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源氏物語

「源氏物語」の先頭へ 各帖のあらすじ

若紫(わかむらさき)

■北山の修行者

 瘧病(わらはやみ)にわづらひ給ひて、よろづにまじなひ、加持などまゐらせ給へど、しるしなくて、あまたたびおこり給ひければ、ある人、「北山(きたやま)になむ、なにがし寺といふ所に、かしこき行ひ人侍る。去年(こぞ)の夏も世におこりて、人々まじなひわづらひしを、やがてとどむるたぐひあまた侍りき。ししこらかしつる時は、うたて侍るを、疾(と)くこそこころみさせ給はめ」など聞こゆれば、召しに遣(つか)はしたるに、「老いかがまりて室(むろ)の外(と)にもまかでず」と申したれば、「いかがはせむ。いと忍びて物せむ」と宣(のたま)ひて、御供に睦(むつ)まじき四五人(よたりいつたり)ばかりして、まだ暁におはす。

 やや深う入る所なりけり。三月(やよひ)のつごもりなれば、京の花ざかりは皆過ぎにけり。山の桜はまだ盛りにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひもをかしう見ゆれば、かかるありさまも慣らひ給はず、所せき御身にて、めづらしう思(おぼ)されけり。寺のさまもいとあはれなり。峰高く、深き岩の中にぞ、聖(ひじり)入り居たりける。登り給ひて、誰(たれ)とも知らせ給はず、いといたうやつれ給へれど、しるき御さまなれば、「あなかしこや。一日(ひとひ)召し侍りしにやおはしますらむ。今はこの世の事を思ひ給へねば、験方(げんがた)の行ひも、捨て忘れて侍るを、いかで、かうおはしましつらむ」と驚き騒ぎ、うち笑みつつ見奉る。いとたふとき大徳(だいとこ)なりけり。さるべき物作りて、すかせ奉り、加持などまゐるほど、日高くさしあがりぬ。

【現代語訳】
 源氏の君は瘧病をおわずらいになって、あれこれとまじないや加持祈祷などをおさせになるものの、効験がなくてたびたび発作を起こされたので、ある人が「北山にございます何某寺という所にすぐれた修行者がおります。去年の夏もあの病気が流行り、他の行者たちがまじないをしても効き目がなく困っておりましたのを、この修行者がすぐに治した例が多くございました。こじらせると厄介でございますから、早くお試しくださいませ」など申し上げるので、お召しに人を遣わすと、その聖は「年老いて腰が曲がっておりますので、部屋の外へも出ません」と申すので、「仕方がない。ごく内密に訪ねていこう」とおっしゃって、親しくお仕えするお供を四、五人だけ連れて、まだ夜の明けないうちに出発なさった。

 その寺は山にやや深く入った所にあった。三月の末なので京の花盛りはみな過ぎていたが、山の桜はまだ盛りで、山深く入って行くにつれて霞のかかっている様子も趣深く、源氏の君はこのような山の様子も見慣れていらっしゃらず、ご外出もままならぬ御身には珍しくお感じになった。寺の様子もたいそう趣深い。高い峰の深い岩穴に籠って、聖は住んでいた。源氏の君はそこにお登りになって、自分が誰であるともお知らせせず、お粗末な身なりであったが、まぎれもなくその人と分かるご風采なので、聖は「たいそう畏れ多いことでございます。先日お召いただいた方でいらっしゃいますな。私は今は俗世のことは考えておりませぬので、修験の行法も大方忘れてございます。どうしてこのようにわざわざおいでいただいたのでしょう」と驚き、笑みをたたえながら源氏のお姿を拝する。見たところ、いかにも尊い高僧なのであった。しかるべき護符などを作ってお飲ませ申し、加持などしてさしあげるうちに、日も高く上がった。

(注)瘧病・・・俗にいう「おこり」。周期的に発作の起こるマラリアのような病気。

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■垣間見

(一)
 日もいと長きに、つれづれなれば、夕暮れのいたう霞みたるに紛れて、かの小柴垣(こしばがき)のもとに立ち出で給ふ。人々は帰し給ひて、惟光朝臣(これみつあそん)とのぞき給へば、ただこの西面(にしおもて)にしも、持仏すゑ奉りて、行ふ、尼なりけり。簾(すだれ)少し上げて、花奉るめり。中の柱に寄りゐて、脇息(けふそく)の上に経を置きて、いとなやましげに読みゐたる尼君、ただ人と見えず。四十余(よそぢよ)ばかりにて、いと白うあてに、痩(や)せたれど、面(つら)つきふくらかに、まみのほど、髪の美しげにそがれたる末も、「なかなか長きよりもこよなう今めかしきものかな」と、あはれに見給ふ。

 清げなる大人二人ばかり、さては童女(わらはべ)ぞ出で入り遊ぶ。中に、十ばかりにやあらむと見えて、白き衣(きぬ)、山吹などのなえたる着て、走り来たる女子(をんなご)、あまた見えつる子供に似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えて、美しげなるかたちなり。髪は、扇を広げたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。

 「何事ぞや。童女と腹立ち給へるか」とて、尼君の見上げたるに、少し覚えたるところあれば、子なめりと見給ふ。「雀(すずめ)の子を犬君(いぬき)が逃がしつる。伏籠(ふせご)の中(うち)に籠(こ)めたりつるものを」とて、いと口惜しと思へり。この居たる大人、「例の、心なしの、かかるわざをして、さいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづ方へか罷(まか)りぬる。いとをかしう、やうやうなりつるものを。烏(からす)などもこそ見つくれ」とて立ちて行く。髪ゆるるかにいと長く、目安き人なめり。少納言乳母(せうなごんのめのと)とぞ人言ふめるは、この子の後ろ見なるべし。

【現代語訳】
 たいそう日が長くて何もすることがないので、夕暮れ時の深い霞に紛れて、あの小柴垣の付近にお立ち出でになった。お供の人はお帰しになり、惟光だけをお供にして僧都の坊をお覗きになると、ちょうど目の前の西面に、仏を安置して勤行している尼がいた。簾を少し上げて花を供えている最中のようだ。中の柱に寄り掛かって座り、脇息の上にお経を置いて、とても大儀そうに読経している尼君は、普通の身分の人とは見えない。四十過ぎくらいで、とても色白で上品で、痩せてはいるが頬はふっくらとしていて、目もとのぐあいや髪がきれいに切り揃えられている端も「かえって長い髪よりも現代風に見えることよ」と興味深くご覧になった。

 小綺麗な女房が二人ほど座っており、それから童女らが出たり入ったりして遊んでいる。その中に十歳くらいかと見え、白や山吹色を重ね着慣らした着物を着て走ってきた女の子は、他にいる大勢の子たちとは比べものにならず、将来の器量の美しさがうかがわれる顔かたちである。髪は扇を広げたようにゆらゆらとして、顔は涙を手でこすって赤くして立っている。

 「どうなさったの。他の子たちと喧嘩をなさったのですか」と言って、見上げた尼君の顔に少し似ているところがあるので、親子なのだろうとご覧になる。「雀の子を犬君が逃がしちゃったの。伏せ籠の中に閉じこめておいたのに」と言って、とても残念がっている。そこにいた女房の一人が「またうっかり屋さんが、このようなことをして責められるとは、ほんと困ったことね。どこへ飛んで行ってしまいましたか。とても可愛らしくなってきましたものを。烏などが見つけたら大変」と言って立って行く。髪はゆったりとたいそう長く、感じのいい人のようだ。少納言の乳母と人が呼んでいるらしい人は、きっとこの子のご後見役なのだろう。

(二)
 尼君、「いで、あな幼なや。言ふかひなうものし給ふかな。おのがかく今日(けふ)明日におぼゆる命をば、何とも思(おぼ)したらで、雀慕ひ給ふほどよ。罪得(う)ることぞと常に聞こゆるを、心憂く」とて、「こちや」と言へば、ついゐたり。面つきいとらうたげにて、眉(まゆ)のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額(ひたひ)つき、髪(かん)ざし、いみじううつくし。ねびゆかむさまゆかしき人かなと、目とまり給ふ。さるは、限りなう心を尽くし聞こゆる人に、いとよう似奉れるが、まもらるるなりけりと思ふにも、涙ぞ落つる。

 尼君、髪をかき撫でつつ、「けづることをうるさがり給へど、をかしの御髪(みぐし)や。いとはかなうものし給ふこそ、あはれに後ろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを、故姫君は、十ばかりにて殿に後れ給ひしほど、いみじう物は思ひ知り給へりしぞかし。ただ今おのれ見捨て奉らば、いかに世におはせむとすらむ」とて、いみじく泣くを見給ふも、すずろに悲し。幼心地にも、さすがにうちまもりて、伏し目になりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪、つやつやとめでたう見ゆ。

 生ひ立たむありかも知らぬ若草を後らす露ぞ消えむ空なき

また居たる大人、「げに」とうち泣きて、

 初草の生ひゆく末も知らぬ間にいかでか露の消えむとすらむ

と聞こゆる程に、僧都(そうづ)あなたより来て、「こなたはあらはにや侍らむ。今日しも端におはしましけるかな。この上(かみ)の聖(ひじり)の方に、源氏の中将の、瘧病(わらはやみ)まじなひにものし給ひけるを、ただ今なむ聞きつけ侍る。いみじう忍び給ひければ、知り侍らで、ここに侍りながら、御とぶらひにもまうでざりける」と宣へば、「あないみじや。いとあやしき様を人や見つらむ」とて簾(すだれ)下ろしつ。「この世にののしり給ふ光源氏、かかるついでに見奉り給はむや。世を捨てたる法師の心地にも、いみじう世の愁へ忘れ、齢(よはひ)延ぶる人の御有様なり。いで御消息(せうそこ)聞こえむ」とて立つ音すれば、帰り給ひぬ。

 あはれなる人を見つるかな、かかれば、この好き者どもは、かかる歩(あり)きをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなりけり。たまさかに立ち出づるだに、かく思ひの外(ほか)なる事を見るよと、をかしう思す。さても、いとうつくしかりつる児(ちご)かな、何人ならむ、かの人の御代はりに、明け暮れの慰めにも見ばや、と思ふ心、深うつきぬ。

【現代語訳】
 尼君が「何とまあ幼くて聞き分けもなくいらっしゃること。私の命が今日明日をも知れなくなっているのを何ともお思いにならず、雀を追いかけていらっしゃるとは。生き物を閉じこめるのは罪作りなことですよと、いつも申し上げていますのに、情けないこと」と言って、「こちらへいらっしゃい」と言うと、そこへ来てちょこんと座った。その面差しはいかにも上品で愛くるしく、眉のあたりがほんのりとして、幼げに前髪を掻き上げた額つきや生え際の具合も大変に可愛らしい。「成長して行くさまを見たいものだ」と、源氏のお目がおとまりになる。それと言うのも、限りなくお慕いしているあの藤壺の方に生き写しのようなのでこんなに目が引きつけられるのだと、そう思うにつけても御涙が落ちる。


 尼君は、女の子の髪を撫でながら「髪を梳くのがお嫌いのようですけど、何と美しいお髪だこと。でも、あまりに子供っぽくいらっしゃるのが気がかりでなりません。これくらいの年になればもっとしっかりした人もありますのに。亡くなった母君は、十歳で父君に先立たれなさった時は、それはよく物がお分かりになっていらっしゃいましたよ。たった今、私があなたを残して逝ってしまったらどうやって生きていかれるのでしょう」と言って、たいそう泣くのをご覧になると、源氏も何とも言えず悲しい。その女の子も子供心にも悲しく思うのだろう、尼君の顔をじっと見て、やがて伏し目になってうつむいたところにこぼれかかった髪が、つやつやとして美しく見える。

