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前方後円墳の前と後ろ

 前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は、大和朝廷の勢力が及んでいた日本の諸地域と、その影響を受けた朝鮮半島南部にだけ見られる独特の形の墳墓です。3世紀中ごろに、大和地方の纏向(まきむく:奈良県桜井市)に築造された箸墓(はしはか)古墳がその始まりだとされています。古墳の種類は、ほかに円墳方墳などがあるというのは学校で習いましたね。

 ところで前方後円墳のあの形、最初に見たときはずいぶん奇妙な形に思えたものです。まるで鍵穴というか、てるてる坊主、あるいは、こけしのような。なぜあのような形になったのでしょうか。さらに妙だなと思うのが「前方後円墳」という名前です。これって、前が四角で後ろが丸という意味です。ところが写真や絵を見ると、必ず丸いほうが上になっています。これだとどちらが前か後ろか分かりづらく、「前円後方墳」と呼んでもよいような気もします。

 そこで、誰がこの名づけをしたのか調べてみましたら、江戸時代後期の国学者・蒲生君平(がもうくんぺい)という人によるそうです。蒲生はこの古墳の形は車をまねしたと考えたのです。車といっても今の自動車ではなく、一対の大きな車輪がついた牛車や人力車です。しかし、古墳ができた時代に車はなかったといいますから、この名づけは当を得ていないというべきでしょう。それに、車だったら、車輪にあたる円い部分が下であるはずです。

 じゃあ実際の古墳の構造はどうなっているかというと、円い部分に死者が葬られており、四角い部分は通路だったり祭祀が行われる場所だったとされます。とすると、重要な部分は円いほうだったと考えられます。さらに古代中国の思想の、墳墓の円形は天を表し、方形は四角い地を表すとする「天円地方」の考えによるとの説もあるようです。それなら円いほうが前かというと、そうとも言い切れません。だって、重要で大切なものは、ふつう奥まった場所にあるもんですからね。

 従いまして、四角いほうが手前、丸いほうが奥とみて、前方後円墳という名はそのままでよいのだろうと考えられます。ちなみに前方後円墳を英語でいうと、keyhole shapedだそうです。実に分かりやすいというか、安易。でもやっぱり円い方が上なんだ・・・。

東を「あづま」と読む理由

 ヤマトタケルノミコトは、『日本書紀』では主に「日本武尊」と表記され、『古事記』では主に「倭建命」と表記されます。そのヤマトタケルノミコトが、関東地方の敵を平定するため、相模から船に乗って房総半島に向かったときに、暴風に襲われました。

 激しい波にいよいよ船が危うくなったとき、妃のオトタチバナヒメが、「私が海に入って海の神を鎮めましょう。あなたは必ず任務を果してください」と言って、海中に身を投げました。

 そのとき妃は「さねさし さがみの小野にもゆる火の 火中(ほなか)にたちて 問ひし君はも」という歌を残していきました。これは「焼津で火攻めに遭ったとき、その火の中で、あなたは私を心配してかばってくださった。その面影を抱いて、私は海に入ります」という意味です。

 そうして波は収まり、その後、ヤマトタケルノミコトは首尾よく敵を平らげ、足柄山にもどってきました。そして、そこから相模湾を見下ろし、海に沈んだオトタチバナヒメを偲んで、「吾妻(あづま)はや」(わが妻よ)と三度呼びかけました。それで関東地方(東国)のことを「あづま」と呼ぶようになったといわれます。
 

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雄略天皇と赤猪子の物語

 5世紀後半の天皇、第21代・雄略天皇(412〜479年)は、允恭(いんぎょう)天皇の第5皇子で『古事記』下巻に登場する英雄的な君主です。歌をよくし、その霊力によって女性や国を獲得したという伝説があります。権勢は全国に及んだようで、埼玉県の稲荷山古墳と熊本県の江田船山古墳から、雄略天皇をしめすと思われる「ワカタケル」の銘のある鉄剣が出土しています。478年に中国へ使節を送った倭王「武」も、この雄略天皇とみられています。『古事記』には、天皇の次のようなエピソードが載っています。

 長谷朝倉宮(はつせのあさくらのみや)で天下を治めていた雄略天皇は、あるとき三輪山のふもと、美和河(みわがわ)のほとりで洗濯をしている少女に出会います。見目麗しいその少女を、天皇は一目で気に入り「おまえは誰の子か」と尋ねると、少女は恥ずかしそうに「私は引田部の赤猪子(あかいこ)と申します」と答えました。天皇は「おまえは誰にも嫁がずにいなさい。そのうち私が宮中に召すから」と言って、宮に帰っていきました。

 その後、赤猪子は天皇の言葉を信じてお召しを待ちました。しかし、何の音沙汰もないまま、5年、10年、20年、さらに80年もの年月が過ぎてしまいました。若かった体もすっかり痩せ縮まって、顔も見るかげもありません。彼女は、せめて、今日まで待ち続けた誠意だけでも天皇に打ち明けたいと思い、意を決して宮中へ参内します。天皇は彼女のことなどすっかり忘れており、「お前はどこの婆さんだ、何の用で来たのか」と追い返そうとします。

 その薄情な言葉に、赤猪子はすべてを語ります。若かりし日の出逢い、夢のような天皇のお言葉。そして、信じて待ち続けた、気の遠くなるような長い年月を・・・。事情を聞いた天皇はひどく驚かれ、赤猪子を不憫に思って歌と品物を贈ったということです。
 

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