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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

柿本人麻呂の歌

巻第3-426・428

426
草枕(くさまくら)旅の宿(やどり)に誰(た)が夫(つま)か国忘れたる家(いへ)待たなくに
428
こもりくの泊瀬(はつせ)の山の山の際(ま)にいさよふ雲は妹(いも)にかもあらむ
 

【意味】
〈426〉この旅の宿りに、どこの誰の夫だろうか、帰るべき国も忘れて倒れている。家の妻は帰りを待っているだろうに。

〈428〉泊瀬の山のあたりに漂っている雲は、亡くなった乙女なのだろうか。

【説明】
 426は、藤原京の皇居に近い香具山(かぐやま)に行き倒れている人を見て、人麻呂が作った歌。「草枕」は「旅」の枕詞。「旅の宿り」は、死んで横たわっているのを、寝ている状態と見て美しく言い換えたもの。「国忘れたる」は、死んで故郷へ帰ろうとしない意で、これも死を美しく言い換えた表現。「家待たなくに」は、家の人すなわち妻が待っているだろうに。

 428は、亡くなった土形娘子(ひじかたのおとめ)を泊瀬山に火葬した時に人麻呂が作った歌。土形娘子は文武朝の宮女ではないかとされます。「こもりくの」は「泊瀬」の枕詞。「泊瀬」は、古代大和朝廷の聖地であると同時に、葬送の地でもありました。天武天皇の時代に長谷寺が創建され、今なお信仰の地であり続けています。また、火葬の始まりは『続日本紀』では文武4年(700年)、僧道照の死に始まるとされますが、実際はもっと古くから行われていたとみられています。「いさよふ」は、漂っている。上代の人々は、空を漂う雲に神秘を感じ、また、死は魂が身から離れるものと捉えていました。人麻呂はその信仰の上に立ち、火葬の煙を雲と見て娘子の魂を感じています。窪田空穂はこの歌を「きわめて敬虔な調べ」と評しています。

巻第3-429~430

429
山の際(ま)ゆ出雲(いづも)の子らは霧(きり)なれや吉野の山の嶺(みね)にたなびく
430
八雲(やくも)さす出雲(いづも)の子らが黒髪(くろかみ)は吉野の川の沖(おき)になづさふ
 

【意味】
〈429〉山の間から湧き立つ雲のように溌剌としていた出雲の娘子は霧になったのだろうか、吉野の山々の峰にたなびいている。

〈430〉たくさんの雲が湧き立つように生き生きとしていた出雲の娘子の黒髪は、吉野の川の沖に浮かんで漂っている。

【説明】
 「溺れ死にし出雲娘子(いづものをとめ)を吉野に火葬(やきはぶ)る時、柿本朝臣人麻呂の作る歌二首」。吉野行幸の折、出雲の娘子が吉野川に入水自殺しました。娘子は出雲出身または出雲氏の采女ではないかとされますが、入水の原因は分かりません。429は、たなびく火葬の煙を霧にたとえて歌い、430は、彼女が発見された時の姿そのままを、黒髪に焦点をあてて描いています。

 429の「山の際ゆ」の「山の際」は、山と山の間。「ゆ」は、~から。山の際から「出づ」と続き、「出雲」の枕詞になっています。「子ら」の「ら」は複数を示すのではなく、親しみを込めて付した語。「霧」は、娘子を火葬した煙が薄れていくようすを言ったもの。430の「八雲さす」は、群がる雲がさし出る意で「出雲」の枕詞。「なづさふ」は、浮かんで漂う。吉野の「山」と「川」と2首を対にするのは、吉野賛歌の型に従っています。

 斎藤茂吉はこれらの歌から、「人麻呂はどんな対象に逢着しても真心をこめて作歌し、自分のために作っても依頼されて作っても、そういうことは一如にして実行した如くである」と言っています。

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柿本人麻呂の略年譜
662年 このころ生まれる
672年 壬申の乱
680年 このころまでには出仕していたとみられる
686年 天武天皇崩御
689年 このころ巻第1-29~31の近江荒都歌を作る
689年 草壁皇子没。巻第2-167~170の殯宮挽歌を作る
690年 持統天皇の吉野行幸。巻第1-36~37の吉野賛歌はこの時の作か
691年 泊瀬部皇女・忍壁皇子に奉る挽歌(巻第2-194~195)を作る
692年 持統天皇の伊勢行幸。都に留まって巻第140~42の歌を作る
692年 軽皇子(文武天皇)が宇陀の阿騎で狩猟した際に、巻第1-45~49の歌を作る
694年 藤原京へ遷都
696年 高市皇子没。巻第2-199~201の殯宮挽歌を作る
697年 文武天皇即位
700年 明日香皇女没。巻第2-196~198の殯宮挽歌を作る(作歌年が明らかな最後の歌)
702年 持統上皇崩御
707年 文武天皇崩御、元明天皇即位
710年 平城京へ遷都
724年 このころ亡くなる 

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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行路死人歌

旅の途中で死人を見つけて詠んだ「行路死人歌」とされる歌が、『万葉集』には21首あります。それらから、この時代、旅の途中で屍を目にする状況が頻繁にあり、さらに道中で屍を見つけたら、鎮魂のために歌を歌う習慣があったことが窺えます。

諸国から賦役のため上京した者が故郷に帰る際に飢え死にするケースが多かったようです。『日本書紀』には、人が道端で亡くなると、道端の家の者が、死者の同行者に対して財物を要求するため、同行していた死者を放置することが多くあったことが記されています。

また、養老律令に所収される『令義解』賦役令には、役に就いていた者が死んだら、その土地の国司が棺を作って道辺に埋めて仮に安置せよと定められており、さらに『続日本紀』によれば、そうした者があれば埋葬し、姓名を記録して故郷に知らせよとされていたことが分かります。

こうした行路死人が少なくなかったことは律令国家の闇ともいうべき状況で、大きな社会問題とされていたようです。

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