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 花の咲き散るをりごとに、乳母(めのと)なくなりしをりぞかしとのみあはれなるに、同じをりなくなりたまひし侍従の大納言の御女(みむすめ)の手を見つつ、すずろにあはれなるに、五月(さつき)ばかりに、夜ふくるまで、物語を読みて起きゐたれば、来(き)つらむ方も見えぬに、猫のいとなごう鳴いたるを、驚きて見れば、いみじうをかしげなる猫あり。いづくより来つる猫ぞと見るに、姉なる人、「あなかま、人に聞かすな。いとをかしげなる猫なり。飼はむ」とあるに、いみじう人慣れつつ、かたはらにうち伏したり。尋ぬる人やあると、これを隠して飼ふに、すべて下衆(げす)のあたりにも寄らず、つと前にのみありて、物もきたなげなるは、ほかざまに顔を向けて食はず。

 姉おととの中につとまとはれて、をかしがりらうたがるほどに、姉の悩むことあるに、もの騒がしくて、この猫を北面(きたおもて)にのみあらせて呼ばねば、かしがましく鳴きののしれども、なほさることにてこそはと思ひてあるに、わづらふ姉驚きて、「いづら、猫は。こち率(ゐ)て来(こ)」とあるを、「など」と問へば、「夢にこの猫のかたはらに来て、『おのれは侍従の大納言殿の御女のかくなりたるなり。さるべき縁のいささかありて、この中の君のすずろにあはれと思ひいでたまへば、ただしばしここにあるを、このごろ下衆の中にありて、いみじうわびしきこと』と言ひて、いみじう鳴くさまは、あてにをかしげなる人と見えて、うち驚きたれば、この猫の声にてありつるが、いみじくあはれなるなり」と語りたまふを聞くに、いみじくあはれなり。

 そののちは、この猫を北面にもいださず、思ひかしづく。ただひとりゐたるところに、この猫が向かひゐたれば、かいなでつつ、「侍従の大納言の姫君のおはするな。大納言殿に知らせ奉らばや」と言ひかくれば、顔をうちまもりつつ、なごう鳴くも、心のなし、目のうちつけに、例の猫にはあらず、聞き知り顔にあはれなり。

【現代語訳】
 桜の花が咲いては散るたびに、乳母が亡くなったころだったと、そればかり思い出してしみじみとした気持ちになるのに、同じころに亡くなられた侍従の大納言の姫君の筆跡を繰り返し見ては、しきりに悲しくなった。五月ごろ、夜更けまで物語を読んで起きていると、どこからやって来たのか、猫がとてもおだやかな声で鳴いていたので、はっとして見ると、とてもかわいらしい猫がいる。どこから来た猫かと見ていると、姉が、「しっ、静かに、人に知らせてはだめ。とてもかわいい猫ね。私たちで飼いましょう」と言うと、猫はとても人なつっこく私たちのそばに身を横たえている。捜している人がいるかもしれないと思い、隠しながら飼ったが、この猫は決して身分の低い者のそばにも寄りつかず、じっと私たちの前にばかりいて、えさも汚らしい物は、よそに顔を向けて食べない。
 
 私たち姉妹にじっとまとわりついているのを、面白く思いかわいがっているうちに、姉が病気になったことがあり、家中があわただしくなって、この猫を北向きの部屋ばかりにおいて、こちらには呼ばないでいたところ、うるさく鳴き騒いだが、飼い主から離れるとそういうものだとそのままにしていた。そのうち、病気の姉が目を覚まして、「どこなの、猫は。こちらに連れてきてちょうだい」と言うので、「どうして」と聞くと、「夢の中でこの猫が私のそばに来て、『私は、侍従の大納言様の姫君がこのように猫に生まれ変わったものです。前世からこうなる因縁が少しばかりあり、この中の君(作者のこと)がしきりに私のことを懐かしんで思い出してくださるので、ほんのしばらくこの家にいるのですが、このごろは身分の低い者たちの中にいるので、とても辛いのです』と言いながら、しきりに鳴くようすがいかにも気品がありかわいらしい人に見えて、はっと目が覚めたら、この猫の声が聞こえたので、とてもしみじみと感じられたのです」と話すのを聞き、私もまたたいそうしんみりしてしまった。
 
 その後は、この猫を北向きの部屋に出すこともせず、大切にかわいがった。私がただ一人で座っているところに、この猫が向き合って座るので、なでてやっては、「侍従の大納言の姫君がこうしてここにいらっしゃるのですね。大納言様にお知らせ申し上げたいものだわ」と話しかけると、私の顔をじっと見つめたままおだやかな声で鳴くのも、気のせいか、ふと見たところ、ふつうの猫ではなく、私の言葉がよく分かっているようで、しんみりとした気持ちになった。

