小倉百人一首 ・1〜2526〜5051〜75 ・76〜100

  1. わたの原 漕ぎいでて見れば ひさかたの 雲ゐにまがふ沖つ白波

    法性寺入道

    【歌意】 広い海に舟を漕ぎ出して見渡せば、雲と見まちがうほどに沖に白波が立っている。

    【作者】(ほっしょうじにゅうどう) 1097〜1164年 藤原忠通(ふじわらのただみち)。

    【説明】 崇徳天皇の御前で「海上の遠望」の題で詠んだ歌。「ひさかたの」は「雲」にかかる枕詞。

  2. 瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

    崇徳院

    【歌意】 川の瀬の流れが早いので、岩にせきとめられる急流はふたつに分かれてしまうけれど、やがてまた合流するように、ふたりの仲がさかれても最後にはきっとまた一緒になりましょうね。

    【作者】(すとくいん) 1119〜1164年。保元の乱の後、讃岐(香川県)に流され、その地で崩御した。

    【説明】「われて」は「水が分かれて」と「二人が別れて」にかかる掛詞。「あは」は「流れが合う」と「二人が逢う」の掛詞。川の流れの行く末に自分の恋の将来を重ねて詠んだ、情熱的な恋の歌。

  3. 淡路島 かよふ千鳥の鳴く声に 幾夜(いくよ)寝ざめぬ 須磨(すま)の関守(せきもり)

    源兼昌

    【歌意】 淡路島から渡ってくる千鳥の物悲しい鳴き声に、幾夜目を覚ましたことだろう、須磨の関守は。

    【作者】(みなもとのかねまさ) 12世紀初めの人。

    【説明】冬の夜、荒涼とした須磨の地を通り過ぎるとき、向かいの淡路島から飛んで通ってくる千鳥の鳴き声を聞き、昔の関守のわびしい気持ちを思いやる、というもの

  4. 秋風に たなびく雲の絶えまより もれいづる月の 影のさやけさ

    左京大夫顕輔

    【歌意】 秋風にたなびく雲の切れ目から、もれ出てきた月の光の何とすがすがしいことか!

    【作者】(さきょうのだいぶあきすけ) 1090〜1155年 左京職の長官、藤原顕輔。勅撰集『詞花集』の撰者。

    【説明】崇徳院に百首の歌を奉った(久安百首)ときの歌。秋ならではの季節の感覚を、印象的に、格調高く詠んだ歌。

  5. 長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れてけさは 物をこそ思へ

    待賢門院堀川

    【歌意】 末永く愛してくださるのか、あなたの心はまだわからない。一夜をともにしてお別れした今朝は、昨夜の黒髪の乱れのように、私の心はちぢに乱れて物思いに沈んでいます。

    【作者】(たいけんもんいんのほりかわ) 12世紀前半の人。待賢門院に仕えた女流歌人。

    【説明】これも崇徳院に百首の歌を奉った(久安百首)ときの歌。「乱れて」は「黒髪が乱れて」と「心が乱れて」の掛詞。男が届けてきた後朝の歌に対する返歌の趣で詠んでいる。