 尼君が、「これからどこでどう育って行くのかも分からない若草のようなあなたを残してゆく、露のようにはかない私は消えようにも消えていく空がありません

もう一人の座っている女房が、「本当に」と、涙ぐんで、

 「初草のように若い姫君のご成長もご覧にならないうちに、どうして露は消えようとなさるのでしょうか

と申し上げているところに、僧都が向こうからやって来て、「ここは人目につくのではないでしょうか。今日に限ってどうしてこんな端近にいらっしゃるのです。この上の聖の坊に源氏中将が瘧(おこり)病のまじないに来ていらっしゃるのを、たった今聞きつけました。ひどくお忍びでいらっしゃったので、ここにおりながら知りませんで、お見舞いにも上がりませんでした」と言うと、尼君は「まあ大変。たいそう見苦しいさまを、誰か見たでしょうかしら」と言って簾を下ろしてしまった。僧都が「近ごろ評判の高い光源氏を、この機会に拝見なさいませんか。私のような俗世を捨てた法師の身でも、お姿を見れば世の憂いを忘れ、寿命が延びるほどのご様子のお方です。どれ、源氏の君にご挨拶を申し上げて来ましょう」と言って立ち上がる音がするので、源氏はお帰りになった。

 可愛い人を見たものだ、こんなふうだから、あの色好みな者たちは忍び歩きばかりして、よく思いがけない人をも見つけるのだ。たまに出かけてさえ思いもよらないものを見るのだからと、面白くお思いになる。それにしても、たいそう可愛らしい少女だった。一体どういう生まれか、あの人(藤壺)のお身代わりに手元に置いて、明けても暮れてもあの少女を慰めにも見たいものだ、と思う心に深くとりつかれた。

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■僧都に紫の上の後見を申し出る

 僧都、世の常なき御物語、後の世のことなど聞こえ知らせ給ふ。「我が罪のほど恐ろしう、あぢきなき事に心をしめて、生ける限り、これを思ひなやむべきなめり、まして後の世のいみじかるべき」思し続けて、かうやうなる住まひもせまほしう覚え給ふものから、昼の面影(おもかげ)心にかかりて恋しければ、「ここにものし給ふは誰にか。尋ね聞こえまほしき夢を見給へしかな。今日なむ思ひ合はせつる」と聞こえ給ヘば、うち笑ひて、「うちつけなる御夢語りにぞ侍るなる。尋ねさせ給ひても、御心劣りせさせ給ひぬべし。故按察大納言(こあぜちのだいなごん)は、世になくて久しくなり侍りぬれば、え知ろしめさじかし。その北の方なむ、なにがしが妹に侍る。かの按察隠れて後、世を背きて侍るが、この頃わづらふ事侍るにより、かく京にもまかでねば、頼もし所に籠りてものし侍るなり」と聞こえ給ふ。

 「かの大納言の御むすめ、ものし給ふと聞き給へしは。すきずきしき方にはあらで、まめやかに聞こゆるなり」と、推しあてに宣へば、「娘ただ一人侍りし。亡(う)せてこの十余年にやなり侍りぬらむ。故大納言、内裏(うち)に奉らむなど、かしこういつき侍りしを、その本意(ほい)のごとくもものし侍らで、過ぎ侍りにしかば、ただこの尼君一人もてあつかひ侍りし程に、いかなる人のしわざにか、兵部卿宮(ひやうぶきやうのみや)なむ、忍びて語らひつき給へりけるを、もとの北の方、やむごとなくなどして、安からぬ事多くて、明け暮れ物を思ひてなむ、亡くなり侍りにし。物思ひに病(やまひ)づくものと、目に近く見給へし」など申し給ふ。

 さらばその子なりけりと思し合はせつ。親王(み)の御筋にて、かの人にも通ひ聞こえたるにやと、いとどあはれに、見まほし。人の程もあてにをかしう、なかなかのさかしら心なく、うち語らひて、心のままに教へ生(お)ほし立てて見ばや、と思す。「いとあはれにものし給ふ事かな。それはとどめ給ふ形見もなきか」と、幼かりつる行方の、なほ確かに知らまほしくて、問ひ給へば、「亡くなり侍りし程にこそ侍りしか。それも女にてぞ。それにつけて物思ひのもよほしになむ、齢(よはひ)の末に思ひ給へ嘆き侍るめる」と聞こえ給ふ。さればよ、と思さる。

 「あやしき事なれど、幼き御後見に思すべく、聞こえ給ひてむや。思ふ心ありて、行きかかづらふ方も侍りながら、世に心のしまぬにやあらむ、独り住みにてのみなむ。まだ似げなき程と、常の人に思しなずらへて、はしたなくや」など宣へば、「いとうれしかるべき仰せ言なるを、まだむげにいはけなき程に侍るめれば、戯(たはぶ)れにても御覧じ難くや。そもそも女人は、人にもてなされて大人にもなり給ふものなれば、くはしくはえとり申さず。かの祖母(おば)に語らひ侍りて聞こえさせむ」とすくよかに言ひて、ものごはき様し給へれば、若き御心に恥づかしくて、えよくも聞こえ給はず。「阿弥陀仏(あみだぼとけ)ものし給ふ堂に、する事侍る頃になむ。初夜(そや)未だ勤め侍らず。過ぐして侍(さぶら)はむ」とて、上(のぼ)り給ひぬ。

【現代語訳】
 僧都は、人の世の無常の物語や後世のことなどを源氏の君にお話し申し上げる。源氏の君は「自分の罪業の程が恐ろしく、けしからぬ事(藤壺への恋慕)に執心し、生きている限り思い悩むことになるだろう、まして後世はどんなにか苦しむに違いない」と思い続けられて、このような俗世から離れた暮らしも悪くはないとお思いなさるが、その一方で、昼見た面影が心にかかって恋しいので、「ここにお住まいなのはどなたですか。お尋ね申したいという夢を見ましたのですが、今日ここに来て初めて思い当たりました」とおっしゃると、僧都は笑って「突然に夢のお話でございますな。お尋ねになりましてもご期待外れになりましょう。故按察使の大納言は、亡くなって久しくなりますからご存知ではございますまいが、その北の方というのが拙僧の妹でございます。按察使が亡くなってから出家したのですが、このごろ病を患って京にも出ず引っこんでおりますのを頼りにして籠っているのでございます」と申し上げる。

 源氏は「その大納言の御息女がいらっしゃると耳にいたしましたが、どうなのですか。これは浮いた心からではなく真面目に申し上げるのです」と、当て推量におっしゃると、「娘がただ一人ございました。亡くなって十余年になりますでしょうか。故大納言は、宮中に入内させようとたいそう大事に育ててございましたが、その望み通りに事が運びませんうちに亡くなりましたので、ただこの尼君一人で世話しておりますうちに、誰の手引きでしょうか、兵部卿の宮さまがお忍びでお通いになるようになり、宮さまのご本妻が高貴な御方であったこともあり、娘には気が休まらないことが多く、明け暮れ物思いに沈んだあげく亡くなってしまいました。心痛から病にかかるものだと、間近に見ましたことです」などおっしゃる。

 それなら、その大納言の娘の子だったのかとお思い当たりになった。親王の御血筋からあの方(藤壺)にも似ておいでになるのかと思うと、ひとしお心惹かれて、あの少女に逢いたく思われる。人柄も上品で美しく、なまじ利口ぶったところもないのを、一緒に暮らして心のままに教え育ててみたいものよとお考えになる。「お可哀そうなことでしたね。その方は残した形見の御子はないのですか」と、あの幼い少女の身の上を更に確かめてごらんになりたくてお尋ねになると、僧都は「亡くなりました時期に生みましたのが、それも女の子でございます。先の短い尼の身では、それが心配の種だと申して嘆いているような次第です」と申される。それならばと、源氏の君はお思いになる。

 「つかぬお話ですが、私をその幼い方の後見人にして下さるように尼君に申し上げてくださいませんか。実は思う心があって、契った人(葵の上)もないではありませんが、心に染まぬというのでしょうか、一人暮らのようにしている身の上なのです。不似合いな年齢だと、世間並の男のようにお考えになって不都合にお思いになるでしょうか」などおっしゃると、僧都は「有り難い仰せですが、まだひどく幼い年頃でございますから、戯れにでもお相手はできないと存じます。もっとも女人は人の情けを受けて一人前になるものですので、私には詳しくは分かりません。いずれあの祖母に相談しまして、お返事申し上げましょう」と素っ気なく言って堅苦しい様子をなさるので、若い御心にはきまりが悪く、それ以上はようおっしゃらない。「阿弥陀仏のいらっしゃるお堂でお勤めをする時間でございます。初夜をまだ勤めてございませんので、すませてからまた参ります」と言って、僧都は阿弥陀堂にお上がりになった。

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■葵の上との冷めた関係

 殿にも、おはしますらむと心づかひし給ひて、久しく見給はぬ程、いとど玉の台(うてな)に磨きしつらひ、よろづを整へ給へり。女君、例の、這ひ隠れて、とみにも出で給はぬを、大臣(おとど)(せち)に聞こえ給ひて、からうじて渡り給へり。ただ絵に描きたるものの姫君のやうに、しすゑられて、うちみじろき給ふことも難く、うるはしうてものし給ヘば、思ふこともうちかすめ、山路(みち)の物語をも聞こえむ、言ふかひありて、をかしう答(いら)へ給はばこそあはれならめ、世には心もとけず、うとく恥づかしきものに思(おぼ)して、年の重なるに添へて、御心の隔てもまさるを、いと苦しく、思はずに、「時々は世の常なる御気色を見ばや。堪へ難うわづらひ侍りしをも、いかがとだに問ひ給はぬこそ、めづらしからぬことなれど、なほ恨めしう」と聞こえ給ふ。からうじて、「問はぬはつらきものにやあらむ」と、後目(しりめ)に見おこせ給へるまみ、いと恥づかしげに、気高ううつくしげなる御容貌(かたち)なり。

 「まれまれは、あさましの御言(こと)や。問はぬなど言ふ際(きは)は、ことにこそ侍るなれ。心憂くもの宣(のたま)ひなすかな。世とともにはしたなき御もてなしを、もし思し直る折もやと、とざまかうざまに試み聞こゆる程、いとど思ほし疎むなめりかし。よしや、命だに」とて、夜の御座(おまし)に入り給ひぬ。女君、ふとも入り給はず。聞こえわづらひ給ひて、うち嘆きて臥し給へるも、なま心づきなきにやあらむ、ねぶたげにもてなして、とかう世を思し乱るること多かり。

【現代語訳】
 左大臣邸でも、今日は源氏の君がおいでになるだろうと心遣いなさって、久しくお越しになっていない間にたいそう玉の宮殿のように磨き飾りたて、万事、調えなさっていた。女君(葵の上)は、いつものように奥に隠れてすぐにもお出でにならないのを、左大臣殿が熱心に申し上げて、やっと源氏の君の前にお出になる。まったく絵に描いた物語の姫君のようにお座りになり、みじろぎもなさらず端然としていらっしゃるので、源氏の君は、心に思うことをちょっと口に出したり、山に行った話を申し上げようにも、話しがいがあるほど面白くお答えになればこそ情もわこうが、まったく打ち解けず、女君は固くなったきりでよそよそしくしていらっしゃって、年の重なれば重なるほど御心の隔ても大きくなっていくのをひどく心外に感じられ、「時々は世間並みの夫婦のような御様子を見せていただきたものです。私がひどく患っていたのを、いかがですか、とさえお聞きにならないのは、いつものことながら、やはり恨めしく思う」と仰せになる。女君はかろうじて、「問わぬは辛いものでございましょうか」と、流し目に御覧になる目つきは、こちらがばつが悪くなるほど気高く美しい御姿である。

 「まれにおっしゃったかと思えば、あきれた御言葉。『問わぬは辛い』などという程度の仲は、私たちの間のようなのとは違います。情けないおっしゃりようをなさる。いつもいつも気後れするようなお仕打ちを考え直して下さる折もあろうかと、いろいろに試み申し上げているうちに、私をいっそう疎ましく思われるようになったようですね。まあでも、長生きさえできればいつかお分かりの時もあろう」とおっしゃって、夜の御寝所にお入りになった。しかし、女君はすぐにはお入りになろうともしない。源氏の君はかける言葉も見つからず、ため息をついて横になられたが、何となく気まずくていらっしゃるのだろう、眠そうなふりをなさりながら、世間のことをあれこれと考え続けられている。