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姉の死

 その五月(さつき)の朔日(ついたち)に、姉なる人、子産みてなくなりぬ。よそのことだに、幼くよりいみじくあはれと思ひ渡るに、まして言はむかたなく、あはれ悲しと思ひ嘆かる。母などは皆なくなりたる方にあるに、形見にとまりたる幼き人々を左右(ひだりみぎ)にふせたるに、荒れたる板屋の隙(ひま)より月のもり来て、乳児(ちご)の顔に当たりたるが、いとゆゆしく覚ゆれば、袖を打ちおほひて、いま一人をもかき寄せて、思ふぞいみじきや。

 そのほど過ぎて、親族(しぞく)なる人のもとより、「昔の人の必ず求めておこせよとありしかば、求めしに、そのをりはえ見いでずなりにしを、今しも人のおこせたるが、あはれに悲しきこと」とて、かばね尋ぬる宮といふ物語をおこせたり。まことにぞあはれなるや。返りごとに、

  うづもれぬかばねを何に尋ねけむ苔(こけ)の下には身こそなりけれ

【現代語訳】
 その年の五月一日に、姉が子を産んで亡くなった。他人の死さえ、小さいころからとても悲しく思ってきたから、まして肉親である姉の死は何とも言いようがなく、切なく悲しいと深く嘆かれたことだった。母など皆は亡くなった姉の所にいるので、私は姉の忘れ形見として残った幼い子どもたちを自分の左右に寝かせた。すると、荒れた板葺きの屋根のすき間から月の光がもれてきて、赤ん坊の顔に当たっているのがとても不吉な感じがしたので、袖をおおいかぶせて、もう一人の子も引き寄せて、子どもたちの将来を思うとたまらなく悲しくなった。
 
 その時期が過ぎると、親類の人の所から、「亡くなったあなたのお姉さんが生前にぜひ探し求めて送ってほしいと言っていたので、捜したのですが見つけられずにいて、今になってある人が送ってきたのが、何とも悲しいことです」といって、「かばね尋ぬる宮」という物語を送ってきた。そのいきさつを知り、しみじみと悲しい思いがした。返事として歌を送った。
 
 この物語は埋もれることなく残っているというのに、姉はどうして捜し求めたのでしょう。姉自身が苔の下の「かばね」になってしまったのに。
 
(注)かばね尋ぬる宮・・・現存しない。悲恋物語か。作者の歌では「屍」の意も掛けてある。

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東より人来たり

 東(あづま)より人来たり。「神拝(しんぱい)といふわざして国の内ありきしに、水をかしく流れたる野の、はるばるとあるに、木(こ)むらのある、をかしき所かな、見せでと、まづ思ひいでて、ここはいづことかいふと問へば、子忍びの森となむ申すと答へたりしが、身によそへられて、いみじく悲しかりしかば、馬より降りて、そこに二時(ふたとき)なむながめられし。

  とどめおきてわがごと物や思ひけむ見るに悲しき子忍びの森

となむおぼえし」とあるを見る心地、いへばさらなり。返りごとに、

  子忍びを聞くにつけてもとどめおきしちちぶの山のつらき東路(あづまぢ)

【現代語訳】
 東国(常陸の国)から、父の使いがやって来た。父からの手紙には、「神拝ということをして国内を歩き回ったとき、水が趣深く流れている野原がはるばると広がり、森があるのを見て、美しい所だ、お前に見せてやれなくて残念だと、まずお前のことを思い出した。ここは何という所かと尋ねると、子忍びの森と申しますとそこの人が答えたのが、わが身になぞえられて、何とも悲しかった。馬から降りて、その場所でかなり長い時間ぼんやりと物思いにふけったことだ。
 
 子を遠くに残した誰かが、私と同じように物思いをしたのだろうか。見るにつけても悲しい気持ちになる子忍びの森であるよ。
 
と思った」と書いてあり、それを見た私の気持ちの切なさは言いようもなかった。返事として、
 
 子忍びの森のことを聞くにつけても、私を残して秩父の山のある東国に行ってしまわれた父上のことがうらめしく思われます。

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父の帰京

 東(あづま)に下りし親、からうじて上りて、西山なる所に落ち着きたれば、そこに皆渡りて見るに、いみじううれしきに、月の明かき夜 一夜(ひとよ)物語りなどして、

  かかる世もありけるものを限りとて君に別れし秋はいかにぞ

と言ひたれば、いみじく泣きて、

  思ふことかなはずなぞといとひこし命のほども今ぞうれしき

 これぞ別れの門出と言ひ知らせしほどの悲しさよりは、平らかに待ちつけたるうれしさも限りなけれど、「人の上にても見しに、老い衰へて世にいで交らひしは、をこがましく見えしかば、われはかくて閉ぢこもりぬべきぞ」とのみ、残りなげに世を思ひ言ふめるに、心細さ堪へず。

