コンサートでの拍手のこと
クラシック・コンサートでは、聴衆は楽章の合間には拍手はしない、すべての楽章が終わったときにのみ拍手するというのがルールになっていますね。途中で拍手しようものならひんしゅくを買い、「あいつはルールを知らない素人だ」なんてバカにされるといいます。幸い、私はコンサートでそうした場面には出くわしていませんけど。
ところが、必ずしもそれが絶対だとも言い切れないようです。いつかのテレビ東京の『エンター・ザ・ミュージック』という番組で、東大阪市文化創造館の開館記念として行われたマーラーの交響曲第1番《巨人》の演奏会のようすが放映されていまして、何と、第1楽章が終わったところで聴衆の大拍手が起こったんです。
そのようすを見た番組の司会者が、「今、最後に拍手が起こってましたけど、まだ第1楽章・・・」と驚いていましたら、指揮者の藤岡幸夫さんが、「ヨーロッパでは楽章の間によく拍手が来たりなんかするんですよ」って。さらに、「それは新しいお客さまがいる証拠であって、楽員の人たちはみんな笑顔で喜ぶ。これは素晴らしいこと。オーケストラの新しいファンが増えているのを楽員たちも知っていたから、ものすごくいい雰囲気になった」って。
その予期せぬ拍手が起こったとき、指揮していた藤岡さんは、上半身だけ客席側に振り向いて、照れくさそうながらも満面の笑顔で深くお辞儀していました。さらに楽員たちに向き直って、「ブラボー」という口真似。いやいや、いいじゃないですか、こういうの。私も、楽章の切れ目で思わず拍手したくなるときがあります。それをグッと押しとどめるのは、ややフラストレーションが溜まらないではないです。
実際のところは、曲の起承転結といいますか、流れを感じ取るためには、やはり楽章の切れ目の拍手は不要なんだと思います。それに、その間の静寂も「音」の一つですからね。じっと余韻に浸り、次の楽章への思いを馳せる大事な「間」でもある。しかし藤岡さんが途中の拍手を「素晴らしいこと」とおっしゃっているのも大いに納得できますし、なかなか悩ましいところです。
音楽鑑賞はクリエイティブな仕事
音楽鑑賞というと、ごくありきたりの趣味であり、また、受け身の行為のようにとらわれがちですが、作曲家の故・江村哲二さんによれば「音楽鑑賞とは非常にクリエイティブな仕事」だそうですよ。さらに脳科学者の茂木健一郎さんは、「耳をすます」ことは、新しいことを「発想する」ことと同義だとおっしゃっています。
「耳をすます」というと、とりわけクラシック音楽の鑑賞に際して、そういう場面が多いように思います。楽器が奏でる一音一音のみならず、無音の音にもじっと耳をすまして聴くようなところがある。これは、まさに能動的な行為なんですね。茂木さんによれば、「新しい発想が生まれるのは、こんな時だ。新しい感動が生まれるのも、こんな時だ」って。
耳をすます行為は「私は〇〇を感じる」という主観性をさらに奥底まで掘り下げていく手段であり、その深度は、脳の喜びの深さと比例するそうです。特に素晴らしいのは、感動の強度を自分で自由に変えられるということ。ふだん何となく感じていた「耳をすます」心地よさとは、こういうことだったんですね。これからもっともっと、いろんな音に耳をすましていきたく思います。
宝塚歌劇場
兵庫県宝塚市にある宝塚歌劇場。独特の世界観のあるパワースポットだと思いますが、いつだったか公演開始前の歌劇場の周囲を散歩してたんですね。そしたら、あちらこちらに多くの女性ファンが集まっています。ずいぶん熱心だなーと感心しながら歩いていて、ある場所に来ましたら、みんなのカメラが一斉にこちらを向くんです。少し歩くと、またこちらを向く。「いやー参ったなー」と照れましたよ。もしかして私のことを、有名人の誰かと間違えてる?
しかし、ふと振り返ると、なんと、男役のタカラジェンヌが私のすぐ後ろを歩いているんです。出演のため、ちょうど出勤?してきたとこなんですね。スラーっと背が高くて、ヘアスタイルも決まっていて実にカッコいい! 何のことはない、たまたま私が彼女と同じ方向に間隔を置かず歩いていただけで、私は単にシャッターチャンスを阻害する邪魔者だったんです。なもんで、慌ててファンたちの視界から消え去りましたよ。バカ丸出しです。
それはともかく、現役のタカラジェンヌもとても素敵ですが、私は音楽学校に通う生徒さんの姿を見るのも好きですね。電車の中で時々見かけますが、何だか立ち居振る舞いからして違いますからね。姿勢がいいし、歩く姿も颯爽としている。荷物をたくさん持って大変そうだけど、髪形もきっちりしていて、ちょっと古風な感じの制服も、品があって、とてもいい!
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