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「生類憐みの令」による社会の転換

 織田信長は、領内の乱れた治安を回復するために、「一銭斬り」という刑法を施行しました。これは、たとえ一銭でもドロボウした者は死刑に処するという、ムチャクチャ厳しい法律でした。現行犯だとすぐその場で斬首されたほどです。しかし、この法によって、尾張の国は「女が一人旅できる」ほどの安全な国となったのです。信長の大きな功績の一つといっていいでしょう。

 そして、作家の井沢元彦さんは、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉による「生類憐みの令」も、これと同じ視点で評価すべきだとおっしゃっています。戦国の世からまだ半世紀しか経っていないあの時代、武士階級をはじめ人々の心は殺伐としていました。人の命はいたって軽く、肩が触れたとかどうとか、そんなつまらないことで人が殺し合うような時代でした。往来に人の死体が放置されている光景も珍しくはなく、まして動物愛護の精神などカケラもなかったのです。

 それを綱吉は「生類憐みの令」によって変えたのだと井沢さんは主張します。人を殺して褒美をもらえた社会から、犬を殺しても死刑になる社会への劇的な大転換。これによって、日本人は羊のようにおとなしくなり元禄の盛世を迎えたのだと。大いになるほどのお話であり、現代の日本人の安穏とした価値観のみでは決して理解できない捉え方であると思います。

 それから、「生類憐みの令」で特筆すべきは、まず、身分を問わず厳格に適用された点です。法は、武士にも町人にも公正・厳格に適用され、武士だから許されるということはありませんでした。ただし動物を殺傷するに至った事情は考慮されていました。たとえば道端で寝転んでいる犬を、大八車で轢いてしまう事故が頻発したそうですが、重い荷を運ぶ大八車は急に止まれるものではありません。そうしたやむを得ない事情で犬を轢いてしまった場合などは、お咎めなしとされました。運用面ではけっこう流動的に斟酌がなされていたのです。

 また、「生類憐みの令」は、動物に対してだけでなく、人間への残虐な行為も取締りの対象としていました。綱吉が亡くなると、法はただちに廃止されてしまいますが、この部分は引き続き幕府の基本方針として継続されました。「生類憐みの令」が登場する前と後とでは、「命」に対する人々の価値観、考え方、接し方はガラリと変わったのです。「天下の悪法」と評されるほどに、弊害は決して小さくはなかったものの、この法が当時の社会に果たした役割はきわめて大きかったと言えます。

綱吉の恩人・徳川光圀

 「生類憐みの令」を発した5代将軍・綱吉のもとに、ある贈り物が届けられました。中身は何と、犬の毛皮でした。そこには一通の手紙が添えられており、「私も老いてきたので体には気をつけています。この毛皮は寒さをしのぐにはまことに重宝なものです。上様にもお一つ差し上げるので、ぜひお使いください」というようなことが書かれていました。綱吉が激怒したのは言うまでもありません。

 ところが、綱吉は贈り主を処罰したりはしませんでした。なぜなら、その主が黄門様、つまり水戸光圀だったからです。光圀は「生類憐みの令」に強く反対していたため、最大限の皮肉をこめた贈り物を届けたのです。それでも綱吉が光圀を処罰しなかったのは、徳川御三家だからという理由だけではありません。実は綱吉は光圀にこの上ない恩義があったのです。綱吉が将軍になれたのは、光圀のおかげだったからです。

 4代将軍・家綱が40歳で死んだとき、跡継ぎとなれる男子がなかったため、将軍家の正統はいったん切れそうになりました。そこで、当時実権を握っていた大老の酒井忠清が、鎌倉時代の先例にならって、皇室から将軍を立てようとしたのです。そして、家綱の祖父・秀忠の兄である結城秀康の血を引く有栖川宮幸仁親王が招かれることになりました。

 ところが、それに強硬に異議を唱えたのが、老中の堀田正俊、そして水戸光圀でした。「家綱公の弟君がいるではないか」というのです。家綱の下には、綱重、綱吉の順番で弟がいました。綱重はすでに死んでいましたが、その息子の綱豊、そして綱重の弟・綱吉がいる、というわけです。

 綱豊はまだ幼かったため、堀田と光圀は、次期将軍として綱吉を推薦しました。そうして、危ないところで将軍家の正統は保たれたのでした。この二人がいなければ5代将軍・綱吉は実現しなかったでしょう。綱吉は将軍に就任すると、すぐに酒井忠清を廃し、堀田正俊を大老にしています。余談ですが、その後、忠清は病死、しかし、酒井家を改易したい綱吉は大目付に「墓から掘り起こせ」などと命じて、本当に病死かどうかを異常なまでに調査させたといいます。しかし証拠は出ず、結局は忠清の弟・忠能が言いがかりをつけられて改易されるにとどまりました。えらい憎みようです。
 

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綱吉の年表

1646年
徳川家光の四男として生まれる
1651年
家光が死去し、長兄の家綱が4代将軍になる

1657年
館林藩主になる
1680年
家綱が死去、綱吉が5代将軍となる
1680年
家綱時代の大老・酒井忠清を廃し、堀田正俊を大老とする
1684年
堀田正俊が刺殺される
1684年
側用人の柳沢吉保を重用
1687年
生類憐みの令を出す
1690年
聖堂を湯島に移し昌平坂学問所を付設
1695年
金銀貨を改鋳

1702年
赤穂浪士が仇討ち

1709年
死去(享年64歳)

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