 東(ひむがし)は野のはるばるとあるに、東の山ぎはは、比叡(ひえ)の山よりして、稲荷(いなり)などいふ山まであらはに見え渡り、南は双(ならび)の丘の松風、いと耳近う心細く聞えて、うちには頂のもとまで、田といふものの、ひた引き鳴らす音など、田舎の心地して、いとをかしきに、月の明かき夜などは、いとおもしろきを、ながめ明かし暮らすに、知りたりし人、里遠くなりて音もせず。たよりにつけて、「なにごとかあらむ」と伝ふる人に驚きて、

  思ひいでて人こそとはね山里のまがきの荻(をぎ)に秋風は吹く
と言ひにやる。

【現代語訳】
 東国に下っていた父が、ようやく任期を終えて上京し、西山にある家に落ち着いたので、そこに家族みんなが集まって会ったが、うれしさのあまり、月の明るい夜に一晩中話などして、私が歌に詠んで、
 
 こうして再会できる時もあったのに、これが最後だといってお別れしたあの秋は、どれほど悲しかったことか。
 
と言えば、父はひどく泣いて、次のような歌で答えた。
 
 思うことがかなわないのは何故だろうかと、厭に思ってきた命の長さも、今となってはうれしいことだ。
 
 これが最後の別れの門出だと言い知らせた時の悲しさに比べて、無事に再会を待ち得たうれしさはこの上もなかったが、父が、「これまで他人の身の上を見るにつけ、老い衰えて世間に出て官職についたところで愚かなことと思えてきたので、私はこのまま引退するつもりだ」とばかり、老い先が短いかのように言うので、私は心細くてしかたなかった。
 
 家の東は、野原がはるばると広がっていて、東の山々の山ぎわは、比叡山から稲荷などという山まではっきり見渡すことができ、南は、双(ならび)の丘の松風が、とても耳近くに物寂しく聞こえ、家の近くには、つい鼻先まで田があり、鳴子を引き鳴らす音などが田舎らしく、とても趣深い。月の明るい夜には、たいそう風情のある景色を眺め明かして暮らしているが、知り合いの人たちは家が遠くなったので何の音沙汰もない。ところが、ついでの人に託して、「いかがお過ごしですか」とことづけてきた人があったのに驚き、
 
 だれも思い出して尋ね来てくれませんが、この山里の垣根の荻に秋風だけは吹いてきてくれます。
と歌の返事を送った。

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宮仕へ

(一)
 十月(かみなづき)になりて京に移ろふ。母、尼になりて、同じ家の内なれど、方異(かたこと)に住み離れてあり。父(てて)はただわれをおとなにし据ゑて、われは世にもいで交らはず、かげに隠れたらむやうにてゐたるを見るも、頼もしげなく心細く覚ゆるに、聞こしめすゆかりあるところに、「なにとなくつれづれに心細くてあらむよりは」と召すを、古代の親は、宮仕へ人はいと憂きことなりと思ひて、過ぐさするを、「今の世の人は、さのみこそはいで立て。さてもおのづからよきためしもあり。さても試みよ」と言ふ人々ありて、しぶしぶにいだし立てらる。

 まづ一夜(ひとよ)まゐる。菊の濃くうすき八つばかりに、濃き掻練(かいねり)を上に着たり。さこそ物語にのみ心を入れて、それを見るよりほかに行き通ふ類(るい)、親族(しぞく)などだにことになく、古代の親どものかげばかりにて、月をも花をも見るよりほかのことはなきならひに、立ちいづるほどの心地、あれかにもあらず、うつつとも覚えで、暁にはまかでぬ。

 里びたる心地には、なかなか、定まりたらむ里住みよりは、をかしきことをも見聞きて、心も慰みやせむと思ふをりをりありしを、いとはしたなく悲しかるべきことにこそあべかめれと思へど、いかがせむ。

