本文へスキップ

モーツァルトの音楽には自我がない?

 モーツァルトの音楽には「自我がない」としてバッサリ切り捨てているのが、作家の宮城谷昌光さん。自身の著書『クラシック私だけの名曲1001曲』に、モーツァルトの曲は1曲も採り上げていません。自我の有無がクラシック音楽の好悪の判断基準になるなんて、なかなか興味深いところです。一方、そんなモーツァルトを演奏するには「空想力がものすごく必要になる」と述べているのが、元オーボエ奏者の宮本文昭さんです。

 宮本さんによれば、モーツァルトを演奏するには譜面に書いてあることだけではすまされない(というか、そもそも譜面にはほとんど指示がない)といいます。別の言い方をすれば、その人の持つリズムやテンポ感、間の取り方といった音楽的センスの全てが試されるのがモーツァルト。だからセンスのない人が弾いたり吹いたりすると、ものすごく退屈な音楽になる、って。

 なので、ドイツのオーケストラの入団試験では必ずモーツァルトをやらされるそうです。いくらほかの作曲家との相性がよくても、モーツァルトを上手に演奏できなければ、ドイツではプロの音楽家として認めてもらえない。モーツァルトをやると演奏家の実力のほどが知れる、音楽家としての中身が全部ばれてしまう、そんなとてもこわ〜い作曲家なのだそうです。

 楽器を弾けない素人にとっては「へー、そういうものか」と意外に思うお話です。しかし、これって、ひょっとしてモーツァルトの音楽が、自我のない「無垢」の音楽だからこそいえるのかもしれません。反対に、自我の強い曲であれば解釈しやすいというか、何となく演奏しやすそうだという気もします。さては、けっきょく宮城谷さんも宮本さんも、詰まるところ相通ずるお話をされているのではないかと感じる次第です。

目次へ

オーケストラによる音色の違い

 指揮者によってオーケストラの音が変わってくるように、数あるオーケストラにも独特の音色があってそれぞれに違うのでしょうか。プロの音楽家や評論家、あるいは通(つう)のファンの方だと、たとえばブラインド・テストによっても聴き分けることができるのでしょうか。

 そういえば昔、私にクラシック音楽を教えてくれた同僚に「ウィーン・フィルとベルリン・フィルの音はどう違うのか?」と尋ねたことがあります。彼の答えは「たとえるなら、ウィーン・フィルは演歌、ベルリン・フィルはポピュラー・ミュージック」というものでした。「へー」と返事したものの、実のところは分かったような分からないような・・・・・・。

 一昔前だと、違いの分かる人には、たとえばチェコ・フィルの音はすぐに「あ、これはチェコ・フィルだ」と判別できたそうですし、フィラデルフィア・サウンドなどという呼び方もあったとか。旧ソ連のオーケストラや、アメリカのメジャー・オーケストラなどにも独特の響きがあったそうです。

 ところが今は、ベルリン・フィルにしろウィーン・フィルにしろ、だいぶん個性は薄くなったといわれます。その理由に挙げられているのは、一つには楽器の性能がよくなって均一化されてきたこと、もう一つは、優秀な演奏者がグローバルに、もういろんな国や地域のオーケストラで活躍するようになったからだそうです。また、録音がデジタルになったことも影響しているのではないか、とも。

 こういう現象は、クラシック音楽ファンにとって好ましいことなのかそうでないのか。それぞれに個性があったほうが楽しいという気もします。しかし、かのバーンスタインは「ニューヨーク・フィルの音というのがあってはならない。そこにあるべきは、ハイドンの音、モーツァルトの音だけだ」と語っていたそうです。なるほどです。

目次へ

若書きの作品は薄っぺらい?

 同じ作曲家の作品であっても、当然ながら、若いときの作品もあれば、年とってからの作品もあるわけです。たとえば、ブラームスのピアノ協奏曲は2曲しかありませんが、第1番は26歳のとき、第2番は何とそれから22年を経た48歳のときの作品です。2つの作品を比較して、若書きの第1番は「気負いばかりが前面に出て、内容の薄さを感じる」などと評する向きがあります。こういうのはブラームスに限った話ではなく、多くの作曲家について、若書きの作品は「薄っぺらい」などと論評されがちです。

 しかし、そうした狭量?な捉え方はいかがなものでしょうか。いくら天才的な作曲家であっても、当然ながら一人の人間です。さまざまな経験や苦労や失敗を重ね、多くの悩みと闘いながら人間として成長していったはずです。曲だって、作曲家が生きてきた過程と共にある。だから、若いときから達観したような作品をつくるのも妙な感じだし、年とってからの作風が若いときと同じというのもおかしなことです。

 それに、若いからこそ書ける作品ってのもあるはずです。純粋で、熱い血潮がほとばしり出るような作品や、恥ずかしいほどにロマンチックな作品。そんな、年とってからは決してできないだろうなという作品。ブラームスの第1番なんか、燃えさかる情熱がそこかしこにあふれそうになるのを一生懸命に抑えよう、抑えようとしている、でも抑えきれない。実に若者らしくストイックでステキな作品だと思うんですね。皆さんにもそんな時期がおありだったでしょう?

 それを、「若書きだから薄っぺらい」とニベもなく言ってしまったんでは、まことに薄っぺらい鑑賞態度だと反論したくなります。何より、若い人たちの真っ直ぐな情熱や感性など、年を食ったおじさんなどにとって、しばしば羨望の対象となるもんだし、また、失いたくないものでもあります。だから、ただ薄っぺらいと否定的にしか捉えられないのは、自身の老化の証しだという気がします。そう思いませんか?

