オルフの『カルミナ・ブラーナ』
19世紀初め、ドイツ南部のある修道院の図書館で、13世紀から14世紀にかけて作られた、ラテン語や古イタリア語で書かれた約300篇に及ぶ詩歌集が発見されました。酒や恋や性、若者の怒りなど世俗的なことが歌われていて、それらの中から24篇を選んで作曲したのが、ドイツ出身のカール・オルフによる『カルミナ・ブラーナ』です。第1曲目と最後に出てくる「運命の女神よ」は、テレビのCMやドラマ、映画のBGMでよく流されているので馴染みのある人は多いはずです。
混声合唱、少年合唱、ソプラノ・テノール・バリトンのソリスト、そしてオーケストラという大きな編成によるカンタータであり、『楽器群と魔術的な場面を伴って歌われる、独唱と合唱の為の世俗的歌曲』という副題が付いています。「初春に」「酒場で」「愛の誘い」の3部構成になっており、その前後に付いている序とエピローグが「運命の女神よ」という曲です。
初めてこの曲を聴いたとき、私は「はたしてこれはクラシック音楽なのか?」との疑問を禁じ得ませんでした。原始的?ながらも小気味よいメロディーと力強いリズムが繰り返され、一度聴いたら忘れられないほど強烈なインパクトがあります。しかし一方では、何とも素っ頓狂というか、とぼけたというか、ずいぶん奇異な音楽にも感じたものです。しかし、まぎれもなくクラシック音楽なんですね。
ところで、この曲が作られた1936年のドイツといえば、かのヒトラー率いるナチス全盛の時代です。歌詞には権力批判のような内容も含まれていたため、作品の発表に際しては細心の注意が払われたようです。結果、フランクフルトの劇場での初演は大成功。オルフは、初演当日に次のように語ったといいます。「これまでの私の作品は全て処分してください。カルミナ・ブラーナこそ私の出発となる作品です」
若いころに第一次世界大戦に参戦し生死の境をさまよったというオルフ。その後も厳しい時代を生き抜いてきた彼は、『カルミナ・ブラーナ』の詩に接して曲を付けるにあたり、自身の再生のきっかけとなる運命的なパワーを感じたのでしょうか。聴いている私たちも、何かが弾けるかのような強い衝撃を感じますし、滅茶苦茶ハイテンションになりますものね。CDはヨッフム指揮、ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団ほかによる演奏が定番です。とても1967年の録音とは思えない瑞々しさ! なお、この録音にはオルフ自身も立ち会ったそうです。
ストラヴィンスキーの『春の祭典』
クラシック音楽を始めてまだ間もないころ、いろいろな曲を手あたり次第に聴いたなかで、何に期待を裏切られたかって、ストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』ほど、そう感じた曲はございません。題名から、てっきり春らしいうららかで楽しい音楽だろうとイメージして聴いたら、どこまで行っても不協和音の連続、リズムも変てこ。まるで妖怪が出てきそうな雰囲気なものだから、「何じゃーこりゃー」と愕然としたものです。
あまりのショックに、すぐ解説を紐解いてみましたら、案の定、1913年にパリに完成したシャンゼリゼ劇場での初演は最悪だったようで、曲が始まると嘲笑が起き始め、やがて野次や怒号が飛び交う大混乱に陥ったといいます。しまいには賛成派と批判派との間でケンカが起きて怪我人も出たそうです。翌日の新聞には「春の”災”典」なんていう記事が書かれたとか。つまり「何じゃーこりゃー」の私の反応は、決して間違っていたわけではないと安堵した次第です。
しかし、その後に行われた演奏では当初のような混乱は起きることもなく、また、評価もだんだん高まっていき、今やストラヴィンスキーの最高傑作とまでいわれるようになっています。この、極端に真反対の評価に至ったプロセスは一体どう理解したらいいのでしょうか。
よくよく考えてみれば、『春の祭典』に限らず、今まで見たことも聞いたこともないような新しい表現などが世に出たときは、何かと冷たい反応を受けるものです。あのラヴェルの『ボレロ』の初演でも相当な混乱を招いたといいますし、音楽ではありませんが、身近なところでは「iPhone」も、登場した当初はひどく拒否されました。物理キーがないなんてあり得ない!って。
実はこういう新しいものに対する拒否反応は、私たち生命体の本能に根差した意識行動であるようです。細胞レベルの話になりますが、私たちの体は、実に37兆個もの細胞からできています。37兆個ですよ、想像できますか? しかもそれが新陳代謝でどんどん新しい細胞に更新されている! たとえば、腸の細胞はわずか数日で、皮膚の細胞は1ヶ月程度で新品に入れ替わるそうです。体全体では、1日に少なくとも数百億から数千億もの細胞が、新しく生まれては死んだ細胞と入れ替わっているといいます。
ところが、その新陳代謝のときに、遺伝子のコピーがうまくいかなくて突然変異が生じたらどうなるか。恐ろしい「がん細胞」が発生する原因になります。ですから、細胞に突然変異が起こって新しいものが出現したとき、私たちの体はまず警戒し、悪いものだと分かれば免疫機能を発揮してそれをやっつけようとします。すなわち私たちの体そのものが、新しいものを警戒する仕組みになっているわけです。
要するに、最初に大勢の人たちが『春の祭典』に拒絶反応を示したのは、人体の仕組みの都合上、仕方のないこと。決して「聴く耳」がなかったわけではない。そして、害がないと分かれば積極的に向き合おうという意識が働く。そしてだんだん順応してくる。むしろ自然な流れというわけですね。
かくいう私も、最初の「何じゃこりゃー」の反応は薄れ、まー未だに好きというほどにはなれませんけど、たまに面白がって聴いています。調和しそうで調和しない旋律に焦らされるといいますか、あと少しで満たされるのに!という一種の「寸止め」的?快感を味わっています。変態ですね。
【PR】
↑ 目次へ ↑このページの先頭へ