごさうでん)浮ける事には侍(はべ)らじなれども、四条大納言撰ばれたる物を、道風書かん事、時代や違(たが)ひ侍らん。覚束(おぼつか)なくこそ」と言ひければ、「さ候(さうら)へばこそ、世にありがたき物には侍りけれ」とて、いよいよ秘蔵(ひさう)しけり。

【現代語訳】
 ある人が、小野道風の書いた和漢朗詠集だといって持っていたそうだが、別の人が、「道風の筆跡というお伝えは根拠がないことではないのでしょうが、四条大納言が編まれたものを道風が書いたというのは、時代が食い違ってはいませんか。そこのところがとても不審に思います」と言ったところ、「そう、だからこそ、世にも珍しい物でございます」と言って、ますます大切に所蔵したということだ。

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或人、弓射る事を習ふに〜第九十二段

 或(ある)人、弓射る事を習ふに、諸矢(もろや)をたばさみて的に向(むか)ふ。師の云(い)はく、「初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑(なほざり)の心あり。毎度ただ得失(とくしつ)なく、この一矢(ひとや)に定むべしと思へ」といふ。わづかに二つの矢、師の前にて、一つをおろかにせんと思はんや。懈怠(けだい)の心、みづから知らずといへども、師これを知る。このいましめ、万事にわたるべし。

 道を学する人、夕(ゆふべ)には朝(あした)あらん事を思ひ、朝には夕あらんことを思ひて、かさねてねんごろに修(しゆ)せんことを期(ご)す。況(いは)んや一刹那(いつせつな)のうちにおいて、懈怠の心ある事を知らんや。何ぞ、ただ今の一念において、直ちにする事の甚(はなは)だ難(かた)き。

【現代語訳】
 ある人が、弓を射ることを習うときに、二本の矢を手にはさみ持って的に向かった。すると、師匠が言うには、「初心者は、二本の矢を持ってはいけない。二本の矢を持つと、後の矢を頼りにして始めの矢をおろそかにする気持ちが生じるからだ。射るたびに当たり外れを考えるのではなく、この一本の矢で決めようと思え」と言う。しかも、師匠の前で先に射る一本の矢をいい加減にしようとは思うはずがなかろう。しかし、怠け心は、自分で意識しないといっても、師匠には分かるのだ。この戒めは、弓のことだけでなくすべてのことに通じるといえよう。

 仏道修業をする人が、夕方には翌日の朝があることを思い、朝には夕方があると思って、その時になればもう一度念を入れて修業しようと先を当てにする。そんな長い時間でもそうだから、まして一瞬の間のうちのことで怠け心が生じるのが分かろうはずがない。何とも、現在のこの瞬間において、なすべきことを直ちに実行するのがいかに困難であることか。

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

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「徒然草」について

 14世紀前半(鎌倉後期)に成立した随筆。作者は兼好法師( 吉田兼好)。書名の由来は冒頭の「つれづれなるままに」としるされた序段にあり、「心に映り行くよしなしごと」を書くという前置きに始まり、「枕草子」の形式をかりた243段からなる。しかし、扱われる主題の豊かさと、語り口の柔軟さにおいて際だった特色があり、単なる模倣とはなっていない。
 
 たとえば、倹約をすすめる松下禅尼の教訓的な話(第184段)がある一方で、やることすべてが裏目に出る良覚僧正のユーモラスな話(第45段)などもあり、人生を客観的にみることのできた兼好法師の感覚が、人間の心理、生き方、教養、趣味、実用などにおよぶ多様な話に、統一感をあたえている。全体を貫くのは世の中の移り変わりに対する無常観だが、悲観的な論調に流されず、行間からは人生や自然に対するペーソスが溢れ出ている。
 
 『徒然草』が後世にあたえた影響も大きく、戦乱期を通して知識人に愛読されたほか、江戸時代には広く出版されて、町人層へも浸透した。

吉田兼好について

 鎌倉・南北朝時代の歌人,随筆家。俗名は卜部兼好、法名は音読して兼好。「吉田」の称は吉田神社の神主の家の出身であることにちなむ冠称で、苗字ではないので、吉田兼好よりは兼好法師と呼ぶ方が正しい。治部少輔兼顕の子。
 
 堀川家の家司となり、正安3年(1301年)、後二条天皇が即位すると、天皇の母・西華門院が堀川具守の子であった縁により、六位の蔵人として仕える。延慶1年(1308年)、天皇の死去に遭い宮廷を退く。正和2年(1313年)9月以前に出家、理由は不明。
 
 歌人としては『続千載集』に1首入集し、二条為世門の和歌四天王のひとりに数えられる。康永2/興国4年(1343年)ごろ成立の家集『兼好法師集』は自選で285首と連歌2句を収める。勅撰集に18首入集している。 主著『徒然草』は「つれづれなるままに,日暮らし,硯にむかひて」で始まる序段以下、第1段から第243段まで全244章段からなる随筆集。

P R

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