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元暦の大地震

 また、同じころかとよ、おびただしく大地震(おほなゐ)ふることはべりき。そのさま、世の常ならず。山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いはほ)割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波に漂ひ、道行く馬は足の立ちどを惑はす。都のほとりには、在々所々(ざいざいしよしよ)、堂舎塔廟(だうしやたふめう)、一つとして全(また)からず。あるいはくづれ、あるいは倒れぬ。塵灰(ちりはひ)たちのぼりて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家の破るる音、雷(いかづち)に異ならず。家の内にをれば、たちまちにひしげなむとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、ただ地震(なゐ)なりけりとこそ覚えはべりしか。

 かく、おびたたしくふることは、しばしにてやみにしかども、その余波(なごり)、しばしは絶えず。世の常驚くほどの地震、二、三十度ふらぬ日はなし。十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠(まどほ)になりて、あるいは四、五度、二、三度、もしは一日(ひとひ)まぜ、二、三日に一度など、おほかたその余波、三月(みつき)ばかりやはべりけむ。

 四大種(しだいしゆ)のなかに、水・火・風は常に害をなせど、大地に至りては異なる変をなさず。昔、斉衡(さいかう)のころとか、大地震ふりて、東大寺の仏の御首(みくし)落ちなど、いみじきことどもはべりけれど、なほこの度(たび)にはしかずとぞ。すなはちは、人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にしのちは、言葉にかけて言ひ出づる人だになし。

【現代語訳】
 また、同じころだったか、ものすごい大地震があったことがある。そのさまは尋常ではなかった。山は崩れ、その土が河をうずめ、海が傾いて陸地に浸水した。大地は裂けて水が湧き出し、大きな岩が割れて谷に転がり落ちた。波打ち際を漕ぐ船は波の上に漂い、道行く馬は足の踏み場に惑っている。都のあたりでは、至るところ、寺のお堂や塔も、一つとして無事なものはない。あるものは崩れ、あるものは倒れている。塵や灰が立ち上って、もうもうとした煙のようである。大地が揺れ動き、家屋が倒れる音は、雷の音とそっくりだ。家の中にいると、あっという間に押しつぶされかねない。かといって、外に走り出れば大地が割れ裂ける。羽がないので、空を飛ぶこともできない。竜であったなら、雲にでも乗るだろうに。これまでの恐ろしかった経験の中でも、とりわけ恐ろしいのは、やはり地震だと思った。

 このように、大揺れしたのは少しの間でやんだが、その余震がしばらく続いて絶えなかった。ふつうでも驚くほどの地震が、に、三十回揺れない日がない。しかし、十日、二十日とたつうちに、しだいに間隔があき、ある日には一日に四、五回、それが二、三回になり、もしくは一日おき、二、三日おきに一回というふうになり、だいたい三ヶ月くらい余震が続いただろうか。

 四大種(地・水・火・風)の中で、水と火と風は常に害をなすものだが、大地の場合はふつうには異変を起こさない。昔、斉衡のころとかに、大地震が起きて、東大寺の大仏のお首が落ちたりして大変だったらしいが、それでもやはり今度の地震には及ばないとか。その直後には、だれもかれもがこの世の無常とこの世の生活の無意味さを語り、いささか欲望や邪念の心の濁りも薄らいだように思われたが、月日が重なり、何年か過ぎた後は、そんなことを言葉にする人もいなくなった。

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処世の不安

 すべて世の中のありにくく、わが身と住みかとの、はかなく、あだなるさま、またかくのごとし。いはむや、所により、身のほどに従ひつつ、心を悩ますことは、あげて数ふべからず。

 もし、おのれが身、数ならずして、権門(けんもん)の傍らにをるものは、深く喜ぶことあれども、大きに楽しむにあたはず。嘆き切(せち)なるときも、声をあげて泣くことなし。進退安からず、起居(たちゐ)につけて、恐れをののくさま、例へば、雀の鷹(たか)の巣に近づけるがごとし。もし、貧しくして、富める家の隣にをるものは、朝夕すぼき姿を恥ぢて、へつらひつつ出で入る。妻子・僮僕(どうぼく)のうらやめるさまを見るにも、福家(ふくか)の人のないがしろなる気色(けしき)を聞くにも、心念々に動きて、時として安からず。もし、せばき地にをれば、近く炎上(えんじやう)ある時、その災(さい)を逃るることなし。もし、辺地にあれば、往反(わうへん)わづらひ多く、盗賊の難甚だし。また、勢ひあるものは貪欲(とんよく)深く、独り身なるものは人にかろめらる。財(たから)あれば恐れ多く、貧しければ恨み切なり。人を頼めば、身、他の有(いう)なり。人をはぐくめば、心、恩愛につかはる。世に従へば、身苦し。従はねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。

