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頭の中将の〜第八十二段

(一)
 頭の中将の、すずろなるそらごとを聞きて、いみじう言ひ落とし、「何しに人とほめけむ」など、殿上(てんじやう)にていみじうなむのたまふ、と聞くにも恥づかしけれど、まことならばこそあらめ、おのづから聞き直したまひてむと笑ひてあるに、黒戸の前など渡るにも、声などするをりは、そでをふたぎてつゆ見おこせず、いみじう憎みたまへば、ともかうも言はず、見も入れで過ぐすに、二月(きさらぎ)つごもりがた、いみじう雨降りてつれづれなるに、御物忌みにこもりて、「『さすがにさうざうしくこそあれ。物や言ひやらまし』となむのたまふ」と人々語れど、「よにあらじ」などいらへてあるに、日一日、下(しも)にゐ暮らして、参りたれば、夜のおとどに入らせたまひにけり。

 長押(なげし)の下(しも)に火近く取り寄せて、さしつどひて扁(へん)をぞつく。「あなうれし。とくおはせ」など、見つけて言へど、すさまじきここちして、何しに上りつらむと覚ゆ。炭櫃(すびつ)のもとにゐたれば、そこにまたあまたゐて、物など言ふに、「なにがしさぶらふ」と、いとはなやかに言ふ。「あやし、いづれのまに、何事のあるぞ」と問はすれば、主殿司(とのもりづかさ)なりけり。「ただここもとに、人づてならで申すべきこと」など言へば、さしいでて問ふに、「これ、頭の殿の奉らせたまふ。御返りごととく」と言ふ。

【現代語訳】
 頭の中将が、私についてのとりとめもないうわさを聞いて、私をひどくけなし、「どうして清少納言を人並みにほめたのだろう」などと、殿上の間でひどくおっしゃる、と聞くにつけ、恥ずかしいけれども、事実ならしようがないが、間違いなのだからそのうちきっと誤解を解かれるだろうと笑っていたが、頭の中将は黒戸の前などを通るときも、私の声がすれば、袖で顔を隠して少しもこちらを見ず、ひどく憎んでいらっしゃる。私は何も言わず、気にもしないで過ごしているうち、二月の末ごろ、ひどく雨が降って退屈なときに、頭の中将が御物忌みにこもっていて、「『やはり何だか物足りない。清少納言に何か言ってやろうか』とおっしゃっている」と人々が私に話すが、「そんなことはよもやないでしょう」などと答え、一日中自分の部屋にいて、夜になって中宮様の所に参上したところ、中宮様はもう御寝所にお入りになっていた。

 頭の中将が、私についてのとりとめもないうわさを聞いて、私をひどくけなし、「どうして清少納言を人並みにほめたのだろう」などと、殿上の間でひどくおっしゃる、と聞くにつけ、恥ずかしいけれども、事実ならしようがないが、間違いなのだからそのうちきっと誤解を解かれるだろうと笑っていたが、頭の中将は黒戸の前などを通るときも、私の声がすれば、袖で顔を隠して少しもこちらを見ず、ひどく憎んでいらっしゃる。私は何も言わず、気にもしないで過ごしているうち、二月の末ごろ、ひどく雨が降って退屈なときに、頭の中将が御物忌みにこもっていて、「『やはり何だか物足りない。清少納言に何か言ってやろうか』とおっしゃっている」と人々が私に話すが、「そんなことはよもやないでしょう」などと答え、一日中自分の部屋にいて、夜になって中宮様の所に参上したところ、中宮様はもう御寝所にお入りになっていた。
 
(注)扁つき・・・漢字の扁を示してつくりを付ける、またはその逆のことをする遊び。

(二)
 いみじく憎みたまふに、いかなる文ならむと思へど、ただ今急ぎ見るべきにもあらねば、「往ね。今聞こえむ」とて、ふところに引き入れて入りぬ。なほ人の物言ふ聞きなどする、すなはち立ち帰り来て、「『さらば、そのありつる御文を賜はりて来(こ)』となむ仰せらるる。とくとく」と言ふが、あやしう、いせの物語なりやとて見れば、青き薄様(うすやう)に、いと清げに書きたまへり。心ときめきしつるさまにもあらざりけり。

 蘭(らん) 省ノ 花ノ 時 錦 帳ノ 下

と書きて、「末はいかに、いかに」とあるを、いかにかはすべからむ、御前(ごぜん)おはしまさば、御覧ぜさすべきを、これが末を知り顔に、たどたどしき真名(まんな)に書きたらむも、いと見苦しと、思ひまはすほどもなく、責め惑はせば、ただその奥に、炭櫃に消えたる炭のあるして、

 草の庵(いほり)をたれかたづねむ

と書きつけて、取らせつれど、また返りごとも言はず。

【現代語訳】
 とても憎んでおられるはずなのに、どんな手紙なのだろうと思うが、今すぐに急いで見るほどでもないから、「行ってください。すぐお返事を申し上げます」と言って、手紙をふところに入れて中に入った。そのまま女房たちが話しているのを聞いたりしていると、主殿司がすぐに引き返してきて、「『それなら、さっきのお手紙をいただいて来い』とおっしゃっています。お返事を早く早く」と言うが、どうもおかしいので、伊勢の物語なのかなと思い、見ると、青い薄手の紙に、とてもきれいに書いていらっしゃる。どんな文かと胸がときめいたが、それほどのものではなかった。

