モーツァルトの音楽には「自我がない」としてバッサリ切り捨てているのが、作家の宮城谷昌光さん。自身の著書『クラシック私だけの名曲1001曲』に、モーツァルトの曲は1曲も採り上げていません。自我の有無がクラシック音楽の好悪の判断基準になるなんて、なかなか興味深いところです。一方、そんなモーツァルトを演奏するには「空想力がものすごく必要になる」と述べているのが、元オーボエ奏者の宮本文昭さんです。
宮本さんによれば、モーツァルトを演奏するには譜面に書いてあることだけではすまされない(というか、そもそも譜面にはほとんど指示がない)といいます。別の言い方をすれば、その人の持つリズムやテンポ感、間の取り方といった音楽的センスの全てが試されるのがモーツァルト。だからセンスのない人が弾いたり吹いたりすると、ものすごく退屈でつまらない音楽になる、って。
なので、ドイツのオーケストラの入団試験では必ずモーツァルトをやらされるそうです。いくらほかの作曲家との相性がよくても、モーツァルトを上手に演奏できなければ、ドイツではプロの音楽家として認めてもらえない。モーツァルトをやると演奏家の実力のほどが知れる、音楽家としての中身が全部ばれてしまう、そんなとてもこわ〜い作曲家なのだそうです。
楽器を弾けない素人にとっては「へー、そういうものか」と意外に思うお話です。しかし、これって、ひょっとしてモーツァルトの音楽が、自我のない「無垢」の音楽だからこそいえるのかもしれません。反対に、作曲家の意図や意思がはっきりした自我の強い曲であれば解釈しやすいというか、何となく演奏しやすそうだという気もします。さては、けっきょく宮城谷さんも宮本さんも、詰まるところ相通ずることを言っておられるのではないかと感じる次第です。
●クラシック音楽を始めたころ
私はクラシック音楽ファンといいましても、実にゆる〜いファンでして、あれこれ偉そうに語るほどの知識も能力もありません。しかしながら、クラシック音楽を聴き始めたばかりの超初心者のころはもっと無知で、あられもない疑問や偏見や誤解を抱いていたのであります。恥を忍んで、そのいくつかをご紹介しますと、