ワーグナーの舞台神聖祝典劇『パルジファル』
10作のオペラ作品を残したワーグナーの最後の作品となった『パルジファル』。もっともワーグナーは、オペラとは別に「楽劇」という概念を打ち立て、この『パルジファル』も「舞台神聖祝典劇」と題しています。ワーグナーによる楽劇の特徴は、ふつうのオペラのようなレチタティーヴォ(話すように歌う部分)や独立したアリアは存在せず、ずっとオーケストラが鳴り続け、その中に歌手の歌声が織り交ざっていくという感じです。物語の進展や表現に、管弦楽の果たす役割がとても大きくなっていると感じます。
物語の大まかなあらすじは次のようなものです。中世のスペインで、純潔を旨とする騎士団が「聖杯」を守っている。しかしその城主アムフォルタスは、謎の美女クンドリーの誘惑に落ち、さらに彼女を操っている魔法使いのクリングゾルに、自分が持っていた「聖槍」で腹を刺され、その槍も奪われてしまう。そしてその聖なる槍が、純粋無垢な若者であるパルジファルの手によって元の持ち主に戻り、彼の傷も癒える・・・。なお、「聖槍」「聖杯」とは、十字架に架けられたキリストの脇腹を突いた槍とその血を受けた杯のことです。
ストーリー自体はそれほど複雑ではないものの、音楽はとても重厚かつ難解であり、クラシック初心者にはかなり取っつき難いと感じます。ワーグナーの楽劇の理想として、究極的には宗教的行為とする考えもあったといわれます。また『パルジファル』にはキリスト教の神秘性に直接触れる事柄が取り扱われているため、この劇をむやみに上演することを許さなかったとも。とすれば、本来、私どものような凡百かつ宗教について門外漢の人間が、軽々に聴いてはならない音楽なのかもしれません。ワーグナーが生きていたら、舌打ちをされるかもしれない。
カラヤン指揮、ベルリンフィル他の演奏による1979〜1980年の録音は、カラヤンが70歳になったら録りたいと考えていて、その念願を叶えた作品だそうです。はたしてこの神聖で崇高、はたまた異様ともいえる気配、雰囲気は得も言われぬものがあります。初めて耳にしたときは、こんな世界もあるのかと、ひどく驚嘆した次第です。その宗教的意味合いなどは殆ど理解できない私ですが、それでも、魂が激しく揺さぶられるようです。憚りながら、カラヤンが「70歳になったら・・・」との強い思いを抱いていた訳が、何となく理解できる気がします。
バッハの『マタイ受難曲』
映画『のだめカンタービレ(ヨーロッパ編)』の中で、のだめが教会で歌われているモテットにじっと聴き入るシーンが強く印象に残っています。モーツァルトの『アヴェ・ヴェルム・コルプス』です。物憂げな表情を浮かべていたのだめでしたが、天上の響きともいえるような敬虔な歌声に強く心を打たれた、そんなシーンでした。
私どものようなキリスト教に全く無縁な者であっても、ミサ曲やモテットなどの教会音楽(宗教曲)にはとても強く心を揺さぶられます。しかし、本場であるヨーロッパの人たちにとって、これらの曲はいったいどのような存在なのでしょう。まさに宗教が文化の源となり、それが脈々と続いてきている彼の地の人々ですからね、これらの音楽に向き合う心の本質からして私たち日本人とは異なっているに違いありません。そして、私らには永遠にその真髄を理解しえないもののように思えます。
さらには、同じ宗教曲でも、キリストの受難を主題にした「受難曲」ともなると、自分の気持ちの持って行き所に戸惑いを覚えます。バッハの『マタイ受難曲』は、クラシック音楽の最高傑作に挙げる人も多い長大な曲で、単に詩情とか音楽の美しさとかでは言い表せない深遠さを含んでいて、鬼気迫るといいますか、うまく表現できないのですが、とにかく圧倒され、打ちのめされるような感じにさえなります。しかし、それ以上のことが、残念ながらよく分からないです。要するに、こうした音楽を聴く資格者たりえない歯がゆさ、後ろ暗さのようなものを自覚するばかりです。
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お釈迦様の「無記」の思想
脳科学者である茂木健一郎さんの著書『すべては音楽から生まれる』からの引用です。
―― かつての私は、頭でっかちな聴き手であった。というのは、演奏会が終わるやいなや、連れの友人に「今日の演奏会、どうだった?」とやたらと感想を求めたり、「今日の演奏は、第一ヴァイオリンはよかったけど、管楽器が精彩を欠いていた」などと批評したり、「あの交響曲のテーマはこうで、主題が表わしているものは・・・・・・」と講釈をたれたり、ああだこうだと、なんともうるさく迷惑な男だったのだ。連れは閉口していたことだろう。
私は、本当には音楽を聴いていなかったのだ。聴こうともせずに、もっともらしい説明や理解を求めていたのである。音楽の至福とは、音楽そのものの核心、わからない「なにか」に接した時の愉悦であり、感動であり、喜びなのだ。・・・・・・何も言う術を持たないこと。わからないことを、わからないままにすること。音楽によって発見したこの姿勢を、端的に代弁してくれる概念がある。釈迦の思想、「無記」である。
あるとき釈迦の弟子が、繰り返し師に尋ねた。「人間は、死んだらどうなるのですか」「生まれる前、人はどこにいたのですか」「宇宙の果てはどうなっているのですか」「魂というものはあるのでしょうか」。答えを求める弟子に、釈迦はこう言う。
「お前の目の前に、毒矢が刺さって、もがき苦しんでいる男がいるとする。周囲の者が医者を呼ぶと、その男はこう言った。『治療は待ってくれ。その前に、この矢を射た男を捜してほしい。そして、聞いてくれ。どんな弓を使って、どんな毒の種類で俺を射ったのか、と』」
お前は、この男をどう思う? そう問う釈迦に、弟子は「その男は馬鹿者だ。そんなことをしているうちに、死んでしまうじゃないか」と答えた。すると釈迦は、こう言った。
「お前の質問も同じことだよ」
わからないものは、わからない。わからないのなら、断定的なことを語らない。これが釈迦の「無記」の思想であり、死後の世界や魂の存在の有無について、いっさい答えない、という仏教の哲学である。音楽に対しても、私はこういう姿勢で臨みたい。――
うーん、ずいぶんなるほどのお話です。まー、私のようなゆるーい聴き手は心配しなくても頭でっかちになりようはないのですが、お釈迦さまがおっしゃる「無記」の思想は、クラシック音楽の鑑賞に限らず、何かにつけて肝要かと思う次第です。わからないものは、わからない。
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