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■夏四月の短夜の密通

 藤壺の宮、悩み給ふことありて、まかで給へり。上(うへ)の、おぼつかながり、嘆き聞こえ給ふ御気色(けしき)も、いといとほしう見奉りながら、「かかる折だに」と、心もあくがれ惑ひて、何処(いづく)にも何処にも、まうで給はず、内裏(うち)にても里にても、昼はつくづくと眺め暮らして、暮るれば、王命婦(わうみやうぶ)を責め歩(あり)き給ふ。

 いかがたばかりけむ、いとわりなくて見奉る程さへ、現(うつつ)とは覚えぬぞ、わびしきや。宮も、あさましかりしを思し出づるだに、世とともの御物思ひなるを、「さてだにやみなむ」と深う思したるに、いと心憂くて、いみじき御気色なるものから、なつかしうらうたげに、さりとてうちとけず、心深う恥づかしげなる御もてなしなどの、なほ人に似させ給はぬを、「などか、なのめなる事だに、うち交じり給はざりけむ」と、つらうさへぞ思さるる。何事をかは聞こえ尽くし給はむ。くらぶの山に、宿りも取らまほしげなれど、あやにくなる短夜(みじかよ)にて、あさましう、なかなかなり。

 「見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちにやがて紛るる我が身ともがな

と、むせかへり給ふ様も、さすがにいみじければ、

 「世語りに人や伝へむたぐひなく憂き身を覚めぬ夢になしても

 思し乱れたる様も、いと道理(ことわり)にかたじけなし。命婦の君ぞ、御直衣(なほし)などは、かき集め持て来たる。

【現代語訳】
 藤壺の宮が、お身体ぐあいが悪いというので里にお下がりになった。帝がご心配なさっている御様子も、源氏はまことにおいたわしく思うものの、「せめてこのような時にも藤壺宮に逢いたいと、心も上の空で、他のどの女性のところへもお出かけにならず、宮中にいても自邸にいても昼間はぼんやりと物思いに沈み、夕暮れになると王命婦をせっついて何とか逢える手段を、とおせがみになった。

 命婦はどのように手引したのだろうか、ひどく無理な手段でお逢いになるが、その間さえ現実とは思えない苦しさだった。藤壺宮も、思いもしなかったかつての密会のことをお思い出しになるだけでも忘れられない悩みなので、「せめてそれきりで終わりにしたい」と固く決心されていたのに、こうして再び逢ってしまったのをひどく辛くお感じになり、やるせないご様子ではあったが、優しくいじらしくて、そうかといって打ち解けるでもなく、奥ゆかしく気品のある物腰などが、やはりほかの人とは違っていらっしゃる。源氏は「どうしてこうも欠点がおありにならないのだろう」と、かえって恨めしくお感じになる。どのようにして積もる思いを語り尽くせようか。夜明けの来ない暗部(くらぶ)の山に泊まりたいところだが、あいにくの夏の短夜なので、情けなく、かえって辛さが増す逢瀬であった。


 「せっかくお逢いしても再びいつ逢えるか分からないのですから、夢の中にそのまま消えてしまいとうございます

と、源氏が涙にひどくむせんでいられる有様もさすがにお気の毒なので、藤壺宮は、

 「
世間の語り草として人々が語り伝えるのではないでしょうか、この上なく辛い身の上を覚めることのない夢の中に消してしまったとしても

 藤壺宮がお悩みになっているご様子も、まことにごもっともで恐れ多い。命婦の君が、お直衣などを取り集めて、源氏のもとに持って来た。


(注)王命婦・・・藤壺の侍女。「王氏の命婦」、すなわち皇族ないし源氏などの賜姓氏族に属する人物であると考えられる。
(注)くらぶの山・・・近江の国にある山。

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■藤壺の懐妊

 殿におはして、泣き寝に臥し暮らし給ひつ。御文なども、例の御覧じ入れぬよしのみあれば、常の事ながらも、つらう、いみじう思しはれて、内裏(うち)へも参らで、二三日(ふつかみか)籠りおはすれば、また、いかなるにかと、御心動かせ給ふべかめるも、恐ろしらのみ覚え給ふ。

 宮も、なほいと心憂き身なりけり、と思(おぼ)し嘆くに、悩ましさもまさり給ひて、とく参り給ふべき御使ひしきれど、思しも立たず。まことに御ここち例のやうにもおはしまさぬは、「いかなるにか」と、人知れず思すこともありければ、心憂く、いかならむとのみ思し乱る。暑き程はいとど起きも上がり給はず。三月(みつき)になり給へば、いとしるき程にて、人々見奉りとがむるに、あさましき御宿世(すくせ)の程、心憂し。人は思ひ寄らぬことなれば、この月まで奏せさせ給はざりけること、と驚き聞こゆ。わが御心一つには、しるう思し分くこともありけり。御湯殿(ゆどの)などにも親しう仕うまつりて、何ごとの御気色をもしるく見奉り知れる、御乳母子(めのとご)の弁、命婦(みやうぶ)などぞ「あやし」と思へど、かたみに言ひ合はすべきにあらねば、なほのがれ難(がた)かりける御宿世をぞ、命婦はあさましと思ふ。内裏(うち)には御物の怪のまぎれにて、とみに気色(けしき)なうおはしましけるやうにぞ奏しけむかし。見る人もさのみ思ひけり。いとどあはれに限りなう思されて、御使ひなどのひまなきもそら恐ろしう、ものを思すこと隙(ひま)なし。

 中将の君も、おどろおどろしう、さま異なる夢を見給ひて、合はする者を召して問はせ給へば、及びなう思しもかけぬ筋のことを合はせけり。「その中に違(たが)ひ目ありて、慎(つつ)ませ給ふべきことなど侍る」と言ふに、わづらはしくぼえて、「自らの夢にはあらず、人の御事を語るなり。この夢合ふまで、また人にまねぶな」と宣ひて、心の中(うち)には、いかなることならむと思しわたるに、この女宮の御こと聞き給ひて、「もしさるやうもや」と、思し合はせ給ふに、いとどしく、いみじき言(こと)の葉(は)尽くし聞こえ給へど、命婦も思ふに、いとむくつけう、わづらはしさまさりて、さらにたばかるべき方(かた)なし。はかなき一行(ひとくだり)の御返しのたまさかなりしも、絶えはてにたり。

 七月(ふんづき)になりてぞ参り給ひける。めづらしうあはれにて、いとどしき御思ひのほど限りなし。すこしふくらかになり給ひて、うち悩み、面(おも)(や)せ給へる、はた、げに似るものなくめでたし。例の明け暮れこなたにのみおはしまして、御遊びもやうやうをかしき頃なれば、源氏の君も、いとまなく召しまつはしつつ、御琴笛(ことふえ)など、さまざまに仕うまつらせ給ふ。いみじうつつみ給へど、忍び難き気色(けしき)の漏り出づる折り折り、宮もさすがなる事どもを、多く思し続けけり。

【現代語訳】
 源氏は御殿にお帰りになって、そのまま泣きながら寝て一日中お過ごしになった。藤壺宮に差し上げた御文なども、例によってご覧にならないということなので、いつものことながら恨めしく、呆然とされて、参内もなさらずにニ、三日籠もっていらしたので、帝がどうしたのかとご心配あそばすだろうことも、恐ろしくお思いになる。

 藤壺宮も、やはり情けない身の上であったとご悲嘆にくれて、ご病気もひどくなられ、早く参内せよという御使いがしきりにあるが、その気におなりになれない。本当に気分がいつもと違うのはどうしたわけかとお考えになると、ひそかに思い当たることもあったので、辛くて、どうなることやらと思い乱れていらっしゃる。暑い間はなおさら起き上がりもなさらない。三か月におなりになると、もうはっきりご懐妊の兆候が分かるようになり、皆々が拝見しては不審がるので、前世からのあきれたご運のほどが辛い。皆は思いも寄らぬことなので、「この月までどうして奏上なさらなかったのか」と不思議がる。ご自身にはそれとはっきりお分かりになることもあったのである。御湯殿などにも近くお仕えしてどんなご様子をもはっきり存じ上げている御乳母子の弁、命婦などは、不可解に思うものの、お互いに話し合うべきことでもないので、やはり逃れられない御宿縁であったことに、命婦はあきれている。帝には、御物の怪のせいですぐにはご懐妊とはお分かりなかったように奏上したのだろう。周囲の人もそうとばかり思ったのだった。帝はいっそう限りなく愛しく思われて、御使いなど絶え間ないが、それも何となく恐ろしく、物思いをなさらぬ間がない。

 中将の君(源氏)も、おどろおどろしく異様な夢をご覧になって、夢占をする者を召してお尋ねになると、及びもつかない、思いもかけない予言を判じた。「お夢中に凶相があり、お慎みなさらねばならないことがございます」と言うので、面倒なこととお思いになり、「これは私自身の夢ではない。ある方のお夢の話を申したのだ。この夢が現実になるまで他の者には申すな」とおっしゃり、心の中ではどういうことだろうかとずっと思っていらしたが、藤壺の宮ご懐妊のことをお聞きになって、心当たりがあるとお思いになり、いよいよ言葉を尽くして逢瀬を願われるが、命婦もたいそう恐ろしく、いよいよ手に余る思いがして、全く取り計らいようがない。わずか一行の御返事が時にはあったのだが、それさえ絶えてしまった。

 七月になって藤壺宮は参内なさった。お久しぶりのことなので、常にも増したご寵愛は限りもない。藤壺宮はお腹が少しふっくらとなられ、お元気がなく面やつれになったのも、それはそれでまた似るものとてなく美しい。帝はいつものように朝から晩まで藤壺宮のお局にばかりおいでになり、管弦もしだいに趣の増す時候であるので、源氏の君もしょっちゅう召してお近くに侍らせては、御琴、笛などの演奏をさまざまにお命じになる。源氏はひたすら隠していらっしゃるが、忍び難いお気持ちがふと漏れ出る時もあり、藤壺宮もさすがに切ないあれこれを思い続けていらっしゃるのだった。

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■紫の上を連れ出す

(一)
 君は大殿におはしけるに、例の女君、とみにも対面し給はず。物むつかしくおぼえ給ひて、あづまをすが掻(が)きて、「常陸(ひたち)には田をこそつくれ」といふ歌を、声はいとなまめきて、すさび居給へり。参りたれば、召し寄せてありさま問ひ給ふ。しかじかなむ、と聞こゆれば、口惜しう思して、「かの宮に渡りなば、わざと迎へ出でむも、すきずきしかるべし、幼き人を盗み出でたりと、もどき生ひなむ、その先に、しばし人にも口固めて、渡してむ」と思して、「暁、かしこにものせむ。車の装束さながら、随身(ずいじん)一人二人仰せおきたれ」と宣ふ。承りて立ちぬ。

 君、「いかにせまし、聞こえありて、すきがましきやうなるべき事、人の程だに物を思ひ知り、女の心かはしける事と推しはかられぬべくは、世の常なり、父宮の尋ね出で給へらむも、はしたなうすずろなるべきを」と思し乱るれど、さてはづしてむは、いと口惜しかるべければ、まだ夜深う出で給ふ。女君、例のしぶしぶに、心もとけずものし給ふ。「かしこにいとせちに見るべき事の侍るを、思ひ給ヘ出でてなむ。立ちかへり参り来(き)なむ」とて出で給へば、侍ふ人々も知らざりけり。わが御方にて、御直衣などは奉る。惟光ばかりを馬に乗せて、おはしぬ。

