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大石内蔵助の真価

 播州赤穂五万三千石の筆頭家老だった大石内蔵助良雄――。もし、主君の浅野内匠頭長矩が江戸城中で刃傷事件を起こさなければ、さして人に知られることもなく、平凡な生涯を終えていたはずの人物だったに違いありません。にわかに歴史の表舞台に登場し、現代まで語り継がれるなんて、絶対になかったはずです。

 「昼行灯(ひるあんどん)」とも呼ばれていたほどに茫洋とした人物、というのがそれまでの大石に対する一般的な見方で、当時の記録には「色は白く、中より小さき方にて、柔和に言葉少なく、にこにこしたる人なり。たとえて申せば、富豪の町人の家をしまいて楽人になりたる様にて、ただ鷹揚なる人」と書かれているほどです。

 そのような人物が、突如降ってわいた「お家断絶」という重大な難局に際し、なぜあれほどの判断をくだし、見事に義挙を成し遂げられたのでしょうか。また、あんなにも義士たちの信頼を一身に集めることができたのでしょう。人物評からはまことに不思議な気がしますが、しかし、よくよく考えると、こういう人物のほうが、けっこう統率力があるものだともいえます。

 これは現代にも通じる話でして、たとえば大企業の社長など、組織のトップは、ハッキリ、ズケズケとものを言わないほうがよいとされます。たとえば社内の部門や製品について、これはいい、あれは悪いとか、あれが好き、これが嫌いなどと軽々に言ってしまうと、否定された方に携わっている社員はがっかりしてしまい、会社全体の士気の低下につながってしまうからです。かの『韓非子』にも、理想的なトップのあり方として似たようなことが書かれています。

 そして、鷹揚な大石とは別に大野九郎兵衛という家老がいて、バリバリ働いて実績を積み上げつつあるにも拘わらず、大石はそれに対抗するでもなく妬むでもなく、実にゆったり構えていました。もっとも、大石は浅野家の親類という破格の家柄でしたから、じたばたする必要などさらさらなかったともいえます。さては、そういう地位に悠然と安住していただけなのでしょうか。

 しかし、権力をふるえる高い地位についた者は、不必要なまでにその権力をひけらかすのがふつうです。ほんとうに無能だったらいざ知らず、敢えてゆったり構えるというのは、なかなか出来る態度ではありません。藩士たちはそこら辺りをきっちり見極めていたのでしょう。心の底では、きっと他のどの家老たちより信頼していたに違いありません。だからこそ、刃傷事件が起こったとき、藩士たちは大石の一挙一動にあれほど注目したのです。大野ほかの家老たちに示した信頼とは、比べるべくもありません。

忠臣蔵の舞台

 初春のころ、播州赤穂(兵庫県)を訪れたことがあります。あの四十七士たちの想いに浸りたくて、以前から一度行ってみたいと思っていたところでした。鷹取峠や千種川は、抱いていたイメージそのままのうららかな雰囲気で、あそこは春景色がよく似合いますね。

 ところが、赤穂城と城内の武家屋敷の佇まいは、想像に反して、あれほどの大事を成し遂げた彼らの本拠にしては、あまりにこじんまりとしていてささやかなものでした。あたかも、零細企業の小さな本社事務所と、社員たちの社宅が狭い所に肩寄せ合って建っているという雰囲気で、ここだけ見ていると、忠臣蔵のあの壮大なイメージとはかなりギャップがあるように思います。

 しかし、そんなところで平凡に生きていた彼らが、徳川幕府のとった措置に反抗して、敢然と立ち向かい、見事に本懐を遂げたのですね。そう思うと、また格別の感慨がわいてきます。
 

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赤穂事件のあらまし

元禄14年(1701年
2月14日
浅野内匠頭長矩、勅使饗応役を命ぜられる
3月14日
江戸城・松の廊下で浅野長矩が、吉良上野介義央を斬りつける。長矩は即日切腹
3月19日
危急を知らせる早使が赤穂に到着
3月27〜29日
大石が赤穂城中に藩士を集めて評定。納得できる処置を求める目付宛ての書状を持たせ、江戸へ派遣
4月15日
赤穂城を退去
4月19日
赤穂城を明け渡し
6月28日
大石が京都・山科へ移る
9月2日
吉良邸が呉服橋から本所松坂町へ屋敷替え
11月10日
大石が江戸で急進派の浪士たちと会合

元禄15年(1702年)
4月
大石が妻りくを離別
7月28日
討ち入り決行を決意
10月7日
大石ら、江戸へ
12月14日
吉良邸で茶会が催されるとの情報を得る
12月15日
四十七士による討ち入り
討ち入り後、2名が大目付・仙石伯耆守久尚に自訴。残りは泉岳寺へ引き揚げ、浅野長矩の墓前に吉良の首級を手向ける

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