  6. ほととぎす 鳴きつる方(かた)をながむれば ただ有明の月ぞ残れる

    後徳大寺左大臣

    【歌意】ほととぎすが鳴いた方角を眺めやると、ほととぎすの姿は見えなくて、ただ有明の月のみが空に残っている。

    【作者】(ごとくだいじのさだいじん) 1139〜1191年 藤原実定(ふじわらのさねさだ)。定家の従兄弟。

    【説明】 ほととぎすは、初夏の代表的な景物として歌に多く詠まれる。王朝の人々は、夏の到来を知らせる鳥として、とくにその初音を聞くことを希求した。

  7. 思ひわび さても命はあるものを うきにたへぬは 涙なりけり

    道院法師

    【歌意】 つれなくされて思い悩み、それでも命を長らえているのに、涙だけは耐えることができずにこぼれ落ちてしまう。

    【作者】(どういんほうし) 1090〜1182?年 藤原敦頼(ふじわらのあつより)。

    【説明】 つれない相手をひたすら思い続け、もう気力さえ失ったという気持ちを詠んだ歌。

  8. 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

    皇太后宮大夫俊成

    【歌意】 この世の中には、辛さから逃れる道はないのだな。思いつめて分け入ってきたこの山奥でも、悲しそうに鹿が鳴いているではないか。

    【作者】(こうたいごうぐうのだいぶとしなり) 1114〜1204年 藤原俊成。定家の父。勅撰集『千載集』の撰者。

    【説明】「おもひ入る」は「思ひ入る」と「山に入る」の掛詞。現世から容易に逃れることのできない憂愁を詠んだ歌。

  9. ながらへば またこのごろや しのばれむ うしと見し世ぞ 今は恋しき

    藤原清輔朝臣

    【歌意】 もっと生き長らえたならば、辛い今が懐かしく思い出されるのだろうか。辛かった昔が、今では恋しく思えるのだから。

    【作者】(ふじわらのきよすけあそん) 1104〜1177年 歌学書『袋草子』がある。

    【説明】 時の流れに思いを馳せ、我が人生の不幸を述懐した歌。作者がどのような事情にあったかは定かでない。

  10. 夜もすがら 物思ふころは明けやらで 閨(ねや)のひまさへ つれなかりけり

    俊恵法師

    【歌意】 あの人が来ないので、一晩中物思いをするこのごろは、夜もなかなか明けなくて、寝室のすき間までも朝日を通さず、つれなく思えてしまう。

    【作者】(しゅんえほうし) 1113〜1191?年 鴨長明の和歌の師。

    【説明】 ひとり寝室で恋に悩む女の立場になって詠んだ歌。

  11. 嘆けとて 月やは物を思はする かこち顔なる わが涙かな

    西行法師

    【歌意】 嘆けといって月は私に物思いをさせるのか、いやそんなはずはない。でも、月のせいであるかのように、私の涙はあふれ落ちる。

    【作者】(さいぎょうほうし) 1118〜1190年 俗名・佐藤義清(さとうのりきよ)。23歳で出家し、全国を行脚する。家集『山家集』がある。

    【説明】 月に相対して恋人を思う歌。西行は出家者でありながら、恋の歌を多く詠んだ。

  12. 村雨の 露もまだひぬ 真木(まき)の葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ

    寂蓮法師

    【歌意】 にわか雨が通り過ぎ、露もまだ乾いていない槇の葉に、早くも霧が立ち昇ってくる秋の夕暮れだよ。

    【作者】(じゃくれんほうし) 1139?〜1201年 俗名・藤原定長(ふじわらのさだなが)。『新古今集』の撰者の一人。

    【説明】 秋の夕暮れの美しさの典型を詠んだ歌。

  13. 難波江(なにはえ)の 芦のかりねのひとよゆゑ 身をつくしてや恋ひわたるべき

    皇嘉門院別当

    【歌意】 難波の入り江にある、芦の刈り根のひと節ほどの一夜をあなたと過ごしたために、私は澪標(みおつくし)のようにこの身を尽くしてお慕いし続けなくてはならないのでしょうか。

    【作者】(こうかもんいんのべっとう) 12世紀の人。太皇太后宮亮源俊隆(たいこうたいごうぐうのすけみなもとのとしたか)の娘。崇徳天皇の皇后、皇嘉門院聖子(こうかもんいんせいし)に仕える。

    【説明】「難波江」は摂津国難波(大阪市)の入り江。「かりねのひとよ」は「刈り根の一節」と「仮寝の一夜」の掛詞。「みをつくし」は「身を尽くし」と「澪標」の掛詞。「澪標」は船の航行の目印に立てられた杭。たった一夜だけの旅の宿でのはかない恋にもかかわらず、この先もずっと恋い焦がれ続けなければならないという。

  14. 玉の緒(お)よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの弱りもぞする

    式子内親王

    【歌意】 私の命よ、絶えるのなら絶えてしまえ。このまま生き長らえると、恋に耐え忍ぶ心が弱まって、人に知られるようになってはいけないから。

    【作者】(しょくないしんのう) ?〜1201年 後白河天皇の第三皇女。賀茂神社の斎院を勤め、後に出家した。

    【説明】「玉の緒」は、本来は玉を貫いた緒ながら、ここでは命そのもの。我が命絶えよと言ってしまうほど、忍ぶ恋の激しい思いを詠った歌。

  15. 見せばやな 雄島(をじま)のあまの 袖(そで)だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず

    殷富門院大輔

    【歌意】 涙で色が変わってしまった私の袖をお見せしたい。あの雄島の漁夫の袖さえ、濡れに濡れても色は変わっていないのに。

    【作者】(いんぷもんいんのたいふ) 1131?〜1200?年 藤原信成(ふじわらののぶなり)の娘。後白河天皇の皇女、亮子(りょうし)内親王に仕える。

    【説明】 源重之の「松島や雄島の磯にあさりせしあまの袖こそかくはぬれしか」を本歌取りしたもの。重之の袖は濡れただけだが、私の袖は濡れたうえに色まで変わってしまったという。

  16. きりぎりす 鳴くや霜夜(しもよ)のさむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む

    後京極摂政前太政大臣

    【歌意】 こおろぎが鳴いている、この寒い霜の夜のむしろの上で、私は自分の着物の肩袖を敷いて、ひとりさびしく寝るというのか。

    【作者】(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん) 1169〜1206年 藤原良経(ふじわらのよしつね)。『新古今集』の仮名序を執筆。家集『秋篠月清集』がある。

