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田沼意次の経済政策

 私ら昭和世代が小中学生だったころの歴史教科書には、もっぱら賄賂政治のことばかりが強調され悪人扱いだった田沼意次ですが、今では、彼が行った進取敢為に満ちた政策、とくに積極的な経済政策については、その手腕が見直され高い評価を受けているようです。中には「江戸時代屈指の政治家」と評する向きもあるそうですから、えらい変わりようです。

 側用人から老中となった意次が幕府の政治を指導した20数年間は田沼時代とよばれ、それまでの「米」ばかりに頼った財政を見直し、商業に重点をおいた政策に大転換しました。まず、特定の商品の販売を独占する商人・手工業者たちを「株仲間」として特権を与える見返りに、運上金・冥加金という税金を徴収し、商人の資本をもとに印旛沼や手賀沼の干拓事業や鉱山の開発を行いました。

 さらに、朝鮮人参や銅を専売する座を始めて幕府自体が販売利益をあげたり、長崎貿易での支払いを海産物を詰めた「俵物」で行い、金銀の海外流出を防ぐなど、財政再建に尽力しました。また、予算制度を導入して大奥の出費をおさえたり、新貨の鋳造をふやしたりもしています。人事面でも、優秀な人材を積極的に取り立てようとしました。

 驚くのは、蝦夷地の開発にも目を向けたことです。仙台藩医の工藤平助が著した『赤蝦夷風説考』を読んで刺激を受けた意次は、当時は赤蝦夷とよばれていたロシアの南下の動きに脅威を感じ、最上徳内らを派遣して国後・択捉島の調査とロシアの動向を探らせました。この行動は、ロシアとの交易の可能性をも視野に入れていたとの見方もあり、その先見性は特筆すべきものです。

 しかし、いつの時代にも、新しいものを嫌う抵抗勢力はいるものです。意次の政策は、旧態依然の上にあぐらをかく譜代門閥層から大きな反発をくらいました。結局、天明の飢饉で、一般民衆や困窮する下級武士を救済できなかったことや、若年寄だった息子の田沼意知が暗殺されたことなどが契機となって、失脚を早める結果になってしまいました。意次に下された処断は、辞任、蟄居にとどまらず、減封、財産の没収、江戸屋敷の明け渡し、居城の打ち壊しなど大変苛烈なものとなりました。

 それでは、意次に対する賄賂政治家・汚職政治家のイメージは濡れ衣で、実際は清廉な人間だったかといわれれば、答えはやはり「NO」でしょう。賄賂も貰っていたし、特定の大名や商人を贔屓(ひいき)していたのも事実でしょう。意次の意思の如何によらず、功利的な経済政策からくる自然な現象だったともいえましょう。しかし、贈収賄は江戸時代を通じてあったことであり、近代以後に比べれば田沼の時代はかえって少なかったという説もあります。

 それから、「歴史は勝者によって書かれてきた」という事実にも目を向けるべきでしょう。意次の失脚と次の松平定信政権への転換は、一種のクーデターであったといわれます。松平政権は、意次の政治を全面否定することで存立しえた政権ですから、敗者である意次の業績を褒め称えるような文献が残ろうはずがありません。その時点で、意次は全くの「悪玉」にされてしまったわけです。

 善玉・悪玉といえば意次と対照的なのが、「幕府中興の英主」とされ、清廉のイメージが高い8代将軍・徳川吉宗です。しかし、吉宗がやったことは結局、創意工夫のない「質素倹約」と、農民を搾りに搾り上げた「増税」です。享保の改革期に百姓一揆の発生件数がそれ以前の倍になり、人口増加がピタリと止まってしまったという事実を見た場合、はたして本当に善政だったといえるのか大いに疑問です。
 
 このころの意次は、美濃国で起きた大規模一揆の裁定を任されており、農民に対する増税路線の問題を目の当たりにする立場にありました。また、米相場の乱高下に頭を悩ます吉宗の姿を身近で見て、日本に貨幣経済を普及させれば問題を解決できるのではないか、と考えたといいます。

 そして、これまでの歴史のなかで、清廉、清貧に満ち満ちた政治家が国を栄えさせたためしはないともいわれます。意次のような、清濁併せ呑むというか、そういう度量の大きさが国を前に走らせる原動力になりうる面があるのは否定できないのではないでしょうか。

天才・平賀源内の末路

 平賀源内といえば、エレキテル(静電気発生装置)、寒暖計、火浣布(燃えない布)、歩数計など100種以上もの発明品を生み出し、また物産展を開催したり鉱山を開発、さらに焼き物をつくったり戯作や浄瑠璃まで執筆したりする、まさに万能・天才の人でした。一説には竹とんぼの発明者ともいわれ、史上初のプロペラだとする人もいます。

