本田正信の思慮

本田正信は、はじめ徳川家康の鷹匠として仕え、後に江戸幕府の老中にもなった重臣です。家康が隠居し大御所となって駿府にいたころ、城下でたびたび火事が起きました。事態を憂慮した家康は、本田正信に対し、
「今後、火事を起こした者には切腹を申しつける。そのように触れを出せ」
と命じました。正信は承知しましたと言って引き下がりました。そして翌日、正信が出仕してくると、家康は、昨日の件は触れ出したかと尋ねました。ところが、正信は、
「あれから色々と思案いたしましたところ、どうも妥当なご沙汰ではないと思い、触れ出すのを差し控えました」
と答えたのです。むっとして気色ばんだ家康が、そのわけを問うと、正信は次のように答えました。
「たとえば、もし四天王の井伊直政の屋敷から火が出たとして、直政に切腹を申し付けることができましょうか。小身の者は切腹させ、大身の者は切腹させないという不公平が行われると、天下のご政道は成り立ちません」
これには家康も大いに納得し、切腹云々の件は沙汰やみとなりました。さすが家康に天下を取らせた男、正信です。
将軍・秀忠の律儀
江戸幕府の2代将軍・秀忠は、父の家康が在世中、「お前はあまりに律儀すぎる。律儀ばかりで天下は治められぬ」と注意されていたといいます。家康があまりに偉大な存在だったためでしょう、秀忠はひたすら恭謙に父に従っていました。家康の後継を決める重臣による会議では、「乱世においては武勇が肝要だが、天下を治めるには文徳も必要。知勇と文徳を兼ね謙虚な人柄の秀忠様こそが相応しい」として推挙された人です。
よく「英雄色を好む」といわれますが、秀忠は女性に対しても淡白だったようです。彼の正室は淀君の妹・お江与で、佐治一成、羽柴秀勝に嫁した後、3度目に秀忠の妻となった女性です。秀忠よりずっと年上で、秀忠はお江与の尻に敷かれてたという事情もあったようです。
そんな秀忠が、江戸から家康のいる駿府に赴いて、2ヶ月あまり滞在したことがあります。家康が側室の阿茶局を呼んで、「将軍(秀忠のこと)は若いから、2ヶ月も独り寝では寂しいだろう。しかるべき女中に菓子でも持たせて、慰めに行かせるがよい」と命じました。
阿茶はさっそく”お花”という18歳の美女を選び、念入りに化粧をさせる一方、下女に命じて秀忠にその旨をそっと知らせておきました。
いざ、お花が庭の方から秀忠の部屋にやって来ると、秀忠はきちんと上下をつけた服装で自ら木戸を開け、お花を部屋に招き入れました。そして、お花を上座に座らせ、持ってきた菓子を丁重に押し頂き、「大御所さまからの下されもの、かたじけない。夜も更けてきた、そなたは早々にお引取りなされ」と言うと、先に立ってお花を戸口に導きました。お花はどうしようもなく、すごすごと戻りました。
その顛末を家康に報告すると、家康は「さても律儀なこと。わしがハシゴをかけてもかなわぬわ」とあきれ返りました。その一方では、世継ぎとしての秀忠を褒めたたえたともいわれます。
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将軍・秀忠の下問
もとは丹後国の宮津城主だった細川忠興は、関ヶ原の戦では徳川家康の東軍に加わり、その功によって豊前・豊後に39万石余を加増転封されました。忠興は細川藤孝の長男で、明智光秀の娘・ガラシャの夫だった人です。その忠興が、あるとき江戸城中で、2代将軍・徳川秀忠からこのような質問を受けました。
「天下の政治はどのように行ったらよいと思うか」
それに対し忠興は、
「四角い器に丸い蓋をするようになさいませ」
と答えました。万事几帳面で厳格だった秀忠に、もう少しアバウトになさっては如何と言ったのです。またあるとき、忠興は老中たちが居並ぶ中で、秀忠から、
「人柄のよい人間とは、どのような者か」
と尋ねられました。すると忠興は、
「明石の牡蠣(かき)のような者をよき人と申します」
と答えました。老中たちは、その意味が理解できず怪訝そうな顔をしていると、忠興は次のように注釈しました。
「明石の浦は天下一の荒海です。ここで獲れる牡蠣は、荒波にもまれて表面がなめらかになっています。人間もそれと同じで、多くの苦労にもまれて角が取れ、よき人柄になるのです」
なるほど、と、秀忠ほか列席していた一同は大いに感心したということです。
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