【現代語訳】
 総じて世の中が生きにくく、わが身と住みかとが、頼りなくはかないようすは、これまで述べてきたとおりだ。まして、住んでいる場所により、身分に応じて心を悩ませることは、いちいち数え上げられるものではない。

 もしも自分の身が、取るに足らない身分で、官位が高く権力のある人のそばに住んでいる者があったとしたら、深く喜ぶことはあっても、大いに楽しむことはできない。また、嘆きが痛切なときであっても、同じように声をあげて泣くことはない。立ち居ふるまいも気安くできず、何をするにも隣家を恐れてびくびくしているのは、たとえていえば、雀が鷹の巣に近づいているようなものだ。もしも貧乏で、金持ちの家の隣に住む者があるとすれば、明けても暮れてもみすぼらしい自分の姿を恥じて、こびへつらいながら自分の家を出入りするようになる。自分の家族や召使いが、隣家をうらやましがっているのを見るにつけても、また金持ちの家の者が、こちらを無視して軽蔑しているようすを聞くにつけても、自分の心は絶えず動揺して、少しの間も心が安らかにならない。もしも、人家がひしめく狭い土地に住んでいれば、近所に火事が起こると延焼を免れることはできない。もしもへんぴな土地に住んでいれば、都への行き来に苦労が多く、盗賊の被害にあうことも多くなる。また、権勢のある者はあくまで欲が深く、頼る人が少なく勢力のない者は人に軽蔑される。財産があると心配が多く、貧しいと嘆きが大きい。また、他人を頼りにすると、自分の身は他人の所有物となる。人の世話をすると、愛情を注ぐのに気苦労する。世間の習慣に従うと、身が窮屈になる。従わないと、気が狂っていると見られる。いったい、どんな場所に住んで、どんな仕事をしたら、少しの間でもこの身を安住させ、心を休めることができるのだろうか。

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出世遁世

 わが身、父方の祖母(おほば)の家を伝へて、久しくかの所に住む、その後、縁(えん)欠けて身衰へ、しのぶかたがたしげかりしかど、つひに跡とむることを得ず、三十(みそぢ)余りにして、さらにわが心と、一つの庵を結ぶ。これをありし住まひに並ぶるに、十分(じふぶ)が一なり。居屋(ゐや)ばかりをかまへて、はかばかしく屋を造るに及ばず。わづかに築地(ついひぢ)を築(つ)けりといへども、門(かど)を建つるたづきなし。竹を柱として車を宿せり。雪降り、風吹くごとに、危ふからずしもあらず。所、河原近ければ、水の難も深く、白波の恐れもさわがし。

 すべて、あられぬ世を念じ過ぐしつつ、心を悩ませること、三十余年なり。その間、をりをりのたがひめ、おのづから短き運を悟りぬ。すなはち、五十(いそぢ)の春を迎へて、家を出で、世を背(そむ)けり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄(くわんろく)あらず、何につけてか執(しふ)をとどめむ。むなしく大原山の雲に伏して、また五(いつ)かへりの春秋(はるあき)をなむ経にける。

【現代語訳】
 わが身は、はじめ父方の祖母の家屋敷を引き継いで、長らくそこに住んでいた。その後、世に立つ縁故を失って身は落ちぶれてしまい、懐かしい思い出は数多くあったが、とうとう住み続けることもできずに、三十歳を過ぎて新たに思い立って、一つの庵を構えた。これは以前の住まいと比べれば、十分の一の大きさだった。ただ自分が起居するだけのもので、しっかりした家屋を造ったのではなかった。何とか土塀だけは築いたが、門を建てるだけの資力がなかった。竹を柱として、中に牛車を入れておいた。こんなふうだから、雪が降り、風が吹くたびに、危うくないわけでもない。場所が賀茂川の河原に近いため、洪水の災害も多く、盗賊に襲われる心配も多かった。

 総じて、生きにくいこの世をがまんしながら過ごしてきて、心を悩ませながら三十余年が過ぎた。その間、折々のつまずきを経て、自分のはかない運命を悟った。そこで、五十歳の春を迎えて、出家して俗世間を離れた。もともと妻子はなく、捨てがたい身寄りもない。自分には官位や俸禄もないので、何に執着があろうか。そうしてむなしく大原山の雪深い山中に住んで、さらに五度の春秋を経てしまった。