    【説明】「さむしろ」は「さ筵」と「寒し」の掛詞。晩秋の哀れ深さを詠った。次の2首を本歌としている。「さむしろに衣片敷きこよひもやわれを待つらむ宇治の橋姫」(『古今集』巻14-689)、「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む」(『拾遺集』巻13-778)。

  17. わが袖(そで)は 潮干(しほひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かわくまもなし

    二条院讃岐

    【歌意】 私の袖は、潮が引いても見えない沖の石のように、誰も知らないでしょうが、涙で乾くひまもないのです。

    【作者】(にじょういんのさぬき) 1141?〜1217?年 源三位頼政(げんさんみよりまさ)の娘。はじめ二条天皇に、後に後鳥羽天皇の中宮、宜秋門院任子(ぎしゅうもんいんにんし)に仕える。

    【説明】「石に寄する恋」の題。海中に隠れて見えない沖の石のような秘めた恋を嘆いている。この歌は、和泉式部の「わが袖は水の下なる石なれや人に知られでかわく間もなし」(『和泉式部集』)の本歌取り。

  18. 世の中は 常にもがもな 渚(なぎさ)こぐ あまの小舟(をぶね)の 綱手(つなで)かなしも

    鎌倉右大臣

    【歌意】 世の中が、ずっとこのままであってほしい。渚を漕いでいく漁師の小舟の、引き綱を引いている光景は何とも心に染みて趣深い。

    【作者】(かまくらのうだいじん) 1192〜1219年 鎌倉幕府の3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)。家集『金槐和歌集』がある。

    【説明】 漁夫の小舟を見ながら、人の世の無常を思う。この歌は、「川の上のゆつ岩群に草生さず常にもがな常処女にて」(『万葉集』巻1-22)と、「陸奥はいづくはあれど塩釜の浦こぐ舟の綱手かなしも」(『古今集』巻20-1088)を本歌取りしたもの。

  19. み吉野の 山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり

    参議雅経

    【歌意】 吉野の山から秋風が吹いてきて、夜更けのこの里も寒さが増してきた。折からきぬたで衣を打つ音が聞こえてきて、いっそう寒々とした感じがする。

    【作者】(さんぎまさつね) 1170〜1221年 藤原雅経。『新古今集』の撰者の一人。

    【説明】『古今集』巻6-325の「み吉野の山の白雪積もるらしふる里寒くなりまさるなり」を本歌としている。

  20. おほけなく うき世の民におほふかな わが立つ杣(そま)に墨染(すみぞめ)の袖(そで)

    前大僧正慈円

    【歌意】 身の程をわきまえないことながら、辛い世の中に生きる人々の平穏のため、比叡山に住み始めて行う私の修行が役立ちますように。(身の程をわきまえないことながら、僧として辛いこの世の人々に覆いかけよう。比叡山に住み始めた私の墨染めの袖を)

    【作者】(さきのだいそうじょうじえん) 1155〜1225年 関白・藤原忠通(ふじわらのただみち)の子。11歳で出家。史論『愚管抄』がある。

    【説明】「すみぞめ」は「墨染」と「住み初め」の掛詞。仏法の力によって天下万民を救おうとする強い決意が詠まれている。

  21. 花さそふ 嵐の庭の雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり

    入道前太政大臣

    【歌意】 桜の花を誘うように嵐が吹き散らす庭の、雪のように降る花びらではないが、ほんとうに旧(ふる)くなっていくのは、私自身だな。

    【作者】(にゅうどうさきのだいじょうだいじん) 1171〜1244年。藤原公経(ふじわらのきんつね)。定家の義弟。承久の乱の時、鎌倉方に内通し、その後は栄進が著しかった。

    【説明】「ふりゆく」は「降りゆく」と「旧りゆく」の掛詞。自らの老いを実感し、散りゆく桜の花を見ながら嘆いている。

  22. 来ぬ人を 松帆(まつほ)の浦の夕なぎに 焼くや藻塩(もしほ)の身もこがれつつ

    権中納言定家

    【歌意】 いくら待っていても来ない人。松帆の浦の夕なぎに焼く藻塩のように、私の身も恋に焦がれている。

    【作者】(ごんちゅうなごんさだいえ) 1162〜1241年 藤原定家。「ていか」ともいう。『新古今集』『新勅撰集』の撰者。

    【説明】「まつほ」の「まつ」は、「松」と「待つ」の掛詞。訪ねて来ない恋人を、身も焦がれる思いで待ち続ける女の立場になって詠んだ歌。

  23. 風そよぐ ならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏のしるしなりける

    従ニ位家隆

    【歌意】 風がナラの木にそよいでいる。ならの小川の夕暮れはもう秋の気配だが、川で行われているみそぎの行事は、まだ夏であることを示している。

    【作者】(じゅにいいえたか) 1158〜1237年 藤原家隆。『新古今集』撰者の一人。

    【説明】「なら」は「楢」と「ならの小川」の掛詞。前関白・藤原道家の娘が後堀河天皇のもとに入内した時の、年中行事の屏風歌として詠まれた歌。入内の際には、こうした屏風を調えるのがならわしだった。