【現代語訳】
 十月になって京に移った。母は尼になり、同じ家の中ではあるが、別の部屋で家族と離れて暮らしている。父は、すっかり私を主婦に据えて、自分は世間とも交わらず、まるで物陰に隠れているようにしているのを見るにつけ、たよりなく心細く思っていたが、私のことをお聞きになった縁故関係の然る所から、「何ということもなく手持ち無沙汰で心細く暮らしているよりは」と宮仕えにお召しになった。古い考えの親は、宮仕えする人は、とても辛いことが多いと思い、そのままにしていたところ、「今時の人は皆あのように宮仕えに出ていますよ。そうして自然と幸せを手にすることもあるのです。ともかく試しに出てごらんなさい」と人たちがいて、父はしぶしぶ私を宮仕えに出した。
 
 まず一晩、参上した。菊がさねで濃淡のある衣を八枚ほど着て、濃い紅色の練り絹の上着をその上に着た。あれほど物語ばかりに熱中して、それを読むことのほかに行き来する親類・縁者なども特別にあるわけでなく、昔風の両親のもとにばかりいて、月や花を見るほかの習慣もなかったから、初めて宮仕えに出たときの気持ちは、自分であるかどうかも分からなくなり、現実とも思われず、明け方には退出してしまった。
 
 田舎者の私の気持ちには、決まりきった家庭生活よりは、かえって宮仕えのほうが面白いことを見聞きして気がまぎれるかもしれないと思いもしたが、いざ出仕してみると、たいへんきまりが悪く悲しいことがきっとありそうだと思ったが、もうどうしようもなかった。

(ニ)
 師走になりてまたまゐる。局(つぼね)してこのたびは日ごろさぶらふ。上(うへ)には時々、夜々も上りて、知らぬ人の中にうち伏して、つゆまどろまれず。恥づかしうもののつつましきままに、忍びてうち泣かれつつ、暁には夜深くおりて、日暮らし、父の老い衰へて、われをことしも頼もしからむかげのやうに思ひ悩み、向かひゐたるに、恋しくおぼつかなくのみ覚ゆ。母なくなりにし姪どもも、生まれしより一つにて、夜は左右(ひだりみぎ)に伏し起きするも、あはれに思ひいでられなどして、心もそらにながめ暮らさる。立ち聞き、かいまむ人のけはひして、いといみじくものつつまし。

 十日ばかりありてまかでたれば、父母(ててはは)、炭櫃(すびつ)に火などおこして待ちゐたりけり。車より降りたるをうち見て、「おはする時こそ人目も見え、さぶらひなどもありけれ、この日ごろは人声(ひとごゑ)もせず、前に人影も見えず、いと心細くわびしかりつる。かうてのみも、まろが身をば、いかがせむとかする」とうち泣くを見るもいと悲し。つとめても、「今日はかくておはすれば、内外(うちと)人多く、こよなくにぎははしくもなりたるかな」とうち言ひて向かひたるも、いとあはれに、なにのにほひのあるにかと涙ぐましう聞こゆ。

【現代語訳】
 十二月になってまた参上した。部屋をいただいてこの度は何日間かお仕えした。宮様のお部屋には時々、夜にも参上して、知らない女房たちの中にまじって寝るので、まったくうとうとすることもできない。恥ずかしくて何かと気詰まりで、人知れず泣けてきたりして、明け方にはまだ暗いうちに自分の部屋に下がり、一日中、父が老い衰え、私をわが子としていとおしみ、向かい合って暮らしていたのにと、ずっと恋しく気がかりに思っていた。また、母親をなくした姪たちも、生まれた時からいっしょに暮らし、夜は私の左右で寝起きしていたことも、しみじみ思い出されなどして、心もうわの空でぼんやりと物思いしながら一日を過ごしてしまう。部屋を立ち聞きしたり覗き見したりする女房の気配がして、とてもたまらなく気詰まりだった。
 
 十日ほどして退出し、家に帰ると、父母が、いろりに火を起こしてじっと待っていた。私が車から降りたのを見るなり、「家にいてくれた時は訪れる人もあり、召使いなどもいたのに、この何日間は人の声もせず、あたりに人の姿も見えず、とても心細くて寂しかったよ。こうしてばかりいて、私の身をどうしてくれるつもりなのかね」と言って泣くのを見るのも、たいへん悲しかった。翌朝も、「今日はこうしていてくれるから、家の内も外も人が多くて、格別ににぎやかになったよ」と言って、私と向かい合っているのも、とても痛々しい感じがして、いったい私に何のとりえがあってこんなに頼るのかと、聞いていて涙ぐましく思えた。

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まめやかなる心

(一)
 かう立ちいでぬとならば、さても、宮仕への方にも立ち慣れ、世にまぎれたるも、ねぢけがましき覚えもなきほどは、おのづから人のやうにもおぼしもてなさせたまふやうもあらまし。親たちもいと心得ず、ほどもなく籠(こ)め据(す)ゑつ。さりとてそのありさまの、たちまちにきらきらしき勢ひなどあんべいやうもなく、いとよしなかりけるすずろ心にても、ことのほかにたがひぬるありさまなりかし。

