文学作品の紹介
近・現代の日本文学作品から(50音順に掲載しています)
小川未明
大正10年(1921)、『東京朝日新聞』に掲載(けいさい)。
北の海に住んでいた人魚が、せめて自分の子どもだけは人間の世界で育ってほしいと、娘(むすめ)を海辺(うみべ)の神社の下に生み落とす。近くのろうそく屋の老夫婦がその娘を拾(ひろ)って育てていると、見せ物師がやってきて大金でその娘を買いたいという。金に目がくらんだ老夫婦は娘を売り、売られた人魚の娘がオリに入れられて船で運ばれる途中、天罰(てんばつ)からか、大嵐(おおあらし)で船は沈(しず)み、町もほろんでいく。
石川啄木
明治43年(1910)に刊行された、石川啄木の歌集。
「東海の小島の磯(いそ)の白砂(しらすな)に われ泣きぬれて 蟹(かに)とたはむる」は、巻頭(かんとう)の一首。思郷の歌や北海道時代への追懐詠が多く、啄木の代表歌集として広く親しまれている。
志賀直哉
志賀直哉の作品で唯一(ゆいいつ)の長編小説。大正10年(1921)に雑誌『改造』に発表したのが最初。
出生の秘密(ひみつ)を知って苦悩(くのう)する時任謙作(ときとうけんさく)が、結婚後、妻の過(あやま)ちにも苦しみながら、最終的にはすべてを許そうという気持ちになるまでの苦悩(くのう)の物語。
川端康成
大正15年(1926)『文芸時代』に連載し、出世作となった。
伊豆(いず)の旅に出た一高校生の私は、天城峠(あまぎとうげ)で出会った旅芸人の踊り子にひかれ、一行と下田まで道づれになる。薫(かおる)という名の踊り子は14歳、おとなびて見えるため、私は踊り子の今夜が汚(けが)れるのではないかと眠れぬ夜を過ごす。しかし、翌朝、湯から裸(はだか)で飛び出して手を振(ふ)る踊り子の子どもっぽさに、私は心に清水を感じて微笑(びしょう)する・・・・・・。
少女への思慕(しぼ)を抒情的(じょじょうてき)に書きつづる『伊豆の踊子』は初期の代表作として知られるが、そこにも作者がみずから「孤児(こじ)根性」とよぶ幼少年期の心の傷が深い影をおとしている。
田山花袋
明治42年(1909)刊行。
主人公の林清三が、熊谷中学を卒業後、埼玉県羽生在の小学校教員となり、村民や健福寺の住職らとの往来・交友のうちに、社会的な進路への希望も、淡(あわ)い恋愛も失い果てて、日露戦争のさなかに結核(けっかく)で死んでいくという、平凡な人間の平凡な生きざまを淡々(たんたん)とした表現で描写(びょうしゃ)している。
菊池寛
大正8年(1919)、『中央公論』に発表。
主人を殺した市九郎と、仇討(あだう)ちにやってきた主人の遺児・実之助が、身分、仇討ちなどの封建制を超えて成長する物語。青の洞門(どうもん)の由来(ゆらい)を脚色(きゃくしょく)し、ヒューマニズムに富んだ作者の代表作。
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堀辰雄
昭和11年(1936)発表。
夏の高原にはすでに秋を思わせる涼風(りょうふう)が立ち始めていた。「私」は節子という少女と知り合い、愛し合う。ヴァレリーの「風立ちぬ いざ生きめやも」という詩句をつぶやきながら、それが私の心だと思った。二年後の春、「私」は節子と婚約(こんやく)した。彼女はすでに肺結核(はいけっかく)で病床(びょうしょう)にあったが、「私、なんだか急に生きたくなったのね・・・」、「あなたのおかげで・・・」とつぶやく。
節子のモデルは、堀辰雄の婚約者だった矢野綾子。綾子は昭和10年暮れに亡くなっている。散文で書かれた最も純粋な詩であるとの定評。
坪田譲治
昭和11年(1936)に『東京朝日新聞』に連載。
父の関係した会社の内紛(ないふん)が、ついに刑事事件にまで発展していく過程(かてい)のなかで、世間の冷たい風にいやおうなくさらされる善太・三平兄弟の子供らしい反応を生き生きと描写している。
宮沢賢治
制作年代は不明。
東北の自然から生れた風の又三郎の伝説を素材(そざい)とする。転校してきた高田三郎という少年を風の又三郎と思いこみ、その行動に恐怖(きょうふ)と親しみを感じるという、農村の少年たちの素朴(そぼく)な心理と生活を描き出している。
志賀直哉
大正6年(1917)、『白樺』に発表。
東京の山の手線の電車にはねられてけがをし、療養(りょうよう)先の城の崎温泉で、蜂(はち)や鼠(ねずみ)、イモリなどの小動物の生と死をみつめ、命のありようを知る。谷崎潤一郎に絶賛され、心境小説の名作として後世に高く評価されている。
三島由紀夫
昭和31年(1956)、『新潮(しんちょう)』に掲載。
