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モーツァルトの《交響曲第40番》

 1964年に書かれた小林秀雄氏のエッセイ『モオツアルト』によれば、「モオツアルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」。まことに有名な一文で、これによって多くの日本人クラシック・ファンのモーツァルトに対するイメージは固まったといわれます。ただ、この言葉は小林氏のオリジナルではなく、フランスの劇作家ゲオンが「前へ進もうとする悲しさ」と評しているのを読み、自分が感じたのと同じだと前置きしたものだそうです。

 そして、小林氏が「疾走する悲しみ」と表現したモーツァルトの楽曲は《交響曲第40番》の最終楽章です。また、氏による論評以外にも、たとえば第1楽章の出だしが「さりげなくも深く悲しい」とか、第2楽章の優しいメロディーも「モーツァルトが一人とぼとぼと荒野を歩いている姿が浮かぶ」「その表情は、笑っているんだけど、目にはいっぱい涙がたまっている」などと評されているのを目にしたことがあります。まさに「悲しみ」の評論のオンパレードですが、皆さまはいかが感じておられるでしょうか。

 ここで私がちょっと引っ掛かりますのが、この第40番はかつて「楽しい曲」だと捉えられた時期があるということです。何かで読んだ記憶があります。「ホントか?」と何度も読み返しましたから確かです。でも、いつ何処でというのは忘れてしまいました。しかし時と場合によって「楽しい曲」が「悲しい曲」へと真反対に変わるというのはどういうことなんでしょう。ひょっとして当時、小林氏のような影響力のある人がいて「楽しい曲」と言ったのでしょうか。

 色々な人たちの意見や評価が参考になるのは確かですが、私たちが心掛けるべきと思うのは、あたかも「権威」のようになった評価や価値観に惑わされないようにしなくてはならないってことです。事前の情報収集や勉強は大事ですけど、いざ聴くときには、虚心坦懐、ニュートラルな心で。どう感じるかは、あくまで自分次第ですし、「悲しみなさい」と言われて悲しむべきものではないですからね。あまつさえ「悲しみのモーツァルト」などという押し付けがましい?言い方は、あまり好きではないです。

 ここまで、天邪鬼な言い様で、まことにすいません。とまれ「クラシック音楽の愛好家で、その青春時代にモーツァルトの《第40番》のとりこにならない人がいるだろうか」と宇野功芳先生もおっしゃっていたとおりの名旋律であるのは間違いありません。私も、紅顔の少年のころにポール・モーリアのアレンジによりポピュラー音楽化された曲(第1楽章のみ)を聴いたのが《第40番》に触れた最初で、何と涼やかな曲だろうと強く感動したのを覚えています。

モーツァルトの交響曲第41番『ジュピター』

 モーツァルトが亡くなる3年前に書いた生涯最後の交響曲第41番『ジュピター』。元オーボエ奏者で指揮者でもある宮本文昭さんによれば、モーツァルトのものすごい実力をまざまざと見せつけられる作品だといいます。あまりにすごいので、指揮者としてできればお相手したくない、あの小澤征爾さんにとっても手強い曲なんだそうです。さらに宮本さんは、第41番は立派すぎて、だから逆にあまり好きじゃない、とも。

 恥ずかしながら、ゆる〜いクラシック音楽ファンの私には、何がそんなに立派すぎるのかよく分からないのですが、宮本さんの解説によればこういうことです。まず、作品全体として、細部まで考え抜かれた巧妙な建築のようなつくりをしている。とりわけ最終楽章は、モーツァルトが持っていた作曲理論の集大成のようであり、「対位法」という、バッハなどの古典の作曲家が追い求めていた手法を、ものすごく充実したかたちで結実させている。

 対位法というのは、複数の独立した旋律を同時に組み合わせる技法で、ここでの各声部をひとつずつ取り出してみれば、確かに「なるほどー」と思うけど、同時に鳴っているときは分からない。しかも重なった音は決して混濁していない。「これとこれがペア」という感じにしてあって、重なったときに絶対に濁らないように描き分けられている、って。

 さらに作曲家の千住明さんの解説によれば、最終楽章の冒頭に現われる「ドレファミ」の旋律は、千年以上も前のグレゴリオ聖歌にも現われる音形であり、モーツァルトはその「ドレファミ」をきらびやかな天上の音楽に仕立て上げるため、古くから伝わる「フーガ」風の手法を用いている。「フーガ」とは、ラテン語で「追いかける」という意味で、「ドレファミ」をどんどん積み重ねることによって、荘厳な教会の天井画のような世界を作り上げている、とも。


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