  いく千たび水の田芹(たぜり)を摘みしかは思ひしことのつゆもかなはぬ
とばかりひとりごたれてやみぬ。

【現代語訳】
 こうして宮仕えに出てしまった以上は、そうして続けていれば次第に慣れていき、たとえ家の用事にとりまぎれても、ひねくれ者だという評判でもないかぎりは、自然と一人前の女房のようにも宮様はお思いになって取り立ててくださるようにもなっただろうに。ところが、親たちは、私には合点がいかないのだが、まもなく私の宮仕えを辞めさせて、家に閉じ込めてしまった。しかし、そうして続けていたとしても、私の羽振りが急によくなるはずもなく、また、宮仕えに対してとてもつまらなく浮ついた気持ちであったとしても、このたびのことは予想に反したことだった。
 
 これまでの私は幾千回のむなしい苦労を重ねてきたことか。それなのに、心に願ったことは何一つかなわない。
とだけ独り言を言うものの、そのままになってしまった。

(ニ)
 その後はなにとなくまぎらはしきに、物語のこともうち絶え忘られて、ものまめやかなるさまに心もなり果ててぞ、などて、多くの年月をいたづらにて伏し起きしに、行ひをも物詣でをもせざりけむ。このあらましごととても、思ひしことどもは、この世にあんべかりけることどもなりや。光源氏ばかりの人は、この世におはしけりやは。薫(かをる)大将の宇治に隠し据ゑたまふべきもなき世なり。あなもの狂ほし。

 いかによしなかりける心なりと思ひしみ果てて、まめまめしく過ぐすとならば、さてもあり果てず、まゐりそめし所にも、かくかきこもりぬるを、まことともおぼしめしたらぬさまに人々も告げ、絶えず召しなどする中(うち)にも、わざと召して、若い人まゐらせよと仰せらるれば、えさらずいだし立つるに引かされて、また時々いで立てど、過ぎにしかたのやうなるあいな頼みの心おごりをだに、すべきやうもなくて、さすがに若い人に引かれて、をりをりさしいづるにも、慣れたる人は、こよなく、なにごとにつけてもありつき顔に、われはいと若人(わかうど)にあるべきにもあらず、またおとなにせらるべき覚えもなく、時々の客人(まらうど)にさし放たれて、すずろなるやうなれど、ひとへにそなた一つを頼むべきならねば、われよりまさる人あるも、うらやましくもあらず、なかなか心安く覚えて、さんべき人と物語りなどして、めでたきことも、をかしくおもしろきをりをりも、わが身はかやうに立ち交じり、いたく人にも見知られむにも、はばかりあんべければ、ただおほかたのことにのみ聞きつつ過ぐすに、内の御供(おんとも)にまゐりたるをり、有明の月いと明かきに、わが念じ申す天照(あまてる)御神(おんかみ)は内にぞおはしますなるかし。かかるをりにまゐりて拝み奉らむと思ひて、四月(うづき)ばかりの月の明かきに、いとしのびてまゐりたれば、博士の命婦(みやうぶ)は知るたよりあれば、燈籠(とうろ)の火のいとほのかなるに、あさましく老い神さびて、さすがにいとようものなど言ひゐたるが、人とも覚えず、神の現はれたまへるかと覚ゆ。

【現代語訳】
 その後は何かと忙しく、物語のこともすっかり忘れ、いかにも実直な気持ちになりきってしまい、どうしてこれまで多くの年月をむなしく過ごしてきたのに、仏前のお勤めもお寺参りもしなかったのか。夢に描いていたあの期待にしても、ほんとうにこの世にありうることだったのだろうか。光源氏ほどの人がこの世にいらっしゃるだろうか。薫大将が宇治に隠し住まわされるに相応しい女性もいないのが現実だ。ああ、どうかしていた。
 
