近ごろはそうでもないですが、カラヤンの生存中、あるいは亡くなってからしばらく後も「アンチ・カラヤン」という言葉をよく耳にしたものです。そういえば2008年に刊行された『カラヤンがクラシックを殺した』という本が話題を集めていたこともあります。私も買って読みました。「殺した」だなんてずいぶんな言い様ですが、なぜそれほどにカラヤンを忌み嫌う人たちがいるのでしょうか。その理由として挙げられているのが、「深みがない」「表面的だ」「曲を突き詰めていく作業が感じられない」などです。
アンチの人たちがカラヤンの比較対象としているのは、おそらくそれまでの大指揮者時代の巨匠たちなのでしょう。フルトヴェングラーとかワルター、トスカニーニあたりがその代表格でしょうか。しかし、ある人が言うには、カラヤンとそれまでの偉い指揮者と比べて決定的な違いがあるそうです。それはレパートリーの広さです。それまでの巨匠は、極端に言えば自分の十八番さえ演奏していればよかった。しかし、カラヤンの守備範囲の広さは圧倒的で、しかもそれらをいずれもカッコよく、いとも簡単にやっているように見える、って。
そうしたところがアンチの人たちの癇に障り、前掲の「深みがない」「表面的だ」などの批判につながったのかもしれません。さらに「帝王」とも呼ばれ、世界中でもてはやされたカラヤンですからね、「出る杭は打たれる」か、あるいは「判官びいき」の逆の意識作用が働いたのかもしれません。ほとんどの曲を暗譜で指揮し、時おり目をつむって振るスタイルもイヤミだと評されたとか。さながら「坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い」って感じです。
だけども、特定の得意な曲しか演奏しなかった古い巨匠たちと、広範囲に演奏したカラヤンをそのまま比べるのもフェアではないともいえます。あんなに多くのレパートリーをこなせば、なかには出来が今一つのものも出てくるかもしれません。むしろその「進取敢為」の精神は大いに評価されてよいのではないでしょうか。そして、カラヤンは、自分が苦労している姿を絶対に見せなかったといわれます。いつもスマートで涼し気だった。しかし、あれほどの仕事をこなした人が、苦労しなかったはずがありません。
かつて元横綱の貴乃花さんがこんなことを言っていました。「プロは『努力をしている』などと言うのは禁句の世界です」って。私はですねー、そうした陰の努力の部分を全く見せなかったカラヤンは、まさしくプロ中のプロだったと思うんです。それから『カラヤンがクラシックを殺した』の著者は、カラヤンが大衆迎合したことも気に入らなかったみたいですが、大衆の一人である私がクラシック音楽に興味を抱き、心酔することができるようになったのは、まぎれもなくカラヤンのおかげだとも思っているんです。
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