 しかし、そんな天才・異才も、晩年には少々精神に異常をきたしたようです。もともと引越し好きで、生涯に10数回も住居を変えていますが、晩年の住まいは神山検校という金貸しの旧宅で、検校は悪事を働いた罪で追放されて野垂れ死に、その子も屋敷の井戸に落ちて死んだといい、幽霊が出ると噂されていました。源内はそんな場所に好き好んで住んだのです。

 また、自作の浄瑠璃の人気が出ないのに対し、弟子の森島中良の作品がヒットしたのに腹を立て、中良の楽屋に乗り込んで罵詈雑言を浴びせたりしています。そして1779年、とうとう殺人を犯してしまいます。

 大名屋敷の修理を請け負った大工の見積書を見て「自分ならもっと安くできる」と源内がケチをつけ、結局、共同して工事に当たることになりました。源内がこの大工と酒を飲んだとき、大工が「どうしてそんなに安くできるのか」と尋ねたので、設計図を見せて説明しました。

 その後、酔っ払って2人は寝入ってしまいます。源内が夜中に目覚めて便所へ行こうとすると、懐に入れておいたはずの大切な設計図がありません。とっさに「盗まれた!」と思った彼は、大工を起こして詰め寄りました。ところが、大工は白状しないばかりか、「たとえ盗んだとしても言うものか」と悪態をつきました。カッとなった源内は刀で相手を斬り殺してしまいます。

 その後、源内は自ら切腹を決意し、部屋を整理し始めると、出てきたのです、例の設計図が。源内の懐ではなく、帯の間にあったのです。源内のまったくの勘違い、早とちりでした。結局、源内は殺人の罪で捕えられ、その1ヵ月後に破傷風が原因で獄死しました。享年51歳。実にしょうもない殺人を犯してしまった天才・源内の、何とも哀れな末路でした。源内の墓には、あの杉田玄白による「ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや」との碑文が残されています。
 
 なお、当時の老中・田沼意次は、平賀源内のことを大変気に入っていたといわれます。田沼は源内をオランダ商人のいる出島に遊学させたこともあったほどです。ところが、源内が殺人事件を起こしたため、田沼は彼とのつながりを全面的に否定せざるをえませんでした。もし源内が殺人事件を起こしていなければ、田沼は蝦夷地開発の責任者を彼にやらせただろう、ともいわれています。
 

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田沼意次が生きた時代

1719年
紀州藩士から旗本となった田沼意行の長男として生まれる
1732年
将軍・吉宗に謁見し田沼家相続を許される
1745年
吉宗が隠居、家重が将軍となる。意次は本丸小姓を拝命
1746年
小姓頭取となる
1751年
御用取次となる
1758年
加増され1万石の大名になる。遠州相良藩主
1760年
家重が隠居、家治が将軍となる
1767年
側用人となる。2万石に加増
1772年
老中となる。3万石に加増
1777年
3万7000石に加増
1781年
4万7000石に加増
1782年
印旛沼・手賀沼の干拓に着工
1783年
息子の意知が若年寄に
1784年
意知が暗殺される
1785年
5万7000石に加増
1786年
将軍・家治が死去。老中を辞任させられる。石高2万石を没収
1787年
松平定信が老中に
1787年
石高2万7000石を没収、隠居・蟄居となる。相続者・意明に1万石
1788年
江戸で死去

 

江戸時代の三大改革

享保の改革
8代将軍吉宗が推進(1716〜45年)。財政再建のため、上米の制、足高の制、新田開発の奨励、貨幣の改鋳、定免法の採用、株仲間の公認などの増税政策を実施した。法制面では、公事方御定書の制定、目安箱の設置、相対済し令などを出し、一定の効果をあげた。

寛政の改革
老中松平定信が推進(1787〜93年)。失脚した田沼意次の後を受けて、対立的な政策である商業資本の抑制と農村の維持とを図った。他国出稼ぎ禁止令、帰農令、人足寄場の設置、囲米の制、棄捐令など。また異学の禁など風紀粛正も図ったが、厳しい統制に対し民衆が反発、定信は失脚した。

天保の改革
老中水野忠邦が推進(1841〜43年)。享保、寛政の改革にならい、緊縮財政と風紀粛正を図った。株仲間の禁止、奢侈禁止、人返しの法、薪水給与令、印旛沼の開発など。上知令は大名・旗本・農民の大反対にあい、忠邦は失脚した。


(水野忠邦)

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