 何ともとりとめのない心だったと、つくづく思い知り、まじめ一方の生活をするかというと、そうもなりきれず、初めて参上した所でも、私が家に引きこもってしまったのを本当には思っていらっしゃらないと人々が私に告げる。絶えずお召しがあるうち、特別にお召しがあったときに、若い人を出仕させなさいとおっしゃるので、お断りもできず姪を出仕させた。その縁に引かされて、私もまた時々出仕することになったが、以前のような当てにならない望みを抱くような思い上がった気持ちにさえなれるわけもない。とはいうものの、やはり若い人に引かされて時たま出仕すると、慣れた女房はこの上なく何事も落ち着いた顔つきでいるが、私はとくに新参の女房であるはずもないが、かといって古参のような人望もなく、たまの客人として放っておかれて、どっちつかずのようだった。私は、別に宮仕えばかりを頼みにするべき立場でもないので、自分より重用される人がいるのもうらやましくはなく、かえって気楽に思われた。行事などがあるしかるべき時に参上して、暇そうにしている適当な人と話などをして、すばらしい行事や興味深い催しが行われる時も、私自身はこのように人々に立ち交じって、あまり見知られてしまうのも遠慮すべきだと思い、ただ一通りのこととしてばかり聞き流しては過ごしていた。宮様が宮中に参内されるお供をして参った時のこと、明け方の月がたいそう明るい時に、私がお祈り申し上げる天照御神がこの宮中においでになるとお聞きした。この機会にお参りして拝み申し上げようと思い、四月の月の明るい時に、ごくひそかに内侍所に参上してみたら、そこの博士の命婦は、頼れる知り合いがあるというので会ってみると、燈籠の火がとてもほのかな中に、驚くほど年老いて神々しく見え、それでもたいそういろいろと語ってくれたが、この世の人とは思われず、まるで神様が現れたのではないかと思えた。

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夫の任官

 世の中に、とにかくに心のみ尽くすに、宮仕へとても、もとは一筋に仕うまつりつかばや、いかがあらむ、時々立ちいでば何なるべくもなかめり。年はややさだ過ぎ行くに、若々しきやうなるも、つきなう覚えならるるうちに、身の病いと重くなりて、心に任せて物詣でなどせしこともえせずなりたれば、わくらばの立ちいでも絶えて、長らふべき心地もせぬままに、幼き人々を、いかにもいかにもわがあらむ世に見おくこともがなと、伏し起き思ひ嘆き、頼む人の喜びのほどを心もとなく待ち嘆かるるに、秋になりて待ちいでたるやうなれど、思ひしにはあらず、いと本意(ほい)なく口惜し。親のをりよりたち返りつつ見し東路(あぢまぢ)よりは近きやうに聞こゆれば、いかがはせむにて、ほどもなく、下るべきことども急ぐに、門出は女(むすめ)なる人の新しく渡りたる所に、八月(はづき)十余日(とをかよか)にす。のちのことは知らず、そのほどのありさまは、もの騒がしきまで人多くいきほひたり。

 二十七日に下るに、男なるは添ひて下る。紅(くれなゐ)の打ちたるに、萩(はぎ)の襖(あを)、紫苑(しをん)の織物の指貫(さしぬき)着て、太刀はきて、しりに立ちて歩みいづるを、それも織物の青にび色の指貫、狩衣(かりぎぬ)着て、廊(らう)のほどにて馬に乗りぬ。

 ののしり満ちて下りぬるのち、こよなうつれづれなれど、いといたう遠きほどならずと聞けば、先々のやうに、心細くなどは覚えであるに、送りの人々、またの日帰りて、いみじうきらきらしうて下りぬなど言ひて、この暁に、いみじく大きなる人魂(ひとだま)の立ちて、京ざまへなむ来ぬると語れど、供の人などのにこそはと思ふ。ゆゆしきさまに思ひだによらむやは。

【現代語訳】
 世間を生きていくのに、あれやこれやと気苦労ばかりしてきたが、宮仕えにしても、最初からそれ一つにお仕えしていたらどうだったろう、何かよいことがあったかもしれないが、私のように時おり出仕するというのではどうなるものでもなさそうだ。年はしだいに盛りを過ぎ、いつまでも若い人のような気持ちでいるのも不似合いに思えてきて、自身の病気もたいそう重くなってきて、思い通りにお寺参りなどもしていたのもできなくなった。時たまの出仕もしなくなり、長生きできそうな気もせず、幼い子どもたちを、何としてでも自分が生きているうちにきちんと世話をしておきたいと、寝ても覚めても心を悩まし、夫の任官の日をじれったく待ちわびていた。すると、秋になって、待ち続けた任官はかなったものの、望んでいた国ではなかったので、まことに不本意で残念だった。親の時代から繰り返し赴いてきた東国よりは近い国だというので、致し方ないとして、まもなく任国へ下るために必要な準備をしたが、門出は娘が結婚して新しく移った所で、八月十日すぎにした。これから先どうなるか分からなかったが、その時のようすは、騒がしいまでに人が多く集まって活気づいていた。
 
