義和団事件で信頼を得た日本
日清戦争後、清国が西洋諸国に日本への圧力を依頼したことが、かえって諸外国から領土を食い荒らされる結果となり、清国内で白人排斥の感情が高まりました。その旗頭となった宗教集団の「義和団」が蜂起、各地でキリスト教の教会が焼かれたり、西洋人が殺されたりしました。ついには義和団は北京を制圧し、公使館区域を包囲、さらに天津の租界(租借地区)も包囲し、多数の外国居留民が閉じ込められました(義和団事件)。
清国政府はこの動きを傍観し、それどころか、清国皇帝はこれをきっかけに「諸外国と戦う」という詔勅を出したのです。欧米列国は驚愕し、日本による救援を望みましたが、日本政府は自国の判断のみで出兵することを避け、各国の意見を代表するイギリスの正式な申し入れを受けて、はじめて出兵を承諾しました。そして、日本軍は欧米との連合軍の先頭に立ち、天津・北京を落城させました。各国軍が略奪行為を繰り返すなか、日本軍のみ規律正しくふるまい、任務終了後ただちに帰国しました。
その後、日英同盟が締結されるに至ったのは、義和団事件で日本が示した模範的な行動の影響が大きかったといわれます。アジアの小さな有色人種国家にすぎないと思われていた日本が、規律正しく勇敢に行動したことが彼らの印象を一変させ、「同盟相手として信頼できる国」との評価をもたらしたのです。この同盟によりロシアのアジア進出が牽制され、日露戦争が勃発すると、イギリスは諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等で日本を大いに助けたのです。
諸外国の信用を得た日本
谷沢永一さんの著書から
―― 明治維新直後に元勲たちが諸外国に対してなしたことのうち、日本のその後のイメージをたいへんよくしたのは、徳川幕府が各国から借りていた金を、維新政府の手によって懸命になって返したことです。明治維新によって政権交代したが、前政権の徳川幕府が国際的に各国から借りた金を、明治政府は脂汗流しながら全額返したのです。一銭たりとも踏み倒さなかった。
明治維新の前、倒れる幕府が諸外国からたくさんの借款をしました。(中略)幕府にもいろいろないいところがありましたが、困ることの一つは、金を借りることに対して鈍感であったことです。人間社会で、何が難しいかと言って、金を借りることほど難しいことはありません。金の借り方ということによって、その人物の人格が問題になるわけです。
・・・ふつう、革命がおこって前の政権が倒れると、新しい政権は前の政権の借金を棒引きにするのが常識なのです。例えばレーニンは、ニコライ帝の借金を全部棒引きし、元々、そんなものはなかったという態度をとりました。ところが、日本だけは借金をせっせと返したわけです。これは明治政府がやった偉大なことの一つです。このことが、日露戦争の勝利につながるのです。
日露戦争は、日英同盟によって勝てたのですが、同盟が可能だったのは、イギリスが日本を信用したからです。また高橋是清がロンドンへ外債募集に行き、外債を売りつけることに成功します。進んで引き受けてくれたのがユダヤ人だったからということもありますが、当時、ヨーロッパ社会、金融会社で、「ジャパンは信用できる」という公認の評価を確立できたのは、明治政府の偉大なる功績です。――
「日本の伝統」の正体
お正月には皆さん、初詣に行かれますね。この初詣という風習、ずいぶん昔からあるように思われていますが、『日本の伝統の正体』という本によれば、誕生は明治中期だそうです。え、うっそーという感じ。1872年に東海道線が開通したわけですが、初詣が始まったのは、鉄道会社の作戦だったといいます。
おせち料理も、祝いの席の料理として奈良時代から存在してはいましたが、正月のおせちを重箱に詰めるようになったのは幕末から明治にかけてで、戦後、デパートの販売戦略によって定着したのだそうです。近ごろは犬、猫などペット用のおせちも売られていますから驚きます。これもきっと誰かの作戦でしょう。
また、節分に恵方を向いて食べるという恵方巻にいたっては、戦前から戦後にかけて大阪の寿司・海苔業界が大宣伝して関西の一部地域に広まり、これを1989年にセブンイレブンが取り入れて大ヒット。98年に全国展開され、他のコンビニ各社も続々参入して現在に至っているというのです。確かに、私が子供のころにはありませんでしたもん、こんなの。
ことさように、古くからあるとされている伝統?には、けっこう怪しいものが多いようで。
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