諸子百家の先駆であり、その代表的思想家の孔子は、紀元前552年(または紀元前551年)に魯(現在の山東省曲阜市)の武人の家に生まれました。ただし司馬遷の『史記』によれば、孔子は、元巫女で身分の低い女性が産んだ「野合の子(不倫の子供の意)」であり、しかも当時、父親は60歳をとうに過ぎた初老で、母親はまだ16歳であったといわれます。
孔子が周囲から祝福されて生まれた子でなかったことは想像に難くありませんが、さらに悪いことに、孔子が3歳のときに父親が亡くなります。正式な嫁とは認められていない母親はすぐに孔家から追い出され、その後は女手一つで孔子を育てていきます。貧困生活で無理がたたったのか、孔子が若いうちにその母親も亡くなってしまいます。
孔子の言葉を記録した『論語』には、孔子の多芸多才ぶりの理由を弟子から尋ねられ、「私は幼いころ貧しかったから、生きていくために色々なことをやってきた」と答えたという話が載っています。元巫女だった母親は、祭祀儀礼を職業とする集団のなかで働き、そこで孔子を育てたといわれます。そうした環境のなかで成長した孔子は、いつの間にか祭祀儀礼に精通するようになったのでした。
孔子は18歳のときに結婚し、その後、魯国の役人になりました。しかし、孔子が36歳のときに内乱が勃発、君主の昭公が隣国の斉に亡命する事態となり、孔子も昭公に付き従って斉に行きました。2年後に魯に帰国し、孔子のもとには多くの弟子たちが集まり始め、その教育にあたるようになりました。51歳のときに中都の宰(長官)に取り立てられ、さらにその実績により最高裁判官である大司寇および外交官に就任することができました。しかし政治改革を試みて失敗し、失脚します。
その後、自分の思想を受け入れてくれる君主を求めて、弟子とともに諸国巡遊の旅に出ました。しかし孔子を採用する諸侯はどこにも現れません。かの斉の名宰相・晏子からも断られたという話は有名です。そして、14年にわたる遊説の旅を終えて再び魯に帰国。それから後は、詩書など古典研究の整理を行い、紀元前479年に73年の生涯を閉じました。世間的な意味では、思うような栄達を果たせなかった孔子の人生は不遇だったかもしれませんが、教育者としての孔子には3000人もの弟子がいたとされ、後に、孟子や荀子などのすぐれた後継者を輩出しています。
孔子の思想の根本は「仁」と「礼」にありました。「仁」とは、他者を慈しみ愛する思いやりの気持ちで、「礼」とは、仁を態度として表す礼儀作法のことです。孔子はそのいずれが欠けてもだめだと言っていて、国家の運営についても、伝説の聖君子である堯・舜・禹の時代を理想の国家として、力によって覇権を競う春秋戦国の諸侯たちに反省を促すものでした。
生前、「世の中に私を知るものは誰もいない」と嘆いたとされる孔子ですが、今日のように有名になったのは、彼の死後、その弟子たちが孔子の思想を喧伝したことによります。孔子の教えは、それを継承した孟子ほかの儒家の思想と合わせて儒教とよばれ、それを信奉する学派が儒学です。漢代に儒学は国教化され、長く中国の支配的な位置を占めることとなり、孔子は聖人として祭られるようになりました。その子孫は代々の王朝に保護され、現在まで続いています。
なお、孔子については、別ページで、孔子の言葉やエピソードなどを掲載していますので、ぜひご参照ください。
⇒ 孔子さまの言葉
⇒ 孔子の素顔 / 論語とフランス革命 / 孔子の弟子たち
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(子貢)