 蘭省の花の時錦帳の下

と書いて、「この後の句はどうか、どうだったか」とあるのを、どうしたらよいだろう、中宮様がいらっしゃれば御覧に入れることもできるのに、この下の句を知ったかぶりに、おぼつかない漢字で書いたら、さぞ見苦しいと思うが、思案するひまもなくしきりにせきたてるので、ただその手紙のあとに、炭櫃に火が消えた炭があるのを使い、
 草の庵をたれかたづねむ
と書きつけて渡したが、頭の中将から再びの返事はない。

(三)
 皆寝て、つとめて、いととく局(つぼね)に下(お)りたれば、源中将の声にて、「ここに、草の庵やある」と、おどろおどろしく言へば、「あやし。などてか、人げなきものはあらむ。玉の台(うてな)と求めたまはましかば、いらへてまし」と言ふ。「あなうれし。下(しも)にありけるよ。上にてたづねむとしつるを」とて、昨夜(よべ)ありしやう、「頭の中将の宿直所(とのゐどころ)に、少し人々しきかぎり、六位まで集まりて、よろづの人の上、昔今と語りいでて言ひしついでに、『なほこの者、むげに絶え果ててのちこそ、さすがにえあらね。もし言ひいづることもやと待てど、いささかなにとも思ひたらず、つれなきもいとねたきを、こよひ悪(あ)しともよしとも定めきりてやみなむかし』とて、皆言ひ合はせたりしことを、『ただ今は見るまじとて入りぬ』と、主殿司が言ひしかば、また追ひ返して、『ただ、袖を捕らへて、東西せさせず乞ひ取りて、持て来。さらずは、文を返し取れ』と戒めて、さばかり降る雨の盛りにやりたるに、いととく帰りたりき。『これ』とて、さしいでたるが、ありつる文なれば、返してけるかとて、うち見たるに、あはせてをめけば、『あやし。いかなることぞ』と、皆寄りて見るに、『いみじき盗人を。なほえこそ捨つまじけれ』とて見騒ぎて、『これが本つけてやらむ。源中将つけよ』など、夜ふくるまでつけわづらひてやみにしことは、行く先も、必ず語り伝ふべきことなり、などなむ、皆定めし」など、いみじうかたはらいたきまで言ひ聞かせて、「御名をば、今は草の庵となむつけたる」とて、急ぎ立ちたまひぬれば、「いとわろき名の、末の世まであらむこそ、口惜しかなれ」と言ふほどに、修理(すり)の亮則光(すけのりみつ)、「いみじき喜び申しになむ、上にやとて参りたりつる」と言へば、「なんぞ、司召(つかさめし)なども聞こえぬを、何になりたまへるぞ」と問へば、「いな、まことにいみじううれしきことの、昨夜はべりしを、心もとなく思ひ明かしてなむ。かばかり面目(めいぼく)なることなかりき」とて、初めありけることども、中将の語りたまひつる、同じことを言ひて、

【現代語訳】
 みんな寝て、翌朝、自分の部屋にたいそう早く下がっていると、源中将の声で、「ここに草の庵はいますか」と仰々しく言うので、「変ですね。どうしてそのような人間らしくない名前の者がおりましょうか。玉の台とお尋ねでしたら、お返事もいたしましょうに」と言った。頭の中将は「ああうれしい、下の局にいたのですね。上の局に尋ねようとしていました」と言って、昨夜あったことを語った、「頭の中将の宿直所に、少し身分のある者が皆、六位の蔵人までが集まって、いろいろな人の昔や今のことを語り、頭の中将があなたのことを『やはりこの人は、まったく絶交したというものの、そのまま放ってはおけない。ひょっとして向こうから言い出すかと待っているが、少しも気にかけず平気でいるのもずいぶんしゃくなので、今夜、良かれ悪しかれ、どうするか決めてしまおう』と言って、皆で相談したあの手紙を、『今すぐは見ないといって引っ込んだ』と主殿司が伝えたので、また追い返して、『とにかく袖をつかまえてでも、有無を言わさず返事をもらって来い。そうでなければ手紙を取り返せ』と強く言い聞かせて、あれほど降る雨のなかを遣ったところ、えらく早く帰ってきた。『これです』と言って差し出したのがさっきの手紙で、返事が来たのだなと思い、頭の中将がちらっと見たと同時に叫び声をあげた、『おや、どうしたのか』と皆でそばに寄って見ると、頭の中将が『たいした盗人よ。やはりあの女を捨て置くことはできない』と言うので、皆が手紙を見て騒ぎ、『これ(草の庵をたれかたづねむ)の上の句をつけて贈ろう。源中将つけてみろ』などと、夜が更けるまで悩んだあげく、つけることができずに終わってしまい、将来にきっと語り伝えるべき話だ、などと皆で評定しましたよ」などと、ずいぶんきまりが悪くなるほど私に言い聞かせ、「あなたのお名前を、今では草の庵とつけています」と言って、急ぎ立ってしまわれた。私は「とてもみっともない名が後世まで伝わるのは残念」と言っていると、修理の亮則光が「すばらしいお祝いを申し上げるために、上の御局におられるかと思って参上していました」と言うので、「何ですか。司召の除目などがあったとも聞きませんが、何におなりになったのですか」と尋ねると、「いやもう、まことにすばらしくうれしいことが昨夜ありましたのを、早くお知らせしたいと待ち遠しく夜を明かしましたよ。あれほど名誉なことはありませんでした」と言って、最初からのいきさつを、源中将がお話になったのと同じことを言い、
 