どもりのために人生から拒(こば)まれていると信じこんだ少年が、鹿苑寺(ろくおんじ)の徒弟(とてい)となり、長じて金閣の美にとりつかれ、その幻影(げんえい)に妨(さまた)げられて女と交わることもできない。やがて金閣の支配から脱(だっ)するために放火を決行するまでの心理過程が、主人公の告白体で格調高い文体で描かれている。1950年の金閣放火事件がモデル。
宮沢賢治
昭和2年(1927)ごろの作で、宮沢賢治の最大長編童話。
少年ジョバンニとカムパネルラの二人が、銀河鉄道で宇宙を旅する幻想的(げんそうてき)な物語。ここで表現されているのは、「みんなのほんとうのさいわい」を求める作者が夢見たユートピアの世界。
夏目漱石
明治39年(1906)、雑誌『新小説』に発表、漱石の初期代表作の1つ。
作者が熊本の第五高等学校に在任していたころに遊んだ小天温泉(作中では那古井)を舞台(ぶたい)に、情緒(じょうちょ)あふれる文体で非人情の世界を描いている。
芥川龍之介
大正7年(1918)、『赤い鳥』に発表された文芸童話。
地獄(じごく)に落ちたカンダタが、お釈迦(しゃか)様がさしのべた蜘蛛の糸にすがって、抜け出ようとするが、我欲(がよく)を起こしたために再び地獄に落ちる。
夏目漱石
大正3年(1914)、朝日新聞に連載。
友人の恋人を奪(うば)って、はからずも彼を自殺に追い込んだ「先生」という主人公が、その罪と恥の意識からついに自殺するまでの苦悩(くのう)に満ちた内情が、若い友人の「私」に宛(あ)てた遺書(いしょ)のかたちでつづられている。
志賀直哉
大正9年(1920)発表。
神田の秤屋(はかりや)で奉公している仙吉(小僧)はすしが食べたくてすし屋に入るものの、持ち金が足りない。それを見かけた通りすがりの紳士(しんし)が、後に秤屋で仙吉を見つけ、食べきれないほどのすしをごちそうする。紳士は後で変に寂しい気持ちになるが、仙吉は紳士を神様ではないかと思い始める。
弱者への愛情と、それを救おうとする善意の行為からくる傷心とが織りなされた作品。
石森延男
昭和32年(1957)刊行。
北海道の札幌(さっぽろ)近くのコタン(アイヌ部落)に住むマサとユタカの姉弟が、理由のない差別に負けず強くたくましく生きていく物語。
新美南吉
昭和7年(1932)、『赤い鳥』に発表。
いたずらなキツネのごんは、百姓の兵十が苦労してとったウナギを盗(ぬす)む。しかし、兵十の母親が死んだことを知り、ウナギを食べたいと思いながら死んだのではないかと後悔(こうかい)する。償(つぐな)いのため、毎日クリやマツタケをそっと兵十にとどけるが、それとは知らない兵十は火縄銃(ひなわじゅう)でごんを撃(う)ってしまう。
尾崎紅葉
明治30~35年(1897~1902)に読売新聞に連載。
高等中学の生徒、間寛一は、お金のために許婚者(いいなずけ)の鴫沢宮をうばわれたことを知り、絶望の果てに冷酷(れいこく)な高利貸(こうりがし)となって、金の力で宮や世間に復讐(ふくしゅう)しようとする。宮は資産家と結婚後、はじめて自分への寛一の強い愛を知り、悔悟(かいご)にくれ、寛一に許しを請(こ)う手紙を書きつづる。一方、寛一もさまざまな体験を経て、また親友の忠告も受けいれ、塩原で情死しようとしていたお静らの純愛にも胸を打たれる。こうして、寛一の心にもようやく宮への同情がめばえ、宮の手紙を読むようになった。
作者が病死したため、この小説はここで終わっているが、のち、小栗風葉が『終編金色夜叉』を書き、完結させた。
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谷崎潤一郎
昭和18年(1943)に『中央公論』に一部を発表、中断後『婦人公論』に連載。
昭和11年代、関西の上流家庭である薪岡家の美しい4人姉妹がおりなす長編物語。伝統的な日本美の中に作者が追い求めた「永遠の女性像」が美しく描かれている。
森鴎外
大正4年(1915)、『中央公論』に発表。
筑紫に流された父をたずね、母と共に出かけた安寿(あんじゅ)と厨子王(ずしおう)の姉弟は、越後(えちご)で人買いにおそわれて、母は佐渡(さど)、姉弟は丹後(たんご)の山椒太夫に売られる。姉は弟を逃がし、入水して死ぬが、弟は都に上り、やがて立身出世して丹後国守に任ぜられる。そして佐渡に渡り、老母に再会する。
史料にしばられない「歴史離れ」の手法による作品。かれんで凛(りん)とした強さの安寿は、鴎外作品中、もっとも魅力(みりょく)ある女性像の一人。
夏目漱石
明治41年(1908)に東京朝日新聞に連載。
九州から大学に入るために上京した小川三四郎が、都会の様々な人との交流から得るさまざまな経験、恋愛模様が描かれている。周囲の人々を通じて、当時の文明社会が批評される側面もある。『それから』『門』へと続く前期三部作の一つ。
北原白秋
明治42年(1909)に発表された、北原白秋の119編からなる第一詩集。
