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仇討ちの仇討ち

 江戸時代には、自分の肉親(直接の尊属)を殺した犯人への「仇討ち」が許されていました。時代劇の映画やテレビドラマでもよく見ますね。これは武士が台頭してきた中世期からの慣行が江戸時代になって法制化されたもので、仇討ちをしようとする者は、事前に藩主から仇討ちの許可を得て、他国へ渡る場合は奉行所へ届け出る必要がありました。

 なぜ私刑というべき仇討ちが認められていたかというと、喧嘩両成敗という法慣習に従うという意味と、当時の「警察権」の限界を補うという面があったからです。殺人を犯した者は、たいてい他の藩に逃げましたが、江戸時代の幕藩体制のもとでは、他藩の領内へ警察権を行使することができませんでした。他藩に逃げられたら、それ以上追っかけられなかった。そこで、そんな幕藩体制の欠陥、不合理を補うため、殺人に限り、仇討ちを黙認せざるを得なかったというわけです。

 しかし、犯人を捜すといっても、現代のような通信・交通手段もない時代ですから、まことに雲をつかむような話です。実際に相手を捜し当てるまでには、運がよくても数年はかかり、成功率は100人に1人くらいだったといわれます。ちなみに、仇討ち成就までに要した期間の最長例は53年、2番目が41年。また、討っ手の年齢がもっとも若かったのは13才でした。性別では大半が男性でしたが、女性の例もありました。

 また、運よく相手を見つけたとしても、必ず成功するわけではありません。仇討ちはいわば決闘であるため、相手側にもこれを迎え撃つ「正当防衛」が認められていました。ですから、反対に「返り討ち」にあって殺される可能性もありました。そのため、討っ手に助太刀が加わるケースもあったようです。

 なお、討っ手となるのは、武士はもちろんでしたが、農民、町民のときもあり、幕末に向かって農民が増えたといいます。武士の場合は、藩主からお暇をもらって出立しましたが、その間は欠勤扱いとなって禄はもらえません。残された家族には扶助があったとはいえ、それも始めの数年だけ。仇討ち成就が長引けば長引くほど家は衰退し、落ちぶれていくのが常でした。そうまでして仇討ちに執着したのは、武家の当主が殺害された場合、その嫡子が相手を仇討ちしなければ、家名の継承が許されないという慣習も影響しているようです。

 じゃあ、仇討ちをされた側の肉親はどうしたらいいのかというと、さすがに、仇討ちに対する仇討ち(重仇討ち)は認められていませんでした。それを認めると際限がなくなってしまいますからね。

 明治時代になると司法制度の整備が行われ、明治6年に「復讐ヲ厳禁ス(敵討禁止令)」が発布され、仇討ちは禁止されました。

農民も武士になれた

 かつて、江戸時代に厳然たる身分制度として存在したとされる「士農工商」。しかし、今の学校の教科書には、この「士農工商」の記述は見当たりません。厳格な意味での身分制度は存在しなかったというのが最近の学説だそうです。四民間の移動は固く禁じられていたともいわれましたが、それもどうやら違っていたようです。

 実際、農民の次男や三男が町へ出て、丁稚奉公をして商人になったり、親方に弟子入りして職人になったりはできましたし、もっといえば、農工商の身分から武士への転身も珍しいことではなかったといいます。

 では、どのような方法で武士になれたのか? それは、「御家人株」というものをカネで買ったのです。没落した御家人のなかには、何と自分の身分を売り出すものがいたのです。といっても、どこかのお店に売っているとか、単純に右から左へ売り飛ばしたわけではなく、多くの場合は、養子として家系に加えるかたちをとりました。

 たとえば、幕末の幕臣だった勝海舟も、祖父はもともと庶民でしたが、金貸しで儲けて御家人株を買い、息子を武士にしました。『南総里見八犬伝』の作者・滝沢馬琴も、同様に孫を武士にしています。また、新撰組局長だった近藤勇のように、剣の腕を見込まれて武士の養子になった者もいました。
 

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有名な仇討ち

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建久4年(1193年)5月28日、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を富士野にて討った事件。

伊賀越えの仇討ち
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