本文へスキップ

双六(すごろく)に夢中になった万葉人

 双六(すごろく)という遊びは、今の子供たちや若者たちは知らないかもしれませんね。私らの世代は、子供のころに家庭内でよくやっていましたし、『小学〇年生』などの雑誌の付録なんかにもよく付いていました。そりゃ今のゲームに比べれば刺激は少なくのんびりしたもんですが、まー楽しかったですね。

 その双六は、はるか上代の昔、万葉人も夢中になった遊びの一つです。双六はもともとはインドが発祥地で、中国を経由して日本に伝わってきた遊びです。ところが、『日本書紀』には、持統天皇の時代の689年に双六を禁止したという記述があり、698年にも禁止令が出されていて、その熱狂ぶりは尋常ではなかったようです。

 『万葉集』にもサイコロの目を詠んだ歌が載っています。貴族をはじめとする上流階級の人々の間で流行した双六は、博打(ばくち)の一種でもありました。あの聖武天皇も双六がお好きだったとかで、正倉院には、ご愛用の双六盤が保存されています。しかし、754年に出された「双六禁断の法」では、双六で賭けをすると杖で百叩きの刑に処し財産を没収する、賭け事をした僧侶は100日間苦役に処す、賭け事をしている者を密告すれば賞金をあたえる、などの条項が定められました。よっぽどだったんですねー。

菟原娘子の伝説

 兵庫県芦屋市に、菟原娘子(うないおとめ)をめぐる妻争い伝説が伝わっています。『万葉集』(巻第9-1809)に収められているこの物語の現代語訳は次のようなものです。

 ――葦屋の菟原娘子(うないおとめ)は、幼い頃から垂らした髪を結い上げる年ごろまで、近くの人たちにも姿を見せず家の中にこもっていた。一目見たいと人垣をつくって言い寄る男たちの中で、とりわけ他所の土地から来た茅渟壮士(ちぬおとこ)と、娘子と同郷の菟原壮士(うないおとこ)が競い合って求婚した。太刀の柄をひねり、白い弓と靫を背負って、菟原娘子のためなら水にも火にも入ろうと争った。その時、菟原娘子が母親に言うには、つまらない私ゆえに立派な男子が命懸けで争うのを見ると、生きていてもどちらとも結婚するわけにはいきません、あの世でお待ちしましょうと。

 菟原娘子は本心を隠して、嘆きながらこの世を去った。茅渟壮士はその夜夢に見て後を追うと、後れた菟原壮士は天を仰いで叫び、地団駄を踏み歯ぎしりをして、負けてはいられないと、小太刀を帯びて後を追った。親族たちが集まり、永久に語り継ぐために、菟原娘子の墓を真ん中に、二人の壮士の墓を右と左に造った。その因縁を聞き、遠い昔のことながら、今亡くなったかのように思えて泣いたのだった。――
 

 神戸市東灘区御影町には「処女(おとめ)塚」が、その東西1kmほどの所には二人の男の「求女(もとめ)塚」がそれぞれ残っています。菟原娘子の墓の傍に、彼女の挿していた黄楊(つげ)の櫛(くし)が根づいて育ち、やがてその枝が茅渟壮士の墓のほうになびいていったといいます。菟原娘子は本当は、同じ郷里の菟原壮士よりも、他所から来た茅渟壮士が好きだったんですね。

万葉集 ↑このページの先頭へ