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方丈の庵

(一)
 ここに、六十(むそじ)の露消えがたに及びて、さらに末葉(すゑば)の宿りを結べることあり。言はば旅人の一夜(ひとよ)の宿を作り、老いたる蚕の繭(まゆ)を営むがごとし。これを中ごろの栖(すみか)に並ぶれば、また、百分が一に及ばず。とかく言ふほどに齢(よはひ)は歳々(としどし)に高く栖は折々に狭(せば)し。その家のありさま、世の常にも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺が内なり。所を思ひ定めざるがゆゑに、地を占めて作らず。土居(つちゐ)を組み、うちおほひを葺(ふ)きて、継ぎ目ごとに掛け金を掛けたり。もし心にかなはぬことあらば、やすくほかへ移さむがためなり。その改め作ること、いくばくの煩ひかある。積むところわづかに二両、車の力を報ふほかには、さらに他の用途(ようどう)いらず。

 いま日野山の奥に跡を隠して後、東に三尺余りの庇(ひさし)をさして、柴折りくぶるよすがとす。南、竹の簀子(すのこ)を敷き、その西に閼伽棚(あかだな)を作り、北に寄せて障子を隔てて阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢(ふげん)を掛き、前に法華経を置けり。東の際(きは)に蕨(わらび)のほどろを敷きて、夜の床(ゆか)とす。未申(ひつじさる)に竹のつり棚を構へて、黒き皮籠(かはご)三合を置けり。すなはち、和歌・管弦・往生要集ごときの抄物(せうもつ)を入れたり。傍らに琴、琵琶(びは)おのおの一張を立つ。いはゆる折琴(をりごと)、継(つぎ)琵琶、これなり。仮の庵のありやう、かくのごとし。

【現代語訳】
 さて、六十歳の露のようにはかなく命が消えようとするころになって、新たに晩年を過ごす住まいを構えることとなった。たとえて言うなら、旅人が一晩の宿を作り、老いた蚕が繭をつくるようなものだ。この庵は、壮年のころの住まいに比べると、百分の一にも及ばない。あれこれ言っているうちに、歳を一年一年重ね、住まいは転居のたびにだんだん狭くなる。新たに作ったその家のようすは、世間一般のものとは少しも似ていない。広さはやっと一丈四方で、高さは七尺にも満たない。場所がどこでないといけないとは決めないので、土地を所有して作りはしない。土台を組み、簡単な屋根を葺いて、材木の継ぎ目継ぎ目に掛け金を掛けてある。もし気に入らないことがあれば、容易に他の場所へ移そうとするためだ。その建物の建て直しに、どれほどの手数がかかろうか。車に積んでもたった二台に過ぎず、車の手間賃のほかには、少しも費用がかからない。

 今、日野山の奥に隠れ住むようになってから、庵の東に三尺あまりの庇を差し出し、その下で柴を折りくべて炊事をする場所とした。南側には竹の簀の子を敷いて、その西側に閼伽棚を作り、その北のほうに寄せて衝立(ついたて)を隔てて阿弥陀の絵像を安置し、そのそばに普賢菩薩の絵像を掛けて、前には法華経を置いてある。東の端には伸びた蕨の穂が開いたのを敷いて、寝床にしている。南西には竹のつり棚を作って、黒い皮製のつづらを三つ置いてある。それは何かといえば、和歌・管弦に関する書、往生要集というような注釈書を入れてある。そのそばに琴、琵琶それぞれ一張を立ててある。世に言う折琴、継琵琶がこれである。仮の庵のありさまは、このようなものだ。
 
(注)折琴・・・折りたたみのできる琴。
(注)継琵琶・・・柄が取り外しできる琵琶。

(二)
 その所のさまを言はば、南に懸樋(かけひ)あり、岩を立てて水をためたり。竹の木近ければ爪木(つまぎ)を拾ふに乏しからず。名を音羽(おとは)山といふ。まさきのかづら、跡うづめり。谷しげれど、西晴れたり。観念のたより、なきにしもあらず。