(注)修理の亮則光・・・橘則光。日ごろ兄妹と呼び合っていた。長男の則長は清少納言との間にできた子といわれる。

(四)
 「『ただ、この返りごとに従ひて、こかけをしふみし、すべて、さる者ありきとだに思はじ』と、頭の中将ののたまへば、ある限りかうやうしてやりたまひしに、ただに来たりしは、なかなかよかりき。持て来たりしたびは、いかならむと胸つぶれて、まことに悪からむは、せうとのためにも悪かるべしと思ひしに、なのめにだにあらず、そこらの人のほめ感じて、『せうと、こち来(き)。これ聞け』とのたまひしかば、下ごこちはいとうれしけれど、『さやうのかたに、さらにえさぶらふまじき身になむ』と申ししかば、『言(こと)加へよ、聞き知れとにはあらず。ただ、人に語れとて聞かするぞ』とのたまひしなむ、少し口惜しきせうとの覚えにはべりしかども、本(もと)つけこころみるに、言ふべきやうなし。『ことに、またこれが返しをやすべき』など言ひ合はせ、『悪しと言はれては、なかなかねたかるべし』とて、夜中までおはせし。これは身のためも人の御ためも、喜びにははべらずや。司召に少々の司得てはべらむは、何とも覚ゆまじくなむ」と言へば、げにあまたして、さることあらむとも知らで、ねたうもあるべかりけるかなと、これになむ、胸つぶれて覚えし。このいもうと・せうとといふことは、上まで皆しろしめし、殿上にも、司の名をば言はで、せうととぞつけられたる。

 物語などしてゐたるほどに、「まづ」と召したれば、参りたるに、このこと仰せられむとなりけり。上(うへ)渡らせたまひて、語り聞こえさせたまひて、男(をのこ)ども皆、扇に書きつけてなむ持たる、など仰せらるるにこそ、あさましく、何の言はせけるにかと覚えしか。

 さてのちぞ、そでの几帳(きちやう)など取り捨てて、思ひ直りたまふめりし。

【現代語訳】
 「『ただ、この返事しだいでは、こかけをしふみし、全くそんな者がいたとは思うまい』と頭の中将がおっしゃるので、そこにいた皆で考えて手紙をおやりになったが、使者が手ぶらで帰ってきたのは、かえってよかった。返事を持ってきたときはどうなることかと胸がどきどきして、ほんとうに出来が悪かったら、この兄にとってもよくないだろうと思ったが、並々でなく大勢の人がほめて感心し、『お兄さん、こっちへ来い。これを聞け』とおっしゃったので、内心はとてもうれしくも、『そうした詩歌のほうは、一向にお相手できるほどの身ではございません』と申し上げた、すると、『批評しろとか理解しろというのではない。ただ、人に話せというので聞かせるのだ』とおっしゃり、兄としてちょっと情けない思われ方だったが、人々が上の句をつけようとしても適当な文句が見つからない。『ことさらに、またこの句の返事をしたものだろうか』などと話し合い、『つまらない返事だと言われては、かえって無念だ』などと、夜中まで思案していらっしゃった。これは私自身にとってもあなたにとっても祝い事ではないか。司召に少しばかりの官職を得たとしても、これに比べれば何とも思われない」と言う。なるほど大勢でそんな計画があったとも知らず、へたな返事をしていたらさぞしゃくにさわったであろうと、今更ながらに胸がどきりとした。この私と則光を兄妹と呼ぶのは、主上(一条天皇)まですっかりご存知で、殿上でも、則光の官名ではなく「せうと」と名づけられている。

 則光といろいろ話しているうちに、中宮様が「ちょっと」とお召しになったので参上したところ、このことをおっしゃろうというのだった。主上が中宮様の所においでになってお話しあそばし、殿上人たちは皆、あの句を扇に書きつけて持っているとのことで、あきれて、何があの句を言わせたのかしらと思われた。

 それから後は、頭の中将も、袖で几帳のように顔を隠すのをやめて、機嫌をお直しになったようだった。

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二月つごもりごろに〜第百六段

 二月(きさらぎ)つごもりごろに、風いたう吹きて空いみじう黒きに、雲少しうち散りたるほど、黒戸に主殿司(とのもづかさ)来て、「かうてあぶらふ」と言へば、寄りたるに、「これ、公任(きんたふ)の宰相殿の」とてあるを見れば、懐紙に、

 少し春あるここちこそすれ

とあるは、げにけふのけしきにいとよう合ひたるも、これが本(もと)はいかでかつくべからむ、と思ひわづらひぬ。「たれたれか」と問へば、「それそれ」と言ふ。皆いと恥づかしき中に、宰相の御いらへを、いかで事なしびに言ひいでむ、と心一つに苦しきを、御前に御覧ぜさせむとすれど、上のおはしまして大殿(おほとの)ごもりたり。主殿司は、「とくとく」と言ふ。げにおそうさへあらむは、いと取り所なければ、さはれとて、

 空寒み花にまがへて散る雪に

と、わななくわななく書きて取らせて、いかに思ふらむとわびし。これがことを聞かばやと思ふに、そしられたらば聞かじと覚ゆるを、「俊賢(としかた)の宰相など、『なほ内侍(ないし)に奏してなさむ』となむ定めたまひし」とばかりぞ、左兵衛(さひやうゑ)の督(かみ)の中将におはせし、語りたまひし。