目次へ

モーツァルトの『フィガロの結婚』

 一人の作曲家の作品の中から好きな曲を1曲だけ選ぶ、とりわけ天才モーツァルトの作品からとなると、大いに悩むのではないでしょうか。私なんぞ、どれもこれも大好きで、とてもとても1曲だけを選ぶことはできません。

 音楽ジャーナリストの林田直樹さんは、強いて挙げるならとしながら、オペラの『フィガロの結婚』を選ぶとおっしゃっています。ちょっと意外な気がしますが、氏によれば、

 ーーフランス革命の火つけ役になったといわれるボーマルシェの原作芝居をオペラ化したこの作品は、反貴族的な長ゼリフをカットしているものの、根底には十分に革命の精神を宿している。それはすなわち、愛する主体としての人間でありたいという自己表明のようなものだ。それをモーツァルトは全精力を傾けて伝えようとしたのだと思う。――

 だそうです。これは音楽性というより、モーツァルトの思想とか作曲背景に重きを置いた選択ということでしょうか。フランスの劇作家ボーマルシェの戯曲をもとにモーツァルトが30歳のときに作曲したこのオペラは、貴族に仕えるフィガロの結婚を通じて、貴族を痛烈に批判した内容になっています。たびたび上演が禁止されたといわれ、とくにルイ16世は「この上演を許すぐらいなら、バスティーユ牢獄を破壊するほうが先だ」と激怒したとか。よくもまあモーツァルトは無事に過ごせたものです。

 牢獄といえば、映画『ショーシャンクの空に』のなかで、この『フィガロの結婚』の曲が流れる場面がありました。無実の罪で投獄された主人公が、刑務所内の図書係となり、たまたま見つけた『フィガロの結婚』のLPレコードを無断で所内の放送で流すというものでした。流れた曲は、16曲目の二重唱『そよ風に寄せて』。殺伐とした日々を送る囚人たちは、突然聴こえてきたその優しい歌声に耳をそばだて、得も言われぬ安らぎに浸る。そんな印象深いシーンでした。

 不肖私のオペラ鑑賞は邪道中の邪道でして、ストーリーとか背景は把握するものの、セリフの細かなところなどはそれほど意に介さず、ひたすら美しいアリアや重唱、オーケストラの伴奏に聴き入るばかりです。DVDも持っていますが、もっぱらCDで音楽だけを聴いています。愛聴盤は、ルネ・ヤーコプス指揮による2003年の録音です。名歌手ぞろいなうえに、テンポよく強弱のついた管弦楽、それからアリアや重唱の間に流れるピアノの通奏低音が特徴的です。

目次へ

クラシック音楽の曲名

 数多あるクラシック音楽のなかには、曲名があるのと無いのとがありますね。初心者にとっては、単に《第〇番》と呼ばれるより《運命》とか《ジュピター》とかの曲名があったほうが区別しやすくて何かとありがたいものです。実際、曲名付きの楽曲のほうが多くの人気を得やすいようで、まーそれはそういうもんでしょう。しかし一方では、誤解を招きやすく、また作曲家の意図と離れたイメージが固定化してしまう面もありますから注意が必要です。

 たとえばモーツァルトの交響曲で名前が付いているのは、第31番《パリ》、第35番《ハフナー》、第36番《リンツ》、第38番《プラハ》、第41番《ジュピター》です。パリ、リンツ、プラハは地名で、いずれも初演された地を表しています。《ハフナー》はハフナー家のために作曲した別の曲を改訂したのでこの名で呼ばれ、《ジュピター》は最高神ゼウスのことで、興行師が付けた題名です。いずれも曲の内容とは全く関係なく、モーツァルト自身もそんな名前で呼ばれているとは露も知りません。

 ベートーヴェンの交響曲第5番《運命》については、ベートーヴェンが弟子に第1楽章のジャジャジャジャーンという冒頭部分を「運命がこのように扉を叩く」と説明したという伝説からきているとされます。けっこう有名な話ですが、しかし、この伝説自体の信ぴょう性が疑わしく、さらには《運命》という題名は日本でしか使われていないといいますから「え、ホンマかいなー」と唖然とさせられます。

 またピアノ・ソナタ第14番《月光》もベートーヴェンが名付けたものではなく、この曲の第1楽章を聴いたある詩人が「スイスの湖の月光にきらめく波間に漂う小舟のよう」と評したのが元になっているそうです。また、同じくピアノ・ソナタの第15番《田園》、第23番《熱情》などはベートーヴェンの死後に出版社が勝手に名付けたもので、そのほうがよく売れるからだったそうです。まさに商業主義の副産物。ただ、交響曲第6番の《田園》はベートーヴェン自身が付けた名前です。

 ほかにも作曲家の意思とは全く無関係に名前が付けられた曲は多く、いくつか挙げますと、マーラーの交響曲第2番《復活》、同第8番《千人の交響曲》、ドボルザークの交響曲第8番《イギリス》、ショスタコーヴィチの交響曲第5番《革命》、ショパンの《別れの曲》《子犬のワルツ》《雨だれ》などです。こういうの、皆さまはいかが思われるでしょうか。あまり目くじら立てる必要はないかもしれませんが、少なくとも名前が付けられた事情は知っておいた方がよさそうです。

目次へ