 春は藤波(ふじなみ)を見る。柴雲のごとくして、西方(さいはう)ににほふ。夏は、ほととぎすを聞く。語らふごとに死出の山路を契る。秋は、ひぐらしの声耳に満てり。うつせみの世を悲しむほど聞こゆ。冬は、雪をあはれぶ。積もり消ゆるさま、罪障にたとへつべし。もし念仏もの憂く、読経まめならぬときは、自ら休み、自ら怠る。妨ぐる人もなく、また恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、ひとりをれば、口業(くごふ)を修めつべし。必ず禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ、何につけてか破らむ。

 もし跡の白波にこの身を寄する朝(あした)には、岡の屋に行き交ふ船を眺めて満沙弥(まんしゃみ)が風情を盗み、もしかつらの風、葉を鳴らす夕べには、尋陽(じんやう)の江を思ひやりて源都督(げんととく)の行ひをならふ。もし余興あれば、しばしば松の響きに秋風楽(しうふうらく)をたぐへ、水の音に流泉の曲を操る。芸はこれつたなけれども、人の耳を喜ばしめむとにはあらず。ひとり調べ、ひとり詠じて、自ら情(こころ)を養ふばかりなり。

【現代語訳】
 その辺りのようすを言うならば、南に懸樋があり、そこに岩を立てて水をためてある。林の木が近いので、薪(たきぎ)にする折れ枝を拾うのに不自由はしない。この辺りの地名は音羽山という。まさきのかずらが、人の通る小道を埋めている。谷には木が茂っているが、西のほうは開けて見晴らしがよい。阿弥陀如来の西方浄土のさまを念じる手がかりがなきにしもあらずだ。

 春には、藤の花を眺める。極楽往生すれば西方に現れるという紫の雲のようであり、極楽浄土がある西方に咲きにおう。夏には、ほととぎすの鳴き声を聞く。彼らと語り合うたび、死んだら冥土の道案内をしてくれるようにと約束する。秋には、ひぐらしの声が耳じゅうに満ちあふれる。その声は、はかないこの世を悲しんでいるようにも聞こえる。冬には、雪をしみじみと眺める。雪が積もっては消えるようすは、怠け心で心に積もり、改心して消えていく罪障にたとえられるようだ。もし念仏に気が進まず、読経に集中できないときは、自分勝手に休み、自分勝手に怠ける。それを妨げる人もいないし、恥ずかしく思うような相手もいない。わざわざ無言の行をしているわけではないが、たった一人なので、口の災いを招くこともない。必ずしも仏の禁戒を守ってはいないが、そもそも禁戒を破るような環境がないので、何によって破ることがあろうか。

 もし、船が通った跡に立つ白波にわが身を思いくらべる朝であれば、岡の屋に行き交う船を眺め、沙弥満誓の風流のわざを盗んで歌を詠み、もしまた、かつらを吹く風が葉を鳴らす夕べであれば、白楽天が琵琶の音色に耳を傾けたという尋陽江を思い浮かべ、源都督が琵琶を弾じたのをまねる。もし興趣が尽きなければ、たびたび松風の音に秋風楽を合わせて演奏し、水の音に合わせて流泉の曲を奏する。腕前はつたたないが、人に聞かせて喜ばせようとするものではない。一人で琵琶を弾じ、一人で歌って、自らの心を慰めるだけだ。
 
(注)まさきのかづら・・・常緑のつる草の総称。

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早暁の念仏

 そもそも、一期(いちご)の月影かたぶきて、余算(よさん)、山の端(は)に近し。たちまちに三途(さんづ)の闇に向かはむとす。何のわざをかかこたむとする。仏の教へたまふ趣は、ことにふれて執心(しふしん)なかれとなり。今、草庵を愛するもとがとす。閑寂(かんせき)に著(ぢやく)するもさはりなるべし。いかが要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさむ。

 静かなる暁(あかつき)、このことわりを思ひつづけて、みづから心に問ひていはく、余を遁(のが)れて、山林にまじはるは、心を修めて道を行はむとなり。しかるを、汝(なんぢ)、姿は聖人(ひぢり)にて、心は濁りに染(し)めり。住みかはすなはち、浄名居士(じやうみやうこじ)の跡を汚せりといへども、保つところは、わづかに周利槃特(しゆりはんどく)が行ひにだに及ばず。もしこれ、貧賤(ひんせん)の報いのみづから悩ますか、はたまた妄心(まうしん)の至りて狂せるか。その時、心さらに答ふることなし。ただ、傍(かたは)らに舌根(ぜつこん)をやとひて、不請(ふしやう)の阿弥陀仏、両三遍(りやうさんべん)申してやみぬ。