 門(かど)うち叩かせ給へば、心も知らぬ者の開けたるに、御車をやをら引き入れさせて、大夫(たいふ)妻戸を鳴らしてしはぶけば、少納言聞き知りて出で来たり。「ここに、おはします」と言へば、「幼き人は大殿籠(おほとのごも)りてなむ。などか、いと夜深うは出でさせ給へる」と、もののたよりと思ひて言ふ。「宮へ渡らせ給ふべかなるを、その先に聞こえおかむとてなむ」と宣へば、「何事にか侍らむ。いかにはかばかしき御答(いら)へ聞こえさせ給はむ」とて、うち笑ひてゐたり。

 君入り給へば、いとかたはらいたく、「うちとけて、あやしきふる人どもの侍るに」と聞こえさす。「まだおどろい給はじな。いで御目さまし聞こえむ。かかる朝霧を知らでは寝(ぬ)るものか」とて入り給へば、「や」ともえ聞こえず。

 君は、何心もなく寝給へるを、抱(いだ)きおどろかし給ふに、おどろきて、「宮の御迎へにおはしたる」と、寝おびれて思したり。御髪(ぐし)(か)きつくろひなどし給ひて、「いざ給へ。宮の御使ひにて参り来つるぞ」と宣ふに、あらざりけりとあきれて、恐ろしと思ひたれば、「あな心憂。まろも同じ人ぞ」とて、かき抱きて出で給へば、大夫少納言など、「こはいかに」と聞こゆ。

 「ここには、常にもえ参らぬが、おぼつかなければ、心安き所にと聞こえしを、心憂く渡り給ふべかなれば、まして聞こえがたかべければ。人一人参られよかし」と宣へば、心あわただしくて、「今日はいと便(びん)なくなむ侍るべき。宮の渡らせ給はむには、いかさまにか聞こえやらむ。おのづから、程経て、さるべきにおはしまさば、ともかうも侍りなむを、いと思ひやりなき程の事に侍れば、侍ふ人々苦しう侍るべし」と聞こゆれば、「よし、後(のち)にも人は参りなむ」とて、御車寄せさせ給へば、あさましう、「いかさまに」と思ひあへり。若君も、あやしと思して泣い給ふ。少納言、止(とど)め聞こえむ方なければ、昨夜(よべ)縫ひし御衣(ぞ)ども引きさげて、自らも、よろしき衣(きぬ)着かへて乗りぬ。

【現代語訳】
 源氏の君は左大臣邸においでになったが、いつも通りに女君(葵の上)はすぐには対面なさらない。何となく面白くなく思われて、和琴(わごん)を掻き鳴らして、「常陸には田をこそつくれ」という歌を、たいそう艷やな声で口ずさんでおられる。そこへ惟光(これみつ)が帰って来たので、召し寄せて状況をお尋ねになる。これこれと申し上げると、残念に思われて、「あの父宮(紫の上の父:兵部卿宮)のもとに女君(紫の上)が移ってしまえば、そこから迎え出ようにも色めいたことに思われるだろう、幼い人を盗み出したと非難もされよう。その前に人にもしばらく口止めして二条院に連れて来よう」とお思いになり、「明け方、あちら(紫の上邸)に参ろう。車の支度はそのままに、随身を一人二人用意させておけ」とおっしゃる。惟光は承って下がった。

 源氏の君は「どうしたものか、世間に知れては好色じみた騒ぎになるに違いない。相手が物の分かる年齢だったら心を合わせてのことだと見えようし、それなら世間に普通にあることだが、連れ出した後で父宮が捜し出しなさったら、きっとみっともないことになるだろう」とお迷いになるが、さりとて、この機会を逃すのはひどく悔いるだろうと思い直され、まだ夜が深いうちからご出発になる。女君(葵の上)は、いつものように渋々と無愛想にしていらっしゃる。源氏の君は「あちら(二条院)に是非ともいたさねばならない用事があるのを思い出しました。じきに帰って参ります」とおっしゃってご出発になったので、侍女たちも気がつかなかった。ご自分のお部屋で御直衣などをお召しになる。お供には惟光だけを馬に乗せてお出になった。

 紫の上邸に着いて門を叩かせなさると、事情を知らない門番が開けてしまったので、御車を引き入れさせて、惟光が妻戸を叩いて咳払いをすると、少納言が惟光と知って出てきた。「ここに源氏の君がおいでになりました」と言うと、少納言は「幼いお方はお休みになっておられます。どうしてこんな夜更けにおいでになりました」と、どこかからのお帰りがけに立ち寄られたのかと思って言う。源氏の君が「姫君が父宮のもとへお移りになられるとお聞きしましたので、その前に一言申し上げておこうと思って」とおっしゃると、少納言は「何事でございましょう。姫君はどんなにしっかりした御答えを申し上げなさるでしょう」と、笑っていた。

 源氏の君が奥へお入りになるので、ひどく困りきって、「お行儀の悪い格好で、みっともない古女房たちが寝ておりますに」と申し上げる。「まだお目覚めにならないのだね。さあ私が起こしてさしあげよう。こんなすばらしい朝霧を知らずに寝ているなんて」と言って奥にお入りになるので、「もし」といってお止めする言葉さえ出ない。

 姫君は何心もなく寝ていらしゃったが、源氏の君が抱いてお起こしになったので、目が覚めて、「父宮が御迎えにいらした」と寝ぼけてお思いである。髪の乱れをなでつけなどなさって、「さあ行きましょう。父宮のお使いで参上しました」とおっしゃると、違った人だとびっくりして怖がっていらっしゃるので、「ああ情けない。私も宮と同じ人ですぞ」と抱きかかえてお出でになると、惟光、少納言などは、「これは何となさいます」と申し上げる。

 「ここに私がいつも参れるわけではないのが心もとないゆえ、安心な所にお移しようと申していたのに、つれなくも宮家へお移りになったら、いっそうお便りしにくくなるではないか。誰か一人お供されよ」とおっしゃると、少納言はじめ女房たちは気が動転して、「今日はほんとに困ります日でございます。父宮がお越しになったら、どのように申し開きしてよいやら。自然と時が経って、ご縁がおありならどうにもこうにもなりましょうが、全く準備も整っておりませんので、お仕えする私どもも困ってしまいます」と申し上げると、「まあよい。後からでも誰か参ればよい」と、御車をお寄せになるので、女房たちは仰天して、どうしようと心配し合っている。姫君も変だとお思いになってお泣きになる。少納言は、お引き留め申す方法もないので、昨夜縫ったお召し物を数枚携えて、自分も見苦しくない衣に着替えて車に乗った。

(二)
 二条院は近ければ、まだ明(あか)うもならぬ程におはして、西の対に御車寄せて降りり給ふ。若君をば、いと軽らかにかき抱きて降ろし給ふ。少納言、「なほいと夢の心地し侍るを、いかにし侍るべき事にか」とやすらへば、「そは心ななり。御みづから渡し奉りつれば、帰りなむとあらば送りせむかし」と宣ふに、わりなくて降りぬ。にはかにあさましう、胸も静かならず。「宮の思し宣む事、いかになり果て給ふべき御有様にか。とてもかくても、頼もしき人々に後れ給へるがいみじさ」と思ふに、涙の止まらぬを、さすがにゆゆしければ、念じゐたり。

 こなたは住み給はぬ対なれば、御帳(みちやう)などもなかりけり。惟光召して、御帳御屏風など、あたりあたりしたてさせ給ふ。御几帳(みきちやう)の帷子(かたびら)引き下ろし、御座(おまし)など、ただひきつくろふばかりにてあれば、東の対に、御宿直物(とのゐもの)召しに遣はして、大殿籠(おほとのごも)りぬ。若君は、いとむくつけく、いかにする事ならむ、とふるはれ給へど、さすがに声たててもえ泣き給はず。「少納言がもとに寝む」と宣ふ声いと若し。「今は、さは大殿籠るまじきぞよ」と教へ聞こえ給へば、いとわびしくて泣き臥したまへり。乳母はうちも臥されず、ものも覚えず、起きゐたり。

【現代語訳】
 二条院は近いので、まだ明るくならないうちにお着きになって、西の対の屋に御車を寄せてお降りになる。姫君をたいそう軽々と抱いて降ろしなさる。少納言は「ひどく夢のような気がしますのを、どうしたらよろしいのでしょうか」とためらってていると、源氏は「それはあなたの心次第でしょうな。ご本人をお引き取りしたのだから、あなたが帰りたいというのなら、送りましょう」とおっしゃるので、仕方なく車を降りた。急なことで、途方に暮れ、胸が静まらない。父宮は何とおっしゃるであろうか。姫君は後々どのようになって行かれるお身の上であろうか。とにもかくにも頼みとする方々に先立たれてしまわれたことの悲しさ、と思うにつけて涙が止まらないのを、さすがに不吉な気がするのでこらえていた。

 こちらはふだんお住みにならない対屋なので、御帳などもなかった。惟光を召して、御帳や御屏風などをしかるべき所に構えさせなさる。御几帳の帷子は引き下せばよいし、御座所(おましどころ)などもほんのちょっと整えればよい程度にしてあったので、東の対屋に夜具を取りにおやりになって、源氏の君はお休みになった。姫君は、たいそう気味が悪く、どうするつもりなのかと震えておられるが、さすがに声を立ててお泣きにはならない。「少納言のそばで寝る」とおっしゃる声はたいそう幼い。源氏が「これからはそのようにして寝るものではございませんよ」と教えなさると、姫君はたいそうわびしくて泣きながら寝ていらした。乳母は寝ることもできず、ものも考えられずに起きていた。

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■紫の上に手習いを教える

(一)
 君は二三日(ふつかみか)内裏(うち)へも参り給はで、この人をなつけ語らひ聞こえ給ふ。やがて本(ほん)にと思すにや、手習ひ絵など、様々に書きつつ見せ奉り給ふ。いみじうをかしげに書き集め給へり。「武蔵野といへばかこたれぬ」と紫の紙に書い給へる墨つきの、いと殊(こと)なるを取りて見ゐ給へり。少し小さくて、

 ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露わけわぶる草のゆかりを

とあり。「いで君も書い給へ」とあれば、「まだようは書かず」とて、見上げ給へるが、何心なくうつくしげなれば、うちほほ笑みて、「よからねど、むげに書かぬこそわろけれ。教へ聞こえむかし」と宣へば、うちそばみて書い給ふ手つき、筆とり給へる様の、幼げなるも、らうたうのみ覚ゆれば、心ながらあやしと思す。「書き損なひつ」と、恥ぢ隠し給ふを、せめて見給へば、

 かこつべきゆゑを知らねばおぼつかないかなる草のゆかりなるらむ

と、いと若けれど、生(お)ひ先見えて、ふくよかに書い給へり。故尼君のにぞ似たりける。「今めかしき手本習はば、いとよう書い給ひてむ」と見給ふ。雛(ひいな)など、わざと屋(や)ども作りつづけて、もろともに遊びつつ、こよなき物思ひの紛らはしなり。

【現代語訳】
 源氏の君は、二、三日、宮中にも参上なさらず、この人(紫の上)を懐かせようとお話の相手をしておあげになる。そのままお手本にとお思いなのか、お習字や絵などをさまざまに書いてはお見せになる。たいそう見事にたくさんお書きになった。その中に、「武蔵野といへばかこたれぬ(武蔵野といえば、感無量)」と、紫の紙にお書きになったご筆跡がたいそう格別に見事なのを、姫君は手に取ってご覧になる。その脇にやや小さな字で、

 
寝てはいないが、かわいいと思う、露を分け入っても逢いがたい武蔵野の紫の草のゆかりのあなたを。

と書いてある。「さあ、あなたもお書きなさい」とおっしゃると、姫君は「まだ上手に書けないの」といって見上げなさるのがいかにもあどけなく可愛らしいので、源氏の君はほほ笑まれて、「上手ではなくても、全く書かないのはいけません。私がお教えしましょう」とおっしゃると、少し横を向いてお書きになる手つき、筆をお持ちになる様子の幼げなのもただただ可愛らしく感じられるので、自分ながら不思議に思われる。「書きそこなった」と恥ずかしがってお隠しになるのを、無理に取ってご覧になると、