【現代語訳】
 二月の末ごろ、風がたいへん吹いて空がとても黒く、そのうえ雪が少し散らついている時に、黒戸に主殿司が来て、「ごめんください」と言うので、近寄れば、「これは、公任の宰相殿からです」と差し出すのを見ると、懐紙に「少し春になった趣ですね」と書いてあり、いかにも今日の天気に合っているので、この歌の上の句はどう付けたらよいかと思い悩んだ。「殿上の間にはどなた方がいらっしゃるの」と尋ねると、「だれそれです」と言う。どなたも皆こちらがたいそう気後れするような立派な方なので、宰相へのお返事は通りいっぺんのものにはできないと、自分だけでは苦しいので中宮様にお目を通していただこうとするが、中宮様は主上がおいでになってお休みになっていらっしゃる。主殿司は「早く早く」と言う。たしかに返事まで遅くては、いかにも取り柄がないので、どうにもなれと思い、「空が寒いので、花に似せて散る雪に」と、震え震えして書いて渡したが、どう思われるかと情けなくなる。このお返事の批評を聞きたいと思うが、もしけなされているなら聞きたくないと思っていると、「俊賢の宰相などが、『やはり主上に奏上してあなたを内侍にしたい』と批評しておられた」とだけ、左兵衛の督の中将だった方が話してくださった。

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はしたなきもの〜第百二十七段

 はしたなきものこと人を呼ぶに、われぞとてさし出(い)でたる。物などとらするをりはいとど。おのづから人の上などうちいひそしりたるに、をさなき子どもの聞きとりて、その人のあるにいひ出でたる。

 あはれなることなど、人のいひ出で、うち泣きなどするに、げにいとあはれなりなど聞きながら、涙のつと出で来ぬ、いとはしたなし。泣き顔つくり、けしき異(こと)になせど、いとかひなし。めでたきことを見聞くには、まづただ出で来にぞ出でくる。

【現代語訳】
 きまりの悪いもの。他の人を呼んだのに、自分かと思って出しゃばった時。何かをくれるときは、いっそうきまりが悪い。何となく人の噂話などして悪く言ったことを、幼い子どもが聞き覚えていて、その人の前でしゃべってしまった時。

 悲しいことなどを人が話し出して、ふと泣いたりするのに、まことにたいそう可哀相だと思って聞いていながらも、涙がすぐに出てこないのは、ひどくきまりが悪い。泣き顔をつくり、悲しそうな顔つきをしてみても、全くかいがない。それとは反対にすばらしいことを見たり聞いたりして、真っ先に涙がやたらに出てくるのも困ったものだ。

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関白殿、黒戸より〜第百二十九段

 関白殿、黒戸(くろど)よりいでさせたまふとて、女房のひまなくさぶらふを、「あないみじのおもとたちや。翁(おきな)をいかに笑ひたまふらむ」とて、分けいでさせたまへば、戸に近き人々、いろいろの袖口(そでぐち)して、御簾(みす)引き上げたるに、権大納言の御沓(くつ)取りてはかせ奉りたまふ。いとものものしく、清げに、装(よそほ)しげに、下襲(したがさね)の裾(しり)長く引き、所せくてさぶらひたまふ。あなめでた、大納言ばかりに沓取らせ奉りたまふよ、と見ゆ。山の井の大納言、その御次々のさならぬ人々、黒きものを引き散らしたるやうに、藤壺の塀(へい)のもとより、登花殿(とうくわでん)の前まで居並みたるに、細やかにいみじうなまめかしう、御佩刀(はかし)などひき繕はせたまひて、休らはせたまふに、宮の大夫(だいぶ)殿は、戸の前に立たせたまへれば、ゐさせたまふまじきなめりと思ふほどに、少し歩みいでさせたまへば、ふとゐさせたまへりしこそ、なほいかばかりの昔の御行ひのほどにかと見奉りしに、いみじかりしか。

 中納言の君の、忌日(きにち)とてくすしがり行ひたまひしを、「賜へ、その数珠しばし。行ひして、めでたき身にならむ」と借るとて、集まりて笑へど、なほいとこそめでたけれ。御前に聞こしめして、「仏になりたらむこそは、これよりはまさらめ」とて、うち笑(ゑ)ませたまへるを、まためでたくなりてぞ見奉る。大夫殿のゐさせたまへるを、かへすがへす聞こゆれば、例の思ひ人と笑はせたまひし、まいて、こののちの御ありさまを見奉らせたまはましかば、ことわりとおぼしめされなまし。

【現代語訳】
 関白殿(藤原道隆)が黒戸からお出ましになるというので、女房たちがぎっしり並んで伺候しているのをご覧になり、「ああ、何とすばらしいご婦人がたよ。この老人をどれほどお笑いになるだろう」と言って、女房たちをかき分けて出てこられた。戸口に近い女房たちが、色とりどりの袖口をのぞかせて御簾を引き上げると、そこに控えていた権大納言(藤原伊周)がお沓を取って関白殿におはかせになる。権大納言はたいへんいかめしく、きれいで、装いをこらして、下襲の裾を長く引き、あたりがせまく感じられるほど堂々としていらっしゃる。ああすばらしい、大納言ほどのお方に沓を取らせなさるとは、と思われる。山の井の大納言(藤原道頼)や、これに次ぐ官位でお身内ではない方々が、黒いものを散らしたように、藤壺の塀のもとから登花殿の前まで居並んでいる所に、関白殿がほっそりと優雅に御佩刀などをおとり直しになり佇んでいらっしゃると、中宮の大夫殿(藤原道長)は、戸の前に立たれているので、ひざまずきはなさるまいと思っていると、関白殿が少し歩まれて行かれると、すっとひざまずかれたのは、やはり関白殿の前世での善業がいかばかりであったかと拝見し、大いに感動したことだ。

