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江戸時代の風俗嬢

 江戸時代の風俗嬢(娼婦)には、大きく分けて、国家によって公認されている公娼と、そうでない私娼とがありました。江戸の吉原、京都の島原、大阪の新地などの遊女が代表的な公娼で、周囲を塀や堀などで囲った遊郭という場所で営業をしていました。いずれの遊郭も都市の周辺部に設けられ、出入口は1か所のみで、外部と遮断されていました。

 江戸に吉原遊郭ができたのは、徳川家康が、柳町の遊女屋・庄司甚右衛門にその設置許可を与えたのが始まりでした。このとき、庄司甚右衛門は次のように具申したといいます。第一に、大阪残党の詮議と発見のためには京の島原のような規模の遊郭が適切である。第二に、江戸に集まる人々による性犯罪の防止のため。第三に、参勤交代の武家の性処理のため。そして第四に、江戸の繁栄に役立つ。そうしたことから、幕府はこれらの遊郭を庇護して税金を免除し、広大な廊内に自治権を与え、業者と深く結びついたのでした。

 しかし、客の立場からは、こうしてできた遊郭で遊ぶのは、えらくカネがかかりました。たとえば吉原で最高格の太夫花魁と馴染みになるには、今でいえば一千万円以上の大金が必要だったといわれ、更には、たとえ金を積んでもイヤなお客とは床を共にしなかったともいいます。気位も高かったようですが、もっぱら富裕な町人や武家・公家を客としたため、芸事に秀で、文学などの教養も備えていました。

 一方、庶民が手っ取り早い性のはけ口として利用したのは、割とリーズナブルな私娼でした。ただ私娼といってもいろいろな種類があり、旅籠で客に給仕する女が客をとった飯盛女、夜になって河原や橋の下でゴザを敷いて客を引き込んだ夜鷹(よたか)、銭湯で背中を流す建前で客をとった湯女(ゆな)、さらには尼の姿をした比丘尼(びくに)などもあったようです。けっこうバリエーションに富んでいたんですね。そういえば、小林一茶の俳句に、火事の焼け跡に建てられた粗末な遊女小屋を詠んだ、「木がらしや廿四文の遊女小屋」という句があります。廿四文(24文)といえば、今の600円程度です。

江戸時代のラブホテル?

 江戸時代は、今のように街中をカップルがデートして歩くなどという光景は見られませんでした。「男女七歳にして席を同じうせず」というように、子どものころから男と女は別々に育てられ、結婚相手も親が決めてしまうケースが殆どだったからです。

 とはいうものの、そこはやはり男と女がいる世界。当時だって、あれやこれやの恋愛模様を繰り広げる男女はたいへん多かったようです。そんな恋人たちが密会できる場所、それが「出会茶屋」でした。現代のラブホテルです。客室は二階に設けられ、密会中に誰かがやって来たらすぐに逃げられるよう、出入口を二か所以上にするなどの用意もあったとか。

 ラブホテルが同じ地域に密集しているという状況は今も昔もまったく同じで、江戸の上野、不忍池辺りにはたくさんの茶屋が並んでいたそうです。利用者は池の蓮を見物するという名目で一室を借り、相手を待ちます。部屋は二間続きとなっていて、奥の間には、枕を並べた布団が敷いてありました。相手がやって来たところで障子を閉めきって逢瀬を楽しみ、数時間後には何食わぬ顔で別々に茶屋を後にしたということです。

 出会茶屋を利用したのは、何も未婚のカップルばかりではありません。これまた現代と全く同じで、不倫も少なくなかったし、当時の風俗嬢?もさかんに茶屋を利用したそうです。

江戸時代の離婚事情

 江戸時代の離縁状は、俗に「三行半(みくだりはん)」と呼ばれ、その文字通りに、一枚の紙に三行半にわたって離縁の合意文書がしたためられました。内容はケースバイケースでしたが、一般的には離縁する旨、離縁の理由、再婚の許可が簡潔に書かれていました。この制度は幕府が定めたわけではなく、庶民の間で自然に広まった俗習だといいます。

 この時代の人々は、何かにつけてとにかく形式を重んじたようです。鎌倉に残る資料によると、夫がたとえ文字を書くことができない場合であっても最低限の「三行半」の形式は必要とされ、離縁状に「三本半の堅線」を引っ張り、そこに「爪印」を押せば、それで事足りたといいます。

 この「三行半」のルーツは、中国の古典『水滸伝』にあるといいます。その中に、重罪を犯して流刑に処された軍人の話があります。軍人は残された妻を案じ、自分を忘れて早く再婚するようにと、涙ながらに妻に離縁状を手渡しました。その離縁状の文章が三行半だったのです。

 ところで「三行半」といえば、理不尽な夫が、かわいそうな妻を足蹴にしながら叩きつけるもの、というイメージがありますが、実態はそんなに陰湿なものではなかったようです。といいますのが、妻が頑として離縁状を受け取らなければ、夫はいつまでも再婚できなかったからです。ルールを破れば所払いの重い刑に処せられました。

 夫は妻に頭を下げて「三行半」を受け取ってもらい、その受取証(「返り一札」という)を手にして、ようやく再婚できる定めでした。夫の一方的な理由による離婚の場合は、妻に相当量の金銭を持たせることもあったようで、必ずしも好き勝手に離婚できるわけではなかったのです。また、妻が離婚したがっているのに夫が「三行半」を書かないのは夫の恥とされたそうですから、ずいぶんリベラルな面もあったんですね。
 

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古代の遊女

奈良期から平安期における遊女の主たる仕事は、神仏一致の遊芸による伝播であり、その後遊芸伝承が次第に中心となる。

日本に於いては、母系婚が鎌倉時代初期まで続いていたが、男系相続の進展と共に、母系の婚家に男が通う形態から、まず、別宅としての男性主体の住処が成立し、そこに侍る女性としての性行為を前提とする新たな女性層が生まれる。これは、原始から綿々と続いた、子孫繁栄のための対等な性行為から、性行為自体を商品化する大きな転機となる。それまで、財産は母系、位階は夫系であった秩序が壊れ、自立する拠り所を失った女性が、生活のために性行為を行う「売春」が発生するのは、正にこの時期である。

売春婦は俗に世界最古の職業と言われるが、日本の遊女も古くから存在していた。諸外国の神殿娼婦と同様、日本の遊女もかつては神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていたが、後に神社を去って諸国を漂泊し、宿場や港で歌や踊りをしながら一方で性も売る様になったものと思われる。

〜Wikipediaからの引用

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