 時に、建暦(けんりやく)の二年(ふたとせ)、三月(やよひ)のつごもりごろ、桑門(さうもん)の蓮胤(れんいん)、外山(とやま)の庵にして、これを記す。

【現代語訳】
 さて、私の一生も、月が西に傾いて山際に近づくように残り少なくなった。たちまちのうちに死がやって来て、三途の闇に向かおうとしている。今さら何の愚痴も言うまい。仏がお教えになる趣意は、何事にも執着してはならないということだ。そうすると、今、この草庵を愛するのも罪となる行いだ。世間を離れ、静かで寂しい庵の生活に執着するのもよくないのだ。どうして、役に立たない楽しみを述べ立てて、無駄な時間を過ごしてよいものか。

 静かな夜明け方に、この道理を思い続けて、みずからの心に問うて言ったことは、俗世間を逃れて山林に分け入って身を隠したのは、心を修養して仏道を修めようとするためだった。ところが、お前は、姿は僧でありながら心は俗世間の欲に染まっている。住まいは、ほかならぬ浄名居士が方丈の庵に住んだというまねをしているが、仏の戒律を保っているとはいえ、どうやら、悟りを開くことができなかったころの周利槃特の行いにさえ及んでいない。もしやこれは、前世の報いの貧賤が自分を悩ましているのか、はたまた迷いの心が気を狂わしているのか。その時、私の心は答えることができない。ただ、身近な舌を借りて、何の願いもない念仏を二、三度唱えたのみで終えてしまった。

 時に、建暦二年三月の下旬、僧の蓮胤が、外山の庵でこれを書き記した。
 
(注)蓮胤・・・鴨長明の法名。

(二)
 前の年、かくの如く辛うじて暮れぬ。明くる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘(えきれい)うちそひて、まささまにあとかたなし。世の人みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水(せうすい)の魚(いを)のたとへにかなへり。はてには、笠打ち着、足引き包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごと乞ひ歩(あり)く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地(ついひぢ)のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香(か)世界にみち満ちて、変りゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。いはむや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし。あやしき賤山(しづやま)がつも力尽きて、薪(たきぎ)さへ乏しくなりゆけば、頼むかたなき人は、自らが家をこぼちて、市に出でて売る。一人が持ちて出でたる価(あたひ)、一日が命にだに及ばずとぞ。あやしき事は、薪の中に、赤き丹(に)着き、箔(はく)など所々に見ゆる木、あひまじはりけるを尋(たづ)ぬれば、すべきかたなきもの、古寺に至りて仏を盗み、堂の物の具を破り取りて、割り砕けるなりけり。濁悪世(ぢょくあくせ)にしも生れ合ひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。

【現代語訳】
 前の年は、こうしてやっとのことで暮れた。翌年は立ち直るだろうかと思っていると、立ち直るどころか、その上に疫病までが重なって、いっそうひどい状況となり、何もかもだめになった。世間の人々は皆飢えきっており、日が経つにつれて行き詰っていくありさまは、「少水の魚」のたとえにも等しい。ついには、笠をかぶり、足を包んで、よい身なりをした婦人までが、一途に家々に物乞いをして歩いている。このように困窮した人々は、今歩いていたかと見れば、いきなり倒れてしまう。土塀の前や道端には、飢え死にした者らの数が計り知れない。死体を取りかたづける術もなく、死臭があたり一面に充満し、腐って変わっていく顔や姿は、むごたらしくて目も当てられないのが多い。まして、河原などは死体の山で馬や牛車が通れる道さえない。身分の低い農夫や木こりも力が尽き果て、薪さえ乏しくなっていき、頼るところがない人は自分の家を壊し、それを市に出して売る。それでも一人が持ち出して売った価は、一日の命をつなぐのにさえ間に合わないという。けしからんことに、そういう薪の中に赤い丹の塗料がつき、金や銀の箔などが所々にある木がまじっていたので、調べてみると、どうしようもなくなった者が古寺に行き、仏像を盗み、堂の中の仏具を壊して取ってきて、割り砕いて売り出したという。濁りきった末法の世に生れあい、このような情けない行いを見てしまった。

(三)
 また、いとあはれなる事も侍りき。さりがたき妻(め)・をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、稀々(まれまれ)得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なほ乳(ち)を吸ひつつ、臥(ふ)せるなどもありけり。仁和寺(にんなじ)に隆暁法院(りうげうほふいん)といふ人、かくしつつ数も知らず死ぬる事を悲しみて、その首(かうべ)の見ゆるごとに、額(ひたひ)に阿字(あじ)を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らむとて、四・五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条より北、京極(きやうごく)よりは西、朱雀(すざく)よりは東の、路(みち)のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける。いはむや、その前後に死ぬるもの多く、また、河原・白河・西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはんや、七道諸国をや。