 女房の中納言の君(道隆の従妹)が、命日だとして奇特なようすで勤行しておられたのを、他の女房が「その数珠をしばらく貸してください。私もお勤めをして関白のようなけっこうな身分になりたい」と、集まってきて笑うが、それにしても関白殿の御威勢はまことにすばらしい。中宮様がそれをお聞きになって、「いっそ仏になれば、もっとよいでしょうに」とおっしゃって微笑なさるのを、これまたすばらしくお見申し上げる。中宮の大夫様がひざまずかれたことを繰り返し申し上げると、いつもごひいきの人ねとお笑いになったが、まして、もし中宮様がその後の道長様の御繁栄ぶりをご覧になったならば、私が申し上げるのももっともなこととお思いになっただろうに。
 
(注)黒きもの・・・当時の四位以上の人の袍が、すべて黒色だった。
(注)御佩刀・・・貴人が身につける太刀の尊称。

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うつくしきもの〜第百五十一段

 うつくしきもの瓜(うり)にかきたるちごの顔。雀の子の、ねず鳴きするにをどり来る。二つ三つばかりなるちごの、急ぎてはひ来る道に、いとちひさき塵(ちり)のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなるおよびにとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。頭(かしら)は尼そぎなるちごの、目に髪のおほえるをかきはやらで、うちかたぶきてものなど見たるも、うつくし。

 大きにはあらぬ殿上童(てんじやうわらは)の、装束(さうぞ)きたてられてありくもうつくし。をかしげなるちごの、あからさまにいだきて遊ばしうつくしむほどに、かいつきて寝たる、いとらうたし。

 雛(ひひな)の調度。蓮(はちす)の浮葉(うきは)のいとちひさきを、池より取りあげたる。葵(あふひ)のいとちひさき。なにもなにも、ちひさきものはみなうつくし。

 いみじう白く肥えたるちごの二つばかりなるが、二藍(ふたあゐ)の薄物(うすもの)など、衣長(きぬなが)にてたすき結ひたるがはひ出でたるも、またみじかきが袖がちなる着てありくもみなうつくし。八つ、九つ、十ばかりなどの男児の、声はをさなげにて書(ふみ)読みたる、いとうつくし。

 にはとりの雛の足高に、白うをかしげに、衣みじかなるさまして、ひよひよとかしかましう鳴きて、人のしりさきに立ちてありくもをかし。また親の、ともに連れて立ちて走るも、みなうつくし。かりのこ。瑠璃(るり)の壺。

【現代語訳】
 かわいらしいもの。瓜にかいた幼子の顔。雀の子が、人がねずみの鳴き声を真似してみせると、踊るようにしてやって来る。二、三歳くらいの幼子が、急いで這ってくる途中で、とても小さい塵のあるのを目ざとく見つけて、たいそうかわいらしい指につまんで、大人などに見せたのは、実にかわいらしい。頭をおかっぱにしている幼子が、目に髪がかぶさるのも払いもせずに、首を少しかしげて物など見ているのも、かわいらしい。

 大きくはない殿上童が、装束を着たてられて歩くのもかわいらしい。愛らしい幼子が、ちょっと抱いて遊ばせたりあやしたりしているうちに、しがみついて寝てしまうのは、とてもいじらしい。

 人形(遊び)の道具。蓮の浮葉のごく小さいのを、池から取り上げたもの。何もかも小さいものは皆かわいらしい。

 とても白く太った幼子で二歳ばかりのが、二藍の薄物(の着物)など、丈が長めで、袖をたすきでくくりあげて這い出てくるのも、また短い着物で袖だけが目立って大きく見えるのを着て歩き回るのも、皆かわいらしい。八歳、九歳、十歳くらいの男の子が、幼い声で漢籍を読んでいるのは、とてもかわいらしい。

 鶏の雛が、すね長で、白くかわいらしげで、着物が短いような感じで、ぴよぴよとやかましく鳴いて、人の後ろや前に立って歩き回るのもおもしろい。また親が、いっしょに連れ立って走るのも、皆かわいらしい。カルガモの卵もかわいらしい。瑠璃の壺もかわいらしい。
 
(注)殿上童・・・公卿の子弟で元服前に見習のために清涼殿に奉仕する少年。

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宮に初めて参りたるころ〜第百八十四段

(一)
 宮に初めて参りたるころ、ものの恥づかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々参りて、三尺の御几帳(みきちやう)の後ろにさぶらふに、絵など取りいでて見せさせたまふを、手にてもえさしいづまじうわりなし。「これは、とあり、かかり。それが、かれが」などのたまはす。高坏(たかつき)に参らせたる大殿油(おほとなぶら)なれば、髪の筋なども、なかなか昼よりも顕証(けそう)に見えてまばゆけれど、念じて見などす。いと冷たきころなれば、さしいでさせたまへる御手のはつかに見ゆるが、いみじうにほひたる薄紅梅(うすこうばい)なるは、限りなくめでたしと、見知らぬ里人ごこちには、かかる人こそは世におはしましけれど、驚かるるまでぞまもり参らする。

 暁には疾(と)く下りなむと急がるるr。「葛城(かつらぎ)の神もしばし」など仰せらるるを、いかでかは筋かひ御覧ぜられむとて、なほ伏したれば、御格子(みかうし)も参らず。女官(にようくわん)ども参りて、「これ、放たせたまへ」など言ふを聞きて、女房の放つを、「まな」と仰せらるれば、笑ひて帰りぬ。

