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家臣の恥は主君の恥

 福島正則といえば、小姓時代に豊臣秀吉から才能を認められ、後に「七本槍」と呼ばれて活躍した猛将です。気性は荒いものの、情に厚く、まっすぐな性格の人物だったといいます。その正則が、秀吉の死後、徳川家康の靡下(きか)に入り、江戸に在府していたころのお話です。関東の酒の味になかなか馴染めなかった正則は、西国の銘酒をわざわざ船で運ばせていました。ところがあるとき、その船が嵐に遭って八丈島に漂着してしまいます。

 輸送責任者の家臣が島に上陸して周囲を歩き回っていると、薄汚れた長身の中年男が現れ、なぜここへ来たのかと尋ねてきました。家臣が事情を説明すると、その男は、

「まことに不躾ながら、その酒を少し分けてはもらえないか。一杯やって、故郷への思いを忘れたいのだが」

と頼んできました。そこで家臣が相手の素性を尋ねると、

「私は関ヶ原の合戦で敗れ、この島に流された宇喜多秀家のなれの果てである」

と名乗ったのです。宇喜多秀家といえば豊臣五大老の一人で、関ヶ原の合戦では西軍の主力となったそうそうたる武将です。戦いに敗れ逃亡したものの捕えられ、八丈島に配流となっていたのでした。驚いた家臣はいったん船に戻りましたが、そこで思案します。

「はて、どうしたものか。幾つかの樽から少しずつ酒を抜けば、減ったことはバレないだろう。しかし、相手は天下の宇喜多秀家殿だ。主人の怒りを恐れて少ししか酒を贈らなければ失礼になる」

 そう考えて、けっきょく丸ごと一樽に干し魚を添えて贈りました。やがて江戸に着いた家臣は、すぐに目付役にその一件を報告しました。正則はそれを聞くなりその家臣を呼び出しました。気性の激しい正則ですから、許しもなく勝手なことをしたのに立腹し、手討ちにされるのではと周りの者はヒヤヒヤしました。本人も覚悟を決めましたが、意外にも正則は、

「宇喜多殿に一樽を贈ったのは、まことによい計らいだった。私の怒りを恐れて何も贈らなかったら、正則はケチだから家来まで情け知らずだと蔑まされていたところだろう。家臣の恥は主君の恥だ。また、多くの樽から少しずつ抜き取れば分からないのに正直に報告したのは神妙の至りである」

と、たいそう褒めたたえたのです。まさに、この家臣にしてこの主君あり!ではありませんか。

福島正則の家来たち

 福島正則は、まだ木下藤吉郎だったころの豊臣秀吉に仕え、柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いでは、賤ケ岳七本槍の一人として突出した軍功をあげた武将です。そして、秀吉亡き後は徳川家康の麾下に入り、関ヶ原の合戦では先鋒を務めるほどの大活躍、その功によって安芸50万石の大封を与えられました。

 そのお礼言上に参上したとき、正則の重臣である福島丹波尾関石見長尾隼人の三名も同席を許されました。ところが、福島丹波は片足が不自由で、尾関石見は唇の上部が裂け、長尾隼人は片目が潰れていました。そんな三人が勢揃いしたのを見て、傍らにいた家康の近習の何人かが忍び笑いをしました。謁見が終わって正則らが退出すると、家康は烈火の如く怒り出しました。

 「お前たちは何を笑うか。あの三人は戦場で命を懸けて戦ったからこそ、あのような姿になったのだ。三人ともそれを恥とも思わず、勲功の証を示すように堂々としていたではないか。それを笑うとは何事か!」
 

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徳川家康の略年譜

1542年
岡崎城主・松平広忠の長男として生まれる
1548年
織田信秀の人質になる
1549年
父の広忠が死去。今川氏の人質になる。
1555年
今川義元のもとで元服
1557年
義元の姪・築山殿と結婚
1560年
桶狭間の戦いに出陣。義元が討たれたのを機に独立
1562年
織田信長と清州同盟を結ぶ
1566年
三河国を統一。徳川家康と名乗る
1572年
三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗
1575年
長篠の戦いで、織田信長とともに武田勝頼に勝利
1579年
信長の命により、築山殿と長男の信康を殺す
1582年
本能寺の変
1584年
小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉に勝利
1586年
上洛して秀吉に謁見
1590年
小田原征伐に参戦。
1590年
秀吉から関東への移封を命じられる
1598年
豊臣政権における五大老の筆頭となる
1598年
秀吉が死去
1600年
関ケ原の戦いで西軍に勝利
1603年
征夷大将軍に任じられ、江戸で幕府を開く
1605年
将軍職を三男の秀忠に譲る
1614年
大坂冬の陣
1615年
大坂夏の陣。豊臣氏を滅ぼす
1616年
駿府城にて死去(享年75)
 

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