フビライからの手紙

1266年に蒙古のフビライ・ハンから、日本に送られてきた国書の内容は次のとおりです。
「天に守られている大蒙古国の皇帝から日本国王にこの手紙を送る。私(フビライ=ハン)が思うに、昔から、小国の君主は、領土が接している場合は、修好に努力するものである。私の先祖も天命を受けて中華の地を得た。異域の国々でも、その徳に服している者の数は計り知れない。
高麗も長い間、戦争に苦しんでいたが、私が即位してすぐに平和をもたらし、その本領を安堵してやった。それで高麗の国王も臣下も感激して来朝している。名分からいえば、私と朝鮮王は君臣関係にあるが、実際は父子のように喜びを分かち合っている。この高麗は、私の国の東の属領である。
日本は高麗に密接しているうえに、開国以来、中国に来貢してきた。それなのに、私が皇帝になってからは使臣一人やってこない。これはきっと、私のことをよく知らないからだろう。それで特に使いに手紙を持たせて派遣し、私の志を布告する次第である。
これからは好みを結び、互いに親睦を図りたいものである。また聖人は『四海を以って家となす』と言うが、通好しなければ一家とは言えない。日本も私を父と思うことである。このことが分からず、もし武力を用いなければならないようなことになれば、これはもとより好むところではない。日本国王よ、よく考えてください」
ずいぶん恐ろしい手紙ですねー。このころの蒙古は、東は高麗・中国から西はヨーロッパまでを領土とする世界史上最大の国でありました。

蒙古襲来絵詞
元寇のときの激しい戦闘のようすを描いたとされる『蒙古襲来絵詞』。歴史の教科書には必ず載っている有名な絵で、誰もが目にしたことがあるはずです。没落していた肥後国(熊本県)の御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)が、文永の役(1274年)で先駆けの功を果たしたにもかかわらず恩賞を得られなかったため、自身の活躍を絵巻物にし、鎌倉まで持参して幕府の重鎮である安達泰盛に見せ、恩賞を要求したと伝えられています。
一族の命運がかかっていた季長は、この訴えに必死だったようで、周囲の反対を押し切り、自らの馬の鞍を売って旅費にあてて鎌倉へ旅立ちました。しかし、名もない田舎の御家人の相手をしてくれる者はありません。それでも粘りに粘って、ようやく御恩奉行の安達泰盛に会うことができました。
季長は自分が戦いで頑張ったことや先駆けしたことを、作法どおりきちんと安達泰盛に話しました。いくつかの質問を受けたともいいます。それから約1ヶ月後に再び招かれ、将軍から領地を与える旨の下文を受け取ることができました。さらに安達泰盛から馬と鞍を与えられ、季長は大いに感激して帰途につきました。また、1281年に起こった弘安の役でも季長は大活躍を見せ、再び恩賞を得ることができました。
なお、『蒙古襲来絵詞』は前後2巻からなり、そのストーリーは、前巻に、季長が8名の郎党を率いて文永の役に出陣して戦い、その後、先駆けの武功への恩賞が出ないことを不服として鎌倉へ赴き、安達泰盛と直談判して恩賞と馬が与えられる経緯が描かれ、後巻には、地頭として出世した季長が、弘安の役に再び出陣して戦うようすが描かれています。末尾に「永仁元年二月」(1293年)の日付が記されているため、この絵巻物を持参して安達泰盛に会ったというわけではないようです。
それでは季長は、後になってなぜわざわざこのような絵巻物を残したのでしょうか。『蒙古襲来絵詞』には、季長が安達泰盛と子息の盛宗に軍功を報告する場面が多く登場しています。実は、安達親子は1285年に、対立する御家人との政争(霜月騒動)に敗れ、無念の死を遂げています。ひょっとしたら、季長が絵巻物を作成した目的は、自身の活躍を示すためというより、恩を受けた安達泰盛に対する感謝、弔いの意味合いのほうが強かったのかもしれません。
【PR】
踏んだり蹴ったりの高麗
元寇はわが国にとってまさに国家存亡の危機ともいうべき重大な事件でしたが、当時のアジア諸国の多くは、日本よりもっとひどい元(モンゴル帝国)の侵略を受けていました。中国は全土が元によって征服され、約100年間、その領土になりましたし、朝鮮の高麗もひどく苦しめられました。高麗は、918年に、王建が高句麗の後継と称して建国し、新羅末期の分裂状態を統一した王朝です。
高麗は、日本遠征に先立つ数十年間、何回も元によって侵入されて国土を荒らされ、多くの民衆が殺害されました。おもな戦争は計6度にわたり、高麗は都を開城から江華島に遷すなどして抵抗し続けましたが、やがて国王は元の言うがままになってしまいました。それでも兵士や民衆レベルの抵抗は続きました。
しかし、とうとう元の支配下に入れられ、こんどは日本遠征に無理やり協力させられる羽目になりました。いったんは、日本遠征は元にとって利益がないとしてあきらめさせようとしましたが、無駄でした。第1回遠征(文永の役)のときは兵船900隻と兵士8000人、水夫1万5000人を提供させられ、第2回遠征(弘安の役)でも同様の負担を強いられました。あまつさえ多くの戦死者を出してしまいました。
このため、高麗の人民は疲弊し、国土は荒れ果て、国家財政は赤字続きとなりました。それでもなお元の過大な要求はおさまることはありませんでした。
【PR】
↑ 目次へ ↑このページの先頭へ