 物など問はせたまひ、のたまはするに、久しうなりぬれば、「下(お)りまほしうなりにたらむ。さらば、はや。夜さりは疾く」と仰せらる。

 ゐざり帰るやおそきと上げ散らしたるに、雪降りにけり。登花殿の御前は立蔀(たてじとみ)近くてせばし。雪いとをかし。

【現代語訳】
 中宮様の御所に初めてご奉公に参上したころは、何かにつけて恥ずかしいことが数知れずあり、涙が落ちてしまいそうなので、昼には参上せず、いつも夜に参上して、三尺の御几帳の後ろに控えていると、中宮様は絵などを取り出して見せてくださるが、私はろくに手を差し出すこともできないほどどうしようもない気持ちでいた。「この絵は、ああです、こうです、それが、あれが」などと中宮様はおっしゃる。高坏を逆さにした上におともしした御燈火が明るく、髪の毛の筋などもかえって昼よりはっきり見えて恥ずかしいけれど、じっとこらえて見などする。ひどく冷える時期なので、差し出された中宮様のお手が袖口からわずかに見えるのが、とても艶やかで薄紅梅色で、この上なくすばらしいと、そしてはなやかな宮中を知らない里人である私の心には、このようなすばらしいお方もこの世にはいらっしゃるのだと目が覚めるほどの気持ちがして、じっとお見つめ申し上げる。

 明け方になると早く退出しようと自然に気が急いてくる。中宮様は「葛城の神のように夜にしか姿を見せないそなたでも、もうしばらくはいいでしょう」などとおっしゃるが、何とかして斜めからでも顔を御覧に入れずすませたいと思い、そのまま伏せているため、まだ御格子もお上げしていない。女官たちが参上して、外から「御格子をお上げくださいませ」と言うのを聞き、女房が内から上げようとすると、中宮様が「いけません」とおっしゃり、女房は笑いながら帰っていった。

 中宮様は何かと私にお尋ねになり、お話なさったりするうちに、だいぶ時間がたったので、「もう退出したいでしょう。それでは早く下がりなさい。でも、夜は早くいらっしゃい」とおっしゃる。

 中宮様の御前を座ったまま下がるとすぐに格子能の戸が上げられ、外には雪が降っていた。登花殿の前のお庭には立蔀が近くにあるので狭い。しかし、その雪景色はとても趣がある。
 
(注)高坏・・・食器を載せる台。それを逆さにして燈火の皿を置いた。
(注)登花殿・・・後宮の建物の一つで、当時は中宮定子がおられた。
(注)立蔀・・・格子の裏側に板を張って目隠しにしたもの。

(二)
 昼つ方、「けふはなほ参れ。雪に曇りてあらはにもあるまじ」など、たびたび召せば、この局(つぼね)の主(あるじ)も、「見苦し。さのみやはこもりたらむとする。あへなきまで御前許されたるは、さおぼしめすやうこそあらめ。思ふにたがふは憎きものぞ」と、ただ急がしにいだし立つれば、あれにもあらぬここちすれど、参るぞいと苦しき。火焼屋(ひたきや)の上に降り積みたるものめづらしうをかし。

 御前近くは、例の炭櫃(すびつ)に火こちたくおこして、それにはわざと人もゐず。上臈(じやうらふ)御まかなひにさぶらひたまひけるままに、近うゐたまへり。沈(ぢん)の御火桶の梨絵(なしゑ)したるにおはします。次の間に長炭櫃に隙(ひま)なくゐたる人々、唐衣(からぎぬ)こきたれたるほどなど、慣れ安らかなるを見るも、いとうらやまし。御文取次ぎ、立ち居、行き違ふさまなどのつつましげならず、物言ひ、ゑ笑ふ。いつの世にか、さやうに交らひならむと思ふさへぞつつましき。奥(あう)寄りて三四人(みたりよたり)さしつどひて絵など見るもあめり。

【現代語訳】
 昼ごろ、中宮様から「今日はやはり昼も参上しなさい。雪で曇っているから、そう丸見えでもないでしょう」などと、たびたびお召しになるので、ここの局の主の女房も、「見苦しいですよ。どうしてそのようにこもってばかりいようとするのですか。あれほど容易に中宮様が御前への伺候を許されたのは、そう思われるわけがおありなのでしょう。ご好意に添わないのはよくありませんよ」と言って、しきりに出仕させようとするので、自分を失ってしまう心地がするが、参上するのが辛い。火焼屋の屋根の上に雪が積もっているのも珍しくておもしろい。

 中宮様の御前近くには、いつものようにいろりに火をたくさんおこして、そこにはとくに誰も座っていない。上席の女房たちが中宮様のお世話をするため伺候なさっているので、お側近くに座っておられる。中宮様は沈のお火鉢で梨地の蒔絵(まきえ)が描かれているのに向かっていらっしゃる。次の間には長いいろりのそばにすき間なく並んで座っている女房たちが、唐衣をゆったりたらして着ているようすなどが、いかにも慣れた感じで気楽そうに見えて、とてもうらやましく思う。お手紙を取り次いだり、立ったり座ったり、行き交うさまが遠慮ないようすで、平気で物を言い、笑いあったりする。いつになったら、自分もあのように仲間入りができるのだろうかと、それを思うだけでも気が引ける。奥のほうに下がって、三、四人集まって絵などを見ている女房もいるようだ。

