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後鳥羽上皇の誤算

 源頼朝によって鎌倉を本拠に成立した鎌倉幕府は、東国を中心として諸国に守護、地頭を設置し警察権を掌握しました。しかし、西国への支配は充分には行き渡らず、依然として朝廷の力が強かったため、国内は幕府と朝廷の二元政治のような状態にありました。

 そんななか、後鳥羽上皇は、新興の武家政権である鎌倉幕府を倒し、古代から続く朝廷の勢力を回復することをめざしていました。そのために、荘園を院に集中させ、院御所の北面に詰めて上皇の身辺を警護する北面の武士に加え、同じく西面に詰める西面の武士をおいて軍事力強化をはかりました。また、朝廷内の幕府寄りの公家・九条兼実を排除しました。

 そして、3代将軍・源実朝が暗殺されて天皇家の血を引く源氏将軍が滅亡し、幕府内部が混乱すると見た後鳥羽上皇は、政治の実権を奪還するために時の執権・北条義時の追討を宣言。1221年5月15日、畿内や西国の御家人に号令をかけ、承久の乱を起こしました。北条氏の独裁化を苦々しく思う御家人たちがこぞって味方すると期待しての挙兵でした。また「朝敵となった以上は、義時に参じる者は千人もいないだろう」と楽観視していました。

 この事件は、日本史上で初めてとなる朝廷と武家政権との武力衝突であり、鎌倉側はえらく動揺しました。しかし、「尼将軍」の異名で鎌倉を取り仕切っていた頼朝の妻・北条政子が御家人らをまとめあげ、北条泰時時房を中心に19万の大軍を攻め上らせました。これに対し上皇に呼応する者はほとんどなく、1ヵ月後の6月15日には幕府軍が京都を占領し、勝敗はあっけなく決しました。上皇は「このたびの乱は謀臣の企てだった」として院宣を取り消すありさまで、まさに大誤算の敗北でした。

 変の後、後鳥羽上皇とその子である土御門順徳の3上皇は流罪となり、上皇側に味方した貴族らの所領3千か所が没収され、東国の御家人が新しく地頭に任命されました。また泰時と時房の2人はそのまま京都に留まり、西国と朝廷を監視するための幕府の出先機関「六波羅探題」を設置。これ以降、幕府の勢力は西国まで及ぶこととなり、この後、北条氏が実質的に鎌倉幕府を支配する執権政治が100年以上続くこととなりました。

 鎌倉幕府打倒のために起こされた承久の乱は、武家勢力の強固さを見せつける形に終わり、勢力の挽回をねらった公家はいっそう衰える結果となりました。多芸多才で中世屈指の歌人でもあった後鳥羽上皇は、その後、摂政の九条道家から還京の提案がなされましたが許されず、流された隠岐の地で崩御しました。享年60歳でした。後世の評価は、上皇の自業自得の結果だとしてあまり芳しくないものの、その無念さはいかばかりであったか。

 なお、生前の後鳥羽上皇は、刀を打つことを好み、備前一文字派の則宗をはじめ諸国から鍛冶職人を召して月番を定めて鍛刀させたと伝えられます。また自らも焼刃を入れ、そこに十六弁の菊紋を毛彫りしたといいます。これを「御所焼」「菊御作」などと呼び、現在に伝わる皇室の菊紋の始まりとされます。

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