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チャイコフスキーの二面性

 音楽評論家の樋口裕一さんが、チャイコフスキーの二面性について語っています。人は誰にも二面性はあるものだけど、チャイコフスキーの場合は「とても納得できない」レベルだって。たとえば、交響曲第6番『悲愴』の第1楽章、静かに鳴ってやがて音が途絶える。誰しもここで音楽が終わると思う。ところがその後、突如として大音響が鳴り響く。聴く者は、心臓が止まるような驚きを覚えるだろう、って。

 まさにその通り、名盤とされるカラヤン指揮、ウィーンフィルのCDを聴いていますと、来るぞ、来るぞと待ち構えていても、毎度、とてつもなく破壊的な大音響に打ちのめされます。初めてこの曲を聴いたときなんぞ、もうショック死しそうになりましたから。それまでの音が割りと小さいため音量を上げていたので余計です。もう、スピーカーと部屋がぶっ壊れるかと思った。この作曲家は、いったい何という曲を作るのか、とゲンナリもしたもんです。

 樋口さんによれば、悪く言うと、これまでおとなしかった人間が突然キレてヒステリックになるようなもんだと。それが日常生活で行われると困るけど、こと芸術作品の中で起こると、そこに魂の躍動が起こり、カタルシスが起こる。それがチャイコフスキーの音楽の魅力でもある、って。うーん、なるほどという気もしますが、いくら「芸術は爆発だ!」とか言われても、あれはちょっと度を超えていると思うなー。極めて体によくない。

チャイコフスキーの《交響曲第5番》

 交響曲《第6番》は、上述のごとく突然の大音響に対する恐怖感、嫌悪感ばかりが先に立ち、ほとんど聴く気にならない私ですが、《第5番》は大好きな曲の一つで、よく聴いています。ドラマチックでありながら、深刻さはそれほどでもなく、弦楽器が奏でる美しく甘美な旋律はチャイコフスキーならでは、だと感じます。

 この曲は、《第4番》《第6番》とともに、今でこそ後期の3大交響曲として高く評価されていますが、調べてみると、1888年の初演直後は、一般聴衆の反応は悪くなかったものの、専門家による評価はボロクソだったといいますね。「ワルツ(第3楽章)の形は狭くて軽々しい」とか「思想が貧弱で、お定まりで、音が音楽に勝っていて、聴くに耐えない」などの辛辣な評価もあり、チャイコフスキーはすっかり自信を無くしてしまったんだとか。いやいや、古今を問わず、専門家という人たちの言葉はずいぶんいい加減なもんですよ。

 曲は4つの楽章からなり、「運命に対する勝利」を表現しているそうです。といっても、一直線に激しく突き進むのではなく、たゆたうように、行きつ戻りつしつつ、時には急ぎ、時には立ち止まり、しかし、だんだんと着実に高みに昇っていく・・・、そんなふうに私には感じられて、たいへん心地よいです。印象的な「運命の動機」とされる主題が、各楽章に同じように流れており、そのせいもあるのでしょうか、その分、堅実さや一体感、統一感が強く感じられる引き締まった曲であると思います。

 愛聴盤は、カラヤン指揮、ウィーン・フィルによる1984年の録音と、ラファエル・クーベリック指揮、ウィーン・フィルによる1960年の録音です。
 

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チャイコフスキー vs. ブラームス

 指揮者の藤岡幸夫さんが、クラシック音楽のテレビ番組で語っていたエピソードです。後期ロマン派の同時代に活躍したチャイコフスキーとブラームス。しかし、チャイコフスキーはブラームスをえらく毛嫌いしていたといいます。周囲に向かって「ブラームスは好きじゃない。彼の音楽は訳が分からない。退屈で、魅力的な旋律が一つもない」と放言していたほどです。

 そして、ずいぶん後になって、ドイツのハンブルクに、ブラームスが自分の交響曲第4番を指揮しに行ったそうです。そしたら翌週にチャイコフスキーが自作の第5番を指揮するために同じホテルにやって来るというじゃありませんか。それを知ったブラームスはわざわざ滞在期間を延ばして、第5番を聴きに行ったんですね。そしたら、あれだけブラームスの悪口を言っていたチャイコフスキーが、ブラームスが自分のコンサートに来てくれるというので大いに喜び、コンサート後に食事に招待したのです。そして、二人は急速に仲良くなったそうです。

 酒食が進んだその席で、チャイコフスキーが「僕の5番の感想を聞かせてくれ」と尋ねたそうです。するとブラームスは「とても素晴らしいけど、最後だけはわざとらしくて良くない」と答えたのです。ずいぶんはっきり言っちゃった。そしたらチャイコフスキーは「僕もそう思う」って。二人とも、とてもいいヤツじゃないですか。藤岡さんはさらにこうおっしゃっています。やっぱりお互い直接会って飲まなきゃね、って。全くの同感であります。
 

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チャイコフスキーの年譜

1840年
ロシアのウラル地方ヴォトキンスクで、鉱山技師の父のもと次男として誕生

1845年
マリヤ・パリチコヴァからピアノを習う

1859年
法律学校を卒業後、法務省の職員として勤務

1861年
アントン・ルービンシュタイン設立の音楽協会(後のペテルブルク音楽院)に入会

1863年
法務省を退職し、協会モスクワ支部の音楽教師に就任

1866年
モスクワ音楽院で音楽理論教師に就任。作曲活動の本格的開始

1875年
ピアノ協奏曲第1番を作曲

1876年
富豪のメック夫人から資金援助を受ける。交響曲第4番を作曲

1877年
アントニーナ・ミリュコーヴァと結婚するが、間もなく事実上離婚。バレエ『白鳥の湖』を作曲

1878年
教職を辞任。ヨーロッパ各地を転々と移住

1885年
ロシアに帰国、モスクワ近郊に住む

1888年
バレエ『眠れる森の美女』を作曲。交響曲第5番を作曲

1891年
バレエ『くるみ割り人形』を作曲

1893年
交響曲第6番を作曲。初演から間もなくコレラに罹り急死(53歳)

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