 
わたしはどなたの草のゆかりなのでしょうか、その故を知らないので不安です。

と、たいそう子供らしいけれど、成長したその先が見えて、ふくらかな筆跡でお書きになっている。亡くなった尼君の筆跡とよく似ているのである。「今風の手本を習えば、もっと上手になるだろう」と源氏の君はご覧になる。お人形など、わざわざその家をたくさん作って並べ、ご一緒に遊んだりして、源氏の君は格別に物思いをまぎらわされる。

(二)
 かのとまりにし人々、宮渡り給ひて尋ね聞こえ給ひけるに、聞こえやる方なくてぞ侘びあへりける。「しばし人に知らせじ」と君も宣ひ、少納言も思う事なれば、せちに口がためやりたり。ただ、「行く方も知らず、少納言が率(ゐ)て隠し聞こえたる」とのみ聞こえさするに、宮も言ふかひなう思して、「故尼君もかしこに渡り給はむ事を、いとものしと思したりし事なれば、乳母の、いとさし過ぐしたる心ばせのあまり、おいらかに、渡さむを便(びん)なしなどは言はで、心にまかせて、率てはふらかしつるなめり」と、泣く泣く帰り給ひぬ。「もし聞き出で奉らば告げよ」と宣ふもわづらはしく。僧都の御もとにも尋ね聞こえ給へど、あとはかなくて、あたらしかりし御容貌(かたち)など、恋しく悲しと思す。北の方も、母君を憎しと思ひ聞え給ひける心も失せて、わが心にまかせつべう思しけるに違(たが)ひぬるは、口惜しう思しけり。

【現代語訳】
 あの屋敷(紫の上邸)に居残った女房たちは、あれから父宮がいらっしゃってお尋ねになると、申し上げようもなくて一同困ってしまった。「しばらくは人に知らせないように」と源氏の君もおっしゃり、少納言もそう思っていることなので、固く口止めしていて、ただ「少納言が行方も知れずに連れ出してお隠し申したのです」とだけ言わせた。父宮もせん方なく思われて、故尼君も姫君が兵部卿宮邸にお移りになるのをひどく嫌がっておいでだったのだから、乳母の出過ぎた心配から、お渡しするのは困りますとまっすぐ言えばよいものを、自分の一存で連れ出したのだなと、泣く泣くお帰りになった。「もし聞き出したら知らせなさい」とおっしゃるのも、女房たちは面倒に思った。父宮は僧都(紫の上の祖父)の御もとにもお尋ねになったが、やはり跡形もなくて、今さら惜しまれるご器量などを恋しく愛しいと思われる。北の方(紫の上の継母)も、姫君の母である人を憎いとお思いになった心も消えて、思いどおりに育ててみようと思っていたのに、当てが外れて残念に思われた。

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■紫の上を愛玩

 やうやう人参り集りぬ。御遊びがたきの童女(わらはべ)(ちご)ども、いとめづらかに今めかしき御有様どもなれば、思ふことなくて、遊びあへり。君は、男君のおはせずなどして、さうざうしき夕暮れなどばかりぞ、尼君を恋ひ聞え給ひて、うち泣きなどし給ヘど、宮をばことに思ひ出で聞え給はず。もとより見ならひ聞え給はでならひ給へれば、今はただこの後(のち)の親を、いみじう陸(むつ)びまつはし聞え給ふ。物よりおはすれば、まづ出で迎ひて、あはれにうち語らひ、御懐(ふところ)に入りゐて、いささか疎く恥づかしとも思ひたらず。さる方に、いみじうらうたきわざなりけり。

 さかしら心あり、何くれとむつかしき筋(すぢ)になりぬれば、わが心地も、少し違(たが)ふふしも出で来(く)やと、心おかれ、人も恨みがちに、思ひの外(ほか)の事、おのづから出で来るを、いとをかしきもて遊びなり。娘などはた、かばかりになれば、心安くうちふるまひ、隔てなきさまに臥し起きなどは、えしもすまじきを、これは、いと様変りたるかしづきぐさなり、と思(おぼ)いためり。

【現代語訳】
 二条院へはだんだんと女房たちが集まって来た。お遊び相手の女の子や稚児たちは、当世風で珍しいお二人(紫の上と源氏)のご様子を見ては、無心に遊びあっている。姫君は、源氏がおいでにならなかったりして寂しい夕暮れなどには、尼君を慕ってお泣きになることもあるが、父宮のことは特に思い出しにもならない。もともと父宮とはご一緒にお暮らしでなかったので、今はただこの後の父君(源氏)にすっかり親しんでつきまとっていらっしゃる。よそからお帰りになるとまっ先にお出迎えになり、嬉しそうに話して、懐に抱かれても少しも嫌がったり恥ずかしがったりなさらない。そういうところは、たいそう可愛らしくあった。

 智恵がつき、何かとややこしい仲になると、自分の気持ちに変化が出てくるのではないかと気兼ねするし、女もこちらのことを恨みがちになり、思いもしなかった離婚沙汰なども自然と起きるものだが、今の紫の上にそんな心配はない。まだ男女の仲を知らない、うぶな少女だから、全く罪のないお遊び相手である。自分の娘でも、これくらいの年になると、そう気楽にふるまい、一緒に寝たり起きたりするなどできにくいだろうに、この姫君はたいそう風変わりな秘蔵っ子であると思っていらっしゃるらしい。

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末摘花(すえつむはな)

■常陸宮の娘の噂を聞く

 左衛門の乳母(めのと)とて、大弐(だいに)のさしつぎにおぼいたるが娘、大輔命婦(たいふのみやうぶ)とて、内裏(うち)に侍ふ、わかんどほりの兵部大輔(ひやうぶのたいふ)なる娘なりけり。いといたう色好める若人(わかうど)にてありけるを、君も召し使ひなどし給ふ。母は筑前守(ちくぜんのかみ)の妻(め)にて下りにければ、父君のもとを里にて行き通ふ。

 故常陸の親王(みこ)の、末にまうけていみじうかなしうかしづき給ひし御娘、心細くて残り居たるを、もののついでに語り聞こえければ、「あはれの事や」とて、御心とどめて問ひ聞き給ふ。「心ばへ容貌(かたち)など、深き方はえ知り侍らず。かいひそめ、人疎(うと)うもてなし給へば、さべき宵など、物越しにてぞ語らひ侍る。琴(きん)をぞなつかしき語らひ人と思へる」と聞こゆれば、「三つの友にて、いま一(ひと)くさやうたてあらむ」とて、「我に聞かせよ。父親王の、さやうの方にいとよしづきてものし給うければ、おしなべての手にはあらじとなむ思ふ」と宣へば、「さやうに聞こし召すばかりにはあらずや侍らむ」と言へど、御心とまるばかり聞こえなすを、「いたう気色ばましや。このごろの朧月夜に忍びて物せむ。まかでよ」と宣へば、わづらはしと思へど、内裏わたりものどやかなる春のつれづれにまかでぬ。

 父の大輔の君はほかにぞ住みける。ここには時々ぞ通ひける。命婦は、継母のあたりは住みもつかず、姫君の御あたりを睦びて、ここには来るなりけり。

【現代語訳】
 左衛門の乳母といって、源氏の君が大弐の乳母の次に大切に思われている乳母の娘が、大輔命婦と呼ばれて宮中にお仕えしている。これは皇族のお血筋の兵部大輔である人の娘であった。たいそう色好みの若女房であったのを、源氏の君も時々お召しになって使っていらっしゃる。母なる人は今は筑前守の妻として下っていたので、父君の家を里として宮中へ通っている。

 この命婦が、故常陸の親王が晩年にもうけてたいそう可愛がっておられた御娘(末摘花)が、父に死に別れて心細そうに暮らしていらっしゃるのを、何かの折に源氏の君にお話申し上げたところ、「不憫なことよ」と仰せになって、その姫君についていろいろとお尋ねになる。命婦は「気立てやご器量など詳しくは存じません。ひっそりと暮らし人と親しくなさいませんので、しかるべき宵などに几帳を隔ててお話いたします。琴を一番の友だちにしていらっしゃいます」と申し上げると、「琴と詩と酒は北窓の三友であると白楽天は言っているが、最後の一つは女性には向かないだろうね」とおっしゃって、「その琴の音を私に聞かせなさい。父親王はその方面にたいそう造詣が深かったので、その娘もふつうの手並みではなかろうと思う」とおっしゃると、命婦は「わざわざお聞きになるほどのことではございますまい」と申し上げる。源氏の君は「たいそうもったいをつけるじゃないか。近いうちに朧月の夜に忍んで行ってみよう。お前も退出せよ」とおっしゃり、命婦は困ったと思うが、所在ない春の一日、宮中ものんびりしている折に退出した。

 父親の大輔の君は別の所に住んでいて、常陸宮邸には時々通うだけだった。命婦は継母と暮らすのを嫌って父のもとには住み着かず、姫君(末摘花)のいらっしゃるお邸を親しんで、いつもこちらに伺うのだった。

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■頭中将に見つかる

 寝殿の方に、人の気配(けはひ)聞くやうもや、と思して、やをら立ちのき給ふ。透垣(すいがい)のただ少し折れ残りたる隠れの方に立ち寄り給ふに、もとより立てる男ありけり。「誰ならむ、心かけたるすき者ありけり」と思して、陰につきて立ち隠れ給へば、頭(とう)の中将なりけり。この夕つ方、内裏(うち)よりもろともに罷(まか)で給ひける、やがて大殿(おほいとの)にも寄らず、二条の院にもあらで、引き別れ給ひけるを、いづちならむと、ただならで、我も行く方あれど、あとにつきてうかがひけり。あやしき馬に、狩衣(かりぎぬ)姿のないがしろにて来ければ、え知り給はぬに、さすがに、かう異方(ことかた)に入り給ひぬれば、心も得ず思ひける程に、物の音(ね)に聞きついて立てるに、帰りや出で給ふと、した待つなりけり。

 君は、誰ともえ見分き給はで、我と知られじと、ぬき足に歩みのき給ふに、ふと寄りて、「ふり捨てさせ給へるつらさに、御送り仕うまつりつるは、

 もろともに大内山は出でつれど入る方見せぬいさよひの月

と恨むるも、ねたけれど、この君と見給ふに、少しをかしうなりぬ。「人の思ひ寄らぬことよ」と憎む憎む、

 里分かぬ陰をば見れど行く月のいるさの山を誰かたづぬる

 「かう慕ひ歩(あり)かば、いかにせさせ給はむ」と聞こえ給ふ。「まことは、かやうの御歩(あり)きには、随身(ずゐじん)からこそはかばかしきこともあるべけれ、後(おく)らさせ給はでこそあらめ。やつれたる御歩きは、軽々しきことも出で来(き)なむ」と、おし返し諫(いさ)め奉る。かうのみ見つけらるるを、ねたしと思せど、かの撫子(なでしこ)はえ尋ね知らぬを、重き功に、御心の中(うち)に思し出づ。

【現代語訳】
 寝殿の方へ行ったらもしや姫君(末摘花)のご気配があろうかとお思いになって、そっとお出かけになる。透垣の崩れたのが少し残っている物陰に立ち寄ろうとなさると、前からそこに立っていた男がいた。「誰だろう、この姫君に思いを寄せる好色者(すきもの)がいたのか」とお思いになって、物陰にそっとお隠れになると、それは頭中将であった。この夕方、源氏の君と頭中将は宮中からご一緒に退出なさりながら、君はそのまま左大臣邸にも寄らず、二条院にも帰らず、違う方向にお行きになったのを、どこへ行かれるのかと訝しく思い、頭中将は自分も行く所があったが、わざわざ跡をつけて来たのだ。貧相な馬に乗り、狩衣姿の無造作な装いで来たので、源氏の君もお気づきにならなかったが、頭中将は、源氏の君がこのように見当違いな家にお入りになったのをわけが分からず思いながら、邸内から漏れてくる琴の音を聴いて立っているうちに戻って来られるだろうと、期待して待っていたのだ。