象徴的な言葉で、官能美や異国情緒(いこくじょうちょ)など、新鮮な感覚をうたっている。
下村湖人
作者の自伝的要素を含む作品。昭和11年に連載開始、出版されると好評を得たため続編を執筆(しっぴつ)したが、作者の死により未完となった。
生まれてすぐに里子に出された次郎という少年の、精神の成長がたどられており、山本有三の『路傍の石』と並んで少年向き教養小説の双璧(そうへき)とされている。
井上靖
昭和37年(1962)発表。
伊豆の天城山ろくの、おぬいばあさんのもとにあずけられた洪作少年が、たくましく成長していく物語。作者の自伝小説。
山本有三
昭和10年(1935)、雑誌『主婦之友』に掲載。
義夫は姉しず子、父義平との3人暮らし。母のいない家庭はどこか満たされないものがあり、子ども心に大人の嘘(うそ)に反発していく。しず子は婚約の破談(はだん)から父と母の秘密を知る。しず子は母の愛人の子だったが、愛人が急死して出産前に義平に嫁(とつ)ぎ、義平はしず子を自分の子として育ててきた。母は義平をきらって家を出ていた。義平には儀平の、母には母の愛と真実があった。義夫もしず子も各々真実に生きようとしているのに、みな不幸にさいなまれている。それでも真実一路に生きたいと思う。・・・・・・
志賀直哉
大正2年(1913)、読売新聞に発表。
ひょうたんが好きでたまらない12歳の少年・清兵衛だが、父や先生はちっとも理解してくれない。ひょうたんの「新しく、自然な美」をめぐり、「子供に何がわかるか」と「大人のくせに何もわかっていない」という対立。ユーモラスな味わいの名品。
森鴎外
大正5年(1916)、『中央公論』に発表。江戸の随筆『翁草』に取材した歴史小説。
安楽死(あんらくし)をさせたことで弟殺しの罪に問われ、高瀬舟で島流しにされる喜助と、それを護送(ごそう)する同心の物語。同心は、喜助の安心立命の境地に感動し、安楽死の問題に疑問をもつ。
樋口一葉
明治28~29年(1895~96)、『文学界』に発表。
吉原の芸者を姉にもつ勝気な少女美登利が、信如少年に想いをよせていくさまを、流れるような美しい文章で綴(つづ)った作品。少年少女のまだ自覚できない春のめざめの微妙(びみょう)な心理を、暗示的に描いている。
高村光太郎
昭和16年(1941)に刊行された高村光太郎の詩集。
大正3年に長沼智恵子と結婚してから、昭和13年彼女が死に至るまでの愛をうたった詩文を集めたもの。『あどけない話』の「智恵子は東京に空が無いといふ」は有名。
太宰治
昭和19年(1944)に、津軽半島を一周した太宰治の紀行文。
懐(なつか)かしい故郷と素朴な人情、そして旅の最後に訪れた乳母(うば)たけとの再会・・・・・・。太宰の最高傑作との評価も高い。
芥川龍之介
大正9年(1920)に『赤い鳥』に発表。中国の小説をもとに創作。
舞台は唐の都・洛陽(らくよう)。自分の浪費癖(ろうひぐせ)に嫌気(いやけ)がさした杜子春は、仙人と出会い恵みを受け、自分もいっそ仙人になりたいと弟子入りする。仙人の教えを必死で守ろうとするが、やがて、両親への愛が彼を目覚めさせる。
芥川龍之介
大正11年(1922)の作品。
主人公の8歳の良平は、ある日、かねてあこがれていた鉄道工事用のトロッコに乗ることができたが、帰り道は一人で帰らなければならなくなった。・・・・・・
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壺井栄
昭和26年(1951)年の作品。
瀬戸内海の小豆島(しょうどしま)に生まれた大石先生が、女教師として岬(みさき)の分校に赴任。そこで受け持った12人の子どもたちを、太平洋戦争の嵐(あらし)の波は容赦(ようしゃ)なく翻弄(ほんろう)し、ある女の子は紅灯(こうとう)の巷(ちまた)へ、ある男の子は戦場へ連れ去られる。
作者の戦争に対する強い抗議(こうぎ)が、この作品をたんなる感傷に終わらせていない。
伊藤左千夫
明治39年(1906)、『ホトトギス』に発表。
千葉県の旧家の子ども政夫少年は、家事の手伝いにきた2歳年上の従姉の民子と親しくなるが、周囲の邪魔(じゃま)立てにあう。ある日、二人は綿取りに出かけて二人だけの時間を過ごすが、帰りが遅(おそ)くなったため、民子は家へ帰される。民子はしいられて嫁にいき、流産をしたあと死ぬ。死んだ民子の手には、紅絹(もみ)のきれに包んだ政夫の写真と手紙が堅(かた)く握(にぎ)られていた。民子の墓には、好きだった野菊の花が咲いていた。
島崎藤村
明治39年(1906)に自費出版。島崎藤村の最初の長編小説。明治中期の信州を舞台に、被差別部落(ひさべつぶらく)出身の青年教師、瀬川丑松(せがわうしまつ)の苦悩(くのう)と告白をえがいた作品。作者はのちに「めざめたる者の悲しみ」という言葉で主題を要約した。これにより小説家としての地位を確立した。
