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マーラーの《交響曲第7番》

 マーラーが完成させた楽曲として残っているのは、交響曲(第1〜9番と『大地の歌』)と歌曲のみです。多くの交響曲作家が、協奏曲やソナタ(器楽曲)、オペラなど幅広く作曲してきたなかにあって、マーラーはかなりユニークな存在といえます。そして、その交響曲については「長大・難解・大げさ」というイメージから、とっつきにくいと感じている人が少なくありません。かくいう私も最初のころはそうでした。どうにも理解し難かった。

 ところが今では、大のマーラー好きになっています。そうなったきっかけや経緯ははっきり覚えていません。いつの間にか知らないうちに好きになっていたという感じです。初心者のうちからではなく、ほかの作曲家の色んな曲を聴いているうちにたどり着くのがマーラーなのかなという気もします。マーラーは頑固一徹、神経質な上にかなり分裂気質の人だったそうで、彼の作品の多くは性格そのままに分裂気味で、その具合が、マーラー好きにはたまらない魅力となっているわけです。

 しかし、この「分裂」という言い方はずいぶん失礼で、あまりよろしくないようにも思います。自由闊達、変幻自在、いやドラマチックと言い換えるべきでしょうか。実際のところ、マーラーの交響曲は、他の作曲家の交響曲にあるような、同じ旋律やリズムが延々と繰り返されるようなことは殆どありません。1つの楽章のなかにあっても、さまざまに感情の起伏や展開を見せてくれます。別項でご紹介した「異化効果」も相まって、長大であっても全く退屈しない。あたかも映画やドラマの脚本家が作曲したかのような音楽です。

 さらに、これこそが最大の魅力だと感じるのが、マーラーがいちばん大事に思っていたのではないかと思われる「歌心」です。声楽付きの交響曲が5曲もあるのもその表れだと思いますし、それらにはいずれも、美しい、あるいはとっても愛らしく親しみやすいメロディーが散りばめられています。マーラーの弟子だったブルーノ・ワルターも、「マーラーの曲には、あらゆるところに豊かな『うた』がある」と述べているほどです。

 《交響曲第7番》も、その例外ではありません。《第7番》は演奏頻度も少なくて人気も低く、「失敗作だ」なんて批判する向きもあるようですが、私は大好きです。宇野功芳先生の言葉を借りれば、「人恋う歌」に満ち溢れている。「ここでマーラーは誰に遠慮することもなく、人なつかしい歌をうたい抜いている。彼が心から愛した現世への、いじらしいまでの恋歌といえよう」って。さらに《第7番》では楽章内の極端な展開が割と抑えられている分、ゆったりと落ち着いた気分でマーラーの歌心に浸ることができます。

 私の愛聴盤は、エリアフ・インバル指揮、フランクフルト放送交響楽団による1986年の録音です。この曲を代表する名演といわれている盤です。

マーラーの交響曲第2番『復活』

 マーラーの交響曲第2番『復活』。全曲完成まで7年を要したとされるこの曲は、ベートーヴェンを超えたともいわれる、実に規模の大きい荘厳な曲であります。不肖私も、この曲を聴く前には何となく威儀を正すような感じになります。日本では年末の恒例としてベートーヴェンの『第九』が演奏されますが、代わりに『復活』を演奏してほしいと願うクラシック音楽ファンの方々も少なくないのではないでしょうか。

 この極めて観念的な曲について、ありがたいことに作曲家自身がていねいな説明を残してくれています。備忘録を兼ねて、ここでその要約と注釈を記しておきたく思います。

【第1楽章】 交響曲第1番で描かれた英雄を埋葬する儀式。彼の生涯が曇りのない鏡に映し出される。同時に次のような大きな問題が提示される。「なぜ彼は生きた? なぜ彼は苦しんだ? どんな目的のために彼は生まれてきた?」。私はこの答えを終楽章で示している。

【第2楽章】 英雄の過ぎ去った生涯の、純粋で穢れのない回想。亡き人とともに過ごした日々を懐かしく思い出す。

【第3楽章】 前楽章の過去の夢から醒め、叫び声をあげて飛び起きるように人生の現実に戻る。世界は歪み、狂っているようだ。人生は悪夢のようでもある。

【第4楽章】 大きな苦悩の中にある人間に感動的で快い信仰の歌が聞こえてくる。英雄は神のもとへ歩む。「赤い薔薇よ。人間は大きな苦難と苦悩に閉ざされている。私は天国に行きたい。神から生まれた私は神のもとへ行く。神は私に一筋の光をくださり、永遠に私を照らしてくださるに違いない・・・」の歌詞が流れる。

【第5楽章】 人生に終末が訪れる。最後の審判のラッパが鳴り、やがて聖者たちと天上の者たちが合唱する。「よみがえれ。復活せよ。汝(なんじ)は許されるであろう」。見よ、そこには何の裁きもなく、罪ある人も正しい人もなく、王様も乞食もなく、愛の全能の感情が我々を幸福なものへと浄化する。

 と、まあこんな感じです。でも、堅苦しく解釈しながら聴く必要なんかありませんね。大体のことを知っておけば十分。だって、音楽そのものが示してくれる!
 