【現代語訳】
 また、しみじみと感動することもあった。お互いに離れられない夫婦は、その愛情が深いほうが必ず先に死んだ。なぜなら、わが身は二の次にして相手をいたわるので、ごくまれに手に入った食べ物も、相手に譲るからだ。だから、親子となると、決まって親が先に死んだ。また、母親の命が尽きているのを知らないで、なおも乳房を吸いながら寝ているという情景もあったそうだ。仁和寺にいた隆暁法院という人は、これほどに数え切れない人が死んでいくのを悲しみ、死体の首を見るたびに、額に阿字を書いて仏縁を結ばせ成仏できるようになさったという。死者の数を知ろうと、四月五月の二か月の間に数えたところ、都では、一条から南、九条から北、京極から西、朱雀からは東の路ばたにあった死体は、全部で四万二千三百あまりあったという。まして言うまでもなく、その前後に死んだ者も多く、また、賀茂河原・白河・西の京、その他もろもろの辺地などを加えていけば、際限もなかろう。まして、日本全国となると見当もつかない。

(注)阿字・・・阿という文字。梵語(古代インド語)の十二母音の一番目で、一切の言語、文字がこの音をもとに生ずるとされた。

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

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万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

方丈記について

 作者の鴨長明は、鎌倉時代の歌人・文人。本来は「かものながあきら」と読むのが正しい。法名蓮胤(れんいん)。賀茂神社の神官の子に生まれ、中原有安から琵琶をならい、俊恵法師に和歌を学んで、若いころから両道にすぐれた才能を発揮した。宮廷歌人としても活躍したが、父の死後、同族間の跡目争いにやぶれたことをきっかけに、出家遁世した。

 出家の後、洛南日野の方丈の庵で書かれた『方丈記』は、日本三大随筆のひとつとされ、仏教文学、隠者文学として名高い。長明が57歳のときに成立したとされ、前半は、中世的な無常観をもって、長明が直接体験した五大災害(安元の大火・治承の辻風・福原遷都・養和の飢饉・元暦の大地震)を描写、この世の無常とはかなさを実証している。

 後半は、まず自身の家系、住環境について述べ、続いて、出家遁世して住んだ大原山のこと、日野に移り方丈の庵を築いてからの閑寂な生活を、仏道への心の傾斜を見せつつ描いている。『枕草子』や『徒然草』のように分段形式はとらず、一貫して流れる筋を一気呵成に展開させているのが特色。

時代背景

 「方丈記」の時代、すなわち鴨長明の生きた時代は、平安末期〜鎌倉初期にかけての、源平の抗争による大動乱期に当たっていた。

 長明の生まれた仁平3年には平清盛が平家一門の棟梁となり、4歳の年には保元の乱が、また7歳の年には平治の乱が起こり、さらに15歳の年には清盛が太政大臣となり、初めて武士が政権を握った。

 そして、長明33歳の年には壇の浦の合戦で平家が滅亡、40歳の建久3年には源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉に幕府を開いた。こうした争乱に加えて、「方丈記」に記されているような天変地異も相次ぎ、世の中がますます混乱した時代だった。

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三大随筆の比較

枕草子
 「山は」「川は」などの類聚的な段、自然と人事についての随想的な段、宮仕え中に体験・見聞した日記・自伝的な段などの諸段からなる。自然や人生の美をとらえようとする精神にあふれ、「をかし」の文学と呼ばれる。体言止め・連体形止め・省略などを用いた簡潔な文章。

 
方丈記
 前半は、作者の体験した安元の大火・治承の大風、同年の福原遷都・養和から寿永と続いた飢饉・元暦の大地震などの天災地変について記し、後半は自身の閲歴を述べ、続いて草庵での閑寂生活を綴っている。全編を通じて無常観と隠者としての厭世思想が主軸となっている。簡潔な和漢混交文。

 
徒然草
 200数十段からなり、多種多様の随想・見聞を綴っている。有職故実の知識や深い学問教養に基づく趣味論や、無常観に根ざす人生論、また仏教的思想の叙述や過去の回想的記述もある。無常観を基盤に鋭い批判をこめた、さまざまな文体からなっている。

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