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「鉢の木」の話

 鎌倉幕府の第5代執権・北条時頼は、質素かつ堅実で、宗教心にも厚い人物だったといわれます。幕府内にあって執権の権力を強化する一方、御家人や民衆に対して善政を敷いた名君でした。その時頼が、30歳前の若さで引退、出家します。嫡子の時宗はまだ6歳でしたが、後継者を明確にするためでもあったのでしょう。

 出家した時頼は最明寺入道(さいみょうじにゅうどう)と名乗り、諸国を托鉢して廻りながら民情をさぐり歩きました。政治の不備を補い、公正を期すためでした。ある冬の雪の降る日に、最明寺入道は上州佐野のあたりを歩いていました。日も暮れかかり、行き悩んだ彼は、源左衛門常世という落ちぶれた武士の家に宿を借りることになりました。しかし、源左衛門常世の住居は、何ともみすぼらしいあばら家です。

 最初は、何のもてなしもできないといって断った源左衛門常世夫妻でしたが、結局は、あたたかく最明寺入道を迎え入れてくれました。主人はまことに礼儀正しく、人品も卑しげではありません。そして暖を取る薪(たきぎ)が足りなくなったとき、大切にしていたらしい鉢植えの木を折って火を燃やし続けたのです。最明寺入道は深く感銘して、この夫妻の名を聞きますが、なかなか明かそうとしません。たって聞くと、次のように答えました。

「私は佐野の源左衛門常世といい、かつてはそれなりの身分の武士でしたが、親類どもに所領を横領され、このように落ちぶれてしまいました。しかしこれでも、鎌倉に一大事が起きたときは、破れたりとはいえ、この鎧(よろい)を身につけ、錆びたりとはいえ、この薙刀(なぎなた)を持ち、痩(や)せたりとはいえ、この馬に乗って、第一番に駆けつける心づもりでいます」

 と、厳然と言い切りました。最明寺入道は強く心を動かされましたが、何しろお忍びの巡遊ですから、身分を明かすわけにはいきません。翌朝、夫妻に厚く礼を述べて、その家を後にしました。

 年が明けて春になると、突然「鎌倉に一大事」との触れが出され、関八州の武士がみな鎌倉に駆けつけました。源左衛門も、みすぼらしい出で立ちで痩せ馬に乗って駆けつけました。すると、いきなり最明寺入道の御前に呼び出されました。さては腹黒い親類どもが讒言(ざんげん)して、自分が罰されるのかと思い恐る恐る出て行くと、何と、目の前にいるのは、この前の雪の晩に自分の家に泊めた托鉢坊主でした。

 源左衛門はびっくりしましたが、最明寺入道は、源左衛門の言葉が嘘ではなかったことを大いに喜び、これを全軍の前で賞しました。そして、鉢の木を切って火を焚いてくれたお礼に、失った領地を元通りに返し、さらに新たな領地を増やしてやりました。


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