 源氏の君は、その男をまだ誰ともお分かりにならず、自分だと気づかれないよう、ぬき足さし足で離れようとなさると、男はすっと寄って来て、「私をまいてしまわれた恨めしさに、お跡を追ってまいりましたよ」

 
ご一緒に内裏を出ましたが、あなたは入る所を見せない十六夜の月のように姿を消してしまわれましたね。

と嫌味を言うのも憎らしいが、頭中将だとお分かりになると、少しおかしくお思いになった。「思いもよらぬことをなさいますな」と憎らしげにおっしゃりながら、

 
どの里も隈なく照らす月の光を見ることはあっても、その月が入っていく山を誰が尋ねましょう。

 頭中将が、「こうしてつきまとったら、どうなさいますか」と申し上げる。「実際、このような御忍び歩きは、お供によってうまくいくこともあるものです、私を置いてけぼりにしないでください。御身を隠してのお忍び歩きには軽率なことも起こりましょうから」と、反対に諌め申し上げる。源氏の君はたびたびこのように見つけられてばかりいるのを癪に思われるが、あの撫子の行方ばかりはさすがの頭中将もまだ尋ね知らずにいるのをご自分の手柄だと思っていらっしゃる。

(注)透垣・・・竹などを結び、向こうが透いて見えるように作った垣。
(注)かの撫子・・・頭中将と夕顔の間にできた娘(玉鬘)のこと。

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■雪の激しく降る日

 いとど、憂ふなりつる雪、かきたれ、いみじう降りけり。空の気色はげしう、風吹き荒れて、大殿油(おほとなぶら)消えにけるを、燈(とも)しつくる人もなし。かの、ものに襲はれし折、思し出でられて、荒れたる様は劣らざめるを、程の狭(せば)う、人気(ひとげ)の少しあるなどに慰めたれど、すごう、うたて寝(い)ざとき心地する夜のさまなり。をかしうも、あはれにも、様(やう)かへて、心とまりぬべき有様を、いと埋(む)もれすくよかにて、何の栄(は)えなきをぞ、口惜しう思す。

 からうじて明けぬる気色(けしき)なれば、格子、手づから上げ給ひて、前の前栽(ぜんざい)の雪を見給ふ。踏みあけたる跡もなく、はるばると荒れ渡りて、いみじう寂しげなるに、ふり出でて行かむこともあはれにて、「をかしき程の空も見給へ。尽きせぬ御心の隔てこそ、理(わり)なけれ」と、恨み聞こえ給ふ。まだほの暗けれど、雪の光に、いとど清らに若う見え給ふを、老い人ども、笑み栄(さか)えて見奉る。

 「はや出でさせ給へ。あぢきなし。心うつくしきこそ」など教へ聞こゆれば、さすがに、人の聞こゆることを、えいなび給はぬ御心にて、とかう引き繕(つくろ)ひて、ゐざり出で給へり。見ぬやうにて、外(と)の方(かた)を眺め給へれど、尻目(しりめ)はただならず。「いかにぞ、うちとけまさりの、いささかもあらば嬉しからむ」と思すも、あながちなる御心なりや。

【現代語訳】
 女房たちが心配していた雪が、ますます激しく降ってきた。空模様は険しく風がはげしく吹き荒れて、明かりが消えてしまったのに点し直す人もいない。源氏はいつぞやの物の怪に襲われた時のことを思い出しになり、荒れた様子は同じでも邸の狭い感じや人気が少しあるのが安心とはいいながら、物寂しく不気味で、寝つかれそうにない夜の有様である。それにつけても、所柄から趣も感じられ、しみじみと胸を打つものがあり、風変わりさに心がひかれそうな様子なのに、姫君がひどく引っ込み思案で潤いや優しさに欠け、何の愛想もないのを残念にお思いになる。


 ようやく夜が明けた気配なので、源氏はご自分で格子をお上げになり、前庭の植え込みの雪をご覧になる。人の踏み分けた跡もなく、見渡す限り荒れていて、たいそう寂しそうなので、姫君を振り捨てて帰るのも気の毒に思い、「風情のある空をご覧なさい。いつまでも打ち解けて下さらないお心が理解できません」と恨みごとを言われた。まだほの暗いが、雪の光に源氏がますます美しく若々しくお見えになるのを、老いた女房たちはにこにこして拝し上げる。

 「早くお出ましなさいませ。引っ込んでいらしてはいけません。女は素直なのがいちばんですよ」などとお教えすると、さすがに人の申すことをお拒みになれないご性格なので、あれこれ身支度して出てこられた。源氏は姫君を見ないふりをして外を眺めていらっしゃるが、横目の使い方は尋常でない。「どうであろう、打ち解けたときに少しでも良いところを発見できれば嬉しかろうが」とお思いになるのも、身勝手なご注文というものだ。

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■末摘花(すゑつむはな)の醜貌

 まづ、居丈(ゐだけ)の高う、を背長(せなが)に見え給ふに、「さればよ」と、胸つぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは、御鼻なりけり。ふと、目ぞとまる。普賢菩薩(ふげんぼさつ)の乗り物と覚ゆ。あさましう高うのびらかに、先の方(かた)すこし垂りて色づきたること、ことの外(ほか)にうたてあり。色は雪恥づかしく白うて真青(さを)に、額(ひたひ)つき、こよなうはれたるに、なほ下(しも)がちなる面(おも)やうは、大方おどろおどろしう長きなるべし。痩(や)せ給へること、いとほしげにさらぼひて、肩の程など、痛げなるまで衣の上まで見ゆ。「何に、残りなう見あらはしつらむ」と思ふものから、珍しき様のしたれば、さすがに、うち見やられ給ふ。

 頭(かしら)つき、髪のかかりはしもうつくしげに、めでたしと思ひ聞こゆる人々にも、をさをさ劣るまじう、袿(うちき)の裾にたまりて、引かれたる程、一尺ばかり余りたらむと見ゆ。着給へる物どもをさへ言ひたつるも、もの言ひさがなきやうなれど、昔物語にも、人の御装束(さうぞく)をこそは、まづ言ひためれ。

 ゆるし色の、理(わり)なう上白(うはじら)みたる一襲(ひとかさね)、名残なう黒き袿(うちぎ)重ねて、上着には黒貂(ふるき)の皮衣(かはぎぬ)、いと清らに香ばしきを着給へり。古体(こたい)のゆゑづきたる御装束なれど、なほ若やかなる女の御よそひには、似げなうおどろおどろしきこと、いともてはやされたり。されど、げに、この皮なうては肌寒からまし、と見ゆる御顔ざまなるを、心苦しと見給ふ。

 何ごとも言はれ給はず、我さへ口閉ぢたる心地し給へど、例のしじまも試みむと、とかう聞こえ給ふに、いたう恥ぢらひて、口おほひし給へるさへ、ひなび古めかしう、ことことしく、儀式官(ぎしきくわん)の練(ね)り出でたる肘(ひぢ)もち覚えて、さすがにうち笑み給へる気色(けしき)、はしたなう、すずろびたり。いとほしくあはれにて、いとど急ぎ出で給ふ。「頼もしき人なき御有様を、見そめたる人には、疎からず思ひむつび給はむこそ、本意(ほい)ある心地すべけれ。ゆるしなき御気色なれば、つらう」など、ことつけて、

  朝日さす軒の垂氷は解けながらなどかつららの結ぼほるらむ

と、宣へど、ただ「むむ」とうち笑ひて、いと口重げなるもいとほしければ、出で給ひぬ。

【現代語訳】
 まず第一に、姫君の座高が高くむやみに胴長にお見えなので、源氏は「やはりそうであったか」とがっかりした。続いて見苦しく見えるのは鼻だった。思わずその鼻に目がとまった。普賢菩薩の乗り物の象のようにあきれるほど高く長くて、先の方が少し垂れ下がって赤く色づいているのが特に異様である。お顔の色は雪も恥じるほど白くまっ青で、額がとても広いうえに下ぶくれの顔だちなのは、おおかた驚くほどの面長なのだろう。痩せ細っておられるといったら気の毒なくらいに骨ばって、肩のあたりなど痛々しいまでに着物の上からでも見える。源氏は「どうしてこんなあからさまに見てしまったのだろう」と後悔なさりながらも、あまりに珍しい様子なので、さすがについついそちらを見てしまわれる。

 しかし、髪の恰好やそれが肩にかかっている風情は、いつも立派だと思っている方々に少しも引けを取らず、袿の裾からふっさりと床にたまるほど長く引かれた髪は一尺ほどあろうかと見える。着ていらっしゃる物まで言い立てるのも口さがないようだが、昔物語にも、人のお召し物についてまっ先に述べている。


 それに倣って記すならば、薄紅色のひどく古びて色褪せた単衣をひと重ね、すっかり黒ずんだ袿を重ねて、上着には黒貂の皮衣で、たいそう美しくて香を焚きしめたのを着ていらっしゃる。古風で由緒ありそうなご衣装であるが、やはり若い女性のお召し物としては不似合いで仰々しいところがひどく目立つ。しかし実際、この皮衣がなくてはさぞ寒いだろうと見えるお顔色なのを、源氏はお気の毒とご覧になる。

 呆れて何もおっしゃれず、自分までが無口になった気持ちがなさるが、いつもの姫君の沈黙を試してみようと、あれこれと話かけられるが、姫君がひどく恥じらって口を覆っていらっしゃるのさえ野暮ったく古風に大げさで、ちょうど儀式官が練り歩く時の肘つきに似て、せっかく微笑んでいらっしゃる表情がちぐはぐで落ち着かない。お気の毒でかわいそうなので、源氏は早々にお出になった。
「頼りになる人がいないご様子ですから、あなたを見初めた私には心を隔てず打ち解けて下さいましたら本望な気がします。お許しにならないご様子なのは情けなく思います」などと、姫君のせいにして、

 
朝日がさしている軒のつららは解けましたのに、どうして氷は解けないでいるのでしょう。

とおっしゃったが、姫君はただ「うふふ」と含み笑いをして、とても容易に返歌も詠めそうにないのもお気の毒なので、邸からお出になった。

(注)黒貂・・・黒貂(くろてん)。その皮衣は極めて貴重な品とされた。

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■末摘花を援助

 世の常なる程の、異なる事なさならば、思ひ棄ててもやみぬべきを、さだかに見給ひて後(のち)は、なかなかあはれにいみじくて、まめやかなる様に、常におとづれ給ふ。黒貂(ふるき)の皮ならぬ絹、綾(あや)、綿(わた)など、老人(おいびと)どもの着るべき物の類(たぐひ)、かの翁(おきな)のためまで上下(かみしも)(おぼ)しやりて、奉り給ふ。かやうのまめやか事も恥づかしげならぬを、心やすく、「さる方の後見(うしろみ)にてはぐくまむ」と思ほしとりて、様(さま)ことにさならぬうちとけわざもし給ひけり。

 「かの空蝉(うつせみ)の、うちとけたりし宵(よひ)の側目(そばめ)には、いとわろかりし容貌(かたち)ざまなれど、もてなしに隠されてロ惜しうはあらざりきかし。劣るべき程の人なりやは。げに品(しな)にもよらぬわざなりけり。心ばせのなだらかにねたげなりしを、負けてやみにしかな」と、物の折りごとには思(おぼ)し出づ。

【現代語訳】
 世間並みの、特にどうということもない容貌ならば、このまま忘れて棄ててもしまうところだが、姫君をはっきりとご覧になってからは、かえって不憫さが増すばかりなので、色恋を離れていつもお便りをなさる。黒貂の皮ならぬ絹・綾・綿など、老女房たちの着る着物の類からあの翁の門番の分まで、上へも下へも思いやりなさってお贈りになる。このような色気抜きの援助についても、姫君は恥ずかしそうではないので、源氏の君も気が楽で、「そういう面の後見役としてお世話しよう」とお考えになって、普通はしないような立ち入ったことまでもなさるのだった。