太宰治
昭和15年(1940)発表。
暴君(ぼうくん)ディオニスに死刑をいいわたされ、3日の日限で妹の結婚式に出たメロス。だが、身代わりの親友を助けるために、約束の日の日没までに刑場にもどらなくてはならない。メロスは走った。濁流(だくりゅう)を泳ぎ、山賊(さんぞく)と戦い、矢のように走った・・・・・・。真の友情を描いた名作。
芥川龍之介
大正5年(1916)、『新思潮』に発表。出典は『今昔物語』の説話。
池尾の禅智内供(ぜんちないぐ)は、人並みはずれた長い鼻の持ち主で、鼻ゆえに傷つく自尊心で苦しんでいた。さまざまな手を尽くした末、ようやく鼻を縮めることに成功するが、よけい人々の冷笑を買う。
竹山道雄
昭和22年(1947)、『赤とんぼ』に連載。
第二次世界大戦下のビルマ戦線で戦っていた日本軍に、音楽の好きな水島という上等兵がいた。戦闘中も、敗戦後に捕虜(ほりょ)となってからも、彼はビルマ人の竪琴をまねた楽器を奏(かな)でて仲間をはげましていた。やがて帰国のときがきたが、彼は一介の僧となり、戦争で死んだ人々の霊(れい)を弔(とむら)うためにビルマに残る。
太宰治
昭和14年(1939)発表。
太宰治が、御坂峠(みさかとうげ)の天下茶屋(てんがちゃや)を訪ね、富士とともに暮らした時期を題材にした小説。御坂峠には「富士には月見草がよく似合ふ」の文学碑が立っている。
夏目漱石
明治39年(1906)、雑誌『ホトトギス』に発表した、漱石の初期代表作の1つ。
親譲りの無鉄砲で江戸っ子気質の主人公「坊っちやん」が四国の中学校に数学教師として赴任(ふにん)し、わんぱくな生徒たちのいたずらにあったり、教頭の「赤シャツ」一派と数学教師「山嵐」との内紛に巻き込まれ、正義感に駆られて活躍する。松山中学の英語教師だった体験が元になっているといわれている。
与謝野晶子
明治34年(1901)に発表した、与謝野晶子の第一歌集。
与謝野鉄幹との1年間の灼熱(しゃくねつ)の恋愛が基盤(きばん)となり、青春を称(たた)え、情熱のあふれた作品が多い。明治の青年男女に熱狂的共感を得た。
国木田独歩
明治31年(1898)、『国民之友』に『今の武蔵野』と題して発表。
さわやかな文体で、明治30年ごろの東京郊外の自然を描き、武蔵野の林間の美をあまねく知らしめた作品。
夏目漱石
明治43年(1910)、東京朝日新聞に連載。
主人公の宗助は、もと友人の妻だったお米と二人、世間の目を避(さ)けるようにひっそりと暮らしている。彼はその友人の上京を知り、恐れと不安から参禅(さんぜん)を思いたって禅寺の門をたたくが、結局安心は得られずに帰ってくる。友人は遠方に去り、やがて春の訪れとともに二人の生活も小康(しょうこう)をとりもどすが、宗助はまたすぐに冬がやってくると思わずにはいられない。
井伏鱒二
昭和4年(1929)発表。
傷ついた雁(かり)のサワンと作者の愛情の物語。
木下順二
昭和24年(1949)、『婦人公論』に発表した、一幕戯曲。
一面、雪におおわれた小さなあばら家で、お人よしの与ひょうと、美しい女房つうが幸せに暮らしている。つうは、与ひょうが助けた鶴の化身で、与ひょうのためにひそかに羽をぬいて高価なツルの千羽織(せんばおり)を織(お)っていた。しかし与ひょうは、金儲けをたくらむ運ずや惣どにそそのかされ、さらにつうに織物を織らせるが、約束を破ってつうの機織(はたお)りの姿をのぞいてしまう。最後まで織り終えてやせ細ったつうは、もとの空に飛び立っていく。
長らく民衆に語り伝えられてきた民話に取材し、舞台化した作者の代表作。
川端康成
昭和10年(1935)、『文藝春秋』に掲載したのが最初。
無為徒食(むいとしょく)の島村は、雪国の温泉町の芸者駒子にひかれて通う。駒子は病気である許婚者(いいなずけ)の療養費(りょうようひ)稼(かせ)ぎのために芸者となったが、許婚者を愛してはいなかった。死に近い許婚者を愛するのは、妹の葉子だった。悲運にめげず、純粋に生きている駒子への、島村の愛は深まるが、美的なものをそこなうことをおそれ、駒子との生活的な関係をもとうとはしない。
トンネルの向こうの雪国という非現実の世界に、無償(むしょう)の美を結晶させたこの作品は、川端文学の最高傑作といわれる。
島崎藤村
昭和4年(1929)4月~翌年10月『中央公論』に連載。
作者の故郷、木曽・馬籠宿をおもな舞台に、作者の父正樹(小説では青山半蔵)の生涯をたどりながら、幕末維新期のあわただしい時代の相を克明(こくめい)に描いた歴史小説。
芥川龍之介
大正4年(1915)、『帝国文学』に発表した文壇的処女作。『今昔物語』に収められている説話が典拠。
