武帝
秋風起兮白雲飛
草木黄落兮雁南帰
蘭有秀兮菊有芳
懐佳人兮不能忘
泛楼船兮済汾河
横中流兮揚素波
簫鼓鳴兮発棹歌
歓楽極兮哀情多
少壮幾時兮奈老何
秋風(しゅうふう)起こりて白雲(はくうん)飛び
草木(そうもく)黄落(こうらく)して雁(かり)南に帰る
蘭(らん)に秀(はな)有り菊に芳(かお)り有り
佳人(かじん)を懐(おも)うて忘(わす)るる能(あた)わず
楼船(ろうせん)を泛(うか)べて汾河(ふんが)を済(わた)り
中流(ちゅうりゅう)を横ぎりて素波(そは)を揚(あ)げ
簫鼓(しょうこ)鳴らして棹歌(とうか)を発(はっ)す
歓楽(かんらく)極(きわ)まりて哀情(あいじょう)多し
少壮(しょうそう)幾時(いくとき)ぞ老(おい)を奈何(いかん)せん
【訳】
秋風が吹いて白雲が飛ぶように流れていく。草木が黄色くなって葉を落とすと、雁は南へ帰っていく。蘭には美しい花があり、菊花には芳香がある。そんななかでも、よき臣下を得たいという思いが頭を離れない。屋形船を汾河に浮かべ、川の中ほどに漕ぎ出して流れに横たわれば白い波が揚がる。簫や鼓の音が鳴り、舟歌を歌う声が聞こえてくる。歓楽の時が過ぎると、哀しみの情がこみあげてくる。若くて元気なときがどれくらいあるというのか、老いていくのをどうすることもできない。
【解説】
武帝は前漢王朝7代目の皇帝。この作品は、前113年、武帝が44歳のときに、河東(山西省)に赴き土地の神を祀り、汾河で群臣とともに船遊びした際に詠んだものとされます。秋の風物をうたいながらも、絶大な権力を持った者の老いの嘆きがうかがえます。皇帝の歌にしては人間臭さを感じますが、これは武帝が親しみを感じていた老荘思想が影響しているともいわれます。「
歓楽極まりて哀情多し」の有名な句のとおり、晩年の武帝は急速に衰え、それとともに前漢の勢いも下り坂に向かいます。
〈辞〉は『楚辞』の流れを引いていることを示す文体の名で、まだ漢詩としての型がなかった時代の韻文です。〈兮〉は調子を整える助字で、意味はありません(中国語で「シー」と読むが、漢文では読まない)。〈黄落〉は木の葉が黄ばんで落ちること。〈秀〉は花。〈蘭〉はフジバカマのことで、今の蘭とは異なります。〈秀〉は花のこと。〈佳人〉は立派な臣下。美人または神女とする説もあります。〈楼船〉は、やぐらのついた豪華船。〈汾河〉山西省を流れて黄河に注ぐ川。〈中流〉は川の中ほど。〈素波〉は白波。〈簫鼓〉は笛と太鼓。〈棹歌〉は舟歌。〈少壮〉は若く血気盛んなころ。
※『楚辞』・・・戦国時代の楚地方に謡われた辞と呼ばれる形式の韻文、及びそれらを集めた詩集(全17巻)の名前。その代表作として屈原の『離騒』が挙げられる。中国北方の『詩経』に対して南方を代表する古典文学であり、共に後代の漢詩に流れていく源流の一つとされる。
前漢時代の武帝により、宮中に歌謡曲や民謡を収集する「楽府(がくふ)」という役所が設置され、収集された歌謡をやがて「楽府(がふ)」と呼ぶようになりました。また、それら楽府は本来は楽曲を伴っていましたが、楽曲が失われても「楽府題」のもとに替え歌が作られました。当初の楽府は句の長短が不揃いのものが多く、これを「雑言詩」と呼びます。その一方で、一句が五音の五言詩が生まれ、後漢時代にはこれが漢詩の中心になっていきます。
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