(三)
 しばしありて、前駆(さき)高う追ふ声すれば、「殿参らせたまふなり」とて、散りたるもの取りやりなどするに、いかでおりなむと思へど、さらにえふとも身じろかねば、いま少し奥に引き入りて、さすがにゆかしきなめり、御几帳(みきちやう)のほころびよりはつかに見入れたり。

 大納言殿の参りたまへるなりけり。御直衣(なほし)、指貫(さしぬき)の紫の色、雪にはえていみじうをかし。柱もとにゐたまひて、「きのふけふ、物忌みにはべりつれど、雪のいたく降りはべりつれば、おぼつかなさになむ」と申したまふ。「道もなしと思ひつるに、いかで」とぞ御いらへある。うち笑ひたまひて、「あはれともや御覧ずるとて」などのたまふ、御ありさまども、これより何事かはまさらむ。物語にいみじう口に任せて言ひたるにたがはざめりと覚ゆ。

 宮は、白き御衣どもに紅の唐綾(からあや)をぞ上に奉りたる。御髪(みぐし)のかからせたまへるなど、絵にかきたるをこそかかることは見しに、うつつにはまだ知らぬを、夢のここちぞする。女房と物言ひ、戯(たはぶ)れ言などしたまふ。御いらへを、いささか恥づかしとも思ひたらず聞こえ返し、そら言などのたまふは、あらがひ論じなど聞こゆるは、目もあやに、あさましきまであいなう、面(おもて)ぞ赤むや。御くだ物参りなど取りはやして、御前にも参らせたまふ。

【現代語訳】
 しばらくして、高らかに先払いをかける声がして、女房たちが「関白殿(藤原道隆)が参上されたようです」と言い、散らかっているものを片づけだしたので、私は何とかして退出しようと思ったが、まったく素早く動けず、もう少し奥に引っ込んだものの、やはり見たかったのだろう、御几帳の縫い目のすき間から、わずかに覗き見た。

 しかし、それは関白殿ではなく大納言殿(藤原伊周)が参上されたのだった。着ていらっしゃる御直衣や指貫の紫の色が、白い雪に映えてとても美しい。大納言殿は柱の側にお座りになって、「昨日から今日にかけては、物忌みで外出もできないでおりましたが、雪がひどく降り、こちらが気がかりで参上いたしました」と申された。中宮様は「古歌に『雪降り積みて道もなし』と詠まれているとおり、道もございませんでしたでしょうに、どうして来られましたか」とお答えになった。大納言殿は微笑まれて、「その古歌のとおり、こんなときに参ってきた私を、思いやりのあることだと思ってくださるかと存じまして」などとおっしゃる。こうしたお二人の御ようすは、これにまさるものはないほどだ。物語で、作者が口をきわめて褒めて言うのと違わないと思う。

 中宮様は、白いお召し物を重ねて着られ、その上に紅の唐綾をお召しになっている。それにお髪(ぐし)がたれかかっておられるさまは、絵でこそ見はしたものの現実には見たこともなかったので、夢のような心地がする。大納言殿は女房に話しかけ、冗談などを口にされる。女房たちは少しも気恥ずかしく思わず返事をお返しし、大納言が嘘などをおっしゃると、それに逆らって抗弁など申し上げるさまは、私には目にもまぶしく、あまりのことにやたらに赤面してしまうほどだ。大納言殿はお菓子を召し上がり、座を取り持つように、中宮様にも差し上げられる。

(四)
 「御帳(みちやう)の後ろなるはたれぞ」と問ひたまふなるべし。さかすにこそはあらめ、立ちておはするを、なほほかへにやと思ふに、いと近うゐたまひて、物などのたまふ。まだ参らざりしより聞き置きたまひけることなど、「まことにや、さありし」などのたまふに、御几帳隔てて、よそに見やり奉りつるだに恥づかしかりつるに、いとあさましう、さし向かひ聞こえたるここち、うつつとも覚えず。行幸(ぎやうがう)など見るをり、車の方にいささかも見おこせたまへば、下簾(したすだれ)引きふたぎて、透き影もやと扇をさし隠すに、なほいとわが心ながらもおほけなく、いかで立ちいでしにかと汗あえていみじきには、何事をかはいらへも聞こえむ。

 かしこき陰とささげたる扇さへ取りたまへるに、振りかくべき髪の覚えさへあやしからむと思ふに、すべて、さるけしきもこそは見ゆらめ。疾く立ちたまはなむと思へど、扇を手まさぐりにして、絵のこと、「たがかかせたるぞ」などのたまひて、とみにも賜はねば、そでを押し当ててうつぶしゐたり、裳(も)・唐衣に白いもの移りて、まだらならむかし。

 久しくゐたまへるを、心なう、苦しと思ひたらむと心得させたまへるにや、「これ見たまへ。これはたが手ぞ」と聞こえさせたまふを、「賜はりて見はべらむ」と申したまふを、なほ、「ここへ」とのたまふも、いと今めかしく、身のほどに合はず、かたはらいたし。人の草(さう)がな書きたる草子(さうし)など、取りいでて御覧ず。「たれがにかあらむ。かれに見せさせたまへ。それぞ世にある人の手は皆知りてはべらむ」など、ただいらへさせむと、あやしきことどもをのたまふ。

