1571年に起きた比叡山延暦寺の焼き討ち事件は、織田信長による宗教弾圧であり、大変な暴挙とされます。伝えられるところによれば、社寺堂塔をことごとく焼き尽くし、僧侶、学僧、上人、子供ら3000〜4000人をなで斬りにしたとされます。(ただし最近の発掘調査で、燃えた木材などがごくわずかしか出土せず、何千人も殺していたら出てくるはずの人骨も発見できないないことから、焼き討ちによる被害は誇張ではないかとの見方もあるようです。)
延暦寺といえば、最澄(伝教大師)によって開かれ、標高848mの比叡山の全域を境内とする日本天台宗の本山寺院です。仏教を学ぶ者たちにとって最高の修業場となり、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮なども、若い日にこの寺で修行しています。そうした仏教の大聖地を、なぜ信長は蹂躙するという暴挙に出たのでしょうか。
実は延暦寺は、朝廷の保護も受けて大きく発展してきました。桓武天皇が平安京に遷都したとき、鬼門の方角にあたる延暦寺が新都鎮護の役目を担うこととなり、広大な領地を賜りました。そこからの収入で、延暦寺の経済力は一気に膨れ上がりました。しかし、やがては武力も蓄え、為政者に「強訴」というかたちで圧力を加えるようになりました。
その武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言っています。山は当時は一般的に比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことです。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのです。鎌倉・室町時代を過ぎても延暦寺の力は衰えることなく、しだいに僧たちのモラルも低下しだしました。琵琶湖畔の坂本あたりに女を囲い、高利貸しなどをしながら贅沢三昧に明け暮れる者も多くいました。
信長が延暦寺とぶつかったのはそんな折でした。1570年4月、朝倉義景を討つために越前に進攻した信長は、突如、同盟関係にあったはずの近江の浅井長政に背後をつかれて窮地に陥りました。この浅井の裏切りを画策したのが延暦寺の僧徒だったのです。その後、信長は姉川の戦で浅井・朝倉連合軍に勝利しましたが、逃げた浅井・朝倉軍を延暦寺がかくまいました。怒った信長は比叡山を包囲し、今にも攻め込む気配を見せましたが、朝廷の仲立ちでいったんは和睦に応じます。
しかし、翌年9月、信長は比叡山を急襲しました。まずは坂本、堅田周辺の町に火を放ち、僧徒を山に追い立て、社寺堂塔に片っ端から火をかけながら、見つけた人間は老若男女を問わず皆殺しにしました。延暦寺としては、これまで朝廷も将軍も手を出せなかった霊山によもや刃向かう者がいようとは思っていなかったのでしょう。信長に包囲されたときも、しょせんは脅しに過ぎないと舐めていたようです。しかし、信長は本気でした。比叡山は丸4日にわたって蹂躙されました。
信長にしてみれば、自分に楯突き、浅井・朝倉と結託する者を看過するわけにはいかなかった、まして経済力と軍事力を併せ持ち、政治にも口出しする輩です。宗教だから、仏教だから憎んだわけでは決してなかった、あくまで天下布武のプロジェクトのため、軍事作戦から遂行したまでのことでした。江戸時代の儒学者・新井白石は、この信長の行動によって初めて日本の政治は宗教と分離したとして、信長の功績を評価しています。
なお、本能寺の変で信長が倒れ、この地域の支配を担った明智光秀も山崎の戦いで敗れると、生き残った僧侶らは続々と比叡山に帰山し始めました。その後、羽柴秀吉に山門の復興を願い出、簡単には許されなかったものの、焼き討ち事件から13年後の1584年、僧兵を置かないことを条件に再興が認められ、造営費用として青銅1万貫が寄進されました。
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