 二十七日に夫は任国に下ったが、男の子は夫について下ることになった。紅色の、砧(きぬた)で打ってつやを出した衣に萩がさねの狩衣を着て、紫苑色の織物の指貫をはき、太刀を腰に帯びて、夫の後ろ歩き出し、夫も織物の青にび色の指貫に狩衣を着て、中門の廊下あたりで馬に乗った。
 
 大騒ぎのなか下っていってしまったあと、私はこのうえもなく所在なく思われたが、任国はそんなに遠い所ではないと聞いているので、以前の父の時ほどには心細く感じないでいたところ、途中まで送っていた人たちが次の日に帰ってきて、とても豪勢に下って行きましたなどと言い、そして、今朝の明け方に、とても大きな人魂が飛び立って、京のほうへやってきましたと語ったが、供の人などの人魂だろうと思っていた。その時は、不吉なものとは思ってもみなかった。

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夫の死

 今はいかでこの若き人々おとなびさせむと思ふよりほかのことなきに、返る年の四月(うづき)に上り来て、夏秋も過ぎぬ。

 九月(ながつき)二十五日よりわづらひいでて、十月(かみなづき)五日に、夢のやうに見ないて思ふ心地、世の中にまた類(たぐひ)あることとも覚えず。初瀬(はつせ)に鏡奉りしに、伏しまろび、泣きたる影の見えけむは、これにこそはありけれ。うれしげなりけむ影は、来(き)し方もなかりき。今行く末は、あべいやうもなし。

 二十三日、はかなく雲煙(くもけぶり)になす夜、去年(こぞ)の秋、いみじくしたて、かしづかれて、うち添ひて下りしを見やりしを、いと黒き衣(きぬ)の上に、ゆゆしげなるものを着て、車の供に、泣く泣く歩みいでて行くを、見いだして思ひいづる心地、すべてたとへむかたなきままに、やがて夢路に惑ひてぞ思ふに、その人や見にけむかし。

【現代語訳】
 今はどのようにしてこの幼い子どもたちを成人させようかと思うほかは考えられないでいたが、その翌年の四月に夫が上京してきて、夏、秋が過ぎた。
 
 夫は、九月二十五日から発病して、十月五日にはもう亡くなり、まるで悪夢を見ているような気持ちは、この世にまたと例のあることとは思えなかった。以前に、母が初瀬で長谷寺に鏡を奉納したときに、その鏡に、転びまわって泣いている影が見えたというのは、これのことだったのだ。また、うれしそうだったという影も見えたが、これまでそのようなことはなかった。またこれから先は、あろうはずもない。
 
 二十三日に、はかなく火葬の煙にする夜、去年の秋に子の仲俊がたいそう着飾り、従者にかしづかれて夫に付き添って下っていくのを見送ったのにと、今は真っ黒い喪服の上にいまわしい感じの素服を着て、柩の車の供をして、泣きながら歩いて出ていくのを見やりながら思い出している。その気持ちはまったくたとえようがなく悲しくて、そのまま夢路をさまよっているような心でいたが、夫はそんな私の姿を空の上から見てくれただろうか。

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鏡の影

 昔より、よしなき物語、歌のことをのみ心にしめで、夜昼思ひて、行ひをせましかば、いとかかる夢の世をば見ずもやあらまし。初瀬にて、前のたび、稲荷(いなり)より賜(たま)ふしるしの杉よとて、投げいでられしを、いでしままに稲荷に詣でたらましかば、かからずやあらまし。年ごろ天照(あまてる)御神(おんかみ)を念じ奉れと見ゆる夢は、人の御乳母(おんめのと)して内わたりにあり、帝、后の御かげに隠るべきさまをのみ夢解きも合はせしかども、そのことは一つかなはでやみぬ。ただ悲しげなりと見し鏡の影のみたがはぬ、あはれに心憂し。かうのみ、心にもののかなふかたなうてやみぬる人なれば、功徳(くどく)も作らずなどして漂(ただよ)ふ。

【現代語訳】
 昔から、たわいもない物語や歌のことばかりに熱中せず、夜も昼もずっと仏さまを思い、仏道に励んでいたならば、ほんとうにこんな夢のようにはかない運命に会わずにすんだだろう。初瀬で前回参籠した時、稲荷からくださる霊験ある杉だといって投げ出された夢を見たが、あの時、参籠から出てすぐに稲荷神社におまいりしていたら、こんなことにはならなかっただろう。長い間、天照御神をお祈りしなさいと言われたと見えた夢は、高貴な方の御乳母として宮中に暮らし、帝や后の御寵愛を受ける身となるようなことだけを夢占いで判断されたけれど、そんなことは一つもかなえられないで終わってしまった。ただ、悲しそうだと見た鏡の影のほうだけが外れないで実現してしまったことが、つくづく悲しく辛い。私は、このように何一つ思いがかなわず終わってしまう人間だから、よい報いを受けられるような善行を積みもせず、ただふわふわと漂っている。