 「あの空蝉は、くつろいでいた宵の姿を横目に見るとあまりよくない容貌だったが、立ち居振る舞いのよさに隠されて、それほどひどくは思わなかった。この姫君は、あの空蝉より劣る身分だろうか。全く女の良し悪しは身分にもよらないものであった。空蝉は気立てが穏やかで奥ゆかしい人であったが、私が負けた形で終わってしまったことよ」と、何かの折にはいつも思い出される。

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■正月七日の夜、末摘花を訪ねる

 朔日(ついたち)の程過ぎて、今年、男踏歌(おとこたふか)あるべければ、例の所々遊びののしり給ふに、もの騒がしけれど、寂しき所のあはれに思しやらるれば、七日の日の節会(せちゑ)はてて、夜に入りて、御前(ごぜん)よりまかで給ひけるを、御宿直(とのゐ)所にやがてとまり給ひぬるやうにて、夜更かしておはしたり。例の有様よりは、けはひうちそよめき世づいたり。君も少したをやぎ給へる気色もてつけ給へり。「いかにぞ、改めてひきかへたらむ時」とぞ思し続けらるる。日さし出づる程にやすらひなして、出で給ふ。東(ひむがし)の妻戸押し開けたれば、向かひたる廊の、上もなくあばれたれば、日の脚(あし)、程なくさし入りて、雪少し降りたる光に、いとけざやかに見入れらる。御直衣(なほし)など奉るを見出だして、少しさし出でて、かたはら臥し給ひつる頭(かしら)つき、こぼれ出でたる程いとめでたし。生(お)ひ直りを見出でたらむ時と、思されて、格子引き上げ給ヘり。

 いとほしかりし物懲(ものご)りに、上げもはて給はで、脇息(けふそく)をおし寄せて、うちかけて、御鬢(びん)ぐきのしどけなきを繕ひ給ふ。わりなう古めきたる鏡台の、唐櫛笥(からくしげ)、掻上(かかげ)の箱など取り出でたり。さすがに、男の御具(ぐ)さへほのぼのあるを、ざれてをかしと見給ふ。女の御装束(さうぞく)、今日は世づきたりと見ゆるは、ありし箱の心ばせさながらなりけり。さも思しよらず、興ある紋つきてしるき表着(うはぎ)ばかりぞ、あやしと思しける。「今年だに声少し聞かせ給へかし。待たるるものはさしおかれて、御気色の改まらむなむゆかしき」と宣へば、「さへづる春は」と、からうじてわななかし出でたり。「さりや。年経ぬるしるしよ」と、うち笑ひ給ひて、「夢かとぞ見る」とうち誦(ず)して出で給ふを、見送りて、添ひ臥し給へり。口おほひの側目(そばめ)より、なほ、かの末摘花(すゑつむはな)、いとにほひやかにさし出でたり。「見苦しのわざや」と思(おぼ)さる。

【現代語訳】
 三が日も過ぎた頃、今年は男踏歌があるはずなので、例によって方々で管弦をにぎやかにかに練習するため、物騒がしいが、源氏の君は、あの寂しい宮のお邸が哀れにお思いになるので、七日の節会が終わって、夜になって御前から退出なさると、そのまま御宿直所にお泊りになるようなふりで、夜遅くになって末摘花邸にいらっしゃった。いつもの様子よりは活気づいた感じで世間並みになっている。姫君も少し物柔らかな雰囲気をお備えになっている。源氏の君は「どうだろう。以前と少し様子を変えてくれたなら」とお思い続けになる。翌朝、日が出る頃にわざとぐずぐずするふりをしてご退出になる。東の妻戸を押し開けると、向かいの渡り廊下が屋根もなく荒れているので、日の脚が寝殿の奥まで差し込んで、雪が少し降り積もっている光で、たいそうはっきりと見える。源氏の君が御直衣などをお召しになっているのを姫君は奥から御覧になり、少し縁側に出て横向きに臥している頭の恰好や髪がこぼれ出ている様子がとても見事である。うって変わった姿を見られたらとお思いになって、格子を引き上げなさった。

 前のお気の毒をなったのに懲りて、格子を全部はお上げにならず、脇息を押しつけて、それに格子を乗せて髪のほつれをお繕いになる。ひどく古いめいた鏡台、唐櫛笥、掻上の箱などを、女房たちが取り出している。意外に男用の御道具さえ少しあるのを、洒落ていて面白いと源氏は御覧になる。姫君の御装束が今日は世間並みに見えるのは、先日のご衣装の贈り物そのままだからであった。そうとはお気づきにならず、面白い模様がついて派手な感じの上着だけを「変だな」とお思いになった。源氏が「せめて今年はお声を少しはお聞かせくださいよ。待たれる鶯の初音はどうでもいいので、あなたのお気持ちが改まるのをお聞きしたいのです」とおっしゃると、姫は「さへづる春は」と、かろうじて震え声を出した。「それですよ。ずっと通ってきた甲斐があるというものです」とお笑いになって、「夢かと思う」と口ずさんで退出なさるのを見送って、姫は物に寄り臥していらっしゃる。口を覆っているのを横目に御覧になると、やはりあの末摘花(べにのはな)が見事に赤く色づいて出ている。見苦しいことだと、源氏の君は思われる。

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■二条院で紫の君と

 二条の院におはしたれば、紫の君、いとも美しき片生(かたお)ひにて、紅(くれなゐ)はかうなつかしきもありけりと見ゆるに、無紋(むもん)の桜の細長(ほそなが)、なよらかに着なして、何心もなくてものし給ふ様、いみじうらうたし。古代の祖母君(おばぎみ)の御名残にて、歯黒(はぐろ)めもまだしかりけるを、引き繕(つくろ)はせ給へれば、眉のけざやかになりたるも美しう清らなり。「心から、などかかう憂き世を見扱(みあつか)ふらむ、かく心苦しきものをも見て居たらで」と思しつつ、例の、もろともに雛遊(ひひなあそ)びし給ふ。絵など描きて、彩(いろど)り給ふ。よろづにをかしうすさび散らし給ひけり。我も描き添へ給ふ。

 髪いと長き女を描き給ひて、鼻に紅(べに)をつけて見給ふに、画(かた)に描きても見ま憂き様したり。わが御影(みかげ)の鏡台に映れるが、いと清らなるを見給ひて、手づからこの赤鼻(あかばな)を描きつけ、匂(にほ)はして見給ふに、かくよき顔だに、さて交じれらむは見苦しかるべかりけり。姫君見て、いみじく笑ひ給ふ。「まろが、かくかたはになりなむ時、いかならむ」と宣へば、「うたてこそあらめ」とて、さもや染みつかむと、あやふく思ひ給へり。そら拭(のご)ひをして、「さらにこそ白まね。用なきすさびわざなりや。内裏(うち)にいかに宣はむとすらむ」と、いとまめやかに宣ふを、いといとほしと思して、寄りて拭(のご)ひ給へば、「平中(へいちゆう)がやうに彩り添へ給ふな。赤からむはあへなむ」と戯(たはぶ)れ給ふ様、いとをかしき妹背(いもせ)と見え給へり。

【現代語訳】
 二条院にお戻りになると、紫の君がたいそう可愛らしく少女らしく心にしみるような紅色の映えた装いだったので、同じ紅でもこういう懐かしいのもあったのだとお眺めになる。無地の桜襲(さくらがさね:表が白、裏は赤)の細長(上着)をたおやかに着こなして無邪気でいらっしゃるさまは、実に可愛らしい。古風な祖母君の御しつけのなごりで、お歯黒もまだだったが、源氏が大人っぽく化粧させると、眉がくっきりと描かれたのも綺麗で清々しい。「どうして私は自ら求めて面倒な女性関係に苦しむのだろうか。こんなに愛しい人とずっと一緒にいることもせずに」と思いつつ、いつもの人形遊びの相手をなさる。また姫君は、絵など描いて色をおつけになる。さまざまに面白くお描き散らしになる。源氏もその絵の横に描き添える。

 髪がとても長い女を描いて、その鼻のあたりにに紅をつけてみると、絵であっても醜い様子だった。鏡に映るご自分の美しい顔をご覧になって、手づから鼻に紅を塗りつけて赤く色づかせてみられると、いくら美男でも赤鼻がまじっているのはみっともない。姫君がご覧になってひどくお笑いになる。「私がこんな変な顔になったら、どうする」とおっしゃると、姫君は「いやです」と言って、そのまま鼻に赤色が染み付くのではないかとご心配される。源氏は拭き取る真似をして、「どうしても白くならない。つまらないことをしたものだ。帝に何と申し上げればよいだろう」と、ひどく真面目くさっておっしゃるのを、姫君はたいそうかわいそうとお思いになり、そばに寄って拭き取りなさる。源氏は「平中のように別の色どりをお添えにならないで下さい。赤いのならまだ我慢できますが」とお戯れになるありさまは、たいそう可愛い若夫婦のようにお見えになる。

(注)平中・・・『平中物語』の主人公、平定文(たいらのさだふみ)。有名なプレイボーイで、女を泣き落とすのに用いた水入れの水を、墨に取り換えられたのに気づかず、顔が真っ黒になってしまった。

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

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作者の紫式部について

紫式部(本来は藤式部)は、平安時代中期の作家・歌人・女房(女官)。式部の父は藤原為時、母は藤原為信の娘であり、ともに歌人・学者の流れをくむ。天延元年(973年)ごろに生まれ、幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。

長徳4年(998年)ごろ、親子ほどの年の差がある藤原宣孝と結婚して一女賢子(大弐三位)を産み、長保3年(1001年)夫が病死、その後『源氏物語』を執筆し始め、寛弘2、3年(1005、6年)の年末、藤原道長の要請で、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の娘)のもとに宮仕えした(33、4歳)。宮仕え中、藤原公任が「若紫や侍ふ」と尋ねているので、その時までに幾つかの巻はできあがっていたとみられる。宮仕えの期間は不明で、40歳あまりで没したかといわれる。

式部はまた歌人としても優れ、少女時代から晩年に至るまでに自らが詠んだ和歌120首前後が収められた家集『紫式部集』がある。『小倉百人一首』にも一首収められており、中古三十六歌仙および女房三十六歌仙の一人でもある。勅撰和歌集では『拾遺和歌集』以下に51首が入集している。

京都紫野(北区紫野西御所田町)に、式部の墓と伝えるものがある。

紫式部の略年譜

966年ころ
ライバル?の清少納言が生まれる

973年ころ
紫式部が生まれる
父は学者・歌人の藤原為時
幼少時から漢文を読みこなすなど才女としての逸話が多い

974年ころ
弟の惟規(のぶのり)が生まれる
母が死去
この後、継母と少女時代を過ごす

993年
清少納言が一条天皇の中宮・定子のもとへ宮仕え

995年
藤原道長が右大臣になる
このころ清少納言の『枕草子』ができる

996年
父の為時が越前守に任ぜられる
父に従って越前国に向かう

998年
藤原宣孝と結婚。親子ほどの年の差があった。
『源氏物語』の執筆開始?

