長岡京は、桓武天皇の勅命によって、平城京から40km北の長岡の地に新しく造営された都です。『続日本紀』に、遷都に際しての桓武天皇と側近の藤原種継とのやり取りが記されており、「物資の運搬に便利な大きな川がある場所」を遷都候補地の第一条件とする天皇の意を受け、種継は山背国の長岡を奏上したとあります。平城京への交通路は陸路だけでしたが、長岡京の近くには桂川、宇治川、木津川の3つの大きな川が合流して淀川となる地点があり、船で効率よく物資を運ぶことができました。平城京の地理的弱点を解消できる格好の場所だったのです。
長岡京の発掘調査では、各家の殆どに井戸が見つかっており、住人たちも豊かな水の恩恵を受けていたと考えられるそうです。平城京では大きな問題だった下水にも改善が見られ、川の水を家の中に引き込み、排泄物を流せるようになっていました。これによって汚物は川へ流され、都は清潔さを保つことができたのです。
桓武天皇が遷都を思い立った理由としては他に、天武系が断絶してしまった平城京は、天智系である桓武天皇ほかの皇族にとっても不運な都だと考えたため、とか、既存の仏教勢力や貴族勢力による影響を除くためなどの説が唱えられています。遷都と共に朝廷内の改革に取り組んだ天皇は、藤原種継とその一族を重用し、反対する勢力を遠ざけました。また、自らの宮殿を街より15mほど高い地に築いているなど、目に見える形で天皇の権威を示し、長岡京が天皇の都であることを強調したように感じ取れます。
ところが、新都の造営が始まった翌年の785年9月、造営長官だった種継が、監督中に矢に射られ暗殺されてしまいます。首謀者の中には、平城京の仏教勢力である東大寺に関わる役人が複数人おり、さらに東大寺と関係の深かった天皇の弟の早良親王も関係しているとして捕らえられました。しかし、早良親王は無実を主張して断食をし、配流先への護送中に憤死します。かの大伴家持も、事件の直前に亡くなっていましたが、首謀者として官籍から除名されています。
その後、干ばつで飢饉となり、疫病が大流行、さらに皇后ら天皇の近親者が相次いで死去、伊勢神宮の放火、皇太子の発病など変事が続発したことから、その原因を陰陽師に占わせたところ、早良親王の怨霊によるものとの結果が出ました。ただちに親王の霊を鎮める儀式を行いますが、その後も2度の大雨によって都を流れる川が氾濫し、大きな被害が出たことから、治水担当者の和気清麻呂の建議もあって、再遷都のための作業が始まりました。そして長岡京への遷都からわずか10年後の794年に平安京へ遷都することなったのです。
なお、長岡京は、かつては未完成のまま放棄されたといわれていましたが、調査によって、難波宮や平城京の建造物を移築し、完成にかなり近い姿だったことが分かっています。また京域も平城京に並ぶ大きな規模だったようです。
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