時は平安末期。荒廃(こうはい)した京都の、墓場と化した羅生門が舞台。蛇(へび)の切り身を干し魚と偽(いつわ)って売っていた女、その女の死体から髪の毛を抜いてかつらにする老婆(ろうば)、主家を追われ、その老婆の着物をはいで逃走する下人などが登場し、こうしなければ飢(う)え死にするという極限下の悪の世界が描かれている。
山本有三
昭和12年(1937)、朝日新聞に連載開始、その後『新篇(しんぺん)路傍の石』を『主婦之友』に連載したが、軍部の圧力により中断、未完に終わった。
少年、愛川吾一は貧しい家庭に育ち、小学校卒業後、呉服屋へ奉公(ほうこう)に出される。父は武士だった昔の習慣から働くことをきらい、母は封筒貼(ふうとうは)りや呉服屋の仕立物(したてもの)をして生計をたてていた。吾一は中学進学を望むが、母の苦労を見てあきらめる。職を転々とする生活を通して社会の矛盾(むじゅん)を感じ、悩み、成長していく。
島崎藤村
明治30年(1897)に発表された、島崎藤村の処女詩集。七五調が基調で、51編が収録されている、「秋風の歌」や「初恋」「白壁」などが特に名高い。優美な大和ことばを多用し、失恋、漂泊を重ねてようやく「春」に巡り会った藤村の青春の哀歓が歌われている。
夏目漱石
夏目漱石の処女作。高浜虚子のすすめで、明治38年(1905)1月から翌年8月まで『ホトトギス』に連載。
「吾輩」である一匹の名もない猫が人間社会を批判する新奇な形式で、全体にあふれている風刺(ふうし)やユーモアが大きな反響を呼んだ。作者自身、「趣向(しゅこう)もなく、構造もなく、尾頭の心もとなき海鼠(なまこ)のやうな文章」と言っているが、それが漱石の独創でもあった。
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「土佐日記」(紀貫之)
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。
「源氏物語」(紫式部)
いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
「枕草子」(清少納言)
春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
「方丈記」(鴨長明)
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
「平家物語」(作者未詳)
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
「徒然草」(吉田兼好)
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
「奥の細道」(松尾芭蕉)
月日は百代の過客にして、行かふ年もまた旅人なり。
「たけくらべ」(樋口一葉)
廻れば大門の見かへり柳いと長けれど、おはぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明暮れなしの車の往来にはかり知らぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申しき。
「山椒大夫」(森鴎外)
越後の春日を経て今津へ出る道を、珍らしい旅人の一群れが歩いている。母は三十歳を踰えたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。
「高瀬舟」(森鴎外)
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞いをすることが許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ回されることであった。
「吾輩は猫である」(夏目漱石)
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていたことだけは記憶して居る。
「坊っちゃん」(夏目漱石)
親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりして居る。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かしたことがある。
「草枕」(夏目漱石)
山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
「三四郎」(夏目漱石)
うとうととして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。このじいさんはたしかに前の前の駅から乗ったいなか者である。
「こころ」(夏目漱石)
私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。
「夜明け前」(島崎藤村)
木曽路はすべて山の中である。
「杜子春」(芥川龍之介)
ある春の日暮です。唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。
「蜘蛛の糸」(芥川龍之介)
ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。
「野菊の墓」(伊藤左千夫)
後の月という時分が来ると、どうも思わずには居られない。幼い訣とは思うが何分にも忘れることが出来ない。もはや十年余も過去った昔のことであるから、細かい事実は多くは覚えて居ないけれど、心持だけは今なお昨日の如く、その時の事を考えてると、全く当時の心持に立ち返って、涙が留めどなく湧くのである。
「銀河鉄道の夜」(宮沢賢治)
「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問をかけました。
「小さき者へ」(有島武郎)
お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ち上った時、――その時までお前たちのパパは生きているかいないか、それは分らない事だが――父の書き残したものを繰拡げて見る機会があるだろうと思う。
「雪国」(川端康成)
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
「田舎教師」(田山花袋)
四里の道は長かった。其間に青縞の市の立つ羽生の町があった。田圃にはげんげが咲き、豪家の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出しを出した田舎の姐さんがおりおり通った。
「二十四の瞳」(壺井栄)
十年をひと昔というならば、この物語の発端は今からふた昔半もまえのことになる。世の中のできごとはといえば、選挙の規則があらたまって、普通選挙法というのが生まれ、二月にその第一回の選挙がおこなわれた、二か月後のことになる。
「富嶽百景」(太宰治)
富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらゐ、けれども、陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。
「人間失格」(太宰治)
私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹たちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴をはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。
「走れメロス」(太宰治)
メロスは激怒した。かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らして来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
「伊豆の踊子」(川端康成)
道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。
「金閣寺」(三島由紀夫)
幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。
私の生れたのは、舞鶴から東北の、日本海へ突き出たうらさびしい岬である。父の故郷はそこではなく、舞鶴東郊の志楽である。懇望されて、僧籍に入り、辺鄙な岬の寺の住職になり、その地で妻をもらって、私という子を設けた。
「屋根の上のサワン」(井伏鱒二)
おそらく気まぐれな狩猟家か悪戯ずきな鉄砲うちかゞ狙ひ撃ちにしたものに違ひありません。私は沼地の岸で一羽の雁が苦しんでゐるのを見つけました。雁はその左の翼を自らの血潮でうるほし、満足な右の翼だけを空しく羽ばたきさして、水草の密生した湿地で悲鳴をあげてゐたのです。
「山椒魚」(井伏鱒二)
山椒魚は悲しんだ。
彼は彼の棲家である岩屋から外へ出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることができなかったのである。今はもはや、彼にとって永遠の棲家である岩屋は、出入口のところがそんなに狭かった。そして、ほの暗かった。強いて出て行こうとこころみると、彼の頭は出入口を塞ぐコロップの栓となるにすぎなくて、それはまる二年の間に彼の体が発育した証拠にこそはなったが、彼を狼狽させかつ悲しませるには十分であったのだ。
(石川啄木)
(太宰治)
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