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よもぎが露

 年月は過ぎ変はりゆけど、夢のやうなりしほどを思ひいづれば、心地も惑ひ、目もかきくらすやうなれば、そのほどのことは、まださだかにも覚えず。人々は皆ほかに住みあかれて、古里にひとり、いみじう心細く悲しくて、ながめあかしわびて、久しうおとづれぬ人に、

 茂りゆくよもぎが露にそぼちつつ人にとはれぬ音(ね)をのみぞ泣く

尼なる人なり。

 世の常の宿のよもぎを思ひやれそむき果てたる庭の草むら

【現代語訳】
  年月は移り変わっていくけれど、夢のようだった時のこと(夫が亡くなったこと)を思い出すと、心も惑い、目の前も暗くなってしまうようなので、その時のことは今もはっきりと思い出せない。それまで一緒だった人々は皆よそに別々に住むようになり、私は一人住みなれた家に残され、たまらなく心細く悲しい気持ちで、物思いに沈んでなかなか眠ることもできず、久しく便りのない人に歌を読んで送った。
 
 だんだん茂っていく雑草の露に濡れながら、私は、誰からの便りもない寂しさに声をあげて泣いてばかりいます。
 
相手は尼になっている人で、次のような返歌があった。
 
 世間にふつうにある家の雑草ではないですか。思ってみてください、すっかり世を捨てた私の家の草むらのわびしさを。

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

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万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。



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そのほかの日記

◆蜻蛉日記
 作者は『更級日記』の作者(菅原孝標女)の母にあたる右大将藤原道綱母。全3巻で、成立年は974〜995年ころ。
 
夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾のこと、また唐崎祓・石山詣・長谷詣などの旅先でのできごと、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談についての記事がある。藤原道綱母の没年より約20年前、39歳の大晦日を最後に筆が途絶えている。
 歌人との交流についても書かれており、掲載されている和歌は261首。なかでも「なげきつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る」は百人一首に収められている。女流日記のさきがけとされ、『源氏物語』はじめ多くの文学に影響を与えた。また、自らの心情や経験を客観的に省察する自照文学の走りともされている。
 
◆和泉式部日記
 平安中期の1007年ころに成立。『和泉式部物語』とも。
 和泉式部が、愛されていた為尊親王との死別後、その弟宮の帥宮敦道親王(冷泉天皇の第4皇子)と知り合い、新しい愛情を抱く。やがて10か月間の恋愛ののち、周囲の冷たい目にも堪えて、親王の屋敷へと伴われていく。二人の緊迫した心の動きが、和歌をまじえて書かれている。
 全体的に、自己に第三人称を用い、恋愛物語風に書かれている。
 
紫式部日記
 紫式部によって書かれた日記(全2巻)とされ、中宮彰子の出産が迫った寛弘5年(1008年)秋から同7年正月にかけての諸事が書かれている。写本の表題は『紫日記』とあり、内容にも紫式部の名の記載はなく、いつから『紫式部日記』とされたかは不明。『源氏物語』の作者が紫式部であるという通説は、伝説とこの日記に出てくる記述に基づいている。
 史書では明らかにされていない人々の生き生きとした行動がわかり、歴史的価値もある。自作『源氏物語』に対しての世人の評判や、彰子の同僚女房であった和泉式部、赤染衛門、中宮定子の女房であった清少納言らの人物評や自らの人生観について述べた消息文などもみられる。
 
◆讃岐典侍日記
 全2巻、1109年ころ成立か。
 上巻は、堀河天皇の発病から1か月間にわたる作者の熱心な看病と崩御にいたる有様が書かれ、下巻は、幼帝鳥羽天皇に仕えながら亡き堀河天皇を追慕する心情が書かれている。敬愛する天皇に仕えた作者が、その看病・死を、悲痛な思いと人間的な情愛をこめて直視した日記。
 
◆十六夜日記
 作者は阿仏尼。全1巻で、鎌倉中期の1282年ころ成立か。
 夫の為家の没後、わが子為相と先妻の子為氏との間に起こった領地の訴訟のために京都を出立して下る日記的紀行文。旅行前の記事と旅日記と鎌倉滞在中の記事の3部からなる。都の人とかわした手紙や和歌も挿入されている。子を思う母の情にあふれ、歌道を憂える誠心にみちている。

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