【現代語訳】
 「御几帳の後ろにいるのは誰か」と大納言殿がお尋ねになっているに違いない。そして興味を示されたのだろう、立ち上がってこちらに来られるのを、それでもやはり他へ行かれるのだと思っていると、何と私のすぐそば近くにお座りになり、お話などなさる。私がまだ宮仕えに参上していなかったころから聞き及んでいらっしゃったことなどを、「ほんとうに、そうだったのか」などとおっしゃるので、私は御几帳を隔ててよそ目に拝見していたのでさえ恥ずかしかったのに、こうして驚くほど間近にお向かいしている心地は、現実と思われない。行幸などを見物する折は、私の車に少しでも目を向けられると、あわてて下簾を引き下ろしてふさぎ、それでもこちらの人影が透けて見えやしないかと扇で顔を隠すほどなのに、いくら自分から思い立った宮仕えとはいうものの、身分不相応で厚かましく、どうして来てしまったのかと冷や汗が流れて苦しい、そんな自分がいったい何をお答えできようか。

 大切な頼みの陰だった扇までも大納言が取り上げられ、額にたらしかけるはずの髪の感じまでもがさぞお見苦しいことと思い、そのように恥じているようすまでも見られているだろう。早くお立ち去りになってほしいと思うのに、大納言殿は、私の扇を手でもてあそびながら、その扇の絵について、「誰が描かれたのか」などとおっしゃり、すぐにも返してくださらないので、私は袖を顔に当ててうつむいていた、そのため、裳や唐衣におしろいがついて、さぞ顔もまだらになっただろう。

 大納言殿が長く私のそばに座っていらっしゃるのを、大納言殿の思いやりのなさに私が困っているだろうと中宮様がお察しくださったのだろうか、「これを御覧ください。どなたの筆跡でしょうか」と大納言殿に申されたのを、大納言殿は「こちらにいただいて拝見しましょう」と申されたので、中宮様はさらに「こちらへ」とおっしゃる。すると大納言殿は、「この人が私をつかまえて立たせないのです」とおっしゃるのも、ひどく現代的で、私の身の程からは突拍子もないことできまりが悪い。中宮様は、誰かが草がなで書いた冊子などを取り出して御覧になる。すると大納言殿は、「誰の筆跡でしょうか。彼女にお見せなさいませ。彼女なら世にある人の筆跡はすべて見知っておりましょう」などと、とにかく私に返答させようと、とんでもないことをおっしゃる。

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牛車〜第二百二十三段

 五月ばかりなどに山里にありく、いとをかし。草葉も水もいと青く見えわたりたるに、上はつれなくて草生ひ茂りたるを、ながながとたたざまに行けば、下はえならざりける水の、ふかくはあらねど人などのあゆむにはしりあがりたる、いとをかし。

 左右(ひだりみぎ)にある垣にある、ものの枝などの、車の屋形(やかた)などにさし入るを、いそぎてとらへて折らむとするほどに、ふと過ぎてはづれたるこそ、いとくちをしけれ。

 蓬(よもぎ)の車に押しひしがれたりけるが、輪の廻りたるに、近ううちかかりたるもをかし。

【現代語訳】
 五月のころに、山里に出かけるのはとても楽しい。草葉も田の水もたいそう青々として一面に見渡されるが、表面はさりげなく生い茂っているそこを、牛車でぞろぞろとまっすぐに行くと、草の下には何ともいえずきれいな水が深くはないがたまっていて、従者などが歩くとしぶきが飛び散るのが愉快だ。

 道の左右の生垣に植えられた何かの木の枝などが、車の屋形などに入るのを、急いで折り取ろうとしたら、さっと通り過ぎて手元から外れてしまったのが、実に残念だった。

 よもぎの、車輪に敷かれて押しつぶされたのが、車輪が回るのにつれて、近くに匂ったのも楽しかった。

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

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中宮定子について

 中宮(皇后)定子は、中関白と称せられた藤原道隆を父とし、漢詩人として名高い貴子を母として誕生。正暦元年(990年)に一条天皇の後宮に入内し、中宮となった。清少納言が始めて出仕したとされる正暦4年のころは、中関白家が栄華を極めていた時期で、定子の宮廷生活も華やかに賑わい立つ日々だった。定子は生来のすぐれた資質に加え、父の明るい性格や母の学才を受けついで、周囲の人間をひきつけずにはおかない人柄だった。その並びない才色で、一条天皇の寵愛を一身に受けた。
 
 しかし、長徳元年(995年)に道隆が死去すると、その栄華は一転した。政権を掌握した道長の圧迫を受けて、兄の伊周や弟の隆家は失脚させられた。伊周が大宰権師として京を下るに際し、定子はみずから髪を下ろして尼となった。さらにその年に母も亡くなり、身辺は失意と悲しみに包まれた。それでも天皇のご寵愛は続き、内親王と親王を出産した。
 
 長保2年に皇后となったが、内親王を出産した翌日、後産のため24歳の若さで死去した。

後宮について

皇后
きさき、またはきさきのみやとも呼ぶ。もとは皇族から立たれたが、光明皇后から人臣から出るようになった。
 
中宮
皇后が二人立てられたときの名残で皇后の異称。「中宮」の本来の意味は「皇后の住居」。転じて、そこに住む皇后その人を指して中宮と呼ぶようになった。
 
女御
寝所に侍し、はじめは位は低かったが、やがて二位になり、平安時代中期以降、皇后は女御から昇進する慣例となった。
 
更衣
もとは天皇の着替えの役目をもつ女官の職名だった。女御に次ぐ地位で、四、五位だったが、後に女御に進む者も出た。
 
御息所
女御・更衣を漠然とした言い方。また皇太子妃を指す場合もある。

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