陶淵明
結盧在人境
而無車馬喧
問君何能爾
心遠地自偏
採菊東籬下
悠然見南山
山気日夕佳
飛鳥相与還
此中有真意
欲弁已忘言
盧(ろ)を結びて人境(じんきょう)に在(あ)り
而(しか)も車馬(しゃば)の喧(かまびす)しき無し
君に問う何(なん)ぞ能(よ)く爾(しか)るやと
心(こころ)遠ければ地(ち)自ずから偏な(へん)ればなり
菊を採(と)る東籬(とうり)の下(もと)
悠然(ゆうぜん)として南山を見る
山気(さんき)日夕(にっせき)に佳(よ)く
飛鳥(ひちょう)相(あい)与(とも)に還(かえ)る
此(こ)の中(うち)に真意(しんい)有(あ)り
弁(べん)ぜんと欲(ほっ)して已(すで)に言(げん)を忘る
【訳】
人里に庵を構えて住んでいるが、車の走る騒々しい音に煩わされることはない。「どうしてそんなにのんびりできるのか」と聞くかもしれないが、心が俗世から遠く離れていれば、住まいも自然とそうなるものだ。
東の垣根のところで菊を採ったり、のんびりと南山を眺めたりしている。山の空気は夕方がひときわ素晴らしく、鳥は連れ立って山のねぐらに帰っていく。
こんな暮らしの中にこそ本当の姿はあるのだ。そのことを言葉にしようとしたが、もう言葉を忘れてしまった。
【解説】
「飲酒」と題する20首連作のなかの1首(5首目)で、陶淵明(陶潜)が退職して後の42歳ごろの作です。必ずしも酒についてうたったわけではなく、酔ってからあれこれ湧いてきた思いを綴った詩、という意味です。
この詩は、それらのなかで最も親しまれており、とくに「菊を採る東籬の下 悠然として南山を見る」の二句が有名です。そして、人里近くに住んでいるにもかかわらず、心のありよう次第で、まるで山奥に暮らす仙人のような境地になれるのだ、そんな達観がうかがえるかのようです。
なお、20連作の序には次のようにあります。「自分は閑居の身で喜びも少なく、秋も深まったこの頃は夜も長い。そこに酒があれば飲まない夜はない。自分の影を振り返っては独酌して酔う。酔えば数句を作って自ら楽しむ。かくて書き付けたものばかり多くなり、前後次第もない。友人に清書してもらい、笑いの種にでもしようと思う」
陶淵明が生きたこの時代は政争が激しく、貴族でさえ身を保つのは困難でした。そのため、積極的に政治に関わって生きるより、世俗から離れ大自然の中で質素に生きていくほうが尊い生き方だと考える人が多かったといいます。
五言古詩。「喧・偏・山・還・言」で韻を踏んでいます。〈盧〉は粗末な家。〈人境〉は人里。〈車馬〉は役人や貴人の乗り物。つまり偉い人はやって来ないことを言っています。〈問君〉の君は作者自身を指し、自問自答しています。〈何能〉は、どうして~ができるのであろうか。〈爾〉は、そのようなこと。人里に庵を構えて住んでいることを指しています。〈心遠〉は心が俗界から離れていること。〈偏〉は一方に偏る。辺鄙な土地。〈東籬〉は庭の東側の垣根。〈南山〉は廬山のこと。この麓に陶淵明の家がありました。〈山気〉は山の景色、気配。〈日夕〉は夕方。〈相与還〉はいっしょに帰る。〈此中〉は5~8句に示した世界。〈真意〉は本当の姿、人生本来のありよう。
【PR】
→目次へ
がんばれ高校生!
がんばる高校生のための文系の資料・問題集。 |
【PR】
【PR】