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漢詩を読むがんばれ高校生!

迢迢たる牽牛星

『文選』

迢迢牽牛星
皎皎河漢女
纖纖擢素手
颯颯弄機杼
終日不成章
泣涕零如雨
河漢清且淺
相去複幾許
盈盈一水間
脈脈不得語

迢迢(ちょうちょう)たる牽牛星(けんぎゅうせい)
皎皎(こうこう)たり河漢(かかん)の女(じょ)
纖纖(せんせん)として素手(そしゅ)を擢(あ)げ
札札(さつさつ)として機杼(きちょ)を弄(ろう)す
終日(しゅうじつ)章(あや)を成(な)さず
泣涕(きゅうてい)零(お)つること雨(あめ)の如(ごと)し
河漢(かかん)は清(きよ)くして且(か)つ浅(あさ)し
相(あい)去(さ)ること複(ま)た幾許(いくばく)ぞ
盈盈(えいえい)たる一水(いっすい)の間(かん)
脈脈(ばくばく)として語(かた)るを得(え)ず

【訳】
 遥かに遠い牽牛星よ、白々と輝く天の川の女よ。か細く色白の手を振り上げて、サッサッと音を立てて機を織る。一日中織っても布は出来上がらず、涙が雨のように流れ落ちる。天の川は澄んでいて、しかも浅い。互いに隔たる距離はさほど遠くはないのに、水を湛(たた)えた一筋の流にさえぎられ、見詰め合ったまま語ることもできない。

【解説】
 『文選』は、六朝時代の梁の昭明太子が側近の文人らの協力を得て編集した詩文集です。30巻からなり、春秋戦国時代以降の800余の文章・詩・賦が収録されています。この詩は『古詩十九首』の其の十で、天の川に隔てられて思いをかなえることのできない織女に託し、実らぬ恋の悲しみをうたっています。七夕伝説がいつから始まったかについてはよく分かっていませんが、この詩は、七夕伝説がある程度まとまった形で記述されて現存している文献としては初出と言えるものです。
 
 その原型は、牽牛と織女の二つの星が、向かい合ったままいつまでも結ばれないものでしたが、魏晋のころになって、二人を隔てる天の川に、年に一度カササギが橋をかけ、そこを二人が渡って結ばれるという話に変化していきました。また、長い年月の間に他の神話や民話、習俗などと融合しながら、国や地域ごとに独自の変化を遂げていきます。この詩では、牽牛と織女は天の川を挟んだまま結ばれないことから、おそらく、古代の伝説のかたちがまだ残っていた時代に歌われたのだろうと窺えます。『古詩十九首』の中で最も美しい詩です。
 
〈迢迢〉は遥かに遠いさま。〈牽牛星〉はわし座の首星アルタイルの中国名。〈皎皎〉は白く明るいさま。〈河漢女〉は織り姫星(織女星)のことで、こと座の首星ベガ。河漢は天の川。〈纖纖〉はか細いさま。〈擢〉は振り上げる。〈素手〉は白い手。〈札札〉は機織りをする音。〈弄〉は巧みに操る。〈機杼〉は縦糸に対して横糸を入れるための道具。〈章〉は織物のあや模様。〈泣涕〉は涙。〈零〉は落ちる。〈盈盈〉は水が豊かにあるさま。〈一水間〉は一筋の川の流れに隔てられていること。〈脈脈〉はお互いにじっと見つめ合うさま。〈不得語〉は言葉も交わせない。

 七夕伝説は日本にも伝わり、正史に登場するのは『続日本紀』の天平6年(734年)の記事で、「天皇相撲の戯(わざ)を観(み)る。是の夕、南苑に徒御(いでま)し、文人に命じて七夕の詩を腑せしむ」とあるのが初見です。『万葉集』にも多くの七夕の歌が収められています。

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七夕伝説と『万葉集』

もとは中国の伝説である七夕が日本に伝来した時期は定かではありませんが、七夕の宴が正史に現れるのは天平6年(734年)で、「天皇相撲の戯(わざ)を観(み)る。是の夕、南苑に徒御(いでま)し、文人に命じて七夕の詩を腑せしむ」(『続日本紀』)が初見です。ただし『万葉集』の「天の川安の河原・・・」(巻10-2033)の左注に「この歌一首は庚辰の年に作れり」とあり、この「庚辰の年」は天武天皇9年(680年)・天平12年のいずれかで、前者とすれば、天武朝に七夕歌をつくる風習があったことになります。七夕の宴の前には天覧相撲が行われました。

『万葉集』中、七夕伝説を詠むことが明らかな歌はおよそ130首あり、それらは、人麻呂歌集、巻第10の作者未詳歌、山上憶良、大伴家持の4つの歌群に集中しています。その範囲は限定的ともいえ、もっぱら宮廷や貴族の七夕宴などの特定の場でのみ歌われたようです。七夕伝説は、当時まだ一般化していなかったと見えます。 

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