本文へスキップ

天正遣欧使節の少年たち

 1582年(天正10年)、キリスト教の宣教師を乗せて長崎を出航した船がありました。その船には、日本人として初めてヨーロッパへ赴く少年たちが同乗していました。彼らは、伊東マンショ千々和ミゲル原マルチノ中浦ジュリアンという名の、いずれもまだ12〜14歳くらいの少年でした。

 4人は、豊後の大伴宗麟、肥前の有馬晴信大村純忠の3人のキリシタン大名の命令によって、ローマ教皇への使節として送り出されたのです。彼らは当時、島原半島の有馬セミナリヨ(神学校)の学生であり、その中から選ばれました。

 この派遣は、来日していたイエズス会の宣教師バリニャーノが離日するにあたり、急きょ計画・実行されたものでした。その目的は、ヨーロッパに日本での布教の実績を印象づけ、その理解と財政的な援助を求めること、それから、少年たちにヨーロッパのキリスト教世界を見聞させ、帰国後に彼らによってその栄光や偉大さを語らせ、布教に役立てることにありました。

 少年たちは、2年半かかって、マカオ、インドを経てアフリカの南端・喜望峰を回り、ローマにたどり着きました。ローマでは、教皇のグレゴリウス13世にも謁見し、4人の礼儀正しくりっぱな態度は市民からも大歓迎されました。また、ローマ市会からの推薦でローマ市民権もあたえられました。

 そして1590年に再び日本に戻ったときは、出発してからすでに8年以上の年月が経っていました。そのとき彼らが目にした日本は、大きく様変わりしていました。彼らを派遣した大友宗麟、大村純忠はすでに亡くなっており、豊臣秀吉がバテレン追放令を出していました。宣教師や信者は追放され、教会の領地も没収されていました。96年には、ついに26人の信者や宣教師が長崎に送られて処刑されました。このあと、明治時代になるまでキリスト教の禁止は続くことになります。

 そうした状況のなか、4人の少年使節たちには、たいへん大きな苦難が待ち受けていました。伊東マンショは病死し、千々和ミゲルはキリスト教を棄て、原マルチノは、1616年に中国のマカオに追放され、その地で死去。中浦ジュリアンは教会の活動を続けて、1633年に処刑されました。刑場で彼は、「我こそは、ローマに赴いた中浦ジュリアン神父だ!」と叫んだといわれています。

 このように悲壮な運命をたどった4人の少年たちでしたが、彼らの帰国とともに日本に活版印刷機と印刷術がもたらされたこと、またヨーロッパのキリスト教世界に日本をアピールしたことは大きな意味がありました。

太閤検地と刀狩

 豊臣秀吉は、織田信長や戦国大名たちが実施していた検地をさらに徹底し、統一基準で全国的に太閤検地を行ないました。その徹底ぶりは、反抗する者がいたら、「村の一つ、二つ、片っ端から切り捨てよ」「たとえ百姓が1人もいなくなってもかまわない」という言葉が示しています。信長のときに検地の実務を担っていた秀吉ですので、その重要性を大いに認識していたようです。

 太閤検地では、全国に役人を派遣、測量した土地の面積、等級、耕作者を検地帳に記し、米の収穫量に換算した数字(石高)で土地の生産力を表す仕組みを作り上げました。これによって、石高をもとに大名の領地配分をしたり、軍役などの負担を割り当てたりできるようになりました。その後の制度や経済、文化の基礎となる情報が集約できたという意義はたいへん大きいとされます。

 農民は田畑の所有を認められた代わりに、土地に縛りつけられ、所有している土地に応じた年貢米を納める義務を負うことになりました。また、「一地一作人」の原則がとられたため、それまでの所有者が複数いた荘園制の複雑さが解消され、領主が農民を直接支配する新しい制度ができあがりました。また、それまで国ごとにまちまちだった度量衡(ものをはかる基準)を全国統一のものにし、年貢をはかる枡(ます)も京ものに統一しました。

 1588年には刀狩令を出し、農民の所有する武器を没収しました。表向きは「方広寺の大仏造立のための釘、かすがいに利用する。そうすれば百姓はあの世まで救われる」という名目でしたが、本当の目的は別にありました。中世以来、領主たちを悩ませていた一揆と太閤検地への抵抗を止めさせるために、刀狩は行なわれたとされます。

 しかし、実際には、祭祀用の武具や害獣駆除用の鉄砲などは所持を許されるなど、その後も農村には多くの武器が存在しました。中世を通じて武器の所有は広く一般民衆に浸透しており、成人男性の帯刀は一般的でした。また、近隣間のトラブルが暴力によって解決される傾向が強かったため、秀吉は刀狩と並行して武器の使用による紛争解決を禁止(喧嘩停止令)し、この施策は江戸幕府にも継承されました。

 そのため、秀吉の刀狩令は農民の武装解除を目指したというより、もっぱら農民から帯刀権を奪い、武器使用を規制するという兵農分離を目的としたものであったとする学説が現在では有力です。
 

【PR】


目次へ ↑このページの先頭へ

【PR】

おもな戦国武将

北条早雲(1432)
斎藤道三(1494?)
毛利元就(1497)
山本勘助(1500)
松永久秀(1510)
織田信秀(1510)
立花道雪(1513)
尼子晴久(1514)
北条氏康(1515)
武田信玄(1521)
柴田勝家(1522)
滝川一益(1525)
明智光秀(1528)
龍造寺隆信(1529)
上杉謙信(1530)
大伴宗麟(1530)
吉川元春(1530)
朝倉義景(1533)
小早川隆景(1533)
島津義久(1533)
前田利益(1533?)
織田信長(1534)
島津義弘(1535)
丹羽長秀(1535)
荒木村重(1535)
豊臣秀吉(1536)
池田恒興(1536)
佐々成政(1536)
足利義昭(1537)
北条氏政(1538)
前田利家(1538)
長宗我部元親(1539)
徳川家康(1542)
竹中重治(1544)
浅井長政(1545)
黒田孝高(1546)
武田勝頼(1546)
山内一豊(1546)
浅野長政(1547)
真田昌幸(1547)
島左近(1548?)
本田忠勝(1548)
高山右近(1552)
堀秀政(1553)
毛利輝元(1553)
小西行長(1555)
上杉景勝(1556)
蒲生氏郷(1556)
藤堂高虎(1556)
小西行長(1558?)
大谷吉継(1559)
石田三成(1560)
直江兼続(1560)
福島正則(1561)
加藤清正(1562)
細川忠興(1563)
池田輝政(1564)
伊達政宗(1567)
真田幸村(1567)
立花宗茂(1567)
黒田長政(1568)
小早川秀秋(1582)
 
( )内は生年です。

【PR】

いぬのきもち

目次へ