999年ころ
賢子を生む(後の大弐三位)

1001年
夫と死別

1005、6年
紫式部が一条天皇の中宮・彰子のもとに宮仕えを始める
従五位下に叙せられる

1008年
現存『紫式部日記』、このころから記事あり

1010年ころ
『源氏物語』ができる

1012年ころ
彰子のもとを去る

1016年
道長が摂政になる

1016年ころ
紫式部が死去

1025年ころ
清少納言が死去

「紫式部日記」

『紫式部日記』は、紫式部によって書かれた日記(全2巻)とされ、宮中に出仕し、中宮彰子の出産が迫った寛弘5年(1008年)秋から同7年正月にかけての諸事が書かれている。多くの写本の表題は『紫日記』とあり、内容にも紫式部の名の記載はなく、いつから『紫式部日記』とされたかは不明。『源氏物語』の作者が紫式部であるという通説は、伝説とこの日記に出てくる記述に基づいている。
 
1巻は記録的内容、2巻は手紙と記録的内容となっており、史書では明らかにされていない人々の生き生きとした行動がわかり、歴史的価値もある。自作『源氏物語』に対しての世人の評判や、彰子の同僚女房であった和泉式部、赤染衛門、中宮定子の女房であった清少納言らの人物評や自らの人生観について述べた消息文などもみられる。
 
和泉式部に対しては先輩として後輩の才能を評価しつつもその情事の奔放さに苦言を呈したり、先輩に当たる赤染衛門には後輩として尊敬の意を見せている。

また、清少納言への評では「清少納言と言うのはとても偉そうに威張っている人である。さも頭が良いかのように装って漢字を書きまくっているけれども、その中身を見れば稚拙なところが多い。他人より優れているように振舞いたがる人間は後々見劣りするであろう。(中略)そういう人間の行末が果たして良いものであろうか」などと、徹底的にこき下ろしている。ただ、本人同士は年齢や宮仕えの年代も10年近く異なるため、実際に面識は無かったものと見られている。

なお、鎌倉時代初期の13世紀前半ころに、『紫式部日記』のほぼ全文を絵画化した『紫式部日記絵巻』が制作された。

人生はあはれなり… 紫式部日記 単行本

おもな登場人物

主人公
●光源氏
 桐壺帝の第二皇子。母は桐壺更衣。母とは幼いころに死別。美質に恵まれるが、皇位継承はかなわず、源氏の姓を賜わって臣籍に下る。

光源氏の両親
●桐壺帝
 光源氏の父。身分の低い桐壺更衣を寵愛し、その忘れ形見の源氏を一時は東宮にとも願ったが、将来を考えて臣籍降下させる。モデルは醍醐天皇とされる。
●桐壺更衣
 光源氏の母。故按察大納言の娘。桐壺帝の寵愛を一身に受けたが、源氏が3歳の時に病で死去。

光源氏の兄弟
●朱雀帝
 桐壺帝の第一皇子で、光源氏の異母弟。母は弘徽殿女御。源氏との関係を知りつつも、朧月夜を寵愛。

光源氏の女君たち
●藤壺
 桐壺帝の中宮。亡き桐壺の更衣に酷似するというので源氏に慕われ、不義の子を産む。その後も続く源氏の執拗な求愛を避け出家。
●葵の上
 源氏の最初の正室。父は左大臣。結婚当初から関係は冷え切っており、夕霧を産んだのち、反感を買っていた六条の御息所の生霊に呪われ急死。
●空蝉
 老いた受領伊予介の後妻。源氏とは一夜のみの過ち。そのうち、夫の任地へ下る。後年、出家。
●軒端萩
 空蝉の義理の娘。明かりの落ちた部屋で空蝉と間違われ源氏と関係を持つ。
●夕顔
 源氏とは素性を隠して密会していたが、ある夜、物の怪に取り憑かれて急死。のちに頭の中将の愛人だったことが判明。その遺児が玉鬘。
●紫の上
 若紫とも。藤壺の兄の式部卿の娘。葵の上亡き後、正室ではないが、源氏の妻たちの中では、最も寵愛される。
●朧月夜
 右大臣の姫君で、弘徽殿女御の妹。朱雀帝に入内前に密会し、それが露見し、源氏は須磨へ配流。その後、朱雀帝に寵愛されるも、出家直前まで源氏との関係は続く。
●六条御息所
 先の東宮妃。教養高く優雅な貴婦人で源氏の愛人だったが、源氏の心離れへの恨みから、生霊となって女君たちに祟る。その後、娘の斎宮とともに伊勢に下向。再上京後に病死。
●花散里
 桐壺帝の妃・麗景殿の女御の妹。世話好きな女性で、生涯にわたって源氏と良好な関係を築き、厚い信頼を受ける。
●末摘花
 没落宮家の姫君。鼻が赤いからついた名が末摘花(紅花)。その醜い風貌を不憫に思った源氏は、面倒を見ようと決意する。
●源典侍
 桐壺帝に仕える高齢の女官。50代半ばながら好色で源氏を誘惑する。情事の現場を頭の中将に見つかって嚇される。夫は修理大夫。
●明石の上
 明石の入道の娘。須磨に流浪中の源氏と結ばれ、姫を産む。のちに上京、余生は六条院で過ごす。
●朝顔の姫君
 桃園式部卿宮の娘、斎院。源氏に求婚されたが拒み通した。
●女三宮
 朱雀院の皇女で、源氏の二番目の正室。薫の母。頭の中将の長男・柏木に迫られ、拒めずに関係を持ち薫を出産。その後、出家。

光源氏の子女
●冷泉帝
 表向きは桐壺帝の第十皇子であるが、実際には光源氏と藤壺中宮の間にできた男子。朱雀帝の譲位後に即位。後に出生の秘密を知り、源氏を准太政天皇に昇進させる。
●夕霧
 実質的な長男(実際の長男は冷泉帝)で、母は葵の上。
●明石中宮
 源氏の長女で、母は明石の方。紫の上の養女となる。匂宮の母。
●薫
 表向きは源氏と女三宮の次男であるが、実父は柏木。

左大臣家(藤原氏)
●頭中将
 左大臣と大宮の子。葵の上の同母兄。のちに内大臣、太政大臣。冷泉帝の退位を機に、自身も政事を退き隠居。
●左大臣
 葵の上と頭中将の父。藤原左大臣家の統領。桐壺帝や源氏とは公私共に親しい。若き日の源氏の後見人で、源氏の舅。冷泉帝即位時には源氏の要請を受け太政大臣に就いた。
●大宮
 桐壺帝の同母姉妹で左大臣の正室。葵の上、頭中将の母。
●右大臣の四の君
 頭中将の正室。若い頃は阿夫と疎遠であった。朧月夜の姉。柏木、紅梅、弘徽殿女御の母。
●柏木
 頭中将の長男。従兄弟の夕霧とは親友。源氏の二人目の正妻・女三宮に恋し、源氏の留守中に強引に契った。三宮の懐妊がきっかけで、源氏に不義が知られてしまい、苦悩の内に若くして世を去る。
●紅梅
 頭中将の次男、柏木の弟。
●弘徽殿女御
 頭中将の娘。冷泉帝の最初の妃となり、帝とは年も近く寵愛されていたが、源氏の後見を受けた秋好中宮には及ばず、中宮の座を得られなかった。
●雲居の雁
 頭中将の娘。夕霧の正室。後年は夕霧の心移りに悩む日々を過ごす。
●玉蔓
 頭中将と夕顔の娘。類いまれな美貌で、乳母一家と大宰府で暮らしていたが、大夫監の強引な求婚から逃げるように帰京し、宮中の人気を独占する。
●近江の君
 頭中将の落胤。
●五節の君
 近江君の女房。

右大臣家(藤原氏)
●弘徽殿女御(大后)
 右大臣の娘。桐壺帝のもとに入内。第一皇子(朱雀帝)を産む。帝の寵愛を一身に受ける桐壺の更衣を憎んで迫害し、その子源氏にも終生敵対する。
●右大臣
 弘徽殿女御、朧月夜らの父。一時は源氏を朧月夜の婿に迎えようともしていた。

その他
●秋好中宮
 前東宮の姫君。母は六条御息所。母に死別して孤立無援となった彼女を、光源氏が養女として冷泉帝に入内させた。
●浮舟
 桐壺帝八の宮の庶出の娘。 「宇治十帖」の主要人物。薫と匂宮に思われ、悩み抜き入水自殺。助かると即、出家。光源氏と直接の関わりはない。

「若紫」のあらすじ

(源氏 18歳)
(葵の上 22歳)
(藤壺 23歳)
(尼君 40歳余)
(紫の上 10歳)


源氏は「わらは病(おこり)」にかかり 、加持祈祷を受けるため北山の聖(ひじり)を訪ねた。治療の合間に山中をそぞろ歩きし、眼下の小さな庵室で、美しい少女(紫の上)を見出した。その少女には藤壺の面影があった。それも道理、その少女は、藤壺の兄(兵部卿宮:ひょうぶきょうのみや)の姫君で、母が亡くなり、今は祖母(尼君)と暮らしていた。源氏は少女を引き取って世話をしたいと申し出るが、「まだ幼すぎるので」とやんわりと断られる。

源氏は北山から帰京したものの、相変わらず正妻の葵の上とはしっくりいかない。そんなころ、藤壺がちょっとした病気のために宮中から三条宮に下がった。これを絶好の機会ととらえた源氏は、王命婦(おうみょうぶ:藤壺の侍女)の手引で、藤壺に近づき強引に迫った。夢のような密事の後、藤壺は源氏の子(のちの冷泉帝)を身籠ってしまう。帝はお喜びになるが、藤壺は苦悩し、源氏も自らの深い罪におののく。

その年の秋、紫の上の祖母(尼君)が亡くなった。父の兵部卿が紫の上を引き取ろうと考えるが、源氏は、その先を越して、紫の上と乳母の少納言を自邸の二条院に迎えた。最初は恐がっていた紫の上も、源氏の細やかな気配りに、次第に打ち解けてきた。


※この巻は、葵の上の発見、藤壺との逢瀬、藤壺の懐妊、また葵の上との不和が語られるなど、非常に重要な位置づけとなっており、この長大な物語の創作にあたり、一番最初に構想されたものと考えられている。また、「若紫」の巻名は、『伊勢物語』の初段の歌「春日野の若紫の摺り衣しのぶの乱れ限りしられず」によっていて、この巻の垣間見の場面も『伊勢物語』に想を借りている。
また、『伊勢物語』という書名の、文献上の確実な初出は『源氏物語』(「絵合」の巻)であり、紫式部の『伊勢物語』に対する高い評価の反映であるとみられている。

「末摘花」のあらすじ

(源氏18~19歳)
(紫の上10~11歳)
(末摘花 年齢不明)


同じ年のこと、源氏は、夕顔に代わる女性を探していたが、乳母子の大輔(たいふ)の命婦から、常陸宮の姫君(末摘花:すえつむはな)が両親と死別して寂しく暮らしていることを聞き、興味をそそられる。ある春の夜、命婦の手引で末摘花邸を訪れ、そこで彼女の琴の音を聞く。荒れた邸にひっそりと暮らす姫君は、夕顔のことを思い出させた。しかし、文を遣ったものの返事は来ない。

源氏が邸から帰ろうとすると、悪友の頭中将に見つけられる。源氏がどこに行くのかと跡をつけてきたのだった。源氏は頭中将にからかわれながらも、仲良く帰る。その後、二人は、姫君を自分のものにしようと競い合うが、秋の頃、源氏はついに彼女との逢瀬にこぎつける。ところが、姫君は恥ずかしいのか、一言も口を聞こうとしない。飽き足らない思いで帰り、しばらく訪れなかったが、久しぶりに姫君を訪ねた。

冬の夜の寒々とした邸のようすから、宮家の困窮ぶりが窺えた。その夜もまた、姫君とは打ち解けないまま明け方を迎えた。降り積もる雪明かりに、源氏は姫君の姿を見て、鼻の先が末摘花(紅花)のように赤く、象のように長く垂れているのに驚いた。しかし、源氏は、そんな姫君を不憫に思い、面倒を見ようと決心した。

二条院に戻った源氏は、紫の上と、鼻の赤い女の絵を書いて遊んだ。自分の鼻に紅をつけて、「私がこんなふうになったらどうしますか」と問うと、紫の上は、「そんなのいやです」と言って、あわててそばへ来て拭き取ろうとする。


※巻名の「末摘花」は、源氏の歌「なつかしき色ともなしに何にこの末摘花を袖にふれけむ」が由来となっている。

※末摘花の醜さを残酷なほどに誇張して描いており、身分では劣る女房の立場から、落ちぶれた宮家の姫君に、日ごろの劣等感を裏返した嘲笑を表していると捉える向きもある。もっとも、そのような末摘花を見捨てない源氏の誠実さを引き立てる効果も生み出している。