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マーラーの交響曲の魅力

 クラシック音楽ファンの方々には、モーツァルトが好き、ベートーヴェンが好きという人は多くても、マーラーが好きという人の数は格段に少ないのだと思います。不肖私、マーラー・ファンの端くれといたしましては、そんな方々に少しでもマーラーの魅力を見出していただきたいなと思うところです。

 他の記事でもマーラーの交響曲の魅力について触れてきましたが、繰り返し申し上げると、第一に「歌心」、第二に「ドラマチック」であることだと思ってます。ほかの作曲家の交響曲のように同じ旋律が延々と繰り返されるようなことはなく、随所に愛らしく親しみやすいメロディーが散りばめられています。さらに同じ楽章の中にあっても、さまざまな感情の起伏や展開があり、長大であっても決して飽きることはありません。

 元オーボエ奏者の宮本文昭さんなどは、「あまりクラシック音楽に親しんでいない人が音楽会でマーラーを聴いても、きれいな絵を見ているような気分になれると思う」とおっしゃっています。ただひたすら音だけを積み上げているブルックナーの場合は、マーラーみたいに絵や景色にたとえることができないから相当聴き込まないとわからないけど、マーラーは、ずっと入りやすいって。またある人は、まるで映画の脚本家が作曲したかのようだ、って。

 それから、ここでもう一つ大きな魅力、特徴として申し上げたいのが、マーラーの交響曲には、オーケストレーションの「薄い」部分がけっこう多いってことです。マーラーというと大編成の楽器による大音響のイメージばかりが強調されがちで、確かにそうした派手なところもあるんですが、意外に「薄い」部分も多いんですね。まるで室内楽であるかのように、少ない楽器によって静かに奏でられる個所がふんだんにあります。第2番《復活》なんか特にそうでして、これがまた実に繊細で美しい。そういうところも大好きなんです。
 

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クラシック音楽用語

コンサートマスター
オーケストラの第1ヴァイオリンの首席奏者。女性の場合はコンサートミストレス。

シンコペーション
リズムのアクセントに関する用語で、本来のアクセントとは違った場所にアクセントを置いて通常とは違ったリズムのノリを生み出す手法のこと。

シンフォニエッタ
小規模な交響曲。

スタッカート
音と音のあいだを切って演奏すること。「レガート」の反対。

絶体音楽
絵画的情景や文学的内容など音楽以外の内容と直接結び付くことなく、音を組み立てて音楽をつくることを目的とした音楽。「標題音楽」の対概念。

セレナード
「夕べの音楽」を意味し、小夜曲または夜曲とも訳される。夕べに恋人の家の窓下で歌われる愛の歌。

前奏曲
導入的性格をもつ器楽曲。 ショパンやドビュッシーによって、独立した様式の曲として広まっていった。

ソナタ形式
提示部、展開部、再現部という3部によって構成される器楽曲の形式。 ハイドンによって確立された。

ディベルティメント
18世紀中頃に現れた明るく華やかな器楽組曲で、貴族の社交・祝宴の場などで演奏された室内楽曲。「嬉遊曲」と訳される。

トゥッティ
管弦楽、合唱などにおいて、全員が同時に演奏、合唱すること。

トッカータ
主に鍵盤楽器による速いパッセージや細かな音形の変化などを伴った即興的な楽曲。

トレモロ
音を小刻みに連続して発する演奏法。

ノクターン
夜を思わせる瞑想(めいそう)的な雰囲気をもつ、ロマン派の楽曲の表題。おもにピアノ曲で用いられ、「夜想曲」とも訳される。

ピリオド楽器
オリジナル楽器ともよばれ、作品が作曲された時代の楽器やその複製である古楽器のこと。

フーガ
対位法による音楽形式。主題を複数の声部が模倣しながら後続の旋律が次々に追いかけ、または絡み合いながら演奏する様式の曲。

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