  24. 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

    後鳥羽院

    【歌意】 あるときは人をいとおしく思い、またあるときは人を恨めしく思う。この世をつまらないと思うが故に、あれこれ物思いをしてしまう私である。

    【作者】(ごとばいん) 1180〜1239年 『新古今集』の撰集を命じる。承久の乱で隠岐に流され、その地で崩御。

    【説明】 後鳥羽院33歳の時の詠作。承久の乱のほぼ9年前。鎌倉幕府との関係をすでに憂慮していたか。

  25. ももしきや 古き軒端(のきば)の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり

    順徳院

    【歌意】 宮中の古びた軒端に生えている忍ぶ草を見ていると、栄えた昔が偲ばれる。しかし、どれほど懐かしく思ったとしても、昔の朝廷の栄華を思い尽くすことはできない。

    【作者】(じゅんとくいん) 1197〜1242年。承久の乱により佐渡に流され、その地で崩御。

    【説明】 順徳天皇21歳のときの詠作。この5年後に承久の乱で鎌倉方に敗れ、佐渡に流された。「しのぶ」は「偲ぶ」と「忍ぶ草」の掛詞。宮中の古い建物に生えている忍ぶ草が象徴するのは、皇室の権威の衰退。過去の繁栄ぶりとの隔たりが大きすぎて、想像さえおぼつかないという。

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小倉百人一首の成立事情

 『百人一首』は数百種類あるといわれますが、それらの模範となったのは『小倉山荘色紙和歌』などと題される藤原定家の私撰歌集です。後に選定された多くの百人一首と区別するため、定家が晩年を過ごした別荘があった小倉山の地名をとり、『小倉百人一首』とよばれます。
 
 嘉禎元年(1235)ごろ、宇都宮頼綱(法名蓮生・定家の子為家の妻の父)が、嵯峨の中院の山荘の障子
(ふすま)に色紙を貼ろうとして、近くの小倉山荘に住む藤原定家に選歌を依頼しました。定家が『百人秀歌』を選び、それを色紙に書いて贈ったのが草案とされます。しかし、この『百人秀歌』には『小倉百人一首』にない三人の歌があり、そして後鳥羽院・順徳院の歌がなく、源俊頼の歌が異なっています。また歌の順序もかなり異なっており、計百一首の歌があります。したがって、それをもとに後の人(一説には為家)が手を加え、三人を省いて両院を加え、現在の『小倉百人一首』になったと推定されています。

百人一首の謎?

小林耕著『百人一首 秘密の歌集』から引用――
 
 「百人一首」の謎が多すぎる・・・その第一は、なんといっても、定家の撰歌基準がきわめて曖昧なことであり、「百人一首」はかならずしも「名歌百撰」ではなく、むしろ何か不自然で意図的なものを感じる。
 ・・・「百人一首」の配列には構成が見えないのである。
 「百人一首」に選ばれた歌人は一番の天智天皇から百番の順徳院まで、およそ五百数十年に及んでいる。通説では「だいたい年代順」ということになっているが、出典となる歌集の成立年代順でも、歌の成立年代順でもないのだ。また歌人の生没年順においても、なんら意識されることなく配置されている。
 ・・・もうひとつの疑問は、定家が「百人一首」を後鳥羽、順徳の二人の上皇の歌でしめくくっていることである。当時、両上皇は「承久の乱」を起こし、流刑の身であった。
 「承久の乱」とは承久3年(1221)5月、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵をあげ、幕府から鎮圧された事件である。
 ・・・鎌倉幕府をはばかっていた定家が、なぜ、あえて二人の上皇の歌を「百人一首」には入れたのだろうか。
 もうひとつ解せない点は、歌人の撰定基準である。それは、万葉歌人の代表的存在の額田王、山上憶良、大伴旅人、高市黒人らが撰ばれなかったことである。また、藤原公任がすぐれた歌人として挙げた三十六人、いわゆる「三十六歌仙」のなかで、・・・11名は漏れている。どう考えても、これはおかしい。
 ・・・彼らをはずし、隠者の蝉丸、六歌仙の一人とはいえ「百人一首」の歌以外に作品のない喜撰法師、歌人として活躍したわけでもない安倍仲麿らを撰んでいるのだ。これは、「百人一首」がなにか特別の構想に基づいて選択されたこと以外には考えられないのである。
 さらに、歌人と歌の関係も解せない。歌人の代表歌で統一されていないので、その基準がわからない。・・・