1582年、本能寺の変によって「謀反人の娘」となった明智光秀の娘で細川忠興の妻・玉は、丹後国の味土野に幽閉されましたが、2年後に、信長の後に覇権を握った羽柴秀吉の取りなしで、細川家の大坂屋敷に戻されました。それまでは出家した舅の藤孝とともに禅宗を信仰していた玉でしたが、夫の忠興が高山右近から聞いたキリスト教の話をすると、その教えに強く心を惹かれていきました。
1587年2月、忠興が九州征伐のため出陣すると、玉は彼岸の時期を利用し、侍女数人に囲まれて身を隠しつつ教会に出向きました。教会ではそのとき復活祭の説教を行っていたところで、玉は日本人修道士にいろいろな質問をしました。どういうやり取りがあったかは分かりませんが、その修道士は後に「あれほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べています。
玉はその場で洗礼を受けたいと希望しましたが、教会側は、彼女の身なりなどから高い身分の女性であるのは察したものの、どこの誰かも分からないため、洗礼は見合わせました。細川邸では、侍女の帰りが遅いため玉が外出したことに気づき、教会まで迎えにやってきて、駕籠で玉を連れ帰りました。教会は1人の若者にこれを尾行させ、彼女が細川家の奥方であることを知りました。
しかし、玉には再び外出できる機会がなかったため、洗礼を受けないまま、侍女を通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいました。この間に侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせています。しかし、秀吉がバテレン追放令を出したのを知ると、玉は、急ぎ大坂に滞在していたイエズス会の神父から自邸で密かに洗礼を受け、ガラシャ(ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けました。
九州から帰国した忠興は、玉がキリシタンになったのを知って激怒し、棄教させようとしましたが、玉は頑としてきかず、ついに忠興も黙認することになりました。しかし忠興は「5人の側室を持つ」などと言い出し、ガラシャに冷たく当たるようになります。ガラシャは「夫と離縁したい」と宣教師に告白しましたが、キリスト教では離婚は認められないこともあり、宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説き、思いとどまるよう説得しました。
1600年7月に、忠興は、石田三成に対抗する徳川家康に従い、上杉征伐に出陣します。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折に、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と、屋敷を守る家臣たちに命じました。武家においては、一旦緩急あれば、そのようにふるまうのが常だったからです。この習いは、他家でも同様だったといいます。
そして、この隙をねらい、石田三成が、家康に味方する武将たちの奥方を人質に取ろうとします。大坂の細川屋敷にいたガラシャも標的にされましたが、ガラシャは拒絶。すると翌日、三成は兵に屋敷を包囲させ実力行使に及びました。ガラシャは、屋敷内の侍女・婦人らを全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女らを逃亡させました。そして、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清がガラシャの胸を長刀で突いて介錯し、遺体が残らぬよう屋敷に爆薬を仕掛け火を放って自刃しました。
ガラシャの死を知ったオルガンティノ神父が細川屋敷の焼け跡に駆けつけ、ガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬りました。忠興はガラシャの死を痛く悲しみ、オルガンティノにガラシャの教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ移しました。
もともと気位が高いばかりのガラシャでしたが、キリシタンになってからは、心穏やかな女性に変わったと言われています。キリスト教への信仰が、彼女の美しさをさらに引き立て、波乱万丈の人生のなかで心の平穏を求めていたガラシャに深く寄り添ってくれたのでしょう。享年37歳。「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」との辞世の句が残されています。
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