1469年、フィレンツェ共和国の指導者を多く輩出した貴族の分家に生まれる。上流階級の必須教養だったローマ・ギリシア古典やラテン語などを学んで育ち、その青年期は、大ロレンツォによる独裁、大ロレンツォ死後に発生したメディチ家追放、サヴォナローラの神政とその失脚・処刑など、フィレンツェ共和国の激動期に重なる。
マキャヴェリはサヴォナローラ失脚後に政府の書記官として勤務。在任中はフランス王、教皇、皇帝ほかイタリア各国に派遣されて外交折衝にあたった。また、軍事問題では傭兵制から徴兵制への移行を企図した。
1512年の共和政府崩壊とメディチ家復活によって職を追われ、反メディチの陰謀の疑いで一時拘留される。釈放後にフィレンツェ郊外に隠遁し、文筆業に従事。『君主論』はこの時期に就職論文のようなかたちで執筆された。
フィレンツェ史を完成させた後に公職に復帰。しかし、1527年の政変でメディチ家が追放され、マキャヴェリもついで失職。その後間もなく亡くなった。
生前のマキャヴェリは理解されることはなかったが、死後に『君主論』が公刊されると、彼の名はにわかに高まった。この本を巡って激しい論争が湧き起こり、褒め讃える側と非難する側に二分された。外国語に次々と翻訳され、マキャヴェリズムという言葉が外国でも流行語となった。王侯、教皇、皇帝も愛読者となり、カール5世はこの書を枕頭に置いて、その章句をそらんじていたという。
マキャヴェリが『君主論』で説いたのは、人間は誰もが自己利益の追求という原理に沿って行動するのであり、君主も同じく、道徳的・倫理的ではなく合理的に思考し行動していくべきという思想。