あの忌まわしい「福知山線脱線事故」が起きたのが2005年4月25日のこと。時の経過は早いもので、まさに光陰矢のごとし。実は当時、私も同路線を利用して毎日通勤していて、事故が起きた日も、ほんの2時間前にその場所を通過したばかりでした。事故を知ったのは、会社に着いてしばらくしてです。テレビのニュースで報じられる現場の悲惨さを伝える映像は、にわかに信じられるものではありませんでした。
今思えばですが、あのころの同路線の電車は、かなりアクロバット的な運転をしていたと感じます。現場の急カーブにさしかかるまでは長く続く直線ですから、時速110〜120キロの猛スピードで突進してきて、直前で急ブレーキをかけてカーブを曲がる。いつもキキキーッと、ブレーキが激しく悲鳴をあげていましたから。
しかし、だからといって「危ない」とか「やり過ぎだ」などと感じることは全くなかったですね。そういうもんだと思っていましたし、まして、電車が転覆するなんて夢にも思わなかった。当時の関西でのJR西日本は、他の私鉄に対抗するためスピードアップを一番の売りにしていて、宝塚駅の駅舎には「大阪から〇〇分」と誇らしげに大きな看板が掲げられていたのを覚えています。
事故後、同社の組織のあり方が厳しく糾弾されました。あれほどの被害者を出したのですから、その責任はとうてい免れられるものではないでしょう。ただ一方で、多くの利用者も、当時の熾烈なスピード競争を歓迎していたフシがあります。実は私もその一人で、通勤時間の短縮はとても有難かったです。そうしたニーズは明らかに存在していて、「安全軽視だ」と非難する声は聞かれなかったように思います。むしろ、メディアなどをはじめ、他の関西私鉄に打ち勝とうとする企業姿勢を評価し、歓迎する論調さえあったやに記憶しています。
そんなふうに考えていきますと、事故の原因になったとされるJR西日本の社内態勢に対する厳しい非難も、何となく後付けの、手のひらを返した結果論のようであり、憚りながら私自身も後ろめたい気持ちがしてなりません。ひょっとして当時の利用者や周囲のありようにも、事故の遠因があったのではないかと・・・。
【PR】
【PR】
一般常識のまとめ
就職試験対策などにお役